夏至を過ぎたる頃より、青玄の肉体は、決定的なる崩壊と変容の坂を転がり落ち始めた。
朝、井戸端に立ちて手桶の水を掬ひ、己の顔を映したる青玄は、そこに立ち現れたる異形を凝視して立ち竦んだ。
両の眼球——かつて澄みたる黒色を湛へてゐたその瞳は、もはや人ならぬ光を放つてゐた。黒目と白目の境界は失はれ、眼球の全てが、深海の水底を凝固させたるが如き、紺へと染まり果ててゐる。瞬きをするたび、瞼の裏側が砂を噛むやうに軋み、視界の縁からは、かつて己を苛み抜いた赤や黄の現世の色が、ことごとく削ぎ落とされてゐた。
失はれたのだ。
青玄の眼は、もはや常人の光を捉へることは出来なかつた。野の草も、浦の土も、昇る朝日の光ですらも、ただ青の濃淡、藍の明暗としてしか眼に像を結ばぬ。藍にまつはる色のみ、なほ取りこぼさなかつた。甕の底に伏す黄緑は、青の裏側の色として、変はらず見えた。世の凡百の事象が、あたかも藍甕の底に沈められ、引き上げられぬまま朽ち果てゆく亡霊と映じてゐた。色彩の地獄より逃れんと欲したる果てに、青玄は、あらゆる色を呑み込みて窒息せしめる、更なる漆黒の牢獄へと自ら足を踏み入れた。
変容は、眼球のみに留まらなかつた。
青玄が左の腕を捲り上げ、爪先をもつて前腕の皮膚を強く擦ると、垢にあらざる、極めて細かな青き繊維屑が、粉の如くはらりとこぼれ落ちた。
皮膚が、布と化しつつあつた。
人間の肉の弾力は失はれ、肌の奥深くまで藍の粉が沈着し、毛穴の一つ一つから、細き麻のやうな糸が萌え出でてゐる。指の関節は曲げるたびに乾いた音を立て、汗は塩気を失ひて、青黒き染液そのものとなつて肌の目を滲み出た。
青玄は己の腕を見た。かつて浅葱であつた筋は紺に沈み、肩の付け根には、褐の色が差してゐた。
ある夕暮れ、薪を割らんとして小刀を滑らせ、親指の腹を深々と切り裂いたときのことである。
傷口を見つめたる青玄は、凍りついた。
血が、赤くなかつた。
傷口より溢れ出でたる液体は、甕の底に沈む藍の液と同じく、黄緑色をしてゐた。それが空気に触れ、関の瀬戸より吹き込む風を吸ひ込んだ刹那——傷口の縁より、瞬く間に褐の色へと変色し、血止めをせずとも、自らが染め上げた布のやうに固まりて穴を塞いだのである。
青玄の血管を巡るものは、もはや人間の血潮ではなかつた。
幾千の死者の涙を吸ひ、幾百の悔恨を喰らひ尽くした藍の命が、青玄の骨髄に巣食ひ、その五臓六腑を己が住処として作り変へてしまつてゐたのだ。青玄自身が、一つの生きたる藍甕と成り果ててゐたのである。
その青玄の崩れゆく肉体を、千鶴はただ黙つて看取り続けてゐた。
夜毎、染め物の作業を終へたる後、千鶴は手桶に清き水を汲み、手拭ひを浸しては、青玄の全身を丁寧に拭ひ清めた。
青玄の肌を拭ふ手拭ひは、一度肌を滑るだけで、濃き藍色に染まり上がつた。千鶴はその布の変色を目にすることは出来ぬ。千鶴の世界は、いまだ光を失ひたる灰色の静寂の中に沈んでゐたからである。
されど、千鶴の指先は、青玄の肌の変質を、誰よりも鋭敏に感じ取つてゐた。
肩の肉は、日ごとに薄くなつた。指の腹で背骨の脇をなぞれば、肌の下に、縦に走る糸の手応へがある。脇腹には織り目が浮き、爪を立てれば、生地のやうに僅かに撓んで、戻らなかつた。千鶴はその織り目の一目一目を、数へるやうに拭つた。
青玄は目を閉ぢ、千鶴の指の通つたあとに、冷たき水の筋が乾いてゆくのを、ただ感じてゐた。
「……硬うなりましたね、青玄さま」
