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4:吸い込まれる瞳

雨が降ってる。(第4話)

灰庭

へんたいなんかじゃないと訴える男と、それを撤回させ好意を向ける女。

タグ: #SF #エロ #グロテスク #実験的 #純文学

小説

8,261文字

一章
 
 立ち上がると「ぱんっ」と頬を叩かれた。
「へんたい」
 と彼女は言った。
「へんたいなんかじゃない」
 と僕は言った。
「私、見てたのよ」
 と彼女は言った。まだその顔は笑みをたたえたままだ。
「………………ふむ」
 僕は少し冷静になってみる事にした。
 例えば僕が彼女の立場だったらどうだろう?
 
 僕は人形達に紛れて寝ている。この場合、もちろん人形は女性ではなく男性だ。そこに彼女が入ってくる。人形達を見て回るのかと思いきや、突然見初めた人形の頬にキスをして抱きつき胸に顔をうずめる。そしてしばらくして彼女は人形を見て回り出す。でも突然大声をあげ、またさっきの人形にキスをして力いっぱい抱き締めて号泣し始める。
 …………うん、大丈夫だ、へんたいなんかじゃない。
 
「やっぱりへんたいなんかじゃない」と僕は言う。
「どうしてよ」と彼女。
「だって美しいじゃないか。僕が抱きついた彼女は僕の恋人で、あんな姿になってしまって僕は深く悲しんでいるんだ。だから取り乱しもするし、キスもする。美しいじゃないか」
「あの娘はあなたの恋人なの?」と彼女。
「ちがうよ。クラスメートで料理研究部の女の子」
「ならへんたいじゃない」
「………………………………」
 僕はしばらく思考を巡らしてから言った。
「そうかもしれない」
「でしょう?」
「うん」
 そしてまた「ぱんっ」と頬を叩かれた。
 彼女は体を反らせて長い髪を乱しながら思いっきり体重を乗せてするものだから、しかもそのせいで軌道がずれて耳に当たるものだから、僕の鼓膜はきーんと鳴り出した。
 そして、
「私、あなたみたいなの好きよ」
 と彼女はにこーっとやさしい笑みを浮かべて言った。
「ありがとう」と僕は感謝を述べた。
 なんのこっちゃ。
「それじゃあさよなら」と彼女。
 彼女は手に持っていたリュックから長靴と全身をすっぽり覆えるレインコートを取り出し身に付け、入り口とは反対に位置する床に面した小さな空気循環用の小窓からきつそうに外に出て行った。出て行く時、レインコートが邪魔でうまく抜けられないようで、「もうっ」と怒るような声が聞こえた。
 僕も彼女のお尻を見届けてから普通に重い戸を開け薄ら笑いをたたえたまま外に出た。
 
 病院へと戻る。三人はまだ談笑していた。もう真弓もすっかりうち解けた様子だった。その横には少し居づらそうに谷君が座っていた。僕の顔を見ると谷君はうっすら笑みを浮かべてきた。
「真弓、僕、そろそろ帰るよ。一緒に帰ろうよ」
「あ、私もうちょっとここにいる。先に帰っていいよ」と真弓。
「でも一人で帰るのは危ないよ」
 それを聞いて高橋が言う。
「ああ、大丈夫だよ、俺が送っていくから」
「まあ警邏も増員したし、そんなに危険はないよ悠人」と竜太さん。
「わかった、じゃあ真弓、明日から僕も探すの一緒にやろうと思うから、行く時は声を掛けてね。できれば正午くらいがいいかな」
「え、ほんと? ありがと悠人」真弓が微笑んでくれる。
 うん、やっぱり真弓には笑顔が似合う。
 そして僕は食料の配給、菓子パンやら水やらを別の部屋で受け取ってから病院を後にした。
 
 帰り道、竜太さんが言うように警邏の数が増えたようだった。それでそこかしこで挨拶をするはめになった。「頑張って下さい」「ありがとう」「頑張って下さい」「おまえも自警団入れよ」。まあ死人まで出たのだからそれも当然ではあるけれど。
 
 それにしても、そろそろ治安が抜き差しならない状態になってきている。暴徒が活発に動き始めているんだ。噂ではなにやら自警団に対抗しようと組織を作っているとか。やっぱり食糧の大部分は自警団に抑えられているし面白くないんだろうなぁ。好き放題にもやれないし。
 とかなんとか思っていると背中にちくり冷たい感触。鋭い切っ先を当てられているような感覚。ぞくりとした。
「動くな」
「……………………」
 この状況、もしかして、刃物?
「そのまま歩け、人気の無いところまで歩け。変な真似はするな」
 背中に押し付けられたまま僕は指示に従って歩く。
 
