家が沈んだ晩、誰も死ななかった。誰も死なないように数えていたのは、わたしだった。
真夜中の一時に起こされる。それをわたしは、しあわせの側に数えていた。
ピーターの手は大きくて、乾いている。肩を叩く前に一度ためらう癖があって、ためらいの分だけ、わたしの目覚めは遅れる。セックスは十分で終わる。終わったあと、六十四歳の背中が暗がりでしばらく上下している。それからピーターは謝る。謝るときだけ日本語を使う。すみませんでした、と過去形で。謝られるたび、わたしは笑ってしまう。
この別荘は、空から来た。二年前の秋、ピーターの会社が山の斜面を段々に切って、白い箱をクレーンで吊って降ろした。箱と箱が三日でつながって、家の形になった。麓の道から、わたしはそれを見上げていた。除雪と掃除の求人に応募したら、面接でピーターは履歴書を裏返して、英語は、と訊いた。少し、と答えた。時給の話が、住み込みの月給の話になった。二十五万。雪の季節は三十万。
名前は初日になくなった。チヅル、が言えない。チズになって、三日でチーズになった。ピーターの妻のリンダが笑って、それで確定した。
冬のあいだ、この家の光は下から来る。雪面の反射が窓から入って、天井を照らし、それから顔を照らす。下からの光は、顔の溝を全部数える。正午の窓ガラスに、ほうれい線が二本、はっきり写る。リンダは家の中でもサングラスを外さない。五十九歳で、肌に艶があって、飲みものは十一時からジンになる。十一時は、この家でいちばん正確に来る。チーズ、日焼け止めを塗りなさい、雪は下から焼くのよ。教わったことは、だいたい役に立つ。
麓のアパートは引き払っていない。家賃二万八千円。月に一度、空気を入れ替えに降りる。炊飯器が保温のままで、開けると、いつのだかわからない飯が乾いてぬくもっている。捨てて、釜を洗って、また保温に戻して山へ帰る。理由は、自分でも説明できない。
標高が上がると、こめかみの内側が締まる。頭痛薬は月に一シート減る。山の上で暮らす体ではないらしい。
ロビンは現場監督で、タスマニアの出で、いつもニコチンガムを噛んでいる。二月の点検の日、基礎まわりの雪をスコップで開けて、コンクリートの継ぎ目にライトを当てていた。ヘアクラック、と言った。髪の毛の細さのひび、という意味だった。
いつまでここにいられるの、とわたしは訊いた。
八年後には潰れるよ、とロビンは言った。切った土と盛った土の境目に建ってるから、盛った側が先に沈む。冗談の顔ではなかった。ガムを噛む速さも変わらなかった。八年、とわたしは口の中で、自分の数に入れた。
年が明ける晩、リンダが風船をふくらませた。金色と白で二十個。群れが来た。ピーターの弟夫婦、投資の仲間、スキーの上手い医者と、その若いガールフレンド。わたしは台所と居間を往復して、グラスを数えた。四十二個出て、四十一個戻った。
夜更けに、ピーターが酔って耳もとで言った。アイ・ラブ・ユー・ア・ビット。ア・ビットはこの人の口癖で、コーヒーにも天気にも工期にもつく。数量をつけないと物が言えないのだった。わたしは笑った。笑いながら、数えるのはわたしも同じだと思った。二十五万。八年。二本。一シート。戻らなかった一個。
風船は正月のあとも一つだけ残った。梁にテープで留まったまま、二月には胡桃くらいまで縮んだ。誰も外さない。群れの誰も、あれの話をしない。
三月の終わりの朝、屋根の雪がひとつづきに落ちた。地響きのあとに、水の音が残った。雪解けは音から来る。軒で、樋で、盛った土の下で、家のまわりが細く鳴りつづける。雪面が日ごとに下がって、光は上からだけになった。正午の窓に、溝は写らなくなった。代わりに山の地肌が出てくる。段々に切られた斜面の、重機の歯の跡まで見えた。
