この爽やかな事実

Hypnagogic Drift|ヒプナゴジック・ドリフト(第7話)

燐銀豆|リンギンズ

小説

9,062文字

対岸への移動は目的ではありません。
これは赤く不純な感情を確かめるための漂流なのです。

公園の中央には大きな湖があり、人々は湖にプラスチック製の水鳥ボートを浮かべては、それに乗り込んでただ漂っていた。ほとんどが恋人たちか家族だった。湖はいつもボートで埋め尽くされていた。

湖の周りにはツツジが咲き、覗き込むと睡蓮も浮いていた。だから水鳥ボートへの乗船を嫌悪するような一部の思想家や、連れ合いを必要としない孤独な人々は、花巡りの散歩という楽しみかたのために公園に通うことができた。

湖は丘を背負っているため、公園の入口から続く散歩道は途中で傾斜が急になる。

坂道を上っていくと道は分岐して、片方は湖の周りを一周してスタート地点の公園の入口へと続き、もう片方は丘の上の広場へと道を外れて続いていく。その広場は周囲を背の高い木々に囲まれており、水平方向の視線は太い幹によって常に遮られてしまう。頭上の視界は開けていて宇宙を身近に感じられる。

広場は広々と間延びしていて居心地がよく、足元の白い花々は一年を通して咲き続けていてた。それらは雑草が咲かせている花だった。

夜になると湖はライトアップされ、走光性を持つ恋人たちや家族連れをことさらに惹きつける。

一方で広場からは完全に人が消えた。日向ぼっこくらいしかやることのない空間だった。息も絶え絶えな虫の鳴き声が、弱々しく夜を祝っていた。

そこへ、木々の切れ間から、一人の魔術師が現れた。黒のスキニーパンツに、レザージャケットを羽織っている。銀色のフェードが闇の中で金属のような輝きを放っている。歩くたびにパンツのベルトループに重ね付けしたチェーンが音を立てる。

魔術師は広場の中央に立つと、おもむろに取り出した警棒のようなもの*で、腰を折り曲げながら地面に図形を描き始めた。警棒のようなものになぞられた地面は数秒光り、そのあとしぼむように消えた。

数十分後、完成した巨大な図形の出来栄えをろくに確かめることもせず、魔術師は図形の外縁を跨いで現れたときと同じようにどこへともなく消えていった。

その様子を見ていた人間は一人もいなかった。上空では、魚の目に似た鉛色の衛星が輝いていた。

 

 

翌日は太陽の眩しい日だった。湿度が高く風が死に絶えていた。

一人の少年が柵にもたれかかって、アイスクリームを舐め回している。汗が顎を伝って落ちた。湖を泳ぐ機械式の水鳥*が青年の前を横切った直後、鳥は水の中に頭を突っ込んだ。自殺しようとしているわけではなく、餌を取るときの動作を再現させた挙動だった。餌の要不要は関係なく、嗜好品としてのディティールに過ぎない。仮に風呂場に浮かべたとしても、同じように餌を取るときの動作をする。

そもそも機械が自殺しようとするはずもない。生きていることを実感できない以上、死に憧れることもないのだから。

アイスクリームを舐めていた少年__林は、その一連の動作を見逃していたが、まったく気にしている様子がなかった。林は水鳥を見に来たわけではなかったからだ。人を待っているだけだった。

売店から歩いてくる一人の少女__椎那は、林より大きなアイスクリームを手に入れいていた。明らかな大きさの差は、林がすでにじぶんのを舐め回しすぎたせいではなく、注文したサイズが違っていたせいだ。

椎名と林は二人並んで柵にもたれかかって、おのがじじの舐め方でアイスクリームに取り組んだ。

椎那の黒い髪の毛が太陽の光の加減で、湖の色と同じ深緑色に光っていた。水鳥ボートに乗って脚で操縦する男たちが、気さくさを装って林と椎那に手を振った。揺れる水面が波しぶきをあげた。唐突にアイスクリームの売店で悲鳴が生じた。

