まだ涙はでるか

Hypnagogic Drift|ヒプナゴジック・ドリフト(第3話)

燐銀豆|リンギンズ

小説

11,126文字

・マーサは速度を出すために身体を改造している。
・サムがマーサをオープンカーに乗せて、海岸線をドライブする。
・世界陸上の舞台で、ハイジャンパーのノミの首がねじ切られる。
・サムはフェリス・スプリンターと秘密の相談をする。
・涙を道しるべに夜道をスプリントするマーサは、最高速度を出して原因と結果を逆転させる。
・一定の速度が悲しみを置き去りにする。

アスリート御用達のクリニックのエントランスに、一台のオープンカーが人待ち顔。

搭載するV6エンジンはあらゆるものを置き去りにしたけれど、車体にこびり付いた汚れはしつこく追いついてきてけっして剥がれない。だからかつては炎天下のトマトのように赤く熟していた車体も、いまや汚れで色がぼやけてる。「天使のおしりの皮膚みたいでキュートだね」と、マーサはピンクのパステルカラーに変色した車体をむしろ気に入っていた。「生涯現役でいてね」

車の運転席に白いタンクトップを着た、懐かしい夕暮れのような肌をした女。いや、この人はマーサではない。バックミラーで自分の笑顔を確認中。バックミラーが「魅力的ですよ」と女を無言で励ます。「そんなこと分かってるわよ」と、むき出しにする歯はキャベツ畑を羽ばたくモンシロチョウのように真っ白で、パチパチと点滅している。

クリニックの自動ドアが開いて、タイトなデニムに凶悪な「埋め込み機器」のシルエットを浮かばせる女が出てきた。正規品のただならぬ高尚なオーラ、正常なネットワークにも接続されている。

「マーサ! マーサ!」

と、オープンカーからたくさんの白い蝶が笑い声を上げながら飛び立つ。その大げさな出迎えを受けて女はうつむきがちの、少し照れたような笑みを浮かべた。マーサがオープンカーにそそくさと駆け寄る(「駆けた」とはいえ、もちろんそれは猫を被った常識的な速度であって、本気で走ったわけではない)。
「今日だってこと、知ってたの?」

嬉しさを言葉ににじませて、マーサが運転席の女に訊く。ぴょん、と屋根のない助手席に飛び乗りながら。
「知らないよ、なんとなく来てみたんだ 動かすよ」

オープンカーは素晴らしくなめらかに発進した。大きく息を吸って口に溜め込んだ空気は、勢いよく一気に吐き出すこともできれば、薄く開いた口から細く少しずつ吐き出すこともできる。今、エンジンは後者の繊細さをみせていた。

流し目を送る路上の浮浪者たち。都市の隙間、ほぼすべての時間を眠って過ごしているけれど、突如鼓膜を貫いたハイレゾなエンジン音に興奮したのだった。脳をカフェイン濃縮液でじゃぶじゃぶ洗ったみたいに目がバキバキ。でも少し時間が経って気づく、胸(の中の魂、もしあるとすれば)を占める強烈な寂しさ。すべては手の届かない夢。人間たちは平等ではなかった。夜空の星のように手の届かない夢という真っ赤な嘘、というのも金さえあれば手が届くだけでなく、足蹴にすることだって可能だから。金がなければ仰向けに寝転がって、おはじき遊びみたいに星を指で弾く真似をして溜飲を下げることくらいしかできない。なんという経験の差だろう、そして置き去りにされる。

・・・・・・窓のない車内を潮風が行き交う、青空と入道雲、爽やかな午後2時。
「ねえサム、わたし、あなたが来てくれて本当にうれしい」マーサは丹精に心を込めて言う。「だって、今日だってこと教えてなかったのに、来てくれた! わたしたち、心が通じ合ってるみたい!」

うっとりとしたマーサの瞳は運転席の女__サムの横顔の繊細な描線を行ったり来たり丹念に辿っている。傍から見ると目を回してしまっているかのよう。なぜそんな眼球の運動を? いや、そんな愚かな問いは止そう。

はぁ、と吐かれる熱い吐息を受けながら、サムが涼しげに言う。
「じつはフェリスに聞いたの」

サムの声は山麓を流れる清流を思わせる。川魚は平和に背泳ぎ、若い牝鹿は水面に自らの顔を映してはほのかに頬を赤らめる。靴下を脱いで疲れた素足をひたすには少し冷たすぎる? そんなことはない。足の指先からアキレス腱を伝って昇ってくる涼しい活力がハイキングの疲れを忘れさせる。

