呼び鈴がなる。電子音だ。鈴という呼び方はふさわしくないかもしれない。呼びブザーか。いやブザーはもっと濁音のSEであるべきだ。半濁音の呼び鈴はなんと呼ぶべきなのか。ピンポンという呼び方は案外的を得ているのかもしれない。
インターフォン越しに誰かを問うと、ウーバーイーツだという。いやそれ以外にもなにか言っているが聞き取れない。
玄関へ走り、ドア越しに話しかけるが、無駄に防音性が高い扉のせいで、外の声がうまく聞き取れない。
チェーンをかけた状態で少し開けてみる。なぜチェーンをかけたままにするかというと、なにやら物騒な人物が私に乱暴な行動を急に取ってきても即座に対応するためである。
「なんでしょう?」
私は用件を訪ねたが、それよりは訪問者の出自を問うべきであった。訪問者は、用件を答えた。
「お届け物です」
スキマからウーバーイーツのロゴの入った例のバッグが見えた。例のウーバーイーツを始めるときに買わされるというウーバーイーツバッグあるいはウーバーイーツバックパックだ。なるほどウーバーイーツだ。しかし、
「ウーバーイーツは頼んでいないのだが」
「あ、いえ、ウーバーイーツではないです。あ、ウーバーイーツではあるんですが」
要領を得ない。ドア越しでは話が見えない。このまま押し問答になっても仕方がないし、とりあえず対話をしなければならない。
「開けるから、ちょっと待って」
私は一旦鋼鉄のマンション扉を閉じ、ロックをかけ、チェーンを外し、靴箱から猟銃を出して相手から見えないように左手に持ち、右手でロックを外し、ドアノブをひねって扉を開けた。手順は間違っていない。
「どうも」
「どうも」
イケメン、と言ってもおかしくないぐらいの少し小柄な男性が、ウーバーイーツのバックパックを抱えて立っていた。服装はなんか黒っぽいスーツのような、まるで喪服かメンインブラックのエージェントのような格好をしていた。サングラスはしていない。髪は長くないが、前髪は目にかかるくらいだった。顔に見覚えはない。知らない男が喪服を着て、ウーバーイーツを届けに来たが、全く心当たりはなかった。
「頼んでないよね?」記憶を何度も辿ったが、今日はウーバーイーツを頼んでいない。よく考えたらこれまで一度も頼んでいない。たぶん間違いだ。間違いだということはすぐにはっきりするだろう。隣か、下の階か、上の階か、別のマンションへのお届け物に違いない。このアクシデントは早期に解決したほうが、彼の為だし、本来の注文主の為でもあるし、なにより私の為になる。すぐに解決しよう。
「ええと、一心堂兵平さんですよね?」
「いかにも」
「烏龍千恵子はご存知ですか?」
烏龍千恵子は、私の友人で、小説家だ。宇宙から受信する未知の物語を日本語に翻訳して小説にするという芸風の作家さんで、私と同じ同人誌で活動している。先週もチャットで次号同人誌の打ち合わせをしたところだ。特別に恋仲などではなく、数いる友人あるいは仲間の一人である。
「友人の一人だが、どうかしたのかね?」
「烏龍千恵子は死にました」
「は?」今なんと言った。いや聞こえたが、にわかには信じがたい。烏龍千恵子はこんなときに死んでいい作家ではない。死んでいい作家というものがこの世に何人いるかは知らないが、少なくとも彼女はその一人ではない。
「一昨日、自転車で倒れたところをクライスラーに轢かれまして亡くなりました。享年42歳でした。惜しい人を亡くしました」
「本当に惜しい人だ。それであなたは一体?」
「僕は烏龍千恵子の夫です」
あのぶっ飛んだ作家に配偶者がいたことがまず驚きだが、それがなんで我が家に。とりあえず玄関先で騒いでも仕方がない。私は彼を玄関に引き入れた。猟銃はまだ後ろ手にしている。
「お届け物と聞こえたが、どういうことなのだろう」
まさかとは思うが、私が彼女に依頼していた原稿でも届けにきたのだろうか。通夜を抜け出して? バカバカしい。
「それが僕にもよくわからなくて」
「わからないってどういう……」
「とりあえず見てください」
烏龍千恵子の夫は、ウーバーイーツのバックパックのジッパーをぐるりと回して私に向けて開けた。
白っぽい、血の気のある、なにか内臓のようなモツのような。あるいは白子のような。というよりはもう少しボソボソとしたような。鍋かなにかに収められている。いや、ステンレスのボウル?