レギュラーサイズのアイスクリームが一つ、地面に落下していた。そのせいでおそらく、地面を這う虫が一匹チョコミントの海に溺死した。アイスクリームを落としたのが客なのか店員なのか、それを判定する方法が探られていた。その間は別の店員が、後ろに長く列を作る客たちに順番にアイスクリームを提供し続けていた。夜になって客足が遠のく前に、今日の分のノルマを売り切りたかった。

日焼け止めクリームのキャップがタンブルウィードのように、どこかから転がってきた。このあたりに巣を構える鳥たちは、湖を挟んだ反対側の丘からハイキーの歌声を響かせていた。
「あんた、水鳥ボートに乗りたいんだ?」

アイスクリームから一時的に顔を離して、椎那が林に訊いた。
「実を言うとね・・・・・・ でも、きみが乗りたくないなら乗らなくてもいいよ」

林は少し恥ずかしそうに、椎那の方を見ずに言った。
「乗りたくないなんてあたし、言ってないけど?」
「じゃあ、乗る?」

嬉しそうに顔を上げた林に、
「べつに乗りたいとも言ってないけどね」

と、椎名は勝ち誇ったような表情で言った。

「え、どっちなの・・・・・・」と口には出さずに心に思いながら、林は視線をアイスクリームに戻した。

椎那は「狂ったような暑さだわ」と言って、こめかみから勢いよく流れ落ちようとしている汗を衣服の肩でぬぐった。「そこら中に冷房つけてほしい 家とかビルとかさ、内側ばっかり冷やして馬鹿だよね 外をもっと冷やせっての それか、人工の雪を降らせてくんないかな」
「それって、魔術師の仕事?」
「馬鹿 科学者の仕事に決まってるでしょ 魔術師の魔術は人間の心に関連した物事にしか作用しないんだよ だから、連中には雪なんて作り出せない」
「どうして魔術師は人間の心に関連した物事しか扱えないんだろうね」
「そんなの、魔術なんてものがこの自然の世界には存在しなからよ あんた、自然主義も知らないの?」
「知ってるよ、ぼくといえば自然主義だからね それくらいのもんだよ」と林は強がりながら、嘘がバレないように表情を固くした。実際には林は、自然主義とはなにかをまるで知らなかった。
「・・・・・・とにかくさ、そんなに暑いなら水の上に行ってみるのはどうかな そのほうが涼しいと思うよ」

そう言われて、椎那は水鳥ボートの乗り場に目を向けた。

丘の麓、自分たちのいる場所の反対側に人の群れがある。これから湖の上に打って出ることを楽しみに、行儀よく列を作って順番待ちをしている。にこやかで無邪気な行列が太陽に焼かれている。
「並びすぎでしょ」

椎那がアイスクリームのコーンをかじりながら言った。カリカリと音が鳴り、粉状のコーンがさらさらとこぼれた。

アイスクリームの売店では返金の処置は取られなかった。アイスクリームを落とした女性は落胆したようすで、林と椎那の前を通り過ぎ、そのまま丘の上の広場に続く散歩道を歩き始める。

彼女は広場で予備校の数学教師と待ち合わせをしており、数十分後には合流するだろう。そしてたった今起こったアイスクリーム落下という忌まわしい出来事について話そうとする。しかし、広場にたどり着いた瞬間にあらゆる目的は忘れ去られているため、その試みは果たされない。なぜなら広場には魔法の図形が描かれている。

そこからさらに数十分後、林と椎那が広場にやってきたときには、広場の他の人々と同様に彼女の体からは「名誉なき目的意識*」が抜け落ちている。

広場に向かっていく彼女の背中が小さくなっていく中、アイスを食べ終わった椎那と林は木陰で、さて、と仕切り直そうとしていた。まだまだ暑かったが、少しはマシになっていた。
「待つのが嫌なら、散歩する? ここ、散歩ルートがあるんだよ」

