二十五時
一
午前三時十二分に、画面が光った。
その少し前に、里穂は二十五時の入力の欄に、何か打って、送らずに消した。何を打ったのかは、消したあとで思い出せなかった。風呂は、張らないまま夜になっていた。家計簿アプリの、先月の締めだけが進んでいた。入れた数字と、レシートの束の合計が、四十円合わなかった。四十円を探して、レシートの箱を三度めくった。明日は会社がある。あることは、探す手を止めなかった。
机の端で伏せていた携帯が起きた。通知は一件で、部屋ではなく、個別に来た。がんも、とだけ出た。
「ほんまにアイキャンフライしたかったら一緒にするか?」
台所の隅で、水の音がした。大福が飲むたび、給水ボトルの先で金属の玉が二度鳴る。襖の向こうで保が寝返りを打って、床板が一度沈んで、戻った。
里穂は文面を二度読んだ。返信の欄を開いて、閉じた。携帯を伏せて、レシートをもう一度めくった。四十円は、自販機のお茶だった。百四十円を、百と入れていた。直して、締めた。先月が合った。
布団に入る前に、大福の器を見た。ペレットは朝の量のまま減っていなかった。器を少し、壁から離して置き直した。
二
保とは、通販倉庫の夜勤で会った。七年前の里穂は上がっている周期で、検品の速さで班の記録を持っていた。保は記録に興味のない検品をする男で、休憩室で里穂の飴を断らずに受け取った。断らないことが、里穂には珍しかった。
結婚を決めた年の冬に、里穂は保に病名を言った。双極性障害の一型。言ったのは保のアパートの台所で、鍋に白菜を入れている途中だった。保は白菜を持ったまま、おれはどうしたらええ、と聞いた。
「毎日、今日は何割て聞いて。」
「何割やったら、ええの。」
「十割の日が、いちばん危ないねん。」
保は笑わなかった。白菜を入れて、蓋をした。翌朝から、保は毎朝聞いた。何割、と聞かれて、里穂は数を返した。七割。五割。三割の朝は保が味噌汁を作った。数は天気予報の扱いでよかった。傘を持つか、持たないか。それが決まれば暮らしは回った。里穂が数を作るのに使うものは、指の速さと、睡眠の時間と、通販の履歴だった。換算には毎朝、少しの手間が要った。手間の分だけ、正確でもなかった。
換算は、目が覚めた場所で始まった。天井を見たまま、指を折る。ゆうべ寝たのが二時で、覚めたのが六時なら四時間。四時間は減点。枕元の携帯で、ゆうべ画面を見ていた時間を確かめる。三時台まで印が付いていれば減点。通販の画面を開いて、夜中の自分が籠に入れた物を数える。籠に入れただけなら、まだ間に合う数字。確定まで行っていれば、別の数字。最後に口の中で一度言ってみて、保の顔を思い浮かべる。四割と言えば保の眉が動く。八割と言えば保が黙る。旗の立たない帯は、五割から七割のあいだにあった。ほんとうの数を、帯の中まで丸める。丸め賃として、毎朝、味噌汁が少し冷めた。
二年目の春に、保が段ボールを抱えて帰ってきた。同僚の家でうさぎが生まれて、白いのが一羽余った、と言った。白い身体の、鼻の横に灰色の斑が三つあった。大福、と保が名づけた。異議は出なかった。
大福は鳴かなかった。うさぎは鳴かない。飼ってから里穂は知った。何割、とも聞いてこなかった。朝、器にペレットを注ぐと、足音より先に耳が来て、頭から器に入った。里穂は膝をついて、食べ終わるまでの二分間、隣にいた。二分で済む相手は、家の中で大福だけだった。
三
四年目に、保の会社が保を休ませた。休職の限度は一年半で、一年半経つと退職になった。何があったのかを、里穂は言葉では聞いていない。スーツが椅子の背に掛かったまま冬を越して、春に里穂がクリーニングに出し、そのまま押し入れに入れた。椅子の背は、それから物を掛けられていない。
傷病手当金は月に十四万三千円だった。二ヶ月に一度まとめて振り込まれ、その紙を管理するために、里穂は家計簿のアプリを入れた。ツヅリという名前だった。ストアの説明文に、家計を、支える。と書いてあった。科目が自由に作れる家計簿は、それしかなかった。
里穂の仕事は、建材の会社の事務だった。フルタイムで、手取りが十八万七千円。病名は、会社には言っていない。面接のとき、既往歴の欄を空白で出した。空白のまま、六年目だった。