「これはなんだね?」
「家内の脳です」
は? 私はなにか声を上げて数歩後ろに飛び下がったようだが、体が勝手に反応したようだ。反動で猟銃を壁に放り投げてしまった。弾丸が装填されていれば暴発していたかもしれないが、ガッゴッという硬い音を立てて壁を跳ね、廊下にガラララと転がっただけで済んだ。烏龍千恵子の夫は一瞬目を見開いたが、おそらく私が猟銃を手にしていたことに驚いたのだろう。遠く離れたことで瞬時に安心したようにも見えた。
「脳とは」
イケメンの未亡人(夫)は、少しため息をついた。ように聞こえた。たぶんため息だろう。若干の苛立ちも感じる。ここにいることが彼にとって不本意であるのだろう。それはそうだ。何が哀しくて、事故死した愛妻の脳みそを見知らぬ中年男に差し出さねばならないのだ。しかし、それは私にとっても同じこと。会ったこともない同人の脳みそをいきなり突きつけられたって、まず意味がわからない。そもそもそれは本当に脳か? こんなことになるなら兎の脳のムースとか食べておけばよかった。そしたらこれが偽物か本物か、あるいは本物のモツなのかかんたんに判別ができたのだ。
「理由は教えてもらえるのかね?」
「なんのですか」
「なんの。ああそうだな。さしあたり、なんで君が君の奥さんの脳みそを、私に持ってくるのか、その理由だけでも教えてもらえないだろうか。他のことはとりあえず目をつぶろう」
「遺書に、書いてあったんで」
「遺書? 事故死ではないのかね?」
「どういうことですか」
「遺書というのは自殺する人間が書き残すものだが。生前に書いたものなら遺言書だ」
「あー。そういう区別があるのなら、遺言書ですね。うちには死んだら読むノートというのがあって、葬式のやり方から、パソコンの捨て方まで全部細かく取り決めているんです」
烏龍千恵子らしい所作であるが、なぜ私を巻き込むのか。
「そんで葬式の準備のときに、読んでみたら、脳みそをあんたに渡すようにって書いてあって」
「それで持ってきたと?」狂っている。この夫婦は狂っている。
「そうです。明日には荼毘に付しますので、今しかなかった」
そういうところの理屈だけは整っていやがる。棺桶の中から取り出してこのバッグに詰めて持ってきたのだろうか。
「よくわらないが、よくわかった。しかし、なんで私になんだ。君はそれでいいのかね」
「よくはないですが、こうするしかなかったんです。なんであなたに渡すのか、教えてもらえますか?」
「私にだって心当たりはないよ。遺言書にはなにか書いてなかったのかい?」
「なにもありません。ただ、脳をあなたに届けろとだけ。優先順の高いページにありました」
烏龍千恵子との会話を思うかべてみるが、まったく心当たりはない。何度も言うが、彼女とは恋仲などではない。猟奇的な特殊性癖をぶつけ合う間柄でもない。文学に関する談義をたまに交わしたり、同人誌の方向性を相談したりするぐらいが関の山だ。そもそも烏龍千恵子に夫なんて気の利いた者がいるなんて思いもしなかった。あのぶっ壊れ女はゼッタイ独身だと思っていたのに、裏切られた気分だ。
「僕は遺言書を読んでびっくりしたんですが、あなたに会えば理由ぐらいはわかると思ってここまで来ました。僕の妻と付き合っていた方ですか?」
「馬鹿なことを言うのはよしなさい。私と千恵子さんは、ああ本名がなんだから知らないが、ペンネームがね、千恵子さんなんだが、私と千恵子さんはまったく関係はないぞ。肉体関係はもちろんだが、精神的に恋仲ということすらない。大勢の同人仲間のひとりというだけだ。私と彼女、彼女とか言わないほうがいいな、千恵子さんの名誉に賭けても私達は潔白だ」
「あ、そうなんですね。だったらなんでだろう」
「わからない」なんで人妻の脳みそをその夫が関係ない男の家に届けるのだ。そんなのに理由なんかあるのか。そもそも私は人肉食の趣味はないし、仮にあっても知り合いの女性の脳を啜りたいなとどは思わないだろう。だろうというか思わないわ。実際思ってない。
夫の人は、その妻の脳みそをバッグに抱えたまま、突っ立っていた。なんのバッグだこれ。ああそうだ。ウーバーイーツか。
「君はウーバーイーツなのかね?」
「はい、僕はウーバーイーツです」
「なんで嫁さんの脳みそをウーバーイーツで持ってきたんだ」
その夫はボウルに入った妻の脳をちらっと見ながら、とりあえず、といった動きでふたを閉じてジッパーをかけた。
「保冷できるかなと思って」
なるほど。なるほどじゃない。とにかくここにそんなものがあっても困る。置いていかれてもどうしていいかわからない。
「持って帰ってくれないか。今ならお棺に収められるのだろう?」
「そうですね。そうします。お騒がせしました」
バックパックに妻の脳が入ってる以外はどうみても一般的なウーバーイーツ配達員にしか見えない青年は、肩を落としてドアを開け、丁寧にお辞儀して去っていった。
私は、急いでロックをかけて、チェーンをした。廊下に転がっている猟銃に弾を込めて、ベランダの隅から下の道路を覗き込んだ。
しばらく見ていると、自転車でウーバーイーツが西に去っていくのが見えた。この弾丸ではもう届かない。とりあえずトリガーから指を離して、弾を抜いた。撃たなくてよかった。
