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蛭田がいた(4)

蛭田がいた(第4話)

今野和人

精神看護系の出版社に勤めていたことがあり、その知見が多少は本作に生かされているはずです。

小説

11,935文字

金曜日の夜、蛭田に招かれ悠斗は芝公園に行くことにした。ミッドナイトケアを始めるという。
デイケアは日中、ナイトケアは一六時から二〇時くらいに行われるので二〇時集合のミッドナイトケアは言葉の原義からは外れるが確かに遅い時刻だ。
そもそもデイケアはリハビリという目的はあるものの第一に地域で暮らす当事者の居場所である。その事業所によってできるものは違うが、大体絵を描いたり折り紙をしたり映画を見たり音楽を聞いたり手紙を書いたり散歩をしたり、活動的なところだと簡単なスポーツをしたりする。クリスマス会など季節のイベントがあるところもある。また、復職をめざして職場での振る舞いを学習するリワークデイケアもある。あるのだが、大半は一日を平穏無事に過ごすための場所で言ってしまえば退屈を志向している。過度に活動的生産的な場所ではないからこそ日常を生きることが困難になった者たちが安心して集える空間なのだ。
仕事を終えて電車で芝公園駅まで行き目的地を目指すと、ビルの合間から東京タワーが見えてくる。雲一つなく気持ちがいい。車の走行音さえ爽やかに聞こえる。視界を邪魔する建物が消え、芝生が広がる公園に着くと、東京タワーはでんとその姿を表し、夜の涼しさが煌々と灯る熱を冷ましているようだった。
蛭田はといえば、薄暗い中芝生で五人の仲間とサッカーらしきことをしていた。ボールが二つあり、いずれもゴムボールである。蛭田がパスを出しても相手は受け取れず、蛭田がボールを追いかける。パスを出された人は頭が禿げ上がったおそらく六十代の男性でニコニコしているが大儀そうであまり動かない。二人女性がおり、一人はキーパーをしているが下を向き、コーンで区切ったゴールに蛭田がシュートすると、素知らぬ顔でコーンの脇に突っ立っている。もう一人の女性は黒髪で毛量が多く黒縁のメガネをかけており、ゆっくりとキーパーめがけてごろごろとシュートする。それを受けるキーパーの男性は生真面目に両手でがしっとボールを受け取るともう一人の太った男性にボールをキックする。その男性はボールを悠斗の方角に蹴ってしまう。
ボールの行方を追った蛭田は悠斗に気づくと駆け出して近寄ってくる。

「来たんだ」
「サッカー?」
「うん」
「昔、体育とか全然やらなかったのに」
「このメンバーならおれ勝てるから」非情な判断である。
蛭田は皆を呼び集め、メンバーを紹介してくれた。高齢の男は後藤田勇造といってクラシックが好きらしい。キーパーの女性は乗田紀子といってハンドベルが得意らしい。毛量が多い女性は花田亜美といってテレビドラマが好きらしい。キーパーの男性の若井亮平は現在就活中らしく、そのため最近は一番安い産経新聞を取り始めたらしい。太った男性の砂川一樹は恐竜とライダーものに詳しいらしい。かれらとは退院したあと通院するクリニックのデイケアに参加して知り合い、勇造と一樹は長期入院した経験があるという。
悠斗も蛭田の古くからの友人でカウンセラーをしているというと自己紹介すると、勇造は頭良さそうだもんねーとほめてくれた。悠斗はこの夜中のサッカーをどう思ってるか聞いてみるが、誰も反応してくれなかったので亜美に話を向けると運動にはなっていますと言ってくれ、蛭田は身体をくねらせて熱い視線を注いだ。亮平は楽しみにはしていたという。このサッカーもどきという選択はともかく、いやいややっているわけではないと一応了解した。悠斗は紀子に体調はどうか聞くと、笑顔で返事はくれなかった。一樹は悠斗に興味がないのかボールを手で回していた。
誘われて一瞬躊躇したが悠斗も混ぜてもらった。片方のチームにもう一人入ってもアンフェアだと気にする感じもなく、というかチームのていをなしてない。悠斗は蛭田のドリブルの前に現れ、進行を阻害した。案の定蛭田はボールをキープできず、簡単に奪えてしまう。ちらっと昔を思い出す。集中力こそあるが、運動はしなかった。あのとき、百人一首のとき、蛭田は勝つことに遠慮しなかった。などと思っている間に後ろから容赦なくスライディングしてきた蛭田にボールを弾かれ悠斗も後ろ手に手をついた。その直後、いって〜と蛭田は尾てい骨をさすりはじめた。大丈夫と声をかけると、やりすぎたと蛭田は笑い、悠斗は手を差し出した。

