一 高砂橋
お江戸東京日本の都、幾千万の人々の喜怒哀楽を懐に抱いて今日も日が暮れる。東の下町葛飾の真ん中流れる中川にすらりと架かる白い橋。帝釈天の参道近く高砂橋と人は呼ぶ。さてここに、高砂橋の欄干に凭れて涙ぐむ女が一人。
生まれた時代が悪いのか、それともあたしが悪いのか。生んでくれよと頼みもせぬに、生まれた後は知らん顔。右肩上がりの浮かれ時代の旨みは少しも味わえず、繁栄終わった宴の後の、後始末だけ背負わされ、金を儲ける手立ても持たず、子を産むチャンスは奪われて、あらゆる世代に見放され放り出されたロスジェネ世代。まして女の身の辛さ、ただでさえ小さいパイを、皆で必死に奪い合い、女の取り分ありゃしない。男に縋って生きるにも、相手もやっぱりロスジェネで、逆に頼られ共倒れ。いにしえ人もこう言った、「よしや人と生まれても婦人の身とはなるなかれ、百年の苦楽は他人任せ」
オレンジ色の夕焼けに行き交う電車のシルエット、進むに進めず退くにも退けず、ゆらゆら川面を覗き込み、ため息ついては涙がこぼれ、きらきら水に落ちて行く。
「娘さん、早まっちゃいけねえよ」
耳元で男の声がした。
「何があったか知らねえが、死んじまったらお終えだ。死んで花実の咲くものか、命あっての物種って言うじゃあねえか」
「はい?」
振り返れば高砂橋の淡い街灯に照らされて、男が一人立っていた。四角い大きな顔が屈託なげにニコニコ笑っている。
「こんなお嬢さんが一人で泣いているからにゃあ、さぞかし辛い訳があるんだろうなあ。俺で良かったら聞いてやるぜ、話してみねえ」
知らない男に馴れ馴れしく話しかけられ、その上、四十過ぎた自分がお嬢さんと呼ばれ、女はただ当惑するばかり。
「あの、あたし、別に死のうとしてたわけじゃ」
しかし男は一方的に話し続ける。
「そうかい、言いたくないなら聞かずにおこうぜ。あんまり悲しそうだったから、ちょっと声かけてみただけで、悪い了見なんかありゃしねえよ。俺か? 俺はただの通りすがりのしがねえ半端もんさ」
そう言って男は腹巻から薄汚い封筒を取り出し、
「少ねえけどこれでなんか旨いもんでも食いなよ。腹いっぱいになりゃ元気も出るさ」
「えっ、あの、でも」
男はいいからいいから、と身体を後ろに引きつつ、
「葛飾柴又の帝釈天の参道にな、とらやって団子屋があるんだよ、そこが俺の家だ。寂しくなったら行ってみな。きっと家のもんが良くしてくれるからよ」
「あの、私、こんなの受け取れません!」
追いかけようとしたが男は大股でずんずん去って行った。
二 葛飾柴又団子屋とらや
「それ、うちのお兄ちゃんだ。間違いないわ」
さくらが言えば、
「そんなことするの兄さんしか考えられない」
さくらの夫の博が頷き、
「寅だ、寅に違えねえ」
おいちゃんが身を乗り出す。
「高砂橋なんて目と鼻の先じゃないの、お兄ちゃん、どうして帰ってこないの?」
「なんだって? 寅ちゃん、どこにいるんだい?」
お茶を運んできたおばちゃんが割烹着姿で座り込む。狭い居間のちゃぶ台で、四人の人に囲まれて、女はちょっとたじろいだ。
「そ、それで、これ、お返しに来たんです」
例の汚い封筒をちゃぶ台の上にそっと置く。
「見ず知らずの方からいただけませんから」
「それでわざわざ訪ねてきてくれたの?」
「まあ、律儀なお嬢さんだねえ。今どき見上げたもんじゃないか」
「貰っておきゃあいいんだよ。どうせいくらも入ってやしねえさ」
「知らない男に金はもらえないよなあ」
賑やかな会話について行けず、女は途方に暮れている。それを見て取ったさくらが、みんなに黙るようにと合図した。
