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蛭田がいた(3)

蛭田がいた(第3話)

今野和人

友人がこれまでを読んで「なんか短くない? あそこで終わるの?」と言ったんですが、前回までは序章です。

小説

11,902文字

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蛭田と別れてから10年ーー悠斗は大学で心理学を学び、大学院への進学を決意して臨床心理士を志す。
そして20年ーー悠斗の妻の萌夏が祐介を出産する。
そして30年ーー。
そこはありふれたホテルで、ありふれた食事が出る、ありふれた同窓会であった。
悠斗は通常学校の同窓会に出席することはなかったのだが、このたびの共立小学校の会には参加してみたいという気持ちにあらがえなかった。Facebookで当時の同級生に見つけられ連絡が来たとき、記憶から追いやりなかったことにしていた蛭田のことを思い出した。切れて落ちたあとあまりにも長いこと放置していた糸。会えたとしてどういう顔をすればいいのか。再会は重苦しいものになるだろう。ただ、それを避けたい気持ちより漠たる興味のほうが強かった。日々の生活にどこか倦んでおり、蛭田のような劇薬を欲していたのかもしれない。なにかをまたひっくり返すような体験。今はどうしているのだろう。もっとも蛭田が同窓会に呼ばれる可能性は低い。蛭田でさえ三十年も経てばあのどぎつさはすり減っているだろうし。してみるとなぜ行くのか。蛭田でさえ、つまらなくなっていることを確認して安心したいのか。
悠斗は一様にスーツなり無難なジャケットを着る男性陣のなかに蛭田がいないのを確認しどこかほっとする。凡庸なカナッペをつまむ。嫌いなのにカマンベールチーズを選んでしまったと口の中で気づく。若干溶けている。ワインで口をゆすぐ。見回す。誰の名前さえ思い出せない。ボトックス顔が目につく。三十年経ち、習字は顔になった。調和だ、友達だ、平等だ、健康だ、あとなんだーーそのとき風が通り、ひょいっとカナッペの上の干からびた生ハムを次々に白い手がむしりとり、郡青色の材質が不明の足元まであるローブがたなびく。その青い男はずかずかと奥に進み、大声で男二人に話しかけた。蛭田だ!

いたいた、よっ! 人の顔を便器に突っ込んだ人たち! あれで病気なって精神病院にぶちこまれたんだよ。本当本当。二十六年。毎日薬漬け、一日ぼーっとしちゃう、性欲もなくなるから! あなたがたがセックスやオナニーしてる間、俺は全然精子出せないんだから。AV女優ってあんな美人だっけ? いいよな〜、シャバは抜き放題でしょ。
蛭田をかつていじめた二人は最初驚き次いで困惑しやがて顔を見合わせ徐々に後退するが蛭田はついてくる。
どこ行くの、人の顔を便器に突っ込んだ人たち! 少年院行った? 行ってないの? なんでだよ! こっちは二十六年精神病院にぶちこまれたんだよ。本当だよ。全然出られないんだよ。毎日薬漬け、一日ぼーっとして、性欲もなくなるんだよ! あなたがたが、毎日セックスやオナニーしてる間……。
二人は後退し壁に追い込まれてしまう。蛭田は両手で壁ドンした。俺は全然精子出せてないんだよ。おい! どうすんだよ。二十六年ぶん! 笑っていた蛭田はいつの間にか悲しみをまとい精子の代わりに唾を出しながら言い募った。二人はあのとき補償金を親が出したなどとごにょごにょ言った。蛭田は聞かず、あなたがたにアートを買ってもらいたいと告げた。おれはね、二十六年もあなたがたのせいで病院いたんだけど、絵を描き続けたのね。そしたらアートブリュット、アートブリュット知ってる? え、大体、精神病のアートだよ。で、加奈子さんがぼくの絵を発見したんだよ。それでようやく出られたの、病院から。そのすばらしい絵があるから、あなたがたの安〜い給料でも買えるものを選ぼう。おれはなんて優しいんだ! 蛭田は二人の体をやにわに触って名刺を無理やり引き出し、後日請求書を送ると商売を終えた。