四月に、ピーターとリンダはブリスベンへ帰った。出発の前日、リンダの冬物をしまうのを手伝った。窓の外に、もう雪はなかった。リンダはサングラスを外していた。初めて見る目は、思っていたより小さくて、日に焼けていなかった。チーズ、夏のあいだ、よく眠りなさいね、と言われた。それから、隙間に乾燥剤を落としながら、何でもない声でリンダは言った。前のチーズは、眠りが浅かったのよ。ニセコの家で、三年もったわ。あなたは丈夫そうね。十一時のジンは、荷物の箱の上で汗をかいていた。わたしは、はい、と答えて、最後のフリースをたたんだ。数えるものが、一つ増えた。何代目、という数だった。
五月から、家は空になった。空の家の仕事は、思っていたよりある。朝、窓を全部開ける。夕方、全部閉める。数えたら十九箇所あった。除湿機は三台で、タンクは一日で満ちる。捨てるたび、量を見てしまう。三台で九リットル。誰もいない家から、毎日九リットルの水が出る。出どころは、わたしではない。
夜は家が鳴る。昼と夜の温度差で木がのびちぢみして、梁のどこかが、こつ、と鳴る。どの梁が鳴ったか、天井を見ないで言えるようになった。言って聞かせる相手は、この季節はいなかった。
六月の長雨のあと、盛った側の地面に水が湧いた。基礎から二メートルのところに小さい湧きが三日続いて、やんだ。写真を撮ってロビンに送ると、返事は一語だった。ノーマル。梅雨はどこもそうなる、と一日おいて足された。ガムを噛みながら打ったのかどうかは、文面からは分からなかった。
麓へは、週に一度降りるようになった。買い出しのついでに、部屋の空気を入れ替える。二万八千円の部屋は西日で焼けて、畳が一畳ぶんだけ色が変わっていた。炊飯器の横には、グラスがひとつある。去年の正月に戻らなかった一個で、ここで麦茶を飲むときはそれを使う。炊飯器は夏も保温のままにした。頭痛薬は、夏のあいだ一錠も減らなかった。
梁の風船は、外さなかった。はたきをかけるとき、そこだけ手を止める。
八月の真夜中の一時に、電話が鳴った。ピーターだった。そっちは暑いか、と訊くので、夜は涼しい、と答えた。こっちは冬だ、とピーターは言った。新しいゴンドラの現場の話、リンダの妹の話、ドルの話。どの話にも数字がついて、わたしは布団の上に座りなおして、相槌の位置だけ守っていた。
切る少し前に、麓の部屋の話にまたなった。まだ借りてるのか、無駄だろう、部屋代ぶんはうちが足すから。合理の話だった。考えます、と言いかけたとき、ピーターが言った。チヅル。ア・ビットも数字も、何もついていない音だった。チズでもチーズでもなく、ヅの濁りまで正しかった。練習しないと出ない音だった。何のための練習かを考える前に、はい、と声が出ていた。部屋、引き払います。
電話を切ってから、台所へ降りて、電気をつけないままグラスを数えた。四十一個。数は合っていた。合っているのに、はい、という自分の音だけが、まだ耳に残っていた。こちらは練習もしていないのに、よく出た音だった。
九月のはじめに、部屋を引き払った。荷物は、段ボール二箱になった。簞笥も布団も、処分の人が持っていった。最後に、炊飯器を開けた。八月に炊いた飯が、乾いてぬくもっていた。捨てるつもりで釜を出して、台所に立ったまま、全部食べた。味は、しなかった。二万八千円の味が、した。保温のランプを消すとき、思っていたより小さい音がした。グラスは新聞紙にくるんで、箱に入れた。鍵を返すとき、大家が、長かったねえ、と言った。十一年です、とわたしは答えた。数えるまでもなく、出た。二箱は、山の家の納戸に置いた。納戸は、切った側にある。
九月の台風の晩はシャッターを全部降ろして家の真ん中の部屋にいて、風が山を回るたび家は箱ごと押されて、梁が知らない順番で鳴って、どの梁か言えなくなって、盛った側が沈むなら今夜だと思って、沈むならせめて全員いるときにしてくれと思って、思ってから、自分の勘定に自分が入っていないことに気づいて、電気が一度消えて、ついた。朝、家は同じ高さに建っていた。乾いた道を、折れた枝だけが転がっていった。