 …………こんな時こそ冷静になれ。いいな、冷静にだぞ。
 
 どうも声からして女性な気がした。なんで僕にこんな事をするのかわからないけど、女性だったらやり過ごせるかもしれない。振り向いて間髪入れずに殴る。それだけでいい。頭の中でシミュレーション。成功率はそれなりに高いように思われた。でももしかしたら遠巻きに仲間が見張っているのかもしれない。そう考えるとここは動かないでいるのが得策とも思われた。どうする、どうしよう。
 そこでハッと思いついた。ローションを渡せば解放してくれるかもしれない。試してみる価値はある。
「…………あの、ローションあるんで、それでおいとま願えませんかね?」
 したてな感じでお伺いを立ててみた。するとそいつは言った。
「あ、やっぱりへんたいなのね」
 僕はびっくりして振り返るとさっきの彼女が満面の笑みを浮かべて立っていた。手にはやっぱりナイフを持っていた。
「びっくりした?」と彼女は僕の顔を覗き込んできた。
「びっくりしたよそりゃあ」と僕は怒ればいいのにものすごくニコニコしてしまった。あれれ?
「えい」と彼女は笑顔でナイフを繰り出してきた。
「うわっ」と僕はそれを腕で受け止めた。スパッとレインコートの一部が切れて腕から少し血が滲んできた。
「切れちゃった」と彼女がぺろっと舌を出した。ピンク色の舌。
「切れちゃったね」と僕もぺろっと舌を出した。
 
 た、たのしい……。
 そして彼女は僕の手を引いて言った。
「いいところに連れて行ってあげるから、ついてきて」
 いいところ? いいところって、いいところ?
 もちろん僕は頷いて、彼女の手を離さないようしっかり握って付いて行った。
 
 「ここよ」
 連れて来られたのは町外れにある廃工場だった。裏手には林がある。僕は工場を見る。錆び付いた扉に屋根。窓の一部は割れ、管は折れ、つるは伸び、あたりの草は好き放題生い茂っている。窓は無い。見るからに近寄りたくない建物だった。
「入って」
 彼女は錆び付いた重厚な扉をぎぎぎっと音を立てながらゆっくりとスライドさせ中に入った。僕も続けて中に入る。
 
 暗いだろうという予想に反して、上の方に窓が付いていて光が差し込み、真っ暗ではなかった。薄暗い感じではあるけれど。
 見回すといかにもうち捨てられたような赴き。大きなプレス機やらベルトコンベアやらといった重機が暗闇の中に佇んでいた。けれどもそれでいてなにやら荘厳。すでに過ぎ去った過去という現実がこの空間には隙間無くたたえられ、訪れた僕の心臓にずしりとのしかかった。この空間は透き通っていて、厳かで、嘘の無い誠実な場所に思えた。
「ここは私の遊び場なの」と彼女。
 
 彼女は奥へと進み、重機の裏に体を隠すと、がさがさとビニール袋を持って戻ってきた。
「お菓子もあるし、飲み物もある。少しならね」
 彼女は置かれた木製の安楽椅子に腰掛けて中からチョコレートを取り出し、一つ口に放り込んだ。ピンク色の舌をチョコレートが転げ落ちる。
 僕は工場の中を隅々まで見ようと、壁に手を添えゆっくりと歩きだした。壁はぼろぼろ、天井からは雨漏りがひどい。重機にツーッと指を引いてみると赤茶けた錆が付着した。僕はそれをぺろっと舐めてみた。んっ、甘苦い。鉄棒の味だ。頬がゆるんでしまう。
 
「この工場、私が6才の時に閉鎖されたの」
 彼女は天井を仰ぎながら言った。
「大きな事故があって。自動車の部品を作る工場だったんだけれど、人がプレス機に挟まれて死んじゃったの。ほら、それ」
 彼女が顔も動かさず指し示した。見れば、巨大なプレス機。こんなものを間近で見たのは初めてだ。一体何に使っていたのかな。
 
「それで納品も出来なくなっちゃったし、もちろん事故の影響もあって仕事が回らなくなっちゃってね。一介の中小企業にとっては致命的だった。それで工場長が夫婦で自殺しちゃったのよ」
 彼女は天井を仰ぎながら抑揚の無い声で続ける。その瞳、じっと天井の一点だけを見つめている。まるで光の先を見るよう。どうでもいいのだけど僕は彼女の表情がとても冷たい能面のようなものになっているのが気になった。さっきまではそれなりに暖かな表情をしていたのに。そういえば声のトーンも落ち着いた感じになっている。
 