悠斗は蛭田の語る内容にショックを受けた。二十六年? 本当か? 本当に二十六年もの月日を精神科病院で過ごしたのか。十代から四十前の大切な期間を。冤罪のような気がした。そんなことは起きてはならないし、起こったことも間違いであるような。特別学級に行ったのではなかったのか。蛭田が語る通りなら、あの事件を契機に精神を失調したのか。いや、親は? 道夫は? 引き取り手があれば何十年も入院せずにいられたはずだが。
同時に昔の蛭田はもっとうじうじしている印象だったが、今はもともともっていた特質を攻撃的に開花させていると悠斗は思う。それとも躁病的ななにかか。
好奇心と罪悪感が入り混じり蛭田から目を離せずに見つめていると、やがて彼が振り返る。
悠斗は音がなくなったように思う。ほとんどはじめて人前で顔をつくれなかった。
蛭田はそんな悠斗を見つめると一気に蕾が開いたように嬉しそうな表情になる。一直線に悠斗のところまで来ると、来たんだ! おし、出よう! と悠斗の肩を組み連れ出そうとした。え、もう? ああ、もう用はない。二人は連れたって小便でも行くように会場を出た。

エレベーターの中で蛭田は悠斗の唇を奪わんくらいの近さで会いたかったよとささやいた。悠斗もどうしてるか心配だったというと、蛭田はかつてのように身をくねらせ、おれもだと同意した。会えるかと思って同窓会を道夫が調べまくったんだ。やはり蛭田は誘われなかった。悠斗はとにかく謝罪をまずはするべきだと思いどこか落ち着いたところでと言いかけると、蛭田は風俗行かない? と誘ってきた。え? いやー、たくさん女の子見たらしたくなってきちゃった。いや、話そうよ、どこか居酒屋でも。さっき病院の話聞こえたんだ、二十六年もその。とりあえず抜かないと話入ってこないおれ。そんなに? 蛭田は唇をぬらぬらさせる。巨乳のぬるぬるのお店があって、そこ好きなんだよ〜、ね、行こうよ。いや、風俗は。え、え、え? もしかして行ったことないの? と言うと腹を折って笑いだし、外にいるのに……風俗、行かないなんて……どういうことだよ〜とつっかえつっかえ述べた。悠斗は思わず、これまで大変だったよねと言ってしまうがその瞬間他人事の言い方をしてしまってないか慌てる。が、蛭田は悠斗の尻尾を捕まえることなく、退屈で死ぬかと思ったと漢方でも飲んだような顔をした。その苦い顔は悠斗の脳裏にしばらくへばりついてとれないガムになった。

 

悠斗は断れなかった。実際、風俗に行ったことはなくシステムなどわからなかったのだが、蛭田は全部やったからと言うだけでタクシーでホテルに向かう間、悠斗が話しかけても、蛭田はスマホでこれから謁見する嬢の写真を見ては唾を飲み込んだり明らかに膨張した下半身を見つめてニヤニヤするだけで話にならなかった。
蛭田と隣の部屋に入り、歯磨きなどして待つ。鏡で自分の顔を見る。
自分は何をしているのだ。いつかもこんな気分になった。
女性を待つ緊張と蛭田に対する緊張に挟まれた。二十六年、重すぎる。どうやって生きてきたのか。何をどう言えばいいか。もし会えたらと準備していた言葉が軽く見え、いつのまにか霧散した。ふと靴下が臭くないか気になり、脱いでバッグにしまう。やがてチャイムが鳴り、外からは確かに胸は大きいがそれは巨体という理由から導き出される優花という女性がこんばんはとあいさつしてきた。甘い汗の匂いがする。