十月のはじめ、盛った側の湧きがまた出た。三日待ったが、やまなかった。十日目に、水は基礎の下へもぐって、見えなくなった。見えなくなると、なかったのと似ていた。写真は、撮らなかった。代わりに、北側の縦樋の継ぎ手をひとつ回した。排水の口が、盛った側を向いた。掃除のついでの、十分の作業だった。いつでも戻せる向きだった。戻さないことも、いつでも選べた。屋根一枚ぶんの雨と雪解けが、その日から盛った土に足されることになった。足し算は、昔から得意だった。
十月の終わりに、二人が戻った。空港からの車が上がる前に、窓を全部閉め、除湿機の水を捨て、玄関の明かりを点けておいた。リンダは家に入ると、まずサングラスをかけた。雪は、まだなかった。
十一月の半ばに雪が来て、家の光がまた下からになった。正午の窓に、溝が二本写った。二本のままだった。頭痛薬が、また減り始めた。戻ってから、チヅルは一度も来ない。
十二月に、ロビンが基礎を見に来た。去年と同じ継ぎ目にクラックスケールを当てて、ゼロ点三、と言った。去年は、数字にならないひびだった。ガムの速さは同じだった。帰りぎわ、夏の湧きはあれきりか、と訊かれた。あれきりです、とわたしは答えた。ロビンは埋め戻した雪の上で一度だけ足踏みをして、地面の音を聞いていた。盛った側は、雪の下だった。北側の縦樋も、雪の下だった。車に乗る前に、ロビンは透明な物差しをわたしに寄越した。名刺くらいのプラスチックで、細かい線が刻んである。月に一度これを当てて、数字を送ってくれ、春に本社へ出す報告がある、と言った。雪が解けたら、盛った側も掘る。わかりました、とわたしは答えた。物差しは、エプロンのポケットにちょうど入った。
年が明ける晩、リンダがまた風船をふくらませた。金色と白で二十個。群れも来た。ピーターの弟夫婦、投資の仲間、スキーの上手い医者。医者の連れは、去年と別の人だった。笑い方は、去年の人と似ていた。何代目だろう、と思ってから、その数え方を覚えたのは四月だと思い出した。グラスは四十一個出て、四十一個戻った。
松の内が明けた片づけの日、風船はわたしが割った。針で、順に。破裂の音は思っていたより家に響いて、途中から、鳴る前に奥歯を噛む癖がついた。十九個で針が止まった。数えなおす。二十個ふくらんで、十九個割って、一個は数に入れなかった。それで勘定は合う。合わせたのは、わたしだった。
洗い物の水を止めると、家は静かだった。二十五万。八年。十一年。二箱。戻らなかった一個。正しく呼ばれた一回。何代目かだけが、数えられずにいた。
一月の半ばに、初めてひとりで測った。基礎まわりの雪をスコップで開けて、去年ロビンが作ったのと同じ形の穴にしゃがむ。継ぎ目に物差しを当てる。ゼロ点五。手袋を外して、指で確かめて、もう一度当てた。ゼロ点五。北側の雪の下で、縦樋はまだ盛った側を向いている。家に戻って、湯を沸かして、ロビンに送った。ゼロ点三。返事は一語だった。グッド。
二月は、ゼロ点八だった。ゼロ点三、と送った。返事は来なかった。ノーマルな数字に、返事は要らないのだった。
狂いは、数字の外にも出はじめた。寝室のドアが枠にかかって閉まらなくなって、夜のうちに蝶番へ紙を挟んで直した。朝、ピーターが、ドアが軽くなったな、と言った。直しました、とわたしは答えた。嘘ではなかった。嘘ではないことしか、もう言っていなかった。
去年の夏に掃除機の中から出てきたビー玉を、居間の床に置いてみた。ビー玉はひとりで南の壁まで行った。九秒だった。二月の終わりには、六秒になった。ビー玉はエプロンのポケットの中で、ロビンの物差しと小さく鳴り合っている。
十一時だけは、狂わずに来た。リンダのジンの面が、グラスの縁と平行でなくなっている。斜めなのは酒ではなくて、家のほうだった。わたしは注ぐ量を減らした。面が縁から遠いほど、狂いは目につかない。チーズ、最近ケチね、とリンダは笑った。教わったことは、だいたい役に立つ。
