「これはあくまでも僕の考えだ。賛同するのも自由だ。きっと賛同するなと言ってもする人だっているだろうけど。そういうところだって全部分かっている。僕は分かってあげられる。
もう五十年以上前になるかな。アメリカであった有名な監禁事件の話だ。この手の話が大好きな人たちは知ってる人も少なくないだろう。ほら、もうこの時点でピンと来てる人もいるね。知らない人のために説明しておくと、一九九三年、アメリカB州の農場で監禁事件が起こった。でっかい大草原の中の一軒家でさ、大家族だったんじゃなかったかな。たしか。その家族は農場を経営してたんだけど、一人役立たずの息子がいてさ。そいつは家の仕事も手伝わずに、やれ読書だ映画鑑賞だとインテリぶって部屋でそういうものの自称「研究」ばかりしていた。家族やご近所さんからも鼻つまみ者だった。こんな農家でインテリぶって何になるってさ。ただ、そいつがただただ悪いわけでもないんだ。そいつは家族の反対で大学に行けなかった。だから彼が本当のインテリなのか、ただのインテリぶったバカだったのかは誰にも分からない。そんな鼻つまみ者の奴が、ある日突然、街で赤ん坊を誘拐してきた。まだふにゃふにゃの赤ちゃん。もちろん言葉も話せないし、目もちゃんと開いてないくらいの生まれたての子供だ。出生から攫われるまでのタイミングから推測するに、そんな状態だったと考えられている。その子供を車に乗せてそいつははるばる家に帰ってきた。家族はもちろん驚いてすぐに返してこいって怒ったよ。でも彼は銃をぶっ放して全員黙らせた。誰も殺しはしなかった。そういう点で彼はインテリだったのかな。インテリが殺しをしないかって言われたら微妙だけど。闇雲に短絡的な殺人はしなかった。少なくともその時は。そいつは地下室にこもって赤ん坊の面倒を見た。買い出しは家族を脅してさせた。赤ん坊に関わるのは徹底的にそのバカ息子だけだった。赤ん坊からしてみりゃそいつが唯一無二の他人だ。世界はそいつと赤ん坊の二人だけ。バカ息子はその赤ん坊を恐らく大切に育てた。教育を受けさせたり、運動をさせたりもその地下室でしていたと言われている。恐らくっていうのは、のちのち少年になった赤ん坊からは虐待の痕跡も見つからず、栄養も足りていて、体重も基準通り、言葉も話せていたからそう予想できるということ。実際のところは誰にも分からない。僕たちは状況から推測することしかできないからね。
赤ん坊はすくすくと育って少年になった。少年は相変わらず薄暗い地下室で育てられ続けた。少年の姿が何かの拍子に見えたのかな。何がきっかけだったのかは分からない。少年を誘拐してきたバカ息子の姉が、少年を救出しようと地下室に侵入を試みた。バカ息子は激昂して少年の目の前で姉を射殺した。バカ息子が少年になんて説明したのかは知らないよ。でもきっと「悪者を倒した」とでも説明したんじゃないかな。結果から推測するに。銃なんてぶっぱなしたら目立ってしまうのにね。やっぱりインテリぶってただけだったのかな。もちろん家族は大騒ぎさ。どさくさに紛れて警察に通報する者もいた。っていうか、その時までなんで誰も通報しなかったんだろうね。正常性バイアスってやつかも。でも、その時まで本当に誰も通報しなかったんだ。少なくとも記録にはそう残ってる。通報を受けて警官がドヤドヤやってきた時には、でっかい大草原の一軒家は血の海。その血の海の中に銃を持ったバカ息子が立ち尽くしていた。警官の説得も虚しく、そいつはすぐ発砲しやがった。だから容赦なく射殺された。あっという間だった。通報のお陰で、地下室に少年がいることを警官たちは知っていたから、その足で地下室の少年の救出に向かった。 少年は抵抗したけど非力で、すぐに警官に保護された。そして、地下室から出る時、少年はすくそばにあった死体を見てしまった。それは撃たれたバカ息子の死体だった。少年は号泣してそいつの死体にすがりつこうとしたが、警官はそれを止めた。
その後の話は有名だ。この手の話に疎い人も知ってるんじゃないかな。ほら、やっぱりそうだ。少年は地下室育ちだっていうのに意外と力があったらしいんだよ。不思議とね。噛み付いたのかも分からない。噛みつかれたら吃驚して離しちゃうもんね。その隙に銃を拾ったのかもしれない。でも生き残った警官は二人しかいなくて、そのうち一人は、その時の傷が元で数日で死んでしまったから、実質一人なんだよね。だから、僕らが聞いてる話はその一人が語った記録なわけだから、思い出してるうちにだいぶ盛られてるかもしれない。思い出って誇張されるものだから。警官の腕から逃れた少年は銃を乱射して警官を殺しまくった。にわかには信じがたい話だけど現場にいた者たちはほぼ全滅。まさか救助した少年に殺されるなんて思わなかったろうしね。当時既にストックホルム症候群も有名だったけど、他人事だと思ってたのかもしれない。もちろん銃を乱射する少年は鎮圧のため射殺されたよ。どいつもこいつも射殺射殺。これだから銃社会ってやつは。アメリカって怖いね。すぐ銃ぶっ放すんだから。だから戦争になるんだ。良い迷惑だよ。ほんと。
