睡眠薬によって、夢など見るのだろうか。仮に見るのだとしても、それはきっと人間の駄目な所を混ぜ合わせて塊にした様な、気持ちの悪い夢だろう。ストーリーすら無い、ただの風景。
だが僕は残念な事に、例の少女……西馬琴葉に睡眠薬を盛られ、眠っても夢など見なかった。おそらく夢に出来る程の人生が僕には無いのだろう。そう思うと、少し残念だ。
とにかく。
彼女の部屋で眠らされ、次に僕が目を開けた先に広がっていたのは……浴室だった。……いや、ただ単に「浴室にいた」という言葉だけでは、この状況を説明するのに不足している。
僕は両手を後ろで何か頑丈なロープの様な物で縛られ、動けなくさせられていた。おまけに両足も同じ様に縛られていて、今の僕は全く身動きが出来ずにいた。
姿勢は四つん這いを崩した風にならされている。……実を言うと、僕が今いるのは正確には浴槽の中だ。浴槽自体は乾燥している。僕は人二人入るのがやっとくらいの浴槽の中に、この様な姿勢で待たされている。
僕がこの状況を理解し大声をあげる前に、浴槽の傍から声が聞こえた。
「あ、おにいさん起きたんだ。おはよう」
何も、普段と変わらないごく平然とした声。姿は姿勢の関係で見えないが、分かる。先程まで共に紅茶を飲んでいて……そして僕に睡眠薬を盛り、この状況を作り上げた無垢な女子中学生。西馬琴葉だ。
「琴葉ちゃん……一体何を」
「あ、聞いてなかった? ……ボクね、一回溺れた時凄く気持ち良かったから……だからおにいさんにも体験させてあげようと思って」
僕はこの時に始めて血の気が引くという感覚を知った。僕の命は今危険に晒されているのだという事を本能的に理解したのだ。
相手は社長令嬢だろうと、所詮ただの女子中学生。だからそれこそ命を狙われるなんて事は無い……。そう思っていた。
だが僕は御覧の通り、いつ死んでもおかしくない状況。
ははは。女子中学生に殺された成人男性。なんてお笑いだ。
だが何を言っても、僕にはどうする事は出来ない。今はただ、この少女に全てを握られている。そんな状況が情けなくて、命を失う恐怖よりも馬鹿馬鹿しさが勝ってしまい何だか笑えてくる。
「……君は僕を殺すのか」
僕は彼女に聞こえるか聞こえないかの境目の声で言った。すると彼女は僕にさも当然の事を疑う様にこう言った。
「え? だっておにいさん死にたいんでしょ? だから自殺同好会に来たんじゃないの?」
思わず笑いが込み上げた。そうか。確かにそうだ。彼女の言う事は至極当然だ。西馬琴葉と何故知り合ってしまったのか、そして何故僕はここに居るのか、今やっと思い出した。思い出してしまった。
僕は軽はずみに命を失おうとしている。全て僕が悪いのだ。誰のせいでもない。ましてや彼女のせいでもない。命という物を簡単に諦めようとしていたこの僕が……。
「ふふ、そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。すぐに気持ち良くなれるからさ」
彼女はそう言って下を向くしかない僕の頭を撫でてくる。その手先は確かに親切で暖かい物ではあったが……まるで僕には今まさに殺処分されようとしている動物を撫でている様にも感じられた。
彼女は手を離すと、蛇口を開いた。途端、上から冷たい……僕を死へと導く水が降ってくる。
「大丈夫。ちゃんとここで見とくからね」
彼女は独り言を言う様にそう言った。
水の勢いは増す一方。どうやら彼女は本当に僕を殺すつもりらしい。
今、水位は大体腰辺り。……幼児が浸かる程の、浅瀬だ。だが今の僕にとってはそれすら大海に等しい。顔を上げられない僕は、腰程度の水で溺れてしまう。
「なあ……助けてくれ……本当に死んでしまうよ」
「……ボクの意見なんだけどさ。おにいさんは生きてるより死んだ方が絶対幸せだと思うな。なんとなくだけど。……早くおにいさんの死に顔が見たいな。絶対幸せそうな……良い笑顔してると思うんだけど。どう?」
水に攻められる恐怖の中で、彼女の狂気が重くのしかかってくる。
僕は改めて思い出した。彼女は決して「自殺同好会」などと、気取って名付けた訳では無いのだと。……そうでなければ、僕をこんな目に遭わせたりはしない。
ただ今待っているのは、紛れもない本物の死だ。そして僕はどうする事も出来ない。
「ああ……死ぬのか……」
僕はただそう呟いた。その声すら大量に押し寄せる水によって掻き消され、彼女には届いていない様だった。
間も無く僕の鼻と口が水に浸かる。僕は地球の全ての酸素を吸い取ってしまうのではと思う程空気を吸い込んで、そして鼻と口を水に浸けた。
冷たい水が僕を死へと誘う。それはまるで、引きずり込もうとする悪魔の様でもあるし、母の様な優しさで極楽へと導こうとする天使の様でもある。だが僕にとってはどちらも敵だ。
必死に息を漏らすまいと躍起になっている。そりゃそうだ。僕はこの身体に残っている酸素が全て無くなってしまえば、すぐに悪魔と天使が僕の命を狩り取りに来て、現実的な死が訪れる。死んでしまえば、それ以上は無い。終点だ。
時々、僕は神の存在を信じる事がある。こうして僕がろくな人生を送れていないのも、全てが上手くいかないのも、結局全部悪いのは僕なんかじゃなくて神様のせいなんだと。小さい頃から使っている便利な言い訳だ。
だが欠点もある。それが今。
神様は、自ら人を殺したりしない。
神様は皆望んで人を生んだのだから、自ら人を殺したりはしない。僕はその結論に中学生の頃気付いた。
ああ、何て事だ。
中学生の頃の僕よ。何故その事に気付いてしまったのだ?