通院は月に二度あって、会社では歯医者になった。年に二十四回治す歯を持つ人になった。有給は年に十二日で、歯医者から先に減った。財布には、電車の遅延証明が三枚入れてあった。使うのは、電車が遅れた日ではなかった。
歯医者の日には、決めごとがあった。会社を出る前に、頬を一度押さえる。押さえるのは左、と決めてあった。行った先の待合室は静かで、削る音がしなかった。呼ばれるのは名前ではなく、受付で渡される番号だった。そういう配慮の場所なのだと、通い始めの月に知った。会計の領収書の但し書きは、保険診療、とだけ印字された。翌朝、歯どうでした、と聞かれたら、あと二回です、と答える。あと二回は、六年、減らなかった。
波が上がっている週は、書類が速かった。会議で三回発言して、二回は議題の外だった。定時のあと、共有フォルダのファイル名を全部揃えた。誰にも頼まれていなかった。落ちている週は、おはようございます、で一日の声の三割を使った。昼休みは個室で目をつぶった。十二分まで、と決めて、十五分になった。
夜中の通販は、どちらの週にもあった。上がっている週は買う物が増え、落ちている週は、返品の手続きができなかった。
四時にトイレに起きた保が、机の後ろに立ったことがある。
「寝えへんの。」
「簿記が終わらんねん。」
誰も里穂に簿記を頼んでいなかった。保は麦茶を注いで、机の端に置いて、戻った。グラスの底がテキストを濡らして、丸い跡になった。
二ヶ月に一度、採血をした。数値が〇・六なら薬はそのまま。診察は三分で、会計は千九百円だった。
四
四年目の冬に、里穂は病名で検索して、サーバーを一つ見つけた。当事者の集まりで、入り口に病名を書く欄があった。書いても書かなくてもよかった。里穂は書いた。会社に六年隠している七文字を、知らない人の部屋には三十秒で書いた。
部屋がいくつもあった。はじめましての部屋、通院メモの部屋、雑談の部屋。いちばん流れが速いのは、二十五時という部屋だった。説明には、眠れてない人のための部屋、とあった。夜中の投稿に、事情を聞かない決まりが、決めた者もいないのにできていた。誰かの、三日寝てない、に火の絵文字が三つ付く。それで済んだ。
貼らなくなる人も、時々いた。七四〇という名前は部屋で二番目に古く、秋に消えて、正月に一度戻って、また消えた。名前は名簿に残った。誰も呼ばず、誰も訊かなかった。戻る人には、戻った日の一行目に火が付く。それだけの部屋だった。
がんもは、二十五時の古株だった。作業所がB型で、家から歩いて七分で、弁当が二百円だと、聞かれる前から書く男だった。通勤ドアツードア七分、都心のタワマンでも無理やで、と書き、弁当二百円、物価に勝ってるのは日本でもううちの作業所だけやわ、と書いた。誰かが、週が長い、と書けば、金曜はカレーやから金曜までは生きような、と返した。笑いの通貨で回る部屋ではなかったが、がんもの行には火がよく付いた。
里穂が最初に個別で話したのは、チーズがきっかけだった。雑談の部屋に、がんもが書いた。切れてるチーズ二キロ、誰か割る人おらん。躁のとき業務スーパーで気ぃ大きなった。里穂が、割る。と打った。
「即決こわいわ。」
「消される前に押さえてん。」
「送料六百円やし、半分こで一緒にするか?」
「ええよ。」
がんもが二キロ受けて、冷凍便で一キロ送ってきた。送り状の品名に、チーズ、とだけあった。
やりとりはそれきり三週間空いて、挨拶なしで再開した。家計簿の話になった夜がある。何使ってる。ツヅリ。うそやん、俺も。それで年末に、DMで十二月の画面を交換した。並べると、精神科、千四百八十円が二度ずつ。日付は三日ずれで、間隔は同じ十四日だった。がんもの収入の欄は、年金と、工賃の二行だった。がんもは家賃の行の話だけをし、里穂は電気代の行の話だけをした。千四百八十円の行の話は、どちらもしなかった。最後にがんもが打った。
「ええ家計簿は、隠しごとに向かんな。」
里穂は火の絵文字を一つ返した。顔は知らないままだった。知る必要が、どこにも生じなかった。
五
五年目の夏に、十割の朝があった。十割と口に出したのは、六年で、その一度きりだった。
