「子供作らないの?」
そんな言葉を聞くとき、彼女が苛立つことに変わりはなかったが、その苛立ちにも二種類があった。
一つ目は、大抵の女性と同様の反応だった。自立した大人の生活を伝統的な価値観で侵害しようとしながら、その侵害行為に無自覚な、あくまで善意溢れる表情への苛立ち。
そして、二つ目は、「『子供作らないの?」とまた言われた」と同世代の女性たちが言うのを聞くときの苛立ちだった。彼女の母は数年前に他界していたが、その母はもともと彼女のことに興味もなさそうで、結婚すると伝えたときでさえ、「おめでとう」の一言もなく「離婚しないようにね」とそれだけだった。この二つ目の苛立ちは、善意を寄せる親族の存在を見せびらかされているような気持ちになることからくるもので、こちらの方こそが、彼女にとって主な苛立ちだった。
一つ目の苛立ちも彼女は感じたことがないわけではない。結婚して一年たった頃に、義理の祖母がそんな言葉を彼女にかけたのだった。現代の女性として、当然の感情がこみ上げてくるのはもちろんであったが、それと同時に、彼女は結婚したことへの満足感も微かに味わった。確かに義理の祖母には、孫の顔を見たいというエゴもあったかもしれないし「女としての幸せはすぐそこにあるのに、どうしてあなたは幸せになろうとしないのか」という、自分勝手な考えの押し付けのようなものが感じられた。しかしながら、あくまで善意から端を発した波が、親族からでしかありえない波が彼女の心の端に打ち寄せた気がしたのだった。だからといって、子供を作りたいという気にはならなかったのだが。
彼女自身がこういった言葉の対象になるのは、これが最初で最後だった。義理の祖母はその翌年亡くなった。それまでは、そんな言葉を聞いてもなんとも思わなかったのだが、それから彼女は二つ目の種類の苛立ちを覚えるようになった。友人から、家族にそんなことを言われたと相談されたとき、彼女は「シカトしなよ」と笑いながら、苛立ちを感じた。
配送会社の支所の経理担当の彼女は、年末調整の時期になると、他人の親族関係について尋ねることが多くなった。一般的な日本人であれば、その確認は簡単であったが、外国籍の従業員の外国の扶養親族については、その頃から税金の控除をとる要件が厳しくなっていた。海外送金書類の確認が必須に変わったことから、外国籍の従業員から片言で質問を受けることが多くなった。
「よく分からない奴は、年末調整で扶養控除は受けさせるな。自分で税務署に申告しろって伝えとけ」
彼女の上司はそう言った。彼女自身も同意見だった。外国籍の従業員から、今年からどうして変わったのかと聞かれれば、「税務署に聞いてください」と彼女は答えた。
ただ一人だけ、そう言っても食い下がらない女性がいた。イラン人の女性だった。ファトメというこの女性は、日本人の夫と結婚して、日本に帰化してはいるが、イランに親族が多くいるとのことだった。しかし、海外送金の確認書類は彼女の手書きだった。イランへは制裁の関係で、真っ当な送金手段はなく、人づてで現金をハンドキャリーで親族まで送り届けているらしい。
「税務署に行って相談してみてください。私にはどうしようもできません」
彼女はそう言ったが、ファトメは自分の親族のことを話しはじめた。
「小池さん、あなたにも家族がいるでしょう?」
彼女は何も答えなかった。しかし、そう言われた時、彼女は不思議な感じがした。こんな言葉を言われたら、絶対に苛立ちを覚えるはずだと彼女は頭ではそう思ったのに、身体はそんな風に感じなかったからだった。ファトメは五十歳を超えても(小池は、年末調整の書類で当然に年齢を知っていた)、宝石のように輝く瞳があった。日本人には異国情緒を感じさせる鮮やかな色のスカーフは彼女に似合っていた。小池には、ファトメの言う『家族』というものが、おとぎ話にでてくるようなものに思えてくるのだった。といって、小池はファトメの親族のことを真剣に考えないわけでもなかった。夫が亡くなったことを機に、ここで働き出したのだから、日本に頼れる身寄りもいないはずだった。だから、彼女は上司に彼女のことだけは相談した。
「うちじゃ難しい判断はできないよ。それにあの人の年収じゃ、税金だって数万も変わらんだろ」