埋め込み手術、俗流に言えばサイボーグ化の儀式の日が近づくとマーサは必ず、ライバルであり数少ない相談相手でもあるフェリスを食事に誘う。フェリスはマーサからの誘いがあると、ああ、また埋め込みの相談ね、と察するけれど、実際に大した相談がなされるわけではない。シリアスなのは全体で数分くらい。あとはアルコールを燃料に二人で大疾走。笑い声が車のテールランプのように夜の街に長く尾を引くイタリア未来派的光景は、それほど悪趣味ではない。
「わざわざ? ねえ、わたしなんかに興味を持ってくれて本当にうれしい」
「当然でしょ あんた、手術のことあたしに全然相談してくれないんだから」
「うん・・・・・・」
「あたしに心配かけないつもりだってことは分かってるけど、教えてくれたらこうして、迎えに来てあげることもできるのに」
「・・・・・・サム、あなたの負担になりたくないの わたし今はまだスプリンターとして二流だけど、いつかきっと・・・・・・」
「いつかきっと?」
「ううん、なんでもない・・・・・・」

マーサは履いているランシューに視線を落とす。紫色の稲妻が、オレンジ色の雲から飛び出しているデザイン。スプリントシューズメーカー SHIDEN の最軽量モデル。そのデザインは、いつもマーサ(と、その他大勢の世界中のスプリンターたち)に勇気を与えている。

入れ替わるように今度はサムが、口を閉ざしてしまったマーサの横顔を眺める。流線型でなめらかに整えられた顔にはできもの一つなく機能的。重力に反逆するまつ毛だけがその流線型の統制に従わない。カプセルに詰めた海水のように青く輝いている眼球を飾るために、そのウミネコの羽のようなまつ毛はあった。

すでにオープンカーは自動走行に切り替わっている。オペ直後の太ももの上に置かれたマーサの手の上に、サムの夕暮れのような手が重ねられる。
「マーサ、あんたは自信を持たなくちゃ」
「そうだよね 本物のスプリンターはみんな強い心を持ってる・・・・・・」

オープンカーがトンネルに入る。オレンジ色の光が、等間隔のリズムで二人を照らし、闇に隠し、また照らし、隠す。たん、たん、たん、光の濃淡の一定のリズムがある。そのうちのひとつを合図にして、サムがマーサにくちづけする。それは長く、光と闇のリズムを跨ぎ、すー、すー、と確かな呼吸音が触れ合っている。2つの影が1つに溶けている。
「あんたは優しい子 あんたは誰かのために頑張れる子 そうでしょ? あとは自信を持つだけよ」

そう伝えるサムの言葉にまとわりつく不穏な気配に、マーサはまだ気づいていない。

「そうかな」
「そうよ あたしが保証する」
「・・・・・・じゃあさ、もう一回してくれる?」

トンネルを抜けると海岸線だった。空は広く、しなだれ合う二人を載せたオープンカーは一度も止まることなく全自動で走り続ける。

 

 

去年の世界陸上、100メートル走の決勝8人の中にマーサの姿はなかった。

そこに並ぶだけの実力があったことがむしろ悔しさを助長する。もし、あの最悪の準決勝で、ふくらはぎの埋め込みがもう少しだけお行儀よくしてくれていたら・・・・・・。もし30メートル地点で、ふくらはぎから不穏な黒い煙が立ち昇るようなことがなければ・・・・・・。そんな「たられば」を並べ立てるのは、ノミに叱られてやめた。あなたの妄想でこの場所を散らかさないでください。

でも、口に出すのをやめただけで、マーサの胸の底ではまだ後悔がくすぶっている。冷笑の息を吹きかければ、すぐにその火種はぐらんぐらんと揺れて大火へと成長する。

準決勝の直後、サムとノミの二人が更衣室のマーサを訪ねてきたとき、明るく振る舞おうと無理するマーサの表情は直視しかねた。微笑みは、悔しさと不甲斐なさの痙攣に侵食されて痛々しく紫色に鬱血していた。ときには、天井に張り付いた天使とやりとりでもしているかのように、地上のサムとノミの言葉に反応しなくなる。10秒ほどの無反応を経て復帰するけれど、何事もなかったかのような素振りがむしろ不穏だった。