でもね、僕は思うんだよ。少年は世界で一番幸せだったんじゃないかって。もちろん、彼が人を殺したことも、殺されたことも、僕は肯定的にはとらえていない。僕が言いたいのは地上へ引きずり出されるまでの間の人生のことだ。彼には外の世界に対して羨ましいとか妬ましいとか自分が不幸だとかそんなことを考える見聞なんてなかったからね。ハンバーガーを食べたことがない人がハンバーガーを食べたくなることなんてないように。彼には一緒にいてくれる擬似的な親だっていたし、健康で衛生的で文化的な生活を送っていた。その証拠に地下室にはトイレと風呂もついていて、まるで最初からそこで生活することを想定するような作りになっていたらしい。戦争に備えたシェルターだったっていう説もある。どれも想定の話に他ならないけれど。ひょっとすると彼は映画や本で見た世界を外の世界だと教えられて夢見ていたかもしれない。誘拐犯を憎んでいたかもしれない。でも、そうだとして、警官に反撃してほぼ皆殺しにできる彼がみすみす監禁されているだろうか。彼にとっては誘拐犯と二人だけの世界が幸せで完結した世界そのものだったんじゃないかって思うんだよね。外の世界なんてものは空想の産物、SFみたいなものだと思ってたんじゃないかな。仮にそれが本当だとしてそれが可哀想だという人もいるかもしれない。でも、それって本当に可哀想かな。僕は違うと思う。僕は少年が羨ましいと思う。産まれた時から青空を知らなかったのだから。
僕らは少年と違って青空も知っている。ハンバーガーの美味しさも、風のすがすがしさも、同世代の友人と遊ぶ楽しさも知っている。だから不幸なのだ」
民衆が啜り泣く声が聞こえる。大声で慟哭する者すらいる。
「さあ、僕たちはこんなしがらみから解放されるべきだ。何もかもを忘れてまっさらな状態で始まって、そこがこの地下コロニーならば、誰も不幸と感じることはない。僕たちは生まれ変わる。何度でも。ベニクラゲみたいに。この年老いた体からまた赤ん坊となって生まれ変わるのだ。大丈夫だ。この肉体が朽ちても僕らはまた蘇る。だから安心して終わろう。何も恐れることはない。
幸せになろう」
教祖は自らのこめかみに銃口を押しつけ、頭をぶち抜いた。聴衆たちも次々と自分の頭をぶち抜いた。物々しい騒音が輪唱を重ね、幾人もの死体が折り重なり、やがて音がしなくなった。集会が行われていた大広間では、民衆どもが手にしていた懐中電灯が投げ出され、ぼんやりとグロテスクな光景が浮かび上がる。静寂。これで全員だろうか。柱の陰から成り行きを見つめていた男はそっと顔を出した。逆らえば殺される。捕らわれていた仲間たちもこの集会が始まる前に死刑にされた。幸福のための死刑だと。ふざけるな。死んだら終わりだ。そこにあるのは永久の無。永遠の闇だ。男は恐る恐る死体の間をぬって歩いていく。神も仏もない今、別に踏んだって何の問題もないのだが、何となく嫌だった。と、耳がおかしくなりそうな静寂の中で声がした。生きている人間がいるのかと男は耳を澄ました。幻聴だろうか。耳鳴りの一種かもしれない。あまりにも静かすぎて男の中からする音を、男の呼吸音を、聞き間違えたのかもしれない。
しかし、その声は確かにしていた。声、なのか、音なのかよくわからなかったが間違いなく男以外から発せられていた。男は音を探して死体の山を掻き分けた。何をしているのだろう。せっかく自分を脅かす存在がいなくなったのに。死体をこの大広間にまとめて、自分は一人、居住区域で過ごせば良い。一人でならまだ十分に生き延びられる食糧もあるはずだ。自分はこの地下コロニーで緩やかに余生を送って死ねばいい。音は徐々に近付いてくる。いや、男が近付いているのだ。その音は、赤ん坊の泣き声だった。脳をぶちぬいた母親に抱かれたまま、赤ん坊は泣いていた。住民は子供を殺してからこの集会に来たはずだ。この母親だけは我が子殺しきれなかったのだろうか。眠る我が子を外套の下に隠し、集会に参加していたのか。そしてそのまま死んだ。我が子は殺さずに。しかし、そのまま放置していれば赤ん坊が死ぬことくらい分かりきった話である。結局は我が子を死ぬところを見たくない、この手を使って殺したくないというエゴに過ぎない。生き残りがいる可能性なんてものを死んだ女は考慮していないだろう。していればこんな集会で死にはしない。家にそっと置いておくなりもできたはずなのに、わざわざの自分の近くに置いていたのだ。いや、分かる。男にも殺された我が子がいた。だからこそ想像できてしまう。目を離しておくのが恐ろしかったのだ。その間に回収されて殺される可能性だってある。自分が死ぬ直前まで、この小さな温もりを感じていたかったのだ。愛しているから、というエゴ故に。
男は泣き喚く赤ん坊を抱えた。赤ん坊は身をよじって抵抗した。たかが赤ん坊の抵抗だ、と思ったが、なかなか大きくて温かいし、痛い。意外と力がある。少年に警官が殺されたのもこういう油断からだろうか。うっかり取り落としそうになるのを何度も抱えなおしながら男は赤ん坊を抱きかかえ、死体を踏まないように抜き足差し足忍び足で、よろけながら、大広間を逃げるように後にした。まだこのコロニーに住み始めて日が浅い頃から、元々この集会所の大広間があまり好きではなかった。どこか不気味で執念深くて気持ち悪い場所だと思っていた。男の勘は正しかった。こうして集団自決の現場になったことで、一秒でもここにはいたくないと思った。それなのに、赤ん坊をわざわざ探して、拾い上げてしまった。
耳をつんざくような泣き声に包まれながら振り返ると、静寂を飲み込んだ暗黒の中に、投げ出された懐中電灯のあかりが消えていくのが見えた。胸の奥が冷たくなる。自分があの中にいたとは。男は呼吸を整え、温かくうるさい赤ん坊を固く抱いた。
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