上司はそう言うだけだった。確かに税金はさほど変わるものではなかったが、ファトメの話を聞いた後では、それはお金の問題ではなく、名誉の問題である気がした。制裁を受けた国の、国民は家族として認められないのだと。小池はファトメの仕事中の姿を直接見たことはなかったが、ファトメは真面目な働き者で、スカーフをしながら汗をかいて仕分作業を毎日しているようだった。その当時は、送金書類さえあればたった数千円の送金でも扶養親族として認められたから、中国やベトナムの従業員はそんな額の送金で、四、五人分の扶養控除を受けていたのだから、不公平な気が小池にはした。しかし、小池には何もできなかった。その後のことではあるが、ウクライナ戦争が起きたとき、ウクライナ人の従業員のためにはカンパがあった。そんな風に彼女のことを応援できないかと思ったが、ファトメに対して何の名目でカンパをすればよいのかわからなかった。(また時間が経ってから考えると、ウクライナのことも何の名目であったのかはよく分からないままであったが)
それでもファトメのことが気になり、小池は同じ部署の人間にだけ配っていた取引先からのお土産のお菓子をファトメに持っていった。ゴディバのチョコの一つだけを持っていったつもりではあったが、小池は箱ごと持っていったので、ファトメははじめ勘違しているようだった。
「あなたは仕事をしただけ。私はこんなこと望んでないの」
そう言われて、小池はゴディバの箱を開けた。そこにはチョコが一つしか入ってなかった。
「一つだけでも、いりませんか?」
ファトメは笑い出した。そうして、軽やかにナッツの入ったチョコを口に投げ込んた。
それから、ファトメは彼女と、ときたまランチをするようになった。ランチといってもマクドナルドか、少し贅沢をする時にはモスバーガーを一緒に食べる程度のものではあったが、少なくとも月に一度は二人で語り合った。会話の内容はただ、職場近くのパン屋のことや、安くて美味しいお菓子のような他愛ないものだけだった。日本人の大学教授と結婚したファトメからは、彼女自身からもなにかしら知性的なところが感じられた。それと同時に遠い異国の厳しい環境で育った、忍耐強さが感じられた。小池はそこに、義理の祖母の面影と、彼女の理想的な母親像を見た気がして、ファトメと話しをしていると安心した気持ちになれた。ファトメが、翻訳関係の仕事で、東京の小さな出版社に転職することになるまで、彼女たちの関係は緩やかに続いた。転職前の最後はランチではなく、ディナーにすることにした。それも、ファトメの希望でファミレスではあったが、デザートにパフェを頼んだり、彼女たちにしては豪勢なものだった。そうして何気なく、ファトメが小池の夫について話をした時だった。
「子供は作らないの?」
ファトメにそう言われて、小池は人目も気にせず涙が止まらなくなった。小池が泣いてもファトメは狼狽えることはなかった。
「駅まで一緒に歩きましょう」
そう言ってファトメは小池の肩を抱いて、彼女を夜の道に連れ出した。駅までゆっくりと歩く道すがら、小池は自分のことを思う存分に話した。中学生になって親が離婚したこと、母親から愛されていると思えなかったこと、子供ができたとしても、自分も母親のように子供を愛せないのではないかと不安になること。小池の涙が止まらないので、二人は駅のホームの椅子に座って、電車を数本やり過ごさなければならなかった。小池が泣き止んで、ファトメは彼女が乗る方向の電車へ送り込んだ。電車のドアが閉まったときも、ファトメは優しく微笑んでいた。その後、小池が、家族のことについて考えようとする時、いつもその時の、スカーフに入ってない部分の髪が夜風になびくファトメのことが思い浮かんだ。
「『子供作らないの?』て、また言われたんだけど」
友人がそう言うとき、やっぱり彼女は「シカト、シカト」と答えるのだが、そこには複雑な感情が立ち上がる。そんなとき、彼女はファトメの微笑を自分なりに真似て見せようと精一杯の努力をする。家族のいない異国の地で、自分よりも厳しい状況にありながら、彼女の話を無条件に聞いていたファトメの微笑を。
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