林の提案に椎那は首を横に振る。
「この気温で外をうろうろほっつき歩くなんてイヤ」
「でも他にやることないよ」
「じゃあ、今日はもう解散で良いんじゃない?」
「え・・・・・・」

林の絶句は、いかに彼が今日という日を楽しみにしていたかを示していた。椎那は林のその反応に気を良くして、
「まあ、今日は一日暇だし、散歩でもいいけど」

と急な譲歩。
「散歩でもいいの?」
「いいよ、べつに 冴えないけどね」

二人がのろのろと歩き出そうとしたとき、湖から呼び止められた。先ほど湖から手を振ってきたボートに乗った二人組みが戻ってきたのだった。
「やあ! 水上から声をかけるなんて失礼かな? お願いしたいことがあるんだけど」

涼し気な笑顔で言う。水鳥ボートの体内にいる二人組は、水鳥ボートの天井(背中の内側?)が作る日陰の中にいて薄黒い顔をしていたが、表情は明るかった。

林は「なにか用ですか?」と聞き返した。

水鳥ボートの中の男が鞄から旧式のカメラを取り出して、
「これで僕ら二人を撮ってほしいんだ」

と言った。

ひと目見ただけで、そのカメラには防水機能がなく、むしろ浸水機能がついてそうな代物とわかった。長く愛用して年季が入っている、というよりはあえてレトロなもの買って使っている、という雰囲気だ。

男は陸地にいる林に向かって今にもカメラを投げ渡そうとしている。自分のキャッチに確信が持てなかった林は手渡しを頼んだが、ボートの接岸が難しいらしく、投げるしか方法はないと言って頑なだった。

困惑する林の耳元に、椎那が顔を寄せて囁いた。
「キャッチミスしたふりして、わざとカメラを湖に落としちゃおうよ 二人がどんな顔するか、見ものじゃない? 思い出が全部水浸し ・・・・・・ふふ」

驚くのと同時に、いかにも椎那の言いそうなことだと呆れる気持ちが半分ずつくらいの林は、直後、間近にある椎那の小さな顔の中に浮かぶ生き生きとした素直な笑みに目を奪われた。椎那は今日一番楽しそうな顔をしていた。

林の不安に反して男の投擲は正確で、カメラは林の手のひらの中にきれいに収まった。椎那は取り落とさなかった林に幻滅の舌を出した。

操作方法を男に教わりながら何枚か撮影した。その場で写りを確認できないことが不便だったけれど、男はそこに厳密性は求めないポリシーらしく「記録写真を撮りに来たわけじゃないからね」とのことだった。

撮影が終わって、今度は林が湖に浮かぶボートに投げ入れる番になった。林の不安が伝染したのか、受け取り手のボートの二人も心なしか不安げな表情をし始めた。林はいつまでも投げようとせず、投擲のフォーム確認を繰り返している。その5度目のフォーム確認の一瞬をついて、椎那がカメラを奪った。湖に放り投げる気だ、と林は思ったが、椎那は、
「私たちに投げさせて、湖に落としたら弁償させようって魂胆でしょ? そんな罠には引っかからないから カメラを返してほしかったら、ボートから降りて取りにきな そしたら手渡しで返してあげる!」

と大声で告げた。ボートに乗った男たちの困惑の混ざった抗議の声に耳を貸すつもりはまったくない様子だった。

呆然と立ち尽くしている林の肩を小突いて、
「行くよ したいんでしょ、散歩」

と言って、林を置き去りに歩き出した。椎那はカメラのストラップを自分の手首にかけていて、まるでお祭りの屋台で買える水ヨーヨーのようにぶら下がっている。
「なんでこんなことするの?」

と林が後ろから追いついて聞くと、椎那は満足げに、しかし表面的には懐疑的な表情を浮かべて、
「あんたこそ、なんでそんな野暮なこと聞くわけ?」

と言った。

 

 