千鶴の冷たき指が、青玄の鎖骨のあたりで止まつた。毛羽立ちたる皮膚を、壊れ物を扱ふやうな手つきで撫でる。
「前は、もう少しあたたかかつた。今は……水底に沈んだ古船の板に触つてゐるやうでございます」
「痛むか」
青玄が問ふと、千鶴は小さく首を横に振つた。
「痛くはございませぬ。……ただ、わたくしの目の中に、お前さまの青が、入つてまゐります」
千鶴が顔を上げたとき、青玄は息を止めた。
千鶴の両の瞳——かつて灰一色であつたその瞳の縁に、いまや鮮烈なる青の環が、くつきりと刻まれてゐたのだ。
千鶴の世界には、相変わらず赤も黄も戻つてはゐない。されど、青玄が藍に侵食されると歩調を合はせるやうに、千鶴の閉ざされし眼の底には、青玄の放つ「冥藍」の光彩のみが、唯一の色として侵入し始めてゐたのである。
「世界は、まだ色のない灰色のままか」
「はい。海も、空も、浦の砂も、すべて薄墨の絵のやうに見えてをります」
千鶴は青玄の青く染まりたる手の甲に、己の白い手を重ねた。
「けれど……お前さまだけが、青いのです。闇の中に灯された一本の蝋燭のやうに。……あの水底で、息が絶えやうとしたとき、見上げた海面の隙間から差し込んできた光と、同じ色でございます」
千鶴の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
それは、死者の側に半分足を浸した者だけが浮かべることの叶ふ、微笑であつた。
青玄は、その細き手を握り返した。
枯れたる麻の如く硬化した己の手と、いまだ人の肌の柔らかさを残す千鶴の手。
二つの手のひらのあはひで、青き染料の汗が、じわりと滲み合つた。
「千鶴……お前を、元の世界へ返してやりたい」
青玄の声は、掠れ、乾いた布の擦れ合ふ音に似てゐた。
「お前に色を戻し、涙を取り戻させ、あの日の前の、ただの浦の海女として笑へるやうにしてやりたい。……わたしの藍は、死者の無念を鎮めるためのものだつたはずだ」
「わたくしは、戻りたくなどございませぬ」
千鶴は青玄の手を両の手で包み、離さなかつた。
「涙など、出なくてもよいのです。色など、お前さまの青のほかに、見えなくてよいのです。……お前さまが布におなりになるのなら、わたくしは、その布を洗ふ水になりませう」
千鶴の言葉は、青玄の胸の奥底に、鋭き棘となつて突き刺さつた。
救ひを求めてゐたはずの己が、いつしかこの娘を、己の狂気の共犯者に仕立て上げてゐた。宗信の言葉が、耳の奥で蘇る。——お前は何を以て己を染め上げるのぢや。
その平穏なる破滅の時間を打ち破つたのは、浦を襲ひたる新たなる恐怖の嵐であつた。
文永の合戦より数年、いまだ戦の傷痕も癒えぬ長門の海に、蒙古の軍船が再び押し寄するとの報が、博多の津より早馬をもつて届いた。
関の瀬戸は戒厳の気に包まれた。長門守護の武者どもが浦々を駆け巡り、米を徴発し、漁舟を差し押さへ、男手を片端から警固の番役に引つ立ててゆく。抗ふ者は浜に斬り伏せられ、阿弥陀寺の早鐘が昼夜を問はず乱打された。
その夜から、群れは再び青玄の小屋へ殺到した。
「青玄どの! わしを、わしを隠してくれ! 戦に行きたくない、殺されたくない!」
「息子が引つ立てられた! あの武士どもを呪い殺す布を染めてくれ! 呪いの色をくれ!」
人々は小屋の扉を叩き壊さんばかりに押し寄せ、土間に雪崩れ込み、青玄の足元に縋り付いて泣き喚いた。
彼らが壺に注ぎ、手拭ひから絞り落とす涙は、塩気を持たず、油と胆汁の混じりたる悪臭を放つ濁水であつた。
「やめよ!」
青玄は叫び、人々を押し返さうとした。