どちらかというとスレンダー型が好みの悠斗はこのあと六〇分も優花といると思うとげんなりし、会話を振られてもあまり返せずいると、なぜかおもしろーいと言われ、シャワーを浴びることになる。優花の裸が露わになると、肌の白さと肉付きに昔横浜にデートしたときに買ったでかい中華まんを思い出してしまうが、職業蔑視が入っていないかと習い性の点検をする。熱いシャワーをかけられ体で性器を洗われても、それは水をやりすぎてしおれた花のようだった。ベッドでは謎の温かいオイルを体中ぬりたくり、ぬりたくられ、最初にマッサージを受ける。シナモンの香りにしばしリラックスして少し勃起すると、隣の部屋から数々の後輩に先を越されるも念願の武道館に立てた中年アーティストのような雄叫びが聞こえてくる。隣すごいねと優花が笑う。そのうちありがとうと絶叫しそうだ。悠斗はなおさら集中できず、オイルで光る尻や胸を間近で見ても感興をそそらない地方の土産物屋の置物のように思え、いくら触っても性器と連動しない。こすられると、なんだか蛭田の版画制作を思い出してしまう。シュ、シュ、シュシュシュ。顔も頭をよぎる。蛭田は十歳以上若く、幼く見えた。うまくいかず時間切れとなる。どこか安心する。ごめんね〜と優花は言うも、悠斗は不満げな様子を出さず、気にしないでと気を配った。優花がわたしソープでも働いてるんだけどと話しはじめたときは、その無防備さに興味を覚え六十分の間で一番集中して話を聞いた。
待ち合わせ場所の公園で十五分待っても蛭田は現れなかったが、まだ連絡先も交換してないので秋空のもと悠斗は待つことになった。どう謝ったらいいものか考えたり長期入院について検索したりするうちに四〇分経つと、台風の日のあと落ちていそうな長い木の棒を杖にして歩く呆けた顔の蛭田がやってきた。三〇分延長して三回射精したと自慢し、だらしなく開いた口の奥の闇となめくじのような舌で底のない性欲をうかがわせた。

どっか入ろうと悠斗は言うも、蛭田は今日はもうだめだ〜とわがままを言い、また今度ちゃんと話そうという。あんまお店好きじゃないんだよね。そうなんだ。家、行っていい? あ、うち、小さい子がいて。え、小さい子俺好きだよ! 何か意味ありげだ。男の子なんだけど。男の子も好きだよ! 何歳? 一〇歳。そんな小さくないじゃん。たしかに、それはそうだった。不意に距離を詰めてきた蛭田に悠斗は緊張していた。まあ、いいけどちょっと聞いてみるね。あ、それとさ、これからキジマンと呼ぶから、おれのことヒルタンと呼んでくれ。
翌日から交換したラインにいつ遊びに行っていいかしつこく聞かれ、萌夏に小学校のときの変わった友人が家に来たいと言っていると話した。萌夏は珍しいじゃないと驚き、いつでもいいよ〜と鷹揚だった。萌夏は精神保健福祉士なので病気や障害にも詳しいが、蛭田がそうなった原因に言及されると面倒なので入院していたことを話すのはやめておいた。

 

悠斗が高校二年生のときに母親の真里がうつになった。直接の原因は友人の自殺だ。
病状は大学受験を考え出すころまで長引き、真里だけ実家に戻ることになった。回復の兆しを見せたのは医者を変え、同医院のカウンセリングも併用しはじめてからだった。これまで五分から長くても十分の精神科医の診療と薬物治療では改善しなかったが、カウンセリングと旧知の人間関係との交流をふたたび深めることで徐々に回復していった。休みの日に悠斗が真里に会いに行くと、かつて亡骸のように寝ていた姿との違いに驚き、どんな方法や仕組みがあるのかと臨床心理に興味をもつようになった。もともと、人の心を見るのは得意だという自負もあった。
三年前まで勤めていたメンタルクリニックでは主に真里のような精神的な病を抱える患者を相手にしていた。現在勤めるカウンセリングセンターは精神科と併用するクライアントや家族問題を相談にくるクライアントが多いのだが、加害者臨床にも力を入れている。近年、日本でも遅まきながら加害者の再発を防ぐためにも法的な罰だけでなく問題行動の改善に取り組むカウンセリングやプログラムが公的に求められているが、基本的にはいまだ民間に委ねられている。
加害者とは誰か。たとえば、DV加害者や性加害者、子どもに虐待をする親である。
今年四〇歳の会社員である斎藤真吾は何時間も妻を説教したり物を叩き壊したり友人と電話するのをやめさせたりという一連のDVを妻が彼の親に報告すると彼女の髪をつかみ突き飛ばして頭部に傷を負わせた。数週間後、妻と五歳の子に逃げられ、DV加害者プログラムを受けることが離婚回避の条件だとつきつけられ、半年前に嫌々やってきた。自主的にカウンセリングに来る加害者は少数派で八〜九割は妻や家族に言われて来る。かれらの多くはDVをする主体を変えたいのではなく、妻が単に戻ることを望んでいる。初回の面談で真吾は週に一度グループのプログラムに参加することになり、月に一度悠斗がカウンセリングを担当することになった。

 