目が四時に開いて、開いたときにはもう予定が三つ、頭の中で組み上がっていた。布団の中で換算をした。材料はどれも良すぎた。睡眠三時間で足りている。指は速い。通販の籠には夜中の四件が入っていた。どう丸めても、数は帯の上へ抜けた。
保が起きる前に、簿記の上級の申し込みと、英会話の体験の予約と、副業のサイトの登録を済ませた。土曜だった。断る理由が一つも見えなかった。見えないことも、材料のはずだった。
「今日、何割?」
「十割。」
保は箸を置いた。椀を持ったまま、置いた箸をもう一度持って、また置いた。制度を作った冬に、十割が何かは言ってあった。十割の日にどうするかは、言っていなかった。決めていなかったのは里穂だった。
保はその日、里穂に付いてきた。郵便局と、銀行と、薬局。外に出るだけで一日ぶんの体力を使う男が、三軒に付いてきた。里穂は歩きながら喋り続けた。声が速く、看板の字が全部読めて、読めた字を全部言った。保は相槌を打たず、半歩後ろを歩いた。
駅前の量販店の前で、里穂の足が止まった。型落ちの炊飯器が二万九千八百円だった。うちの炊飯器は動いている。動いているという事実が、換算に入ってこなかった。保は先に店へ入らず、袖も持たず、隣に立って、値札を里穂と同じ長さだけ見た。
「うちの、まだ動くしな。」
里穂は店に入らなかった。
夜、里穂は三時まで簿記のテキストに線を引いた。三色使った。保は台所の椅子で起きていた。十二時を過ぎ、一時を過ぎ、二時前に机に突っ伏して寝た。里穂は毛布を掛けて、線を引き続けた。朝になっても、数は帯に戻らなかった。
十割の翌週は、三割だった。英会話の体験には行かなかった。副業のサイトは、退会に手続きが要ることだけ調べて、閉じた。月曜の朝、電車は遅れていなかった。財布の遅延証明を、一枚使った。
秋には、一週間で加湿器を三台買った。一台目は寝室用、二台目は仕事机用、三台目の理由は、届いた箱を見ても思い出せなかった。二十五時に三台目の写真を貼ると、火が付いた。がんもからだけ、個別に来た。
「三台目、返品できるやつなん?」
「できひん。」
「ほな部屋、雨季やな。」
「喉だけ元気やわ。」
「波、来てるやろ。」
「来てる。」
それで終わりだった。里穂は画面を消して、二台目の水を替えた。その週、保に言うてあった数は六割だった。ほんとうの数は、帯の上にいた。がんもに打つ数に、換算は要らなかった。丸めていない数を出したのは、久しぶりだった。
冬の底で、三週間、声が減った。カーテンは開く日と開かない日があり、風呂は保が湯を張った日だけになった。朝の何割に、声が出ない日があった。里穂は布団から手だけ出して、指を三本立てた。保はそれを見て、味噌汁を作った。翌朝は二本だった。二本の朝の味噌汁は、具がなかった。作れることの限度が、保にも来ていた。
底の三週間も、電車には乗った。乗ってしまえば、降りる駅までは運ばれた。夜、玄関の上がり框に座って、靴の紐に手が行くまで十分かかる日があった。框の十分を、保は聞かなかった。
その三週間も、大福の器は里穂が注いだ。声の出ない朝、布団から台所まで、壁に手をついて行った。袋を傾けると、足音より先に耳が来て、頭から器に入った。里穂は床に座って、食べる音を終わりまで聞いた。二分だった。二分は、どの割の日でも同じ長さだった。
一度だけ、保が先に袋へ手を伸ばした朝があった。里穂は布団の中から首を振った。保は袋を置いて、味噌汁に戻った。理由は、どちらも言わなかった。
義母からは月に一度、電話が来た。保に代わるまでの一分が里穂の受け持ちで、あの子を支えたってな、と義母は毎回同じ位置で言った。里穂は洗濯物を畳みながら、はい、と受けた。電話を肩と耳で挟むから、はい、は毎回すこし潰れた。
その冬に洗濯機が水を漏らして死んだ。同じ日に、健康保険の督促の封筒が来た。里穂は洗濯物を袋に詰めて、コインランドリーで千二百円を崩した。乾燥機の丸い窓の中で、保のトレーナーの袖が上がって、落ちた。上がって、落ちた。里穂は残りの小銭を握ったまま窓の前で笑った。声は乾燥機の音の中に入って、誰にも属さなかった。
六