「それから十年間、いわくつきのこの場所をどうにかする人も現れず、ずっと放置されたまま。それ以来、私の遊び場、あなたも気に入ってくれた?」
 彼女は横目で僕を見る。冷めた表情。足を重機の上に乗っけて腕は横にだらりと下げている。黒いスカートも太ももを露わにするくらいずりあがってきている。
 僕はそんな彼女の瞳を見つめて頷いた。
「よかった。絶対あなたなら気に入ってくれると思ってたの。ねえ広木君」
「え?」
 なぜ僕の名前を?
 声に出さなくても僕の顔を見て悟ったのか、薄く笑みを浮かべて彼女は言った。
「私達同じ学校なのよ? 私は二年二組、広木君は一組、私はあなたの事知ってたわ。あなたは知らなかったでしょうけど」
 ……同じ学校。僕はなんとか隣のクラスの人を思い浮かべようとする。でもだめだ、僕は基本的に限られた人付き合いしかしてないし、クラス編成は三年間変わらないし、育子も真弓も同じクラスだったから隣のクラスに友人なんて高橋含め数人しかいなかった。それも小・中が同じ学校だった奴らだ。
「私もあんまり学校行ってなかったしね」と彼女はまた僕の考えを先読みするように言った。
「気にしないでいいから」
「うん、ごめんね」
 そう言うと彼女はまたくすりと笑った。さっきまでは大笑いしてたのに。雰囲気がまるで違う。こっちが自然な彼女なのかな? 確かにさっきまでは高揚してたみたいだけど。
「さっきまでは気が昂ぶってたのよ。恥ずかしいわ」とまたしても彼女は先読みしたような事を言った。
 驚いて僕は聞いてみた。
「君はエスパーなの?」
 すると彼女は一瞬固まってからあははっと笑い出した。
「ぷっ、くく、あはっ、あははははっ! ってうわぁ」
 伸ばしていた足が重機の上から落っこちて彼女はそのはずみで椅子から転げ落ちてしまった。へたっと膝を重ねて座り込んでしまった彼女。膝を手でさすっている。全身を黒に纏った彼女は今、この誠実な暗がりに違和感なく溶け込んでいる。差しこむ僅かな光が舞うホコリを煌めかせている。ああ、まつげ長い。僕の視線は下がり彼女の首筋に集中。そのほっそりとした首には見事ないっぽんの筋が伸びている。ぴんと張りつめた筋、その筋にひとつ切れ目を入れてみたらどうなるのだろう。つま、つまみたい。
 僕の視線に気が付いた彼女は、瞳をまっすぐに捉えて「あはっ」と妖艶な笑みを浮かべた。
 その瞳。瞳。瞳。
 吸い込まれる――――。
 
 その後、二人でさっき配給に貰った食パンを食べた。お菓子は微々たる量しかなく食べ尽くしてしまったのだ。僕の明日の朝食がなくなってしまうけれど、井野さんの「ぐぅ~っ」というお腹の音を聞いたら「パン食べます?」と聞かずにはいられなかった。でも別にかまわない。お腹が減るという事はとても辛い事なのだ。
「ジャムやマーガリンがあった方がよかったよね」と僕は気を遣って聞いてみた。
「そんな事はないわ。食パンをそのまま食べるのって、とってもチャーミングよ」と井野さんは言った。
 僕は井野さんの言うチャーミングの意味がさっぱりわからなかったけれど、いつも素パンのまま食べているので嬉しくなって、
「そうだよね」
 と同意した。
 
 僕は食パンをかじりながら井野さんの横顔を見つめる。井野さんはもちろん食パンを食べている。食パンが細く白い喉を通っていく。
 
 もきゅもきゅごっくん。
 
 その細い喉が嚥下の度に丘陵となり、食パンが通っていくのが透けて見えるようだ。
 僕は井野さんの口腔内で食パンが噛み砕かれ、白い固まりとなり狭い穴を必死に突き抜けようとしている場面を想像する。
 