二月の真夜中の一時に、肩を叩かれた。すみませんでした、まで聞いて、わたしはそれを、いつものようにしあわせの側へ入れようとした。入らなかった。反対の側にも、入らなかった。暗がりで、六十四歳の背中が上下している。見ているうちに、勘定とかかわりのないものが来た。この人の頭を両手で持って、胡桃のように割って、中のチーズとチズを全部こぼして、それから、はじめまして、と言いなおしたい。目を閉じて、百から逆に数えた。六十いくつかで、数のほうが先にやんだ。数がやんだのは、この家で、初めてだった。
風のない晩にも、梁が鳴るようになった。盛った側の、奥の梁が、知らない順番で。どの梁かは、天井を見ないで言えた。言って聞かせる相手は、この冬はいた。居間にも寝室にもいた。言わなかった。
三月の二週目に、雨が来た。雪の上に降る雨で、屋根の雪と山の雪が、ひと晩でいちどきに水になった。屋根一枚ぶんは、縦樋を通って、盛った側へ足された。夜中、家じゅうの梁が知らない順番で鳴って、土の匂いが床から上がってきた。盛った土の匂いだった。ビー玉は、三秒だった。
わたしは着替えて、ブーツを履いて、玄関に座った。数えた。この家で眠っているのは二人。起こしに行くまでの階段は十四段。納戸の二箱は、切った側にある。自分の勘定に、自分の物だけが入っていた。座ったまま、しばらくそのことを見ていた。
それから二階へ上がった。ピーターの肩を、叩く前に一度ためらった。癖ではなかった。勘定だった。ためらいの分だけ、ふたりの逃げ足は遅れた。叩いた。すみませんでした、とわたしは過去形で言った。
リンダはサングラスを持って出た。車を斜面の下の道まで降ろして、ヘッドライトの中で家を見ていた。雨は明け方に雪へ戻って、夜が明けきる前に、家が息を吐いた。爆発でも雷でもなくて、大きな生き物が横になるときの音だった。盛った側のテラスが支柱ごと二十センチ下がって、家は建ったまま、少しだけ別の家になった。窓に対角線のひびが入った。七枚。声には出さずに数えた。数えているのを、リンダがサングラス越しに見ていた。
昼にロビンが来た。車を降りたとき、ガムの速さは同じだった。盛った側を掘って、継ぎ目を見て、基礎をひとまわりして、北側の縦樋の前で止まった。継ぎ手の向きを見て、それから、わたしを見た。いつからだ、と訊かれた。十月からです、とわたしは言った。数字は。一月がゼロ点五、二月がゼロ点八です。送ったのは、ゼロ点三です。どの数字も、正しく覚えていた。正しく覚えていることが、いちばん申し開きのできないことだった。ガムが、初めて止まった。
ピーターは怒鳴らなかった。ホワイ、とだけ言った。ア・ビットのつかない、初めて聞く裸のことばだった。理由はあります、と言いかけて、質問で返した。前のチーズにも、夜中に、すみませんでしたと言いましたか。ピーターは答えなかった。リンダは、サングラスを外さなかった。答えないことも、外さないことも、答えの側に数えた。
それから、ピーターが言った。チヅル。あの晩と同じ、練習した音だった。荷物をまとめなさい、という意味だった。はい、とわたしは答えた。それが、あの家で言った最後の音になった。
山を降りて、駅前のビジネスホテルに三泊した。警察は、来なかった。荷物は、段ボール二箱だった。金曜に、温泉旅館の住み込みの面接があった。女将は、履歴書を裏返さなかった。名前の欄を指でなぞって、チヅルさん、と読んだ。練習していない、初めての人の音だった。正しかった。給金の話は、それからだった。
二箱のうちの一箱に、新聞紙でくるんだグラスと、胡桃まで縮んだ風船が入っている。グラスでは、そのうち麦茶を飲む。風船は、割らないことにした。戻らなかった一個の隣に、数に入れなかった一個が、並んで入っている。
頭痛薬は、山を降りた日から一錠も減っていない。
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