最初こそビロードのように優しい手触りの言葉ばかりを掛けていたサムも、しびれを切らしたようすで、
「しっかりしてよ」

と、喝をいれる語調にもしかしひとつまみの愛が隠してある。対してノミはいつもと変わらず辛辣。
「練習で使いこなせない埋め込みは、本番でも使いこなせません わかりきってることです どうしてわからなくなってしまったんですか これは当然の結果です 自明の因果です」

改めて突きつけられる一般論ほど、傷ついた心を踏みにじるものはない。傷ついた心には個別の処方箋が必要だという一般論を、ノミは考慮しない。マーサの耳には「きみは当たり前のことすらできない愚鈍な落ちこぼれです」と、まだ言われてもいない言葉まで聞こえてくる始末。

「練習ではうまくできてたんだもん・・・・・・」

マーサは泣き出した。サムがノミを睨みつけ、マーサの肩を優しく抱く。

ノミはマーサの反応とサムの視線が含む人間的湿度に慄然としつつも、数少ない友人をなくしたくないという思いが働いたようす。だから、
「まあ、待っててください あなたが取りこぼした分、代わりに自分がリベンジします 最高高度、出します」

と言った心に偽りはなかっただろう。

数時間後、なんとか落ち着きを取り戻したマーサと、その腰に手を回すサムの姿が応援席にある。サムは緑色の麦酒を味見中。双眼鏡の中のノミは、フィールド上で楕円を描くトラックの内側の、大きなクッションのあるエリアで出番を待っている。

今、高さ4m以上ある水平のバーに一人の跳躍者が手ぶらで突進していく。身長は上限規定の2m25cmぴったり。無駄のないリズミカルな助走にズレはなかった。内部機器群の完全なオーケストレーション。速度も十分。踏切の瞬間、アイドル状態だったエンジンが発火し、ピンク色の蒸気が膝から噴射。跳躍者の身体が空高く飛び上がる。・・・・・・でも角度がまずかった。斜めに歪んだ射線は、飛び越えるべきバーへの直撃を運命づけていた。

判定ロボが失格の旗を勢いよく上げる。クッションから起き上がった跳躍者は苛立ちをあらわに、長い脚で判定ロボを蹴っ飛ばす。ストレスを感じたらすぐに発散するべきであって、相手は低級のロボなら、なおさら遠慮はいらない。

ノミの順番がきた。

応援席のサムはビールを右手に、左手で20cmはあるフランクフルトの味見中。マーサは隣に座る美女に双眼鏡を向け、夕暮れ色に染まったレンズにうっとり両目を埋めている。サムのすべての所作が造物主のもたらした奇跡。優しく慰めてもらった後だから、余計にそう感じた。

二人が見ていない間に、ノミの跳躍はピンク色の蒸気とともに成功した。拍手が起こる。

これで生き残っている選手は4人に絞られた。メダルはノミの手の届く場所にある。

でも、メダルにはありつけなかった。ノミの実力不足? 違う。実力は拮抗していた。それなのにメダルはお預けになった。誰一人として、メダルにありつけなかった。

肌を薄い紫に修飾して明らかに非人間化の進んでいる一人の選手が、周りにいた三人の生き残り・・・・の息の根を止めてしまった。それは、静かな、手慣れた作業だった。す、す、す、と適当な部位をひねる。ボルトをしめるみたいな習慣的動作、一切の躊躇なく非人間的な膂力で。人間の一生がたったこれっぽちの手順でおしまいになるなんて信じがたい。もう続きは無い。有り得べき未来は消えた。テーブルの上の食べかすをふきんで拭き取るみたいに、人生の可能性は跡形もない。

機械に、魂を奪われて錯乱したのだった。機械は、いつだって人間を殺したがってる。

遅すぎるセキュリティが突入してくる。三人を殺した選手は烏賊のように黒い蒸気を撒き散らして、飛び跳ねながらの逃走を図るけれど追尾弾を撒くことはできなかった。腰に突き刺さった針からショック電流が流れ込み、空中制御を失って青いゴムの地面に墜落。取り囲まれて静脈に抑制剤の注射。

やがて意識を取り戻すだろう。そして、例に漏れず、自身の犯した罪を知らされて一生を陰鬱に過ごす。なかには自らを機械に見立てて、故意に自身の電源を落としてしまう者もいる。というのも、このような事故は常態化しているのだ。人間の心の、早急な非人間化が求められる。

さて、短距離走の決勝は同日、3つの亡骸の隣で行われた。そこで優勝したのがフェリスだった。

その日からフェリスは、フェリス・スプリンターになった。

 

 