気付かなければ。僕がそれに気付かなければ。
この言い訳はずっと続いて……苦しむ事なんて無かったのに。
僕の中の酸素が無くなった。がぼっと口が開いて、中から水が入ってくる。
彼女の言っていた事を思い出した。「自分が水と一体になって、消えちゃいそうな感じ」。全くその通りだ。
僕の身体の中に水が入り込んできて、僕の全てを水で埋めようとしてくる。そして僕はその内水と一体になって、そして息絶える頃には消えてしまうのだ。誰も僕の事を記憶にしないまま。
息が出来ない。そんな簡単な事に僕は苦しんでいる。ただ今顔を上げて酸素を入れる事も出来ない。完全なる詰みだ。
僕は、ここで、終わり。
退屈な人生だった。嫌な人生だった。……けれど、こんな所で終わってしまうのか?
女子中学生に風呂場で溺れさせられて?
そんな事を考えても何も変わらない。
気持ち良くなんかは無かった。ただ僕にはこのまま消えてしまう恐怖と息苦しさの痛さが響きあっている。
世界は閉ざされる。僕への天罰。
苦しい。水が全てを壊す。壊していく。苦しい苦しい。気持ち悪い。
僕の嗚咽だけが浴室に響いている。
「……おにいさん、死にたいんじゃなかったの?」
浴槽に僕の頭から出た血が張り付いている。おそらく頭をぶつけたのだろう。水は抜かれ、拘束も解かれたが、未だに僕は上を向けずにいる。そんな僕に彼女は嘲笑う様にそう言ってきた。
「そりゃ急にこんな事したボクも悪いけど……おにいさんの気持ち分かんないなあ、ボクには」
彼女は淡々と、何かを諦めた風に語る。僕はその間、ただ息を整えて生へと戻ろうとしていた。
「……まあいいや。そんなに落ち込まないでよ。またいくらでもこういうの準備してあげるから……」
その瞬間に彼女は血で汚れた僕の頭を撫でようと、触ってきた。
その瞬間の感情は今でも信じられない。僕は彼女を拒絶した。ただの女子中学生なのに。
「やめろ!!」
僕は彼女の方を見ずに右手で彼女の手を跳ね除けた。
「……おにいさん?」
「……もうやめてくれ……。これ以上僕を殺さないでくれ……誰か助けて……」
僕は泣いた。浴槽の中の水溜まりに、僕の涙がしとりしとりと落ちて波紋を描いていく。それに加わって僕の頭から流れる血がその水溜まりを真っ赤に染めていく。
「……僕はただ……幸せになりたいだけなのに」
僕にあるのはそれだけだった。こんな人生は送りたくない。ただ幸せになりたい。
日常にちょっとした楽しみがあって……帰れば少し拘った珈琲を飲んで、光る月を見て楽しむ……。そんなちっぽけな幸せが欲しいだけ。
その時、彼女が僕を見てすっと立ち上がると、浴槽の中にゆっくりと入ってきた。
そしてしゃがみこむ僕の肩をそっとその細い腕で抱くと、身体を僕に寄せた。
「……おにいさん、今までいっぱい辛い思いしてきたんだね。偉いよ。……やっぱりおにいさん、ボクと似てるね。幸せを求めて、不幸になっちゃう」
彼女はそう言いながら、僕の濡れたスーツの背中を、まるで我が子を抱く様に撫でる。
……僕は何故泣いているのだろう。
「……おにいさんは大丈夫。ボクが居るから。……だからさ。一緒におにいさんの幸せ、探そうよ。……ボクなりに頑張るから」
僕はわんわん泣いた。……今まで受けた事の無い暖かさに泣いていた。
今までこんなに優しい言葉をかけられた事なんて無かった。僕の今までの人生は、そうやって進んできた。
だが彼女は違う。彼女は僕に愛情をくれた。僕を褒めて……慰めてくれた。
「うん……うん……」
やがて彼女は僕から少し離れ、顔を見ようとする。
彼女の顔は僕の血で真っ赤に染まっていた。それでも彼女は僕に優しく笑いかける。全てを許容して。
僕達はただ抱き合った。……これからの、僕達について語り合うにはただそれだけで十分だった。
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