 ――――井野さんの食道はとても深く狭く、いくら入りやすいように準備を整えてもなかなか身を沈ませる事ができない。滑りやすいようにぐちょぐちょにしておくことが大切のようだ。場合によっては糸を引く位でもかまわない。全身を体液まみれにし、すぽんと一発で滑り込ませる事が肝要なのである。しかしやっとの事で中に入れてもやはり狭く、ぎゅうぎゅうと締め付けられ、とても厄介だ。けれどやっきになって力を込めてはならない。強く突き抜けようとすると彼女を痛がらせてしまう事になる。それでは自己中心的で愛のない行為となってしまうだろう。僕が望んでいるのはお互いが相手の事を想い合いとろけあいまろびあって一つの海となる事だ。それこそが愛であり生き甲斐なのである。彼女に喜び微笑んでもらいたい。その一心で僕は全身全霊ことにあたる。狭く暗いでこぼこした穴を攻略しようと運動を再開。「最高だったよ」と彼女が涙を溜め微笑むその瞬間の為に。渾身の力、深く深く屈み込み助走を付け一気に腰を突き出し穴の奥深くへ身を沈める。あ、いかん。「くっ、凄すぎる。」僕は思わず声を漏らしてしまう。その圧力はやはりただごとではない。彼女の穴は凄すぎるのだ。でこぼことした部分やひだのようになった部分が僕を刺激し、抜けようと往復運動を繰り返す度にこすれて僕を限界へと導く。次第に恍惚と興奮で視界が白け出してくる。ああ、ああ。そのまま往復運動を繰り返していたが意識が朦朧とし出し下腹部にたぐるような高まりを感じる。「もうだめだっ」限界だ。我慢できない。僕は彼女の穴の最深部で力尽き、吐き出してしまう。ぐったりとし彼女を満足させてあげる事もできないなんて男として情けなくないと涙を流してしまう。なぜ僕はこんなにも早く力尽きてしまうのだろう。しかしこの心地良い気だるさは病みつきになるなる。などと思っていたらスポンと外に押し出され僕は覚醒する。テラテラと僕は光っていた。すると「えっ?」。なんと彼女は舌でじゅるじゅる舐め転がしてきた。まるでアイスキャンディーのようにおいしそうに舐め回す。電流が走る。ざらざらした感覚。身の毛がよだつ程の恍惚。腰砕けになってしまう。しかし同時に力がみなぎってくる感覚も覚える。下腹部に血液がたぎり始めているのがわかる。起き上がろうとしている。若いので快復力には自信がある。もう少し休んだら再チャレンジもできる今度はうまくやるのだなどと思っていたらららららなんっ鋭い歯で噛まれれれれうわぁー叫びすごあひぁとうとう「なにニヤニヤしてるのよ」
 
 気が付けば、井野さんが怪訝な表情で僕を見ていた。
「なんなの?」
 ああ、その口腔。
 僕は股間の膨らみが目立たないように座り直してから
「なんでもないよ」
 と微笑んだ。
 
 それからは二人で会話もせず雨音を聞きながらぼうっとしていた。
 井野さんは安楽椅子に座って、僕はそのとなり体育座りをして。
 
 ゆぅらゆぅら。
 ゆぅらゆぅら。
 
 沈黙が続いたりすると得てして気まずくなってしまうものだけれど、井野さんとの沈黙はそんな事にはならず、むしろ話すという行為がとても不自然に感じられ、会話をしている以上に彼女と繋がっているという感覚を抱いた。
 
『暗がりの中、雨音が響く工場内で、ぼんやりと宙を仰いでいるぼくら。』
 
 それは、一つの小宇宙なのかもしれない。
 
 そして時は過ぎ、陽も完全に落ちたので僕らは帰路に着く事にした。季節は秋。けれど真っ暗で何も見えないというわけではない。街灯が機能していないのだけど、この異常気象のせいなのか、うすぼんやりと見える位の光量はある。
 
「やっほー」と井野さんが僕に10メートル先から手を振った。
「やっほー」と僕は返した。
 
 これくらいのやりとりは普通に行えるくらいの暗さだ。これはこの不思議な雨のせいなのだろうか。それとも雨の日は元々こんな感じだっただろうか。
 思いだせない。
 
「ここが僕の家だよ」
 順調に帰路を歩み、何事もなく僕の家に辿り着く。井野さんの家は僕の家のもっと先の方にあるらしい。だからとりあえずは僕の家を教えてから送っていく事にした。というよりも僕はとても嫌だったのだけど、井野さんが僕の家を知りたがったのだ。
「ふぅん」と井野さんは僕の家を見上げる。
 なんの変哲もない一軒家。
「なかなかいい家ね」と井野さんは言う。
「あ、ありがちょう」と僕は返す。声が震える。
 内心、心臓が破裂しそうだった。
 
 実の所、僕は井野さんの横顔を身ながら焦っていたのだ。鼓動は荒れ馬のように跳ね、全身の毛穴からは冷や汗が噴出していた。
(部屋にあがっていきたいと言われたらどうしよう。)
 それが心配で気が気じゃなかった。
 