六年目の梅雨に、大福が食べなくなった。うさぎは半日食べないと危ない、と本に書いてある。夜間の動物病院で二万八千円だった。点滴の針が入るあいだ、大福は診察台に伏せて、逃げなかった。逃げる体力が残っていなかった。三日目の朝、器にペレットの当たる音が戻った。里穂は台所に立ったまま、その音が終わるまで動かなかった。
ツヅリに、二万八千、と入れた。科目は迷って、医療費ではなく、新しく作った。大福、という科目になった。
その週、保が花を買ってきた。保がひとりで外に出るのは月に数回で、レジ袋からガーベラが三本出てきた。レシートは家の決まりで箱に入る。雑費、花、六八〇。調べると、ガーベラはうさぎが齧ると障る花だった。里穂は花瓶ごと冷蔵庫の上に置いた。冷蔵庫の上は、誰の目の高さでもなかった。保は置き場所に何も言わず、水は里穂が替えた。五日で花は終わり、科目の一行だけが残った。
七
傷病手当金は十八ヶ月で終わった。障害年金は申請中で、申請中は収入ではなかった。家賃六万三千円の引き落としが一度足りず、携帯に赤い通知が来た。赤い画面は、誰にも送らなかった。がんもにも送らなかった。送る数字と送らない数字の線は、自分でも引けない場所にあった。
波は年ごとに詰まった。季節ひとつぶんで一巡だったものが、三週間で一巡になった。上がる週に引き受けた仕事は、落ちる週に机の上で並んだ。有給は十月で尽きて、歯医者は欠勤になった。診察で里穂は、詰まってます、と言った。医師は薬を半錠増やした。増えた半錠の分だけ指の揺れが増えて、伝票の数字の打ち間違いが増えた。経理の突き合わせで、里穂の行が二度戻ってきた。
月に一度の1on1が、会議室の小さい方であった。上司は里穂より三つ下の女性で、机にはノートパソコンと、印刷した面談のテンプレートが置いてあった。
「今期のKPI、進捗が六十二です。」
上司は言った。テンプレートの行を、ペンの尻でなぞった。
「達成の見込み、どれくらいで見てますか。」
「七割、いけると思います。」
旗の立たない数だった。八割と言えば根拠を訊かれ、五割と言えば対策の欄が増える。七割は、誰の眉も動かない数だった。上司はうなずいて、ネクストアクションの欄に何か書いた。
「最近、お休み多いですけど。歯、大丈夫ですか。」
「もう、だいぶ。」
「何か事情があるなら、言ってくださいね。産業医の面談も使えますし、時短の制度もあるので。」
上司は壁の時計を一度見た。次の面談が、十五分後に入っていた。里穂は、ありがとうございます、と言った。六年目の、ありがとうございますだった。
終わりに、紙が一枚出た。業務改善シートという題で、遅延の原因、という欄があった。里穂はボールペンを受け取って、体調管理の不足、と書いた。七文字は、その欄に入らなかった。入る欄は、この会社のどの紙にもなかった。
その夜、上がり框で、靴の紐に手が行くまで十分かかった。
保の布団も、上がらない日が増えた。敷きっぱなしの布団を、里穂は跨いで出勤した。味噌汁の出ない朝が増えて、台所が夜まで乾いたままの日ができた。何割、が昼に来る日ができた。来ない日も、できた。来ない日は、里穂が自分で換算して、誰にも言わない数を持って会社に行った。
薬のシートは、棚で二列になった。保のシートと里穂のシートは、裏の銀色では区別が付かなかった。飲む時間だけが違った。
二十五時から、がんもが一ヶ月消えた。戻った日の投稿は一行だった。戻りました。入院してました。火の絵文字が五つ付いて、ほかには誰も何も書かなかった。里穂は個別に打った。
「チーズ、まだ冷凍にあるで。」
「食える気ぃしてきたわ。」
「退院祝いに送ったろか。送料そっち持ちで。」
「祝いから送料取るな。」
そこまでだった。年が明けて、DMで交換したがんもの十二月は、また赤字だった。入院費の行が太く、内訳が少し変わっていた。
八
次の夜も、文面は同じ場所にあった。既読の印は付いたままで、がんもは何も足してこなかった。催促も、撤回も来なかった。
里穂は明日の会社の服をハンガーに掛けて、大福の器の水を替えて、机に戻った。二時五十分だった。二十五時では、誰かの、三日寝てない、に火が三つ付いていた。
返信の欄を開いた。
「ええよ。」