初回のカウンセリングで真吾はとにかく離婚を未然に防ぐことをゴールにしたがった。自分を変えたいという切実さより、ただ妻を手放すことへの強い恐怖がアクリル板ーーコロナからクライアントの間に挟まっているーーの向こうに見える。グループプログラムの初回で身体的な暴力をふるうことだけが暴力ではなく相手を支配するあらゆる方法が暴力であると習った点を確認し、どのような夫婦生活を望んでいるかを聞きとりーー夫が妻を支配するのではなく、お互いを理解した平和的な笑いがあふれる家庭と口では言ったーーゴールは子どもや妻への愛を伝える際に暴力的な手段を用いるのではなくお互いの感情を尊重した方法に切り替えられるようになることとした。
そのあと、真吾の妻は心変わりして離婚を申し出て裁判がはじまることになった。妻は真吾と離れてからうつ症状が出てきてメンタルクリニックに通いだしており、夫への易怒性が高まっていた。母親のことを思い出し、不憫に思う。よく言われるが、何よりも被害者のために脱暴力化させなければいけないと思う。

あまり料理が好きではない萌夏はーーお菓子をつくるのは好きだーーその日寿司を注文し、少し高いスーパーでサラダなどを買って蛭田の来場を待った。悠斗が家に友達を呼ぶのははじめてだった。大学の友達とは年に一度ゴールデンウィークに会っているようだが、一度も彼女が会ったことはない。

蛭田はなぜか赤いバラを大量に抱え込んで登場した。強者の無遠慮な香りがする。家に入ると、うわーあれですね、絶妙ですねとほめてるのかなんだかわからないことを口走る。悠斗の家は3LDKで夫婦と祐介の寝室のほかに本棚がある和室がある。悠斗は蛭田をリビングに促すも蛭田は家の扉という扉を開けようとし、祐介の部屋に入ると部屋に飾られたキリンの首にまたがるゾウの絵を見るなり、すばらしい! これこそ絵だ! と絶賛した。
祐介はかなり口数が少ない子で幼いころ自閉症かと思ったが今のところそう診断されてはいない。悠斗自身の所見でも、もし自閉症なら、例えばキリンやゾウのどちらかに極端な興味を示し、固執して描くのではと思う。とはいえ奇異な絵だなとは思った。キリンの首が意味するものを職業柄考えてしまう。小学生のころに見た蛭田の版画と少し似たものを感じた。自分と違い、人に好かれようとしていない絵。とはいえ、現在祐介には仲のよい友だちの洸汰もいる。二人を連れて映画に行くこともある。心理学的な見地から解説すると祐介より洸汰の関心をひいてしまうのだが。
蛭田は祐介にあれこれ質問している。祐介はそれに十全に答えられないものの、いつもは出てきづらい言葉や生き生きとした表情が現れており、それを後ろから見ていた萌夏は少なからず心を動かされているようだった。
放置しておくと、いつまでもしゃべりそうな蛭田にまずは寿司でも食べようと注意を向けると、生魚は最高! 病院じゃ食べられなかったからねと座り始めるや否や一人一ネタ食べるという暗黙のルールを破り、マグロばかり立て続けに食べ続けた。そう、病院では生魚は出ない。が、出てきてそこそこ経つ。しかも、自分から病院の話をふるとは。

案の定、萌夏は入院してらしたんですか? と聞く。すると、蛭田はええ、二十六年もねと自慢げに言った。萌夏は驚きちらっと悠斗を見る。悠斗が口を開こうとすると、蛭田はしかも精神病院ですよ! と笑う。入って一年もしないで落ち着いたんですよ、統合失調症。でも弟もおれのあと病院入っちゃったし、母親がどっか行っちゃって、ハワイって噂を聞いたんですけど。悠斗は父親の仕事にケチをつけられた嫌な記憶が蘇った。あの母親なら母という役割と息子を置きざりにして第二の人生を敢然と歩めそうだ。自分も薬でヘロヘロなってたんでどうしようもないですよもう〜。
悠斗は社会的入院だと萌夏と語る。二人とも表情が暗くなる。日本の精神科病院には症状は軽度で十分社会生活ができるのに退院先がない患者や不必要な入院が長引いたせいで退院意欲を喪失している長期入院患者が一説には二十万人以上いるといわれている。それは世界でも類を見ない人数である。十代で発症してそのまま四十年も入院する人もいる。蛭田はおそらく生活保護で入院費など工面していたのだろう。
蛭田はああ、ネットで名前見たよ、カウンセラーなんだよねと言ってきた。職場のサイトを見たらしい。悠斗は萌夏の職業も説明した。蛭田は握手を求め、萌夏にマグロの脂がついた指をなじませてきた。いや〜、運命ですね。
それにしても長いよねと悠斗は蛭田の窮状に同情を示すと、興味がないのか彼は寿司に耽溺する。もうマグロは消え去った。食いつきそうな話をふる。でもあれでしょ、絵の才能を認められて。そうそう! アートブリュットが好きな加奈子さんていう人がいてね。その人のおかげで外出られて。え、すごいですねと萌夏は羨望の眼差しで見る。彼女は自身もバンドをやっていたからか、表現者へのリスペクトが高い。ええ、すごいんですよと蛭田は鼻をひくつかせ、今度はイクラを立て続けに食べる。絵、見たいですと萌夏が言うと祐介も同調し、蛭田はスマホを出すと、スマホじゃ伝わらないかもな〜といいながら、画像を出した。