全くと言っていいほど盛り上がりに欠け、東京タワーをスマホで撮るなどして時間を潰しても二一時前には解散することになった。仲間たちと別れたあと、蛭田は汗をかいたといって近場の銭湯に向かうというので悠斗も同行する。
歩きながら二人は話す。
「あれがミッドナイトケアなの?」
「ま、ま、今日はじめてだったから」
悠斗は思う。何だあれ。
もしかして蛭田の超人的な元気の秘訣を知れるのではと思っていたが、こういうことをして活動的になったとは思えない。
蛭田は風呂に入っても一分もこらえられずサウナに入っても三〇秒と経たず這い出て、すぐさまウッドチェアにごろんと体を横たえた。悠斗が少しあとに行くと、蛭田はすでに乾いた肌になり、とろんとした目をしていた。湯上がりの体を沈めると木の匂いが立ち上る。隣の悠斗に向かって蛭田が話しかける。
「違う現実をつくりたいの、自分たちの手で」悠斗には懐かしい気取りが見えた。
「夜中やるの危なくない?」
「楽しいのって危ないでしょ」
と蛭田は語ると寒くなってきたと言って、風呂に行き足だけ入った。悠斗は蛭田の言葉を反芻する。蛭田本人にとってはデイケアは必要ないのだろう。地域で自活してるし仕事もある。今は安定もしてるのかもしれない。ただ、その代替物を求める気持ちがある。それがまだ、どういうものか本人もわかってないのではないか。自分一人でなく誰かとやりたいということは、本人のなかにさびしさがあるのかもしれないし、似たような境遇の人を引き連れたのは共鳴し合うところがあるのだろう。今日見て一つだけ良いところがあるとすれば、医療者が発案してなにかをさせることではない点だと思う。自発的に楽しもうとする姿勢。単なる夜遊びからなにか生まれるか、いや単発で終わってもいいのか……追いかけて、蛭田が足だけ入れている風呂につかる。蛭田はいや〜今日は失敗だったねと照れた。誰かいないかな〜、手伝ってくれる人。

悠斗は亜美が好きなのかと聞くと、あははと言ってあっという間に勃起した。その怒張はメタリカの『セイント・アンガー』のジャケットを思わせた。でも、アドバイスとかいいから、前相談して失敗したしと蛭田は早口で言う。悠斗は遠い日を思い出したが、蛭田の口ぶりはつい最近の出来事のように感じさせられた。見た目が違うからね、キジマンはイケメンだから、イケメンの恋愛ができるけどおれは違うやり方をしなくちゃいけない。具体的にどうするか聞くと、お湯を両手でバチャっとはたき、金だよ! と力を込めて言った。
悠斗はこれからミッドナイトケアをどうするか聞くと、蛭田は二週間に一度金曜日に行うと言い、次は何をするか聞くと、全くの未定だという。忙しいんだよ! 毎日毎日やることがいっぱいある。そしてどうしてそんなに元気なのか聞く。おれが動かないと工場が回らないから。だからその原動力というのか。ないよそんなの、時間奪われたから、無理してんだよ。だから、誰かね〜、手伝ってくれる人がいるとなー、いいんだけどね〜。
帰宅の電車に揺られながら、悠斗はミッドナイトケアにどうかかわるべきか考えた。またしても足をやんわり抑えられ断れなかったが、できる限りの償いをしたいと思った。今更でも人生を楽しもうとしているのに協力したかった。その動機を思うと苦しくなった。蛭田が仕切ると今日のようになるので適宜秩序だてるのを手伝い、経過観察をしながら、その活動とおのおのに与える影響もヒアリングしようと思う。毎回行けるかわからないが、蛭田の野放図な活動が参加者を不安定にしないようフォローしながら、活動に安心感を与えるのが役目だと思い、蛭田に協力したい旨ラインを送った。

 