散歩道に箒をかけている作業服を着た老人が、道に打ち上げられたミミズの死体を処理している。

赤黒い乾麺のようになっていたミミズは粉々に砕け、グミのような弾力を内部に保っているミミズはあたかも生きているかのように跳ねながら、植え込みへと飛び込んでいった。

太陽は憎たらしいほどの熱量を維持していた。

慣れきっていた蝉の鳴き声が、丘に近づくにつれてより大きく響き出し、朝からずっとその音を鳴き続けていたという事実を再認識させられる。丘の手前まで来ると、一本の坂道がその内部へと続いていた。それは暗い横穴だった。

足を踏み入れると湖の気配はすぐに失われた。幹の縦線によって細かく区切られた長方形の空間が水平方向に乱立している。丘、あるいは森の奥行きが水平方向の視界を限定し閉塞感を生んでいる。

頭上はるか上の樹葉が作る木漏れ日が地上に降りてくるときには、それはすでに薄く漠然と広がる影でしかなかったが、湖の周りでアイスクリームを頬張っているときよりはいくらか涼しく感じられた。相変わらず風は死に絶え、髪の毛も服も湿気で重くなる一方だった。

地味な色をした鳥や、不思議な集団生活を送るムカデ、木の陰からじっと散歩道を歩く人間を観察している哺乳類*などに目を向けながら、二人は自分たちのペースで坂道を歩き続け、広場へとたどり着いた。学校での話や、次のライブや新曲の話*をしながら歩いていたこともあり、ひどくのどが渇いていた。

広場は浅いすり鉢のようになっていて、広場の縁の一段高くなっている石段から一望できた。頭上を塞ぐ木々の枝はが存在しないため、太陽光を全身に浴びることになってしまうその広場は、芝生の緑や周りを縁取るレンガの色がほとんど漂白されて、全体的に白っぽかった。

そしてその広場では、およそ百人あまりの人々が、それぞれ思い思いの過ごし方をしていた。

二人は、広場に集まっている人々の異様な雰囲気を目の当たりにして足がすくんでしまっていた。とても足を踏み入れる気分にはなれなかった。
「どうなってるの、これ・・・・・・?」椎那が広場で忘我する人々を見下ろして言った。「すごく気持ち悪いんだけど・・・・・・」

そう言いながら、椎那は広場の縁の一番上の段に腰を下ろした。太陽は変わらず真っ白で透明な光を注ぎ続けていた。
「これって魔術のせいでしょ? 広場にいる人達みんな、自分がやらなくちゃいけないことを全部忘れちゃってるみたい」

気持ち悪い、と言いながら明らかにテンションが上っている様子の椎那に対して、林は少し下がった場所から、
「誰か人を呼んだほうが良いんじゃないかな・・・・・・?」

と不安そうに、腕を組むというよりは、自分の肘を体の前で掴みながら言った。

椎那は振り返って林を睨んだ。
「誰かって、誰? あんた、魔術師の知り合いでもいるの?」
「わかんないけど、警察とか・・・・・・?」
「なんで警察なの? ・・・・・・いや、警察で良いのかな? ・・・・・・あたしもわかんないけど、あんた一応連絡しといて それで、警察が来るまでここに座って一緒に見物しようよ こんな光景、めったに見られないんだからさ」