便器に沈んだ蛭田の顔がこちら側を向いている版画だった。胴体も首もない。水をかぶり、あの日とは逆に見つめてくる。
どきっとした悠斗は血流がどっと逆流したように苦しくなり、発作的に立ち上がってしまう。寿司ネタがのどにつまって咳き込むような真似をする。萌夏は大丈夫? と声をかけるも悠斗は手でオッケーのマークをつくって後ろを向いた。蛭田は全く意に介さず、スクロールしていく。便器の水に浸かった蛭田の顔のシリーズだけでなく、髪がボサボサの老人やリストカットした痕のある腕や小指のない足や壊れた建物や痩せこけた動物も同一アングルでトイレの水に浸かり描かれている。傷があるモチーフが選ばれていると悠斗は思う。でもなぜか蛭田の表情は苦しそうではなく、喜悦に近い。あたかも進んで入水したように。色は濃淡があるものの青で統一されている。萌夏は感想に困ったようだが、ガリガリ君の透きとおる水色からディック・ブルーナの暖色系が混ざった青まで描き分けられた青の世界、恐れを知らぬクローズアップなどを褒め称えた。蛭田はそうでしょうそうでしょうと語り、奥さんは芸術がわかりますね! 今度プレゼントしましょうと意気揚々と宣言した。続いて祐介には絵の先生になるよと声をかけ、悠斗は面食らう。祐介は喜び、萌夏もいいんですかと同調した。悠斗は絵に殴られた衝撃が尾を引いて戸惑い、一回家族で相談するとスピードを落とそうとするも、夕飯のあと、蛭田は祐介の部屋に行って絵を描くのを指導ないし応援ないし絶賛し続けた。蛭田の声がリビングまで届く。いけ、いけ、いけ。そうそうそうだ。どひゃー。どひゃーと言う人間が現実世界にいる。あれで先生になれるのか。が、足をおさえた人間のくせに足をおさえられている気がする。祐介は楽しかったといい、萌夏はどう? と顔を向けてくる。いやと言えなかった。彼女が水曜が休みなのでその日ならと計画を前に進めると、蛭田は仕事がない水曜日、月に一度か二度来ましょうと言って連絡先を交換する。そして悠斗の顔を見る。彼はいくつも見せられた絵の表情が目の前の蛭田の顔に重なり自分を見つめ、来てくれるなら月謝を払うと伝えるのがやっとだった。

 

駅まで送ると言い、悠斗は蛭田と外に出た。
今日も蛭田は気に入ってるのか青いローブを着てきた。それ、いいね。いいでしょ、古着屋の店頭で売られてるのを見たんだ。アフリカのらしいよ。
悠斗は大通りを避け、人通りのない道を歩き、言葉を探した。二十六年の受難の償い。その重さをあの画像を見たときから突きつけられている気がしてならない。精神病ないし統合失調症の発病の原因としていじめやパワハラなどの被害経験は大きい。しかし、あの喜んでいる顔はなんだ。
悠斗は思ってしまう。昔いいよな〜と嫌味を言ったように、わざと家であの絵を見せる気だったのではないかと。いや、そうであったとしても罪は変わらない。
「あの」
「なに?」蛭田は立ち止まった。悠斗は自転車が通り過ぎるのを待って言葉を吐いた。
「今日は、ありがとう」
「え?」蛭田は目を開ける。
「来てくれて。祐介もうれしそうだった」
「才能あると思うな〜」
「うん。で、あの、今日見た絵を見て、あの、スマホで見た絵」
「え、ああ」
「……本当にあのときは、ごめん。謝って許されることではないけど」悠斗は九十度に腰を曲げる。
「え? どうしたの?」
「小学生のとき、ひどいことをした」
「え、え」
「あの絵を見ると、どれだけひどいことをしたか」蛭田はしばし絵のモデルを見るように顎に手を添えて悠斗のポーズを周りながら眺めると、近寄って身体を持ち上げた。
「頭あげて、あげて」
「流されて、いじめに加担してしまった」
「しょうがない、しょうがない」
「いや、友だちだったのに裏切った。ひどいよ」
「おれでもそうするって」蛭田は全く気にしてない素振りで明るくいる。