PCを起動して、烏龍千恵子のいるチャットを見てみたが、たしかに一昨日の朝ぐらいの書き込みからあとは沈黙を保っていた。あいつが死んだというのは本当なのだろう。
彼女との会話のログをざっと遡ってみたら、3年ぐらい前の会話を発見した。
烏龍「っていうプロットなんだけどどう思う?」
PP「エグwww あんたやっぱ鬼才だわw」
烏龍「そう言ってくれるのはペイペイさんだけだよ」
PP「死んだらその脳みそ覗いてみたいわ」
烏龍「いいよ見せてあげる」
烏龍千恵子の脳は良い色をしていた。
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大田区 投稿者 | 2020-06-15 19:47
一見ぶっ飛んだ内容ですが、言った張本人である主人公ですら忘れているような些細な褒め言葉を烏龍氏が覚えているという点に、彼女の人間らしいキャラクター(生前ほとんど人から評価されていなかったことと、それを彼女なりに苦悩に思っていそうなこと)が垣間見えてよかったです。
あと序盤の方で「服装ななんと」という(恐らく)誤字を見つけました。
波野發作 投稿者 | 2020-06-16 09:58
ご指摘感謝!直します
曾根崎十三 投稿者 | 2020-07-20 23:42
ハチャメチャなようで、しっかりオチがあり、お題にもきちんと沿っており、筋もきちんと通ったお話で、とても楽しませていただきました。
古戯都十全 投稿者 | 2020-07-21 21:41
題名とリードから『セブン』的なサスペンスを予想して、蓋を開けてみて裏切られました。遠慮なく笑わせてもらいました。
荒唐無稽のようでありつつも、書く立場から見ると、脳を別のものに置き換えたり、最後に解を与えなかったりすることで別の物語を得られるような魅力的な構造を持った作品であると感じました。
松下能太郎 投稿者 | 2020-07-24 14:57
三年前の「私」との会話から実際に脳を見せることを遺言書に書いた千恵子さんですが、そのエピソードは彼女の「ぶっ壊れ」感を表している一方で、ひそかに「私」に対して好意を寄せているようにも感じ取れました。
諏訪靖彦 投稿者 | 2020-07-24 18:11
烏龍千恵子が宇宙からの受信する未知の物語の発信元は一心堂兵平だったのかしら。誰かが訪ねて来たときの用心深さや猟銃を用意しているさまは同類なのかなあと思いました。
大猫 投稿者 | 2020-07-25 13:48
面白かったです。文体だけでも十分楽しめるほどです。
名前を聞かれて「いかにも」なんて答えるし、「よくわからないがよくわかった」とか、「兎の脳のムース」とか、個人的なツボにハマって笑いました。
突拍子もない遺言は本気で書いたのか酔っぱらって思い付きで書いたのか、律儀に届けに来る青年が哀れで滑稽で、異常に警戒する主人公も可笑しくて、面白いコメディでした。それにしても遺体からどうやって脳を取り出したのか、事故で頭蓋骨が割れたのか、だとしたら脳はぐちゃぐちゃだよね、と余計な心配までしてしまいました。
鈴木 沢雉 投稿者 | 2020-07-25 16:35
いろいろぶっ飛んでいますがダントツでぶっ飛んでいるのは千恵子の旦那ですよね。まちがいなく。それでも抑制が効いているように見えるのは文体のせいでしょうか。キャラ立ちよりも舞台背景に重きを置く執筆者だと思います。私はその方が好みです。
西向 小次郎 投稿者 | 2020-07-25 22:05
“合意の成否”のチカラの話なのかなと感じました。
Juan.B 編集者 | 2020-07-25 22:38
あのカバンには大したクーラー性能はないので、季節が夏だとすれば早めに持ってかないと脳がボルシチになっちまうぜ。それと、アプリをオンラインにしていない間(厳密にはその後も配達中でない間)はUberの鞄を背負ってようが私人、「Uberの鞄を背負った物好き」だから、台詞でどっちつかずのことを言っててもUberじゃあないぜ。でも、死してなお約束を守ろうと言う美しい精神は見習いたい。
Fujiki 投稿者 | 2020-07-26 18:29
会ったことすらなく、チャットでコミュニケーションを続けてきた文芸同人の烏龍と兵平。訪問者に対して猟銃を用意する兵平のまるで西部の開拓者のような警戒ぶりからも、この世界では人間同士の接触が忌避されていることが窺える。そこへ烏龍の脳が突然届けられることで、身体性の欠落した社会関係が生身の肉体に基づくものであったことに気づかされる。映画『ツィゴイネルワイゼン』の親友同士がどちらかが先に死んだら焼く前の生の骨をもらい受ける約束を交わすくだりを思い出した。
松尾模糊 編集者 | 2020-07-27 13:05
チェーホフの銃を放たない作品にここで出会えるとは。個人的にはぶっ放して烏龍とあの世で結ばれることを期待しましたが、波野さんの優しさがここに良く出てるなと思います。最後のチャットのやり取りは涙なしに読めませんね。
わに 投稿者 | 2020-07-27 19:58
まず烏龍千恵子、という名前がとても好きです。しれっと銃を持っているあたり主人公はかなり「外」に警戒心を持っている人物のようなので、読み手であるわたしも緊張します。うーろんさんとの「内」なお喋りをもっと聞きたかったなと思いました。