送ってから、換算をしていなかったことに気づいた。返事は四分後に来た。
「……いいの。」
三点の付いた行を、がんもから見るのは初めてだった。里穂はもう一度打った。
「ええよ。」
次の返事は一分で来た。
「木曜。うち。手ぶらでええで。」
駅の名前が一つ付いていた。在来線を二本の、通過したことしかない駅だった。
「チーズの送料、三百円まだ払ってへん。」
「ほなそれだけ持ってきて。」
それで終わった。上の文面は、画面を送ると一日分だけ上にあって、もう誰も触らなかった。
九
水曜、会社には休みの紙を出してあった。木曜と金曜のぶんも、出してあった。用件の欄は、私用、で通った。
里穂は大福のケージを洗った。すのこを外してベランダに干し、大福は洗面所のマットで待たせた。抱き上げると一・七キロだった。毛は抜け替わりの途中で、指の間に白いのが残り、払っても一本、袖に付いたままになった。
チモシーの定期便を四週間隔から二週間隔に変えた。次のお届けを最短の日付にした。画面は、変更を受け付けました、とだけ言った。
通帳と、ツヅリと、会社の給与の口座の、番号と暗証を一枚の紙に書いた。三年、書こうと思って書かなかった紙だった。冷蔵庫の横の家計のファイルの、傷病手当の紙の後ろに挟んだ。
夕方、保が聞いた。
「今日、何割?」
「六割。」
保は頷いて、味噌汁のわかめを箸で端に寄せた。癖だった。
「明日、東京で面談やねん。泊まりなるかも。」
「気ぃつけて。」
椀を持ったまま保は言った。テレビの音量が二つ上がった。里穂は茶碗を洗い、指の水を拭いて、大福の器に、朝の分より少しだけ多く注いだ。
十
木曜の朝、ポーチに常用薬を四日分入れた。充電器と、財布と、財布とは別に三百円を小銭のまま、鞄の内側の網に入れた。鞄は一泊の大きさだった。
在来線を二本、四十分。駅前にはドラッグストアと、パチンコと、不動産屋があった。教わった通りに八分歩くと、二階建てのアパートの一階に、小野、と表札が出ていた。
ドアが開いた。
「どうも。」
「どうも。」
がんもは里穂の鞄を見た。
「手ぶらでええ言うたやん。」
「三百円が重かってん。」
がんもは、画面から想像していたより痩せても太ってもいなかった。声だけが、打つ文より遅かった。玄関に段ボールが一つ、封を切らないまま置いてあり、品名の欄に、練炭、と印字されていた。里穂は靴を揃えた。
和室に、緑のテントが張ってあった。ペグの袋は未開封で隅にあり、張り綱は養生テープで畳に留めてあった。部屋の中で見るテントは大きく、天井灯の紐が屋根に触れていた。
「テントな、躁のとき買うてん。ベランダでキャンプするつもりやってん。」
「した?」
「一回もしてへん。ベランダ、洗濯機置いたら終わったわ。」
麦茶が出た。コースターは二枚とも新品だった。グラスの外側の水滴が、里穂の指の下でつぶれた。
「先月な、黒字やってん。」
「初めて?」
「二年ぶりや。」
二人は笑った。隣の部屋に届かない大きさの声だった。里穂は網から三百円を出して渡した。がんもは受け取って、テレビ台の上の空き缶に入れた。缶の中で小銭の当たる音がした。
夕方までテレビが点いていた。料理番組の再放送で、鶏の焼ける音が長く続いた。番組の話はどちらもしなかった。ツヅリの科目の話を少しして、里穂が、大福という科目を作った話をすると、がんもは、うちも昔、猫の科目あってん、と言って、それ以上は言わなかった。
がんもが胡座をかくと、ズボンの裾から足首が出た。内側に、小さいタトゥーがあった。錨とも花ともつかない、五百円玉くらいのやつだった。視線に気づいても、がんもは裾を戻さなかった。
「友達が彫師でな。タダやってん。」
「タダで入れたん。」
「銭湯やったら行けるけど、スーパー銭湯は行かれへんな。」
「湯は一緒やのにな。」
「一緒やのにな。」
麦茶のお代わりを、里穂は自分で注ぎに立った。冷蔵庫の扉に、作業所の来週の献立表が、マグネットで留めてあった。金曜の行の端に、ボールペンで丸が一つ付けてあった。里穂は麦茶を注いで、扉を閉めた。
「歯ブラシ、ある?」
「買うてある。」
洗面所に、コンビニの二本入りが袋のまま置いてあった。鏡の位置が里穂の家より低くて、里穂の顔は顎までしか映らなかった。