「味方をして、いじめられるのが怖かったんだと思う。本当に卑怯だった」
「そっか〜、でも気にしてないから」
「でも、トイレに浸かった絵ばっかで」
「いや〜、それで評価されちゃったから」蛭田の目は照れたビジネスマンのようでもあるし友達の過失に寛容であろうとするもの特有の鷹揚さにも見えた。
「水の中から見える景色が好きなんだ」
「とにかく本当に申し訳ない。なにか償いをしたい。まず、自分も絵を買わせてほしい」
「いいよいいよ。それよりカウンセラーなんでしょ」
「うん、そうだけど」
「デイケアとかナイトケアとか、あれ退屈じゃない」
「まあその、蛭田、ヒルタンにはそうだろうけど」
「塗り絵とか、ゲームとか、散歩? そういうのでよくなると思う?」
「安定はすると思うよ。リハビリだから徐々に」
「ミッドナイトケアっていうのやろうと思って」
「ミッドナイト?」
「夜中にいろいろやるの。楽しそうでしょ、どう? 一緒に」
「うーん、面白そうだけど、夜中は生活リズムが崩れるからあんまり」
わずかに震えたあと蛭田は叫んだ。
「低いとこで落ち着いても! 意味ないし!」
突然の激高に悠斗が唖然としてると、蛭田は今日も風俗に行くからと走り去った。

 

遅ればせながら悠斗は蛭田について検索した。かっこつけているのか、SNSでは誰もフォローしていなく、フォロワーも千人程度しかいない。蛭田ブラザーズという名の芸術家としてウィキペディアに紹介がある。「本物の天才である」「日本の宝であるのだが愚かなことにいまだ多くの者が気づいていない」など余計な記述があるので本人あるいは道夫も書いているのではないかと思う。それによると、アール・ブリュットのキュレーターもする支援員の佐久間加奈子によって見出され、退院支援を受け、作業所に通いながらグループホームで生活することになったという。その作業所のリンクを見ると、アール・ブリュット作家にアトリエを提供しており、どうやら蛭田兄弟もそこで制作をはじめたらしい。
アール・ブリュットは原義では「生」の芸術であり、障害のあるなしにかかわらず、芸術教育を受けていない芸術を広範に指す。作家の多くは固執しているモチーフや画材がある。それはオブセッションや熱狂的に好きなモチーフなどさまざまであるが、いずれにせよその何かを描くことで自分を保ち、自分の存在を証明することにつながっている。
日本においてアール・ブリュットは福祉の文脈で発展をたどり、現在障害者アートとごっちゃになっている。現状残念ながらかれらの中で作品を売買し、アーティストとして自活できるものは極めて少数だ。欧米においてはアートブリュットはマーケットとして成熟を迎えているが、日本においては近年美術館など出てきてはいるものの、アール・ブリュット作家でなくてもアーティストは自活が難しいのだからその苦労は一塩であろう。そんな中、蛭田は商才があったのか誰かの入れ知恵か、作品を市場に流通させるだけでなく制作風景を動画で配信することを始めた。悠斗が小学生のときに見た儀式のようなあれである。あの必要だかなんだかわからない上半身裸でバカバカ叩きながら版画をつくるのがうけて、多いもので五〇〇万再生も突破している。赤や青の原色のトロトロの塗料を顔に塗っているサムネが並ぶ。それがより見世物感を演出した。そういう制作パフォーマンスのほかにも「小学生でもできる! 版画教室」と謳う動画がある。見てみると、ほぼ擬音で教えており三倍速かと見紛うほど高速で主版に彫って指を切ってしまっていた。幻聴や幻視を気持ち悪い紙芝居で語る動画などもある。配信が回りだしたあとは共同のアトリエを抜けて、潰れた印刷工場を借金して買い取り蛭田ファクトリーという住居兼アトリエをつくり、そこで実際の制作を鑑賞できるツアーを売り出した。会いに行ける蛭田だ。その動画もあったので再生すると、耳をつんざく打撃音が始まり思わずボリュームを下げる。道夫は二メートルくらいになっていた。その道夫が大音量で塗料の缶を叩いている。シュ、シュ、シュシュシュと蛭田は観客にも煽り、部族の祭りのような掛け声が乱反射してトランスに近い。そこで制作した版画も売るし、蛭田を生で見るというのが評判を呼び、これがまた撮影自由なので動画の拡散につながる。切り取り蛭田だ。一時期、あのときの悠斗のように制作終了後、蛭田に赤い手で客が追い回される時間があった。これには障害者当事者の団体が障害者のイメージに悪影響を与えるといって苦情を寄せ、今では行われていないらしい。
サイトのリンクもある。残酷と凄惨を感じる青で統一されたサイトにはワークスとかプロフィールのほかにトランポリンというメニューがあり、クリックすると大きなトランポリンで跳ねる道夫の動画が永遠に流れる。バックでは松任谷由実の『守ってあげたい』が流れている。そんなわけでほかの日本のアール・ブリュット作家の多くが作業所で少ない工賃と障害年金などで慎ましく暮らすなか、蛭田は動画とツアーと作品販売で小金を蓄えた。その結果、蛭田は風俗通いが趣味になったのだろう。凋落していたずらに失い転がり続ける日本経済を尻目に、失われた三十年を取り返すように蛭田は日々制作に射精に勤しんでいるのだ。
悠斗はスマホを伏せ、一つの疑問をもつ。なぜこんなに元気になれたんだと。社会的入院の患者は長期入院するうちに与えられた環境から出る意欲をなくし、医療者が退院を促したとて拒否するケースが多い。蛭田本人も薬漬けで病院から出る気をなくしたと言っていた。いったいどうやってこんなにも生きる力を獲得したのだろう。
リビングには居座るようなバラの香りが充満していて思わず窓を開けた。