林はおずおずと腰を下ろした。コンクリートの階段は、なぜか氷のように冷えていた。

広場には、湖のそばのアイスクリームの出店でそれを落としていた女がすでに到着していて、焦点の合わない目をなにもない空間に向けていた。半開きの口から内臓の一部のような舌が水底の珊瑚かウミウシのようにほの見え、背中は丸まっていた。足は肩幅くらいに開かれ、下半身の衣類は脱ぎ捨てられていた。赤毛に覆われた彼女の頭の中は、炎によって焼け落ちるオフィス、彼女が平日の9時間を搾取される小さな密閉空間が鮮明にイメージされていた。書類は灰となり、電子機器は溶けて有害なガスを発生させていた。目から涙を流させるガスは割れた窓から外へ出て、彼女の脳の内壁を黒く焦がしながら脳天に充満する。それは笑気ガスのように、破裂する笑い声を内側に潜めてもいる。けむい脳内は社会的営みのプレッシャーを煙に巻き、現実の彼女は解放されたことによる多幸感の中で、炎天下の光を一身に浴びて立ち尽くしている。彼女の脳を焼き落とした白い炎は、予備校で数学を教えている彼女の恋人の膵臓や腎臓もおまけに焼きながら延焼を続けている。服が燃える不快な匂いの奥に、焦げた油のめまいをもたらす重い香りが混じっている。予備校教師の脳内には凍った湖があった。その上なら無目的に永遠に歩くことができた。広場においては、無目的こそ目的である。到着という概念は存在しない。氷の湖にうっすらと霧が立ち込める。気温が底なしに下がり、予備校教師はダウンジャケットのポケットに両手を差し込みとぼとぼ歩き続けていた。予備校教師はたまに空を見上げ、星星の不変の輝きに狂乱せんばかりだった。かつての仕事に対する義務感は踏み砕かれ、ただ歩くという行為に自らのすべての生命を注ぎ込む。それだけで必要十分だった。いつか湖畔に春が訪れ、足場が水に変わってしまうかもしれないという不安は皆無だった。横たわると春の夜空を、白いシルクのドレスを纏った女神とも魔女ともつかない醜女があたかも美を誇るかのように鈍く上空を横切っていった。その顔に浮かぶ自信に満ちた笑顔は周囲の苦笑を誘うだろう。それは冷風として肌に感じられる。しかし予備校教師は広場では虚ろな目を虚空の見果てぬ湖へと向けたまま、静かに直立不動でいるのだ。下半身になにも着ておらず、脱水症状を恐れることなく尿を垂れ流している。そんな予備校教師の尿を脚に浴びながら、三十代後半の中学の体育教師の男が薄い笑みを浮かべて寝そべっている。両手を空に差し伸ばし、空中に浮かぶ透明な宮殿を求めているかのようだったが、瞳にはなにも映っていない。おでこのシワに灰色の汗が溜まっている。体育教師のビジネスホテルのような脳内には三人の女がくつろいでいて、彼と同じ顔をしており、同じ体つきだった。体育教師は彼女らに謝罪し続けていた。深い罪悪感に突き動かされるように、謝ることを止めることができなかった。謝罪のすべてはどこへも到達せず、ただふわふわと行く宛もない柳絮のように散らばった。それは耐水性のプラスチックに似ていた。善意も悪意も何も染み込まない中立を保つ物質性が、体育教師の脳内のビジネスホテルに居候する他者の属性だった。たまに空腹になると四人で安価なカップ麺を囲んで食べ、それから気を取り直して謝罪を再開する。その謝罪行為によって男のペニスは硬さを増してゆく。すべての罪を認めることは、玉ねぎの皮を向き続けるようなものだった。体育教師は自分自身を喪失してゆく興奮に耐えきれず、横隔膜の運動のようにひどくなめらかに射精し続けた。しかし広場にいる男のペニスは死んだフェレットのように永遠に大人しく収まったままでいる。その無害な毛むくじゃらを跨ぐようにして、政治家の女が通り過ぎた。その女の歩みははっきりしていて、目の前の障害物を避けるが、行き先はない。その目にはなにも映しておらず、精神は常に家電量販店を彷徨っていた。政治家は最新の家電を一つ一つ試しながら、自分のノートにその性能の評価を書き込んでいた。量販店は6階建てで、店員は一人もいない。虚しい音色の音楽がループし続け、小さな窓の外は常に夕焼け色だった。政治家は一人ぼっちの買い物を満喫しながら、しかし精神世界の家電量販店のものはすべて政治家の所有物なのだから、厳密には買い物することはできなかった。初めから買う気はなかった。なぜなら買い物は何かを買うことによって完了してしまうからだ。そしてそれは、単純な行動目的、毎日を灰色の濃淡で彩るタスクとなってしまう。それはこの広場から排斥されていた。たった今も政治家から垂れ流されている糞尿より、はるかにお粗末だった。すべてをここに置き去りにして、別の清浄な地へ移動する。そんなことができれば後始末の心配をしなくてすむのだが、誰ひとりそこまで頭を回してはいなかった。この広場では今この瞬間の忘我こそ尊重されていた。他者との比較や、そこから生じる不安や攻撃とは無縁で、自分ひとりと向き合っている。