「今日はありがとうございました」
「なにがですか」
「あ、絵をいただいたり、息子に絵を教えてもらったり」
「ああ、これおいしいです、手作りですか?」
「コンビニで買いました。歌舞伎揚って食べたこと」
「はじめてです。ああ、袋に入ってますもんね」
「おいしいですよね。私も好きでよく買っちゃいます」
「ご飯に合いそうですね」
「まあ」
「シャバはおいしいのあっていいよな〜」
「大変でしたもんね」
「なにがですか」
「その、長い間入院されて」
「おとなしいゾンビですよ」
「出られないんですもんね」
「前世みたいで」
「入院中がですか」
「小学校のときとか……母親がいたころとか」
「ずいぶん昔ですもんね」
「楽しかったですか?」
「えっといつですか?」
「この三〇年」
「うーん、一口には」
「じゃあ最近」
「あ〜、休みの日、家族でどっか行くのとかは」
「なんで仕事してるんですか! キジマン稼いでるでしょ」
「夫は長いこと非正規だったんで、そんなに」
「ひせいき?」
「あんまりよくない条件だったんです」
「かー、難しいんですね〜」
「あ、学生のときは楽しかったです。バンドやってたんで」
「バンドってあのバンドですか」
「ええ」
「え、どのバンドですか」
「音楽の。社会人になってからも週末に」
「今聞けないんですか」
「あー、今はちょっと」

「聞きたかったなあ」
「……全身タイツで演奏してたんですよ」
「え?」
「なんであんなことできたか謎ですけど」
「なんの楽器を」
「あ、ボーカルだったんです」
「ボーカルってあのボーカルですか」
「ええ」
「え、どのボーカルですか」
「あ、歌ってました」
「いーなー、僕歌下手で」
「そうなんですか、へー」
「どういう歌です?」
「なんだろう、海の生き物についてとか。浦島太郎の竜宮城に出てくる生き物に扮してたんですよ」
「竜宮城の宴会だ」
「そうですそうです! 浦島太郎というお客さんをもてなすというコンセプトでやってたんです」
「えー! 見たかったなあ」
「若気の至りですけど」
「わかげ?」
「あ、若いとき特有のノリといいますか」
「一生やるといいと思いますよ」
「ねえ……息子は小学校入ってからけっこう大変で」
「したいことしないと時間はガスですよ」
「ガスですか」
「もうけっこう回った顔してますね、どこか死んでいる」
「え?」
「……え? 全身タイツだったんですか?」
「はい」
「ははははは。いいなー」
「……なんでトイレの水の中の絵なんですか?」
「ああ、小学校のときの思い出です」

 

悠斗は萌歌がどこまで聞いたのかと緊張した。自分についてなにか言っていたか探る。なにも、なにかあったの。いや、なにも。その萌夏の答えの調子から、自分の関与は話さなかったのだと了解した。知られたくなかった。あのことにいちばん自分の卑怯さが集約してる気がしてならない。自分が嫌いな単純粗暴で凡庸な言うことを聞かせる暴力よりも悪に触れている気がする。
悠斗は浴槽に沈まる。自分があのいじめに協力しなかったら、蛭田は病院に幽閉されずにすんだのではというこのところ何度と考えた問いが浮上してくる。トイレに沈められただけでなくーーそれだって呼吸できないほどの暴力だったがーー友だちだった自分が裏切ったショックが加味されたのではないか。あのとき、足を抑えたら動きが止まった。なぜ自分は止められなかったのか、あるいはすぐあの場を離れて助けを。いや、考えてなどいないのだ。少しの間見つめてるだけ。日和見で、面倒な道を避ける術を学んできて、一人で立つことがない。周到に少数派を回避する習性。でも、子どものころの話だ。ああいうことはよくある。今なら。
蛭田の版画がリビングのテーブルに置いてある。蛭田の顔の絵はきついのでなんとなく東京タワーをモチーフにリクエストすると、反転してトイレに水没している絵を描いてきた。十五号と比較的大きいので天変地異が起こり湖に東京タワーがぶっ刺さったようにも見え、強烈な破壊衝動を感じる。飾りにくい。
萌夏は洗い物をしながらジャズのスタンダードを小さな声で口ずさんでいた。

 