 

先日、真吾は離婚を突きつけられたあと妻を精神科病院に入院させようとした件を法廷で追求されたという。グループプログラムでは毎回最初に最近あったことを話すので、この件は担当者から報告を受けていた。医療保護入院という制度を使えば、家族の承認と精神保険指定医の認可があれば当人の許可なく病院に入れられる。この制度を利用して親権を得ようとする加害者はちょくちょくいる。結果、不審に思った指定医がソーシャルワーカーに相談し市役所のDV担当に連絡したため、真吾の計画は破綻した。
そして今日ーー例の件を真吾は子どもの教育のためには間違ってなかったと思うと語る。家での妻を見てないくせに知っているかのように言うんです、弁護士が。
妻を傷つけてきた、病気に追い込んだことにはふれない、見ない。
うつなんかなったら子どもをみられる状態じゃないでしょうと非難をがんばる。口ぶりに、精神疾患への軽蔑を感じる。
なおも直進しようとする真吾の正しさを追わず、夫婦関係の今後に目を向けてもらう。
パートナーの方はさきほどの医療保護入院への意見を聞いてどう思うでしょう。妻も内心同じように思っているはずですよ、いま子育てなんかできないんですから。そう思うんですね。ところでパートナーの方はお子さんを大事にされてると思いますか。ええ、大事には、ただ先生。すみません、重要なところなので聞かせてください。大事にされてるお子さんと急に切り離されてしまったらどう思うでしょう。
真吾は待ち合わせした人が来ないような顔で答えない。
来ないよ誰も。
その顔を見る間、何か発するのを待つ間、一人で見るのが難しい現実をいっしょに見ましょうというキザなセリフが浮かぶが言わなかった。冷笑しそうだし。
再度問いかける。何も言われず突然病院に連れて行かれ、子どもとも離れたらどう思うでしょう。真吾は無の顔になる。解離なのか。非難するトーンが出てしまったか。他者の視線を出すことに対する抵抗を感じる。自分の中に他者がいないのか、それとも出てこないように他者の頭を押さえつけているのか。逆に自分の中には他者しかいない感覚がある。その時々最適な仮面を付け替えており、そのつけかえる手が自分という感覚。

© 2026 今野和人 ( 2026年10月21日公開 )

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