すとん、と床に降り立ってぼくはここがハイパースペースでなければ宇宙空間でもなく、ぼくの身体を無慈悲にすりつぶしてくる重力嵐の真っ只中でもなく、灼熱の恒星重力帯の中でもなければ、絶対零度のエーテルの海でもないことにすぐに気づいた。と同時にぼくは急激に記憶が薄れていくことが感じられたので、急いで今起こったことをメモに残した。ぼくは緊急救援艇で射出されて、ハイパードライブ中に定員オーバーで追い出されて、今ここにいる。ここはどこだ? 見覚えがある。ここは宇宙ステーションの廊下だ。宿直室の前。つまりついさっき放り出された宿直用仮眠ベッド兼緊急救援艇の前ということになる。なぜだ。惑星フィリッパに向かう途中の宇宙空間にいたんじゃなかったのか? 宿直室のドアを開けてみたがあの女――ジュディ・トロリーはいなかった。が、すぐに背後から声がした。
「ハーイ、ジャービス」
「ミス・ジュディ……」
ドクター・トロリーは、この宇宙ステーションの船医だ。ぼくの身体の神秘の95パーセントを知り尽くしているが業務上の守秘義務でぼく以外%誰にも言えない人物だ。残りの5パーセントは、ぼくの極めて個人的な性的な誰にも内緒の秘密は知られていない。いや、知られた。知られてしまった。
「ジャービス、どうしたの? 約束の時間になってもバーに来ないからここまで来てみたのだけど」
「え?」
「20時に〈ピート&リッキィ〉で待ち合わせよね?」
ピート&リッキーはこの宇宙ステーションで営業しているバーだ。ちょっと薄暗いエロティックな照明のバーで、銀河艦隊の福利厚生部が運営する婚活バーでもある。だからぼくはジュディを誘ってモノにしてやろうと、そう考えていたのだ。それがどうして遅刻なんて! 信じられない!
これまで〈255回〉これを繰り返してきたが、遅刻をしたなんて初めてだ。〈Time Leap現象〉。Time Travelでもなければ、Time Slipでもない、日本人が作ったインチキ英語だが、ぼくの意図に反して勝手に時間が繰り返される現象だから、この言葉がジャストフィットしている。ぼくはなんどもジュディとの夜を繰り返して、ようやくベッドインにこぎつけたのに、結局失敗だった。これまでなんど宇宙空間に放り出されただろうか。
だがしかし、今回は違う。20時にぼくは美しいジュディを部屋に呼び出すことに成功した。酒も飲んでいない。ベストコンディションだ。今しかない。
「ジュディ、ぼくと結婚してくれないか?」
「どうしたの急に。答えはノーよ」
「なんてこった!」
ぼくは宿直用仮眠ベッド兼緊急救援艇に飛び乗り、惑星フィリッパに向けて発進した。ハイパースペースで外に飛び出すために。
END
関連作品『たったひとつのクールな方程式 −The Only Cool Equation-』
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