満月の晩、またしても芝公園に集合した。
遠くから見るとそれは夢遊病でもありUFOを呼ぶような儀式でもあり、とてもダンスとは言えない代物だった。ダンスに定義があるとすれば。
今晩のミッドナイトケアは、音楽配信アプリで共有したプレイリストをそれぞれダウンロードしておき、それをせーので各自イヤホンで聞き、踊り狂うというものだ。
最初蛭田は公園で懐かしのラジカセから爆音で音楽を流そうとしたが否が応でも目につくし、警察の世話にもなりかねないと悠斗は主張し、個別に音楽を耳に流し込む方法にいたった。コロナ禍でそんな試みがあった気がしたが、定かではない。
参加者の多くはアプリを入れていなかったが、登録月は無料なのでこの機会にダウンロードし、悠斗がみなの好きな曲を集めてプレイリストをつくった。それでも全然足りなそうなので萌夏に選曲してもらった。
統一感のないプレイリストだった。勇造選曲のハイドンが流れたと思えば、アニソンが続き、ジャニーズの懐かしい曲が流れたと思えば、オスカー・ピーターソンが軽快に跳ねるタッチを披露した。みな黙々と静かに動き、歩きながら音楽に浸った。少し離れたところに立つ悠斗。
なにをやっているのか自分はと思う。
忙しく、ラインでのやりとりだけで蛭田からの提案を現実的に修正することしかできなかった。こんなので大丈夫かと思いつつ、蛭田はそれ最高! とやる気になった。蛭田の気まぐれにみんなを付き合わせてないか。ダンスなんてハードル高いだろう。蛭田と亜美と亮平はコードレスイヤホンをもっていたが、勇造と紀子と一樹は普通のイヤホンなので余計に動きは緩慢だった。

だが徐々に汗が流れた。かれらがあまり日中しない運動により芝生に垂れる汗。ひんやりした草と交じる体臭。裸足になる一樹。うきうきするギター。山から聞こえてくるようなパーカッション。蛭田は高速のカニになる。つられてカニが増える。カバディのように。青いローブがほうられ、あらわれる白い腕。やせている。蛭田が悠斗に手招きする。迷った。簡単にいっしょになっても、が、昔遊んだときの記憶が脳裏をかすめ、音量をあげる。流れる夜の誰もいないプールにしのび込む歌。シンセサイザーのバッキングはビート板で安定剤だ。芝生に入る。街中でも聞いたことのあるK−POP。ふいに日本語が出る。左右にはねる冷たい電子音。かすれた絵筆をゆっくり動かすようなボーカル。悠斗が選んだテクノは不評でみなが止まる。水を飲む。泉の前にたたずむ動物のように。やがてやってくる、真夜中に光るヘッドライトのようなメロディ。腰をもちあげるドラム、間奏は電化されたフルート。ボーカルにかぶさる子どもの声。なにか蛭田が叫ぶ。うれしそうに。ゲーム音楽っぽい始まり。くり返されるにつれ大きくなるベースのフレーズ。ステージをクリアしたようなキーボードとシンセサイザーのシャワーを浴びる。交互に男女があらわれる英語の歌が始まり背後で進行する複雑精妙なリズムにみなの足が止まる。ホーンが鳴る。亮平がこくこくと形を変える木のような舞踏を始める。それをみんなマネしてフラワーロックに。ギターソロがはじまり花は急いで散る。ぐっと単調なリズムと甘いワインの声になり、悠斗は紀子と目が合い手を取ってみる。不器用なステップ。蛭田は亜美をくるくる回そうとしてうまくいかない。突然の昼、サンバが現れる。バックでレーザー銃のような音がして、みなで撃つマネをする。にげる、あたる、しびれる、たおれる、よみがえる。俳優が歌う。眠りたくない夜を彩る旋律、ピアノの単音は知らない街を一人歩く高揚感。そこが迷路でも歩き出したい。亜美がイヤホンをおさえて聞き入る。急にテンポが落ちて目の前がぐにゃり。リヴァーブがかかったヴォーカルに寄り添うビブラフォンに乗っかりただ歩く。水を飲む。首だけ動かす。次は早い、130BPMらしい。右に左、左に右にとあおられる。つられてみな、左右に動く。勇造が笑う。飛ぶ汗。ゆったりのれるカリプソでリラックス。蛭田がイマジナリー金髪水着美女の肩を組む。ハイハットの背後からベイビーと深い吐息がかぶさると、片手で運転するような余裕が生まれる。弦を背後に従えて、I’m never, ever gonna stopと言い切る。静かな波。時代遅れのナイトクラブの電飾のギターとフランス語の男女デュオの海を泳いだ先はツール・ド・フランス、規則正しいビートを漕いで風を着こなす。一樹が咆哮をあげる。土の匂い。つややかな黒髪でほおをなでる声。白い浜の貝殻を拾い夕方の海岸線をドライブすると窓の外に夏が流れる。霧深い森に近づこう。くぐもった声に導かれ枯葉を踏みしめるうちに美しい迷子になる。空にわずかに見えた太陽と思いきや大きな手。目の前に黒いどろりとした飲みものが出される。それは夜。たしかに夜はうねる。夜はまとわりつく。いつのまにこんなにも暗い。ネクタイで甘く絞められ絶頂が引きのばされたようなサックス。路地裏で罪と罰を口移しするインテリのロック。サビのラーララララだけ蛭田は東京タワーに向かって合唱する。腕を広げて、オペラ歌手のように。夜空に東京タワーを掲げたくなる。突き刺したくなる。そしたら暗い空はめくられ光のシャワーが降り注ぐだろう。みな、さんざん苦労してきたなと認められるだろう。