夜になって、がんもが冷蔵庫から缶を四本出した。度数の高い、安いのだった。煙草の箱と、灰皿にする空き缶も持った。テントで飲む、と言った。
がんもが先にファスナーを開けた。中は新品のナイロンの匂いがした。天井が近く、寝袋が二つ、間を空けて並んでいた。二人で入ると、肩と肩のあいだに、缶を置く場所しか残らなかった。缶を開ける音は、布の中だと大きかった。
がんもは作業所の話をした。通うと一日四百円で、先月は十四日、五千六百円だった。
「弁当が二百円やから、日当、差し引き二百円やねん。」
「行く意味あるん?」
「金曜のカレーやな。」
里穂は缶を膝に置いたまま言った。
「うちな、要介護でいうたら四やねん、ほんまは。それやのに、鬱の保に、炊事も洗濯も掃除もやらせてる。悪いなあ悪いなあ思いながら、やらせてんねん。ほんで仕事もしんどい。どれか一個やめたら回らへんし、どれもやめられへん。」
がんもは缶を持ったまま、屋根の布を見ていた。
「四は、盛ったやろ。」
「盛ってへんわ。」
二人は笑った。笑いは布に吸われて、外へは出なかった。
缶がひとつ空いて、がんもが二本目を開けた。屋根の布を見たまま言った。
「うちな、二年前、二つ隣の部屋で、あれやった人おってん。」
顎が、玄関の方を指した。
「臭いで気づいて、大家と開けてん、俺。からだが、うどんみたいにずるずるなっとって。ちょっとトラウマなったわ。」
「見たんや。」
「見た。」
「で、同じの買うんや。」
「他の、もっと嫌やし。」
里穂は笑った。がんもも笑った。笑うたびに、テントの布が揺れた。
がんもが煙草に火をつけた。里穂も一本もらった。結婚の年にやめて以来だった。
「肺に悪いで。」
「知らんがな。」
二人は笑った。笑い声が布に当たって、布のぶんだけ丸くなった。煙は低い天井に一枚たまって、動かなかった。里穂の缶は、口をつけたまま減らなかった。吸って、飲んで、どちらかが何か言うたびに、どちらかが笑った。灰皿の缶の中で、灰が湿っていった。
四本が空いて、がんもが空き缶を持ってテントを出た。冷蔵庫の開く音がして、流しで水が短く出て、止まった。
ファスナーが、もう一度鳴った。
がんもが戻って、ファスナーを内側から閉めた。
テントの中は、少しずつ暖かくなった。炭の匂いがした。二人とも、それが何の匂いかは言わなかった。
しばらくは、さっきと同じ夜だった。缶の残りを飲んで、どちらかが何か言って、どちらかが笑った。笑いは、だんだん遅れて来るようになった。言ってから、笑いが来るまでの間が、一言ごとに延びた。
こめかみの奥で、脈が音になった。里穂は缶を置こうとして、倒した。中身が寝袋の足のほうへ広がって、冷たさが遠かった。誰も拭かなかった。
がんもが何か言いかけた。オチの前で止まって、続きは来なかった。
里穂は天井の布を見ていた。見ているつもりの時間と、見ていない時間の区別が、なくなっていった。台所で水の音がした気がした。この部屋の台所ではない台所だった。
灰皿の缶が、どちらかの足に当たって倒れた。乾いた音がした。誰も起こさなかった。
十一
チモシーの箱は月曜に届いた。
保はインターホンで受け取り、玄関で送り状を見た。依頼主の欄に里穂の名前が印字されていた。品名は、牧草。二週間分の大きさの箱だった。
台所で、大福の器にペレットを注いだ。量がわからず、多くなった。大福は足音より先に耳が来て、頭から器に入った。乾いた、同じ音がした。
保は箱を部屋の真ん中に置いたまま、立っていた。それから冷蔵庫の横の家計のファイルを棚から出し、机に置いた。手続きというものが、これから幾つも来る。男について知らされたのは、名前と、年だけだった。里穂の携帯は、まだ警察にあった。ファイルは、まだ開かなかった。
朝の部屋には器の音だけがあった。何割、と聞く相手のいない朝だった。保は口の中でその言葉を途中まで言って、やめた。
器の音が終わって、大福が水を飲んだ。給水ボトルの先で、金属の玉が二度鳴った。
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