 今、僕の部屋には5人もの女の子達が寝そべっている。これを見られてはとてもまずい事になる。もし見られてしまったら、どう弁解しても「ダッチワイフ目的で」という嫌疑は拭えないだろう。断じてそんな目的ではないのだけれど、完全にそう断定されると思う。「それでも僕はやってない!」と言ったところで後の祭り、僕の人生は終焉を迎えてしまうのだ。(具体的には配給を止められて)
 
 井野さんは僕の家をじろじろと見上げている。本当に、上がりたいと言われてしまったらどうすればよいのだろう。どうにかして切り抜けられるだろうか。良い言い訳があるだろうか。
 考えれば考えるほどに自らの窮地を実感し、次第に眼前の光景がぼやっとし始める。血の気が引いていく感覚。心臓の鼓動が内側に響き、外側が白く染まりぞわっと浮き上がっていく。なにか、今こうしてこの場にいる事に肌がなじまない。何も考えられない。ただ脳に藻が絡んで身の毛がよだち、上手い具合に力も入らなくなってきて、
 あれ? 
 僕はいつのまにか恐怖が恍惚に変わっている事に気が付く。
 
 僕は井野さんの横顔をじっと見つめる。
「…………………………」
 もう、どちらに転んだ方が良いのか、よくわからない。
 どちらでもいい。
 彼女は振り返り僕を見た。
 そして言った。
「広木君の部屋に、上がらせてくれない?」
「…………うん」
 僕は小さく頷いた。
 膝がかくかくしている。
 さあ、僕はどうなるというのだ。
 
 井野さんを先導して家の中に迎える。彼女の手を引き、ポケットの中から鍵を取り出し鍵穴に差し込もうとする。しかし手が小刻みに震えている為にうまく刺さらない。僕は井野さんに不審がられないようゆっくり深呼吸をし、もう一度差し込む。今度はうまく入る。回す。かちり。ドアノブに手を掛け、引き、少しだけ開く。僕は井野さんに背を向けたまま言う。
 
「どうぞ…………」
 
 自分でも声が震えているのがわかる。世界が霞がかっている。前後左右、浮遊。
 ああ、僕はこのままでいいのか。
 
 玄関で靴を脱ぎ、上がる。井野さんが付いて来ない。振り向く。井野さんはまだドアの向こうにいて道路であらぬ方向を見ている。そして顔を直角に向けたまま「ちょっと来て」と言う。僕は震えを抑えながら靴を慎重に履き外へ出る。「なぁぁあにぃぃぃぃい」僕は聞くが間延びした声に焦る。井野さんはかまわず道の先を指している。「ほら」。ほらと井野さんは言うがその指先と爪が眼球にへばりつき視線が動かない。でも動かさなければならない。がんばる。ギギギッ。軋む首。がんばった。見る。真弓がいる。貸してあげた傘を差し歩いて来る。真弓は気が付く。駆け寄って来る。井野さんがちらり僕を見る。「木下さんと話をしたい」と彼女は言う。「わかった」と僕は言う。
 そして事態の収縮を悟り、どっと脱力した。
 
 真弓が一緒なら、僕の部屋に入る事はなくなった。何故なら真弓は春美と一緒でないと僕の部屋には入らないからだ。
 幼い頃はしょっちゅう一人で入っていたけれど、僕が春美と付き合いだしてからは自重していた。真弓なりの線引きがそこにはあるらしい。もちろんそれは今でもそうで、いや、逆に今だからこそ入らないだろう。
 事態は好転した。
 して、しまった?
 
「悠人」
 真弓は立ち止まり、微笑んで僕らを見回した。
「……………………」
 ザ・沈黙。
そして微笑のまま僕の瞳をロックオン。それが隣の女の子の説明を求めているサインだなんてわかりきった事なので、
「彼女は井野育子さん。2年2組の子だよ」
 と即座に説明した。
 すると井野さんはスッと一歩出て、
「初めまして」
 と腰を折り礼儀正しく挨拶をした。
「あ、はじめまして」
 と真弓も礼儀正しくお辞儀をした。
「二組の方だったんですか? ごめんなさい、わからなくって」と真弓。
「いいんです。私あまり学校行ってなかったですから」と井野さん。
 二人は顔を見合わせて微笑。不意に会話が途切れた。
 
 …………ふぅ、ここで一心地。
 場を仕切り直そう。

© 2026 灰庭 ( 2026年6月8日公開

作品集『雨が降ってる。』最新話 (全4話)

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