 

充実と疲れを放出した顔が芝生に転がっていた。悠斗は奇跡的に成功したのではという期待の中にいた。蛭田と目が合う。ね、うまくいったでしょと言いたげにポカリスエットをがぶ飲みする。
星がわずかに見える。運動したら東京タワーがもっときれいに見えますと亮平が言った。それに重ねてなのか、蛭田は亜美に近づき運動したらよりきれいですね〜と納豆が糸を引くような口調で言った。案の定気持ち悪がられた。蛭田はひるまず、今度リムジンに乗りましょうと誘う。東京中を回るんです。生魚を食べながら、いいでしょう。亜美はうつがぶりっ返したようにうつ伏せになった。悠斗は蛭田にこれ以上は止めるよう耳打ちしたが、蛭田は焦って取り返そうとしたのか、腹減ったな、今生魚食べましょうかとなおも追いかけ、ウーバーイーツで刺し身の盛り合わせをスーパーから買ってこさせようと注文する。悠斗は止めるも蛭田の指は止まらない。これぞ蛭田の金と権力。悠斗は、時間も遅いから動ける人から帰りましょうと呼びかける。体力が回復したものから立ち上がり、亜美も気まずそうに立ち上がると蛭田は持って帰って食べませんと食い下がるが、亜美は生魚苦手なんですと答えて去った。
若い筋骨隆々とした配達員が来るころには蛭田と悠斗と一樹しかいなくなった。一樹は大量に発汗し、動けずにいる。遅いって怒鳴っていいサービスもあればいいんだけどなあと蛭田は言って一同を気まずくさせた。
真っ暗な芝生に置かれた刺身の盛り合わせ。それを蛭田と一樹が寝転びながらかきこむように食べていく。悠斗は芝生で刺身を食べる姿に違和感をもつ。立ち上る草と醤油の匂い。蛭田はわさびにつんとしながら、健常者に買ってこさせるのは気持ちがいいなあ〜とうっとりした。

 

今日も悠斗と蛭田は銭湯に入る。相変わらず蛭田はお湯からすぐ出てはサウナと水風呂を行き来して落ち着かない。悠斗は露天風呂で寝風呂する。青い香りがわずかにする。そばの暗がりの中でなまめかしく椿が咲いていたーー。ミッドナイトケアがどれだけ参加者の健康や幸福度に資するものなにかは未知数だし、継続するための資金も自由に使える場所もない。極めて不自由だ。このままでは続かないだろう、続かなくてもいいかもしれないが……デイケアの中にもイベントをやるところはある。ハレをつくってる。が、それは管理下のもとだし、夜にやるというところがポイントな気もしてきた。どうも自分たちはクライアントや患者の安心安全や平穏を望んでしまう。けど、病気になる前はもっと自由に外に出ていたはずだ。精神疾患があっても好きな場所に行け、娯楽を存分に享受できるのが地域生活だろう。カウンセリングがうまくいっているときのようにまた会える、話せるという関係を構築すると回復も進む。時間の経過も健康に寄与する。デイケアは日常を形づくるが確かにハレには少し足りない。遊び足りない。夜がない。祝祭がない。孤立から免れる機会にもなりうる。企画を募ろう。自らの手で楽しみを生み出す自信を得て心身の回復につながるのではないか。蛭田が道夫以外との人間関係を構築して、アートや経済以外のつながりを得られる手伝いができたら、少しは償いになるのではないか……亜美は来づらくなったと思うが。あのような真似はやめさせないと犠牲者が出る。事前に気づくべきだった。デイケアでは恋愛禁止のところもあるという。しかし。まあルールは必要だろう。今後新規にメンバーを入れることもあるかもしれない……。