「サム、つまらない冗談はやめてくれ」

フェリス・スプリンターはソファーに深々と座って、内部の筋繊維の見えるスケルトン細工の美しい脚を組み直す。ローテブルの上のトロピカルな色のお茶が入ったグラスが汗を流している。フェリスの弟子の短距離走者がフルーツの盛り合わせを運んできた。下に押しやられたフルーツの果肉が潰れないように三次元的な配置が施され、さながらカラフルな全方位的な掛け軸だった。フェリスが空中に浮かぶカットされたブルー・マンゴーを指でつまんで口に放り込む。
「冗談に聞こえた? それならあんたの耳が馬鹿になってる 拡張手術でもして、耳の穴を広げたらどう?」

そう言うサムは、グリッターマスカットを奥歯で噛み潰している。フェリスとサムだけの密会。マーサが誘われなかったのは、マーサのいない場所で、マーサのことを話し合うため。
「そんなことして、マーサが喜ぶわけねえのに」
「知ってるでしょ、去年、ノミがどんな目にあったか」

ステンドグラスに塗り込まれる夕暮れのオレンジ色。
「だけどあいつ自身はマーサと同じで節度を持ってた イカれちまったのは別の選手だったろ」
「首をねじ切られたのよ ふざけた怪力で、一瞬で」
「不慮の事故だ」
「あんたって、血の代わりに軽油でも流れてるわけ?」
「そこまでの改造はまだしてない それに、マーサはマーサだろ 種目も違うし ノミのことは関係ねえ」
「でももしマーサがノミと同じような目にあったらどうする?」
「・・・・・・アスリートはいつもそういう危険と隣り合わせだ でも、だから、私たちは奇跡みたいなタイムを刻むことができる 人間の限界を更新することができる、だろ?」
「は?」

サムが苛立たしげに髪をかきあげた。

「知らないわよ あたしはそんなくそったれアスリートじゃないの」
「そういうものなんだよ」
「あんたはもう成し遂げたからそう言えるのよ でしょ、フェリス・スプリンター」
最後の「フェリス・スプリンター」を、サムは一語一語、侮蔑的に発音した。
「あんたの足元に、一体何人の短距離走者の亡骸がある? 生身と機械の区別がつかないくらいぐちゃぐちゃになっちゃって あんたはたまたま成功したってだけ マーサも同じように勝てるとは限らない」
「私がいる限りそうかもな でも、だからといって可能性を奪うのは違うだろ」

フェリスの弟子の短距離走者はすでに13人を数える。日々、多岐にわたる雑務とトレーニングに励むが、彼女らには零コンマ1ミリほどの見込みすらないと、フェリス・スプリンターは考えている。走り方はひとに教わるものじゃない。とくに短距離走は独走必至。無限の加速の先で、自分自身を見つけたいと願う求道の道・・・・・・。フェリスが期待をかけているのはマーサのみ。マーサだけは自分に届きうる。いや、もう届いてる。あとは不確かな運を引き寄せる自信さえあれば。
「頑張って戦って戦果を上げれば、いつか将校になれるかもしれない、って騙して、大事な人を戦地に送り込めって? あんたはそう言ってるのよ、結末がわかっているのに止めようとしない」
「違う! きみはきみ自身で血なまぐさい方に寄せて考えてんだ マーサには本当に才能がある 私は誰にでもこういうことを言うわけじゃねえよ いいか、この屋敷に住み込みで奉仕する弟子たちの誰一人、マーサの才能の足元にも及ばないことは明らかなんだ」

偶然耳にしてしまった弟子の一人が、愕然とした表情を浮かべ、手に持っていたトレイを床に落としてしまう。
「・・・・・・なおさらいいじゃない あんたのライバルが、ひとり減るんだから」
「協力できねえな、サム、きみのことは好きなんだが、こればっかりはスポーツマンシップが許さねえ」
「そんな古臭い倫理と、外人化の手術は共存しないでしょ?」
「する 極限の速度の中では、矛盾した観念が溶け合うんだぜ あと、その外人化ってのは差別用語だ、気をつけな」
「・・・・・・あんたがあの子に、それをそそのかしてるんでしょ? 知ってるの」
「何の話だ? マーサは自分の意志で、もっと速くなりたいって願って非人間化を決断してる 私に相談を持ちかけてくるときはもう、彼女の中ですでに決心はついてんだ」
「嘘つかないで」
「サム、冷静になれ」
「冷静? 何言ってるの? あたしはあの子を失いたくないだけ・・・・・・」

サムの涙声を、フェリスはこのとき初めて