人々は魔術によって日々の生活の、些末であると同時に膨大なタスクから解放され、完全な自由を獲得していた。その証拠が広場に並び立つ忘我の人々の、潔癖な白い影だった。

椎那は広場を見下ろすことに飽きることがないようだった。
「ああゆう生き方もあるのよね 人間っていろんな可能性があると思わない?」

と椎那は林に言った。
「でも、みんな自分の意思でああして、服を脱いだりして、ひたすらぼおっとしてるのかな ・・・・・・もし誰かにやらされているんだとしたら?」

林の声は少し震えていた。
「それでもだよ 自由ってことには変わりないじゃん? むしろラッキーでしょ 自分で何もしなくても、誰かのおかげで自由が手に入るんだとしたら」
「誰かからもらった自由って、本物の自由なのかな」

椎那は少し考えてから言った。
「・・・・・・うるさいなあ じゃあ、あんたが考える自由って何? 本物って何?」
「それはまだわからないけど・・・・・・」
「あんたは、あそこにいる人達がよだれを垂らして、ちんちんもおまんこもむきだしにしているのを見て、それでああ嫌だ、って思ってるってだけなんでしょ? 見た感じが気味が悪くてとっつきにくそうだから、それを自由ってポジティブな言葉で説明したくないってだけなんでしょ? 誰かに押し付けられた自由だってことにして、彼らを被害者にしようとしてるんでしょ? あれこそが自由だって認めたくなくて、表面的な否定を押し付けて!」

そこで椎那は言葉を止め、息を吐いた。蒼白になっていた顔に、少しずつ血の気が戻ってきた。
「・・・・・・ごめん、言い過ぎだね」

体育座りの林は首を横に振った。

「いいよ ・・・・・・もう少ししたら散歩道に戻ろう 警察が片付けてくれるよ、きっと」
「さっきあたしが言ったこと、もしかしたら歌詞にできるんじゃないかな どう思う?」
「うーん、良いんじゃないかな」
「良いわけないじゃん 適当言ってんね、きみ」

林は赤面した。本当に良いと思っていたのだ。

広場にはまだ大勢の人々が呆然と突っ立ていて、皆が幸福の意味を理解していた。人生の意義、人間の存在理由に、糞尿やよだれを垂れ流すことで抵抗しているのかもしれない。

タクシードライバー、食品会社の品質管理部員、組み込み系エンジニア、駅中の花屋の店員、コーヒーメーカーの営業、サロンスタッフ、大学の警備員、地方公務員、CMの作曲家、そしてその他大勢の人々は、自らに積み上げられたタスクを無視したうえ、蹴散らした。あるいは、糞尿を代わりに積み上げ、汚物の塔を建てた。

やるべきこと、やらなくてはならないこと、やらなければ社会的に破滅すると思い込まされた無数の些事は、この広場において棄却されていた。

が、世界はそれでもまったく問題なく持続している。広場に集まった人々がかつて生産的と思ってきた活動はある意味では、なんの価値もないのだった。取替可能だった。

この世界、この社会は無情なまでにレジリエンスが高い。これはまごうことなき事実だが、それによって救われることもあるだろう。

そう、結局のところ自身の存在は全くの無意味であるという、この爽やかな事実によって。

2024年6月1日公開

作品集『Hypnagogic Drift|ヒプナゴジック・ドリフト』最新話 (全7話)

© 2024 燐銀豆|リンギンズ

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