 

悠斗はお湯から出ると、サウナに入る。蛭田が座っており、隣に座った悠斗の性器を一瞥すると、いいよな〜大きくてとぬらぬらつぶやいた。悠斗はみんな楽しそうだったと言うと、蛭田はそうでしょうそうでしょうと破顔一笑した。ただ、花田さんにあんなやり方すると来づらくなる。そうなったらしょうがない、甘やかしすぎ。そうじゃなくて、ああいうふうにされると嫌な気持ちになる。デイケアに集まる人は傷つきやすいんだから。傷つかせてよ〜。悠斗はみな蛭田のように強くないという言葉を飲み込んだ。本当のところ蛭田も打たれ強くはないだろう。現在の活動や言動からそう思うだけで、もともと輪に入れないことに超然としてる人間ではなく、なにより病気になった。無用な傷つきは避けたい。だから、ミッドナイトケアのプログラム内の時間においてはという条件つきで金銭を用いた関係の強要を避けるよう説得した。わかったわかったと言って、サウナから蛭田は放屁して出た。納得したかは謎だ、単に熱かったからかもしれない。熱くて臭い。悠斗も出る。
外に出て飲み物を買うのといっしょに先日の絵の代金を払うと伝えると、蛭田はプレゼントだからと突っぱねた。だが二人に買わせて自分が買わないのはアンフェアだし、新作を描いてくれたのだからと粘る。じゃあ三万。安すぎないか。いいからいいから。現金の持ち合わせがあったので払ってしまう。蛭田はあいつらまだ払わないんだよと苦い顔をする。一方的に売り込まれていた姿を思い出す。
駅までの道で、冬になると公園は難しいなと場所の問題を話しあうと、蛭田は家に地下室があるからそこを提供できるという。核シェルターにしたかったんだけど、お金足りなくて。なにに使ってるの。道夫がトレーニングするのと梅酒を置いてる。

 

カウンセリングやプログラムの過程で加害者が親からの暴力などの影響を口にすることがある。だが、初期にこちらから言及して親からのDV被害が明らかになると、被害者性が強まりかねないので、その話をするときはある程度時間が経ってからにしている。あくまで自分がしていた行為に正当性をもたせていたのは親からの偏った学習によるものであり、むしろ責任転嫁してしまう要因だと理解するために話してもらう。
真吾はシナリオでもあるように幼いころ父親が気に入らないことがあると暴力をふるって苦しかった、でもそれが当たり前だと思っていたと涙を溜めた。それ自体はかわいそうだし親が憎ましいし支えが足りなかったのだと同情するが、もう何百本も似たものが製作されたつまらない映画を見た気持ちになる。早送りしたい。いつまでこんな連鎖が続くのかと暗澹とする。なにも特別なことではない。ありきたりであちらこちらにあふれる暴力。だからこそ止めなくてはいけない。
そのつらい気持ちがあるなら、パートナーの方の痛みにも共感できますよねと聞くと真吾はうなずく。ただ親から暴力を受けても加害を行わずにいる人もいます。むしろそちちのほうが多いです。つまり、加害とはあくまで自身の選択によるものだとわたしは考えます。どう思いますか。この前見た無の顔になる。好きだよなこの顔。この質問をすると、今までの人は納得したり不承不承にせようなづいてくれたものだが。自分も蛭田とのことを指摘されたらこんな顔に……いや、苦しい。苦しむ。間違いなく自分の責任だと認める。
両親の話に戻ります。お父さんとお母さんはお互い対等な関係でしたか。いや、父親のほうが強かったです。ではお母さんはなかなか言いたいことが言えないように見えましたか。まあ、そうですね。父親がそういう空気、何も言わせなくしてました。なるほど。斎藤さんは両親のような関係をつくりたいですか、それともお互い対等で言いたいことを言い合える関係がいいですか。父親みたいのは嫌です、平等な……でも何でも言っていいとは思わないですね。たとえば、どういうことは言ってほしくないですか。うーん、傷つくようなこととか。具体的には? だからまあ、言われて嫌なことですよ。こっちが知らないことを言うとか。そんなことも知らないのみたいな言い方で? そんな言い方はしないですけど、知らないってことは興味ないんですよ。だから言わなくていいんです。言われるとバカだと言われているような気になりますし。