「この甕は、呪詛の壺ではない! 恐怖を啜るために建てた藍ではない!」
恐怖に狂ひたる群衆の耳に、青玄の声は届かなかつた。彼らは青玄の制止を振り切り、我先にと五つの藍甕の縁に顔を寄せ、その涙を、唾液を、鼻血を、甕の中へと吐き散らしたのである。
その瞬間——五つの大甕が、一斉に咆哮を上げた。
ぼぼぼぼ、と。
これまで一度として聞いたことのない、下水が逆流するやうな醜悪なる煮え立つ音が小屋の中に充満した。
甕の表面を覆つてゐた気品ある「藍の華」は、瞬く間に掻き消え、代はりに、腐肉の煮え爛れたる赤黒き泡が、盛り上がりて甕の縁から土間へと溢れ出した。
悪臭が立ち昇つた。生きながら腐る者の、剥き出しの汗の臭ひであつた。
液は急速に濁り、青の光彩を失ひ、ただの死んだ泥水へと変じつつあつた。
「あ……ああ……」
青玄は頭を抱へて土間に膝をついた。
甕の苦悶が、青玄の全身の血管を逆流した。心臓が早鐘を打ち、喉の奥から、青黒き染液が泡となつて込み上げてくる。
人々は、甕の放つ臭気と熱気に恐れをなし、蜘蛛の子を散らすやうに小屋から逃げ去つていつた。
嵐の去りたる後、小屋の中に残されたるは、煮え爛れ、今にも息絶えんとする五つの大甕と、土間に倒れ伏して青き血を吐く青玄、そして、その青玄の背にそつと寄り添ふ千鶴だけであつた。
夜が更け、雨足は激しさを増して、小屋の屋根を激しく叩きつけてゐた。
青玄は、千鶴の手を借りて辛うじて身を起こし、三番目の大甕の縁に手を掛けた。
甕の息吹は、瀕死の老人の呼吸の如く弱々しく、表面に浮かぶ泡は、既に破れ鐘のやうに萎びてゐた。
死ぬ。
この藍は、今夜のうちに死ぬ。
人々の我欲の涙を呑み込まされた藍は、自らを浄化する力を失ひ、泥へと還らうとしてゐるのだ。
「……建て直すことは、出来ぬのか」
青玄は己の青く染まりたる両手を見つめた。
分かつてゐた。
恐怖や呪詛の涙では、この甕は救へぬ。甕が求めてゐるのは、誰かのために己のすべてを手放す者の涙であつた。
されど、この戦乱と飢ゑに狂ひたる赤間関の浦に、いまさらそんな涙を流せる者が、誰一人残つてゐやうか。
青玄は、振り返り、千鶴を見た。
千鶴は、土間に正座し、己の胸元を見つめてゐた。
その瞳の青き環は、暗がりの中で、仄かな燐光を放つてゐる。
「青玄さま」
千鶴の声は、雨音を透かして、驚くほど澄んで響いた。
「甕が……泣いてをりますね」
「ああ」
「苦しうて、息が詰まりさうだと、わたくしの胸の奥に訴へかけてまゐります。……この甕を救ふ手立ては、もうございませぬか」
青玄は答へられなかつた。
言へるはずがなかつた。この甕を救ふ唯一の糧が、お前が海底に置き去りにしてきた、あの「流せぬ涙」であるなどとは。
千鶴は立ち上がり、足取りも乱さず、死にゆく大甕の前へと進み出た。
千鶴が甕の縁にその細き手を掛けたとき、青玄の眼は、青のほかの色を、ただ一つだけ拾つた。千鶴の胸の奥——あの冷たく閉ざされてゐたはずの「無色の器」の中心に、針の先ほどの、小さな、小さな赤が、初めて灯つたのだ。
「千鶴……退け! その甕に触れてはならぬ!」
青玄が叫び、手を伸ばさうとした刹那——。
小屋の蔀戸が、突風に煽られて吹き飛び、関の瀬戸の激しき潮風が、一気に室内に雪崩れ込んできた。
空気が、激しく攪拌される。
風晒しの刻が、二人の頭上に、無慈悲に口を開けて迫りつつあつた。
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