「騒がしい家でごめんなさいね、ちょっと中を見てもいいかしら? お兄ちゃんの居所が分かるかもしれないから」
さくらは封筒を検めた。
「車様お勘定書き、代金として四千六百六十円、宿の領収書ね。お金なんか入ってないじゃない。小銭だけ百円玉と十円玉と……三百四十円。呆れた、これで旨いもの食べろって言ったの?」
たちまち人々の笑い声がちゃぶ台の上を飛び交う。
「相変わらずそそっかしい奴だよ」
「こりゃあれだね、五千円から四千六百六十円使っちまったこと忘れてお釣りだけ渡したんだな」
女は慌てている。
「あの、あたし、封筒を開けていませんから! 本当にそのまま持ってきたんです」
「当たり前よ」
さくらが笑いながら言う。
「お金を抜いて封筒だけわざわざ返しに来る人がいるもんですか。でも届けてくれてありがとう。ね、よければ夕飯でも食べてって。お兄ちゃんの様子、もっと聞かせてほしいから」
「とんでもありません。これで失礼しますから」
しかし人々はその言葉を聞いていない。
「おう、ちょうど飯時だ。食って帰りな」
「今日は芋の煮っ転がし作ったんだよ。寅ちゃんの好物なんだよ。今持ってくるからね」
「おばちゃん、お客さん用のお茶碗、棚の一番上だから! 違う違う、そこじゃなくて!」
「ビールが冷えてたな。まあ一杯やりましょうよ」
つつましい夕食の席でさくらが尋ねた。
「そういえばまだ名前聞いてなかったわね」
団子屋の人々の開けっぴろげぶりに女も今はすっかり打ち解けて、ふっくらした頬にえくぼを見せた。
「三橋茜と言います。三つの橋に茜雲の茜です」
三 フーテンの寅さん
フーテンの寅さんこと車寅次郎が、とらやにひょっこり戻って来たのは、茜が帰り支度をしていた頃だった。
「茜ちゃん、これ、お土産に持って帰りな」
おばちゃんは草団子の折を茜に押し付けていた。
「お夕飯ごちそうになった上、お土産だなんて」
「いいんだよ。さ、冷蔵庫に入れとけば三日は持つからね」
「でも……」
「なんだいおばちゃん、団子の折一つっきりかい? しみったれたこと言ってねえで、十箱くらい持たせてやんなよ」
頭上から轟き渡った大声に振返ってみれば、見覚えのある大きな四角い顔。
寅ちゃん! 寅! お兄ちゃん! 兄さん! と、またまた家中が大騒動。どうしてたんだ、どこ行ってたんだ、達者だったか、そうかそうか、ちょっと痩せたか? こっちは相変わらずさ、と、しばらく収拾がつかない。
それから寅さんは帰るという茜を無理やり居間へ連れ戻したのであった。
「で、茜ちゃんよ、なんで死のうとしてたんだい?」
「いやだ、死にませんよ。落ち込んでただけで」
正座に慣れない膝を崩したり座り直したりしながら、茜は身の上話を始めた。
不況に喘ぐ世の中で、爪に灯点すようにして、女手一つで育ててくれた、母のためには絶対に、社会に出たらバリバリ稼ぎ、苦労に報いるそのはずが、何の因果か間の悪く、就職氷河期真っ最中。来る日も来る日も選考落ちで、面接さえも受けられぬ。やむなく始めた派遣の仕事、メーカー問屋に販売店、営業経理受付嬢、デパートブティックスーパーに、工場農場水産場、出向いた職場は数知れず、気が付きゃ四十路もとうに超え、母には楽もさせられず、それでも日々を生きるため、若くもない身に鞭打って、遅刻欠勤一日もなく、必死で勤めた職場から契約終了告げられて、ただただパニック周章狼狽、身の置き所もない思い。
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