相手の発言をコントロールしたいという願望を感じる。
なるほど、そう感じるんですね。パートナーの方は馬鹿にしようと思って言っているでしょうか、それとも……。いや、そう聞こえるという話なんで。そうですね、でもわたし覚えてるんです。斎藤さんはお互いの感情を尊重して笑いがある平和な家庭をつくりたいんですよね。ええ。そのためには相手がどういう気持ちで言ったか考えるのも必要だと思いますが。それはまあ、たしかに。どういう気持が考えられますか。……今考えると聞いてほしかったのかも、いやそのときは余裕なくて。聞く準備がないと入ってこないことありますよね。そうですそうです。では、夫婦でいつも意見が同じほうがいいですか、違ってもいいですか、たとえば子育てについて。それは同じほうがいいですよ、大事なことについては。ではお互いの意見が違った場合、どうするのがいいと思いますか。それはまあ話し合って決めるしかないでしょう。では実際子育てについてどんなことで意見が違って話し合ったことがありますか。違ったこと……息子なんですけどままごとが好きなんですよ。それはよくないからやめるよう言いました。斎藤さんはそう考えてるんですね。相手はなんと言いましたか。いや、覚えてないです。そうですか。そのときは話し合いましたか、それともやめるよう主張して、ただやめさせましたか。なにか言っていたとは思いますけど、息子ですよ、おかしいじゃないですか。それでお子さんはどうするようになりましたか。やめましたよ。それについて今どう思ってますか。わかんないですけど……自分の見てないところでやっているかもしれないですよね。そうですね。いま聞いた一例だけの判断になってしまいますけど、夫婦で話すテーマが出たとき、相手の意見を聞くよりお父さんのような有無を言わせぬ態度を取ったようにわたしには見えるんですが。ああ、たしかに父親の影響はあるかもしれないです。
父親が出るとすぐ飛びつく。前のめりに他者に押し付けるくせ。

先程も言ったとおり、両親からの暴力が原因で自身もDVをする人はさほど多くないです。三割というデータもあります。これについてはどう思いますか。まあ、思ってるより少ないというか。そうですよね。両親がDVをしていたイコール子どももDVをする、というわけではないんです。でもそう考えてしまい、DVはすべて親のせいだと開き直ったら、パートナーの方はどう思うでしょう。……それはうまく、想像できないんで。それは、相手の気持ちをですか。はい。想像すると苦しくなりますか。苦しく……うーん、そうですね、うまくできないです。
苦しいのはどっちだよ。
でも、自分の責任を背負い込みすぎて苛烈な自責をされ続けても困るのだ。統計的にまた暴力や別の衝動にはけ口を求めてしまう。最低な自分を証明するようにか、もう自分はそうなのだというあきらめからなのか、だめな自分ごと愛してくれたほうがいい。性加害者のプログラムではカウンセラーが謝罪や反省をことさら求め、被害者への苦痛に共感させることが再犯率を高めてしまうと研究で明らかになっている。しばらくは責任への理解を高めるよりも、当面認知行動療法的なアプローチーー怒りの感情に向かう前の思考を検分し、別の見方を考えるよう働きかけて、怒りの表出を未然に防ぐーーを続ければいい。再発防止がいちばんに優先される。
今度グループプログラムで行うジェンダーについての回について話を向け、学ぶ動機づけを高める。やたら学習への意欲は高い。
最近プログラムに行くの楽しみなんですよ。それはよかったです。こないだまた自分の意見にこだわったら、人生って勝ち負けのあるゲームじゃないんだよって先輩に教えてもらって、本当にそうだなって。SNSで知りたくもないのに流れてくるような名言に聞こえるが、言い方もよかったのだろう。競争的で他者を打ち負かして安定しようとする自己を顧みてくれるならなんでもいい。

© 2026 今野和人 ( 2026年10月28日公開 )

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