出会ったとき、わたしたちは無敵だった。そして二人とも、人との距離感が全くわからなかった。だから、相手の中へずるずると融解するような関係を築いた、今思い返せば、恋人というよりかは、家族のような、兄妹のような、そんな関係性だった。デートなどいらなかった。いや、本当はしたかったが、趣味が違うとわかっていたので、我慢していた。わたしは単館の映画館などに行きたかったが、彼はチェーンの居酒屋でよかった。彼の重い腰を水族館へ連れて行くときは一ヶ月もの月日を必要とした。
彼を知る人は彼をこう評した。「社会的なものを全て捨てているのになぜか憎めない」「このルックスがなければ袋叩きにされていたかもしれないがしかしそれを人に思いとどまらせる魔力の持ち主」「バファリン」「奇跡の人たらし」「愛嬌の神」「優しさと狂気の見事なハーモニー」……最後らへんはわたしが勝手につけたがまあそれはよい。実際、付き合いたての頃、近くの商店街を二人で歩いていたとき、彼が店の主人たちにこぞって挨拶されていたのを見て、わたしは驚愕した。この人は何かのスターなのか?
わたしのズタズタの腕を見て「パンク!」と謎の嬉しい形容をしてくれたのはこの人だけだった。わたしは何も知らない小娘だったがゆえに、「わたしの孤独」を丸ごと受け入れてくれたこの人の中にそのまま一直線に耽溺していった。
当時彼は37才、わたしは22才。このまま行けば、国に何も納めていない彼はずぶずぶの老人になって家賃3万のオンボロアパートで野垂れ死ぬだけだ。もしくは酔っ払って道で寝ているところをトラックに轢かれるだけである。
わたしが「何か得意だと思うものを挙げろ」と人に問われたとしたら、出てくるのは文章だった。よし、ではハリー・ポッター書いたろやんけ(ここらがわたしのドアホ加減を如実にあらわしている)。君の介護など喜んでしたろやんけ。おしっこまみれのおむつを容赦なく捨てて新しいものに変えきっちりと様々な体の部類を拭いてやろやんけ。小説で一発あてて、君の好きなブルーハーツを爆音でかけたド派手な葬式あげたろやんけ。死ぬ直前に渾身のギャグをかまして看取ったろやんけ。
そしてわたしは真剣に、自分を肯定してくれた彼のために、小説に取り組みはじめた。
すると出来上がってきたものは全くハリー・ポッターではなかった。
えっ……。
なんで、ハリー・ポッターじゃないの?
焦ったわたしはこの人により一層気に入られようとして、以下のようなプロジェクトを行なった。
・彼の働く飲み屋の姉妹店で働く(その方が彼のいるコミュニティに好かれるからである)
・彼のやろうとしていたコピーバンドのキーボード(他のバンドメンバーとキーボードの女が痴話喧嘩をして抜けたからである。わたしは特にやりたいわけではなかったが、中3までクラシックピアノをやっていたのでやれと言われればそれは不可能なことではなかった)
しかし問題が出てきた。彼の死をちゃんと看取るプロジェクトのための小説訓練に没頭していくうちに、高校時代は全くわけのわからなかった「文藝」や「新潮」や「群像」がわたしの真の参考書になってきたのである。わたしはそれを読みながら一文一文に発狂し、自分の実作において「これは削ろう、残そう」という判断ができるようになっていった。
そして、結論に至ってしまった。わたしと彼は前のようにかみあわなくなった。
苛烈な勢いで自分の哀しみに向き合っていくと、それはあまりにも深すぎて、今の「わたしの孤独」を丸ごと愛してくれる他者など存在しないという当たり前の事実がありありと浮かび上がって来たのだ。だが、わたしの「孤独の形」を愛してくれる人は存在するかもしれないと思った。なぜなら、その形は自分の努力でいかようにも豊かに変貌させることができるし、可能性は無限だからだ。
その頃から、不毛な喧嘩が勃発するようになった。
彼はいつも、朝6時に仕事から帰ってきた。そして目のすわったあのべろべろな感じで、今日自分の店に来た客の愚痴をうわごとのように言った。トイレと間違えて玄関に尿をもらすこともあった。たいてい覚えていないのでわたしはそれを黙ってふいた。
「お前は何もわかってない!!」
「……※△×○※‼︎」
「だからそれが理屈っぽい」
「……」
わたしは自分を憎んだ。文芸という果てしない空洞で行われている中に、わたしが愚直に入り込むには技術や理屈が必要不可欠だったからだ。わたしはその時、自分が一つのことしかできないということを不器用な人間であることを思い知った。
そして「文藝」を読みながら風呂にも入らずブツブツ言う女のどこに可愛げが存在するのか? と責めもした。少なくとも今のわたしには全く可愛げが存在するとは思えなかった。もし二年前出会ったときのように、大学出たてで何もかも知らないピチピチの小娘だったらわたしはまだ愛してもらえたのか?
愚痴を終えた彼は、自分の働いている店の客や他の従業員と旅行に行く話を楽しげに話した。わたしと旅行などほとんど行かなかったのに、だ。彼の中の、どこにも、わたしはいなかった。
「……帰ってください」
きっとわたしはもう元に戻ることはできないだろう。今でも、もし個人の幸せを考えたときにふとまたこの人が現れたら二度と小説を書かなくなるかもしれない。いやでも、わたしは、きっと、書くだろう。そうでしか、自分自身でしっかりと、こんなにも重い自分に向き合うことが、できない。そう信じられないと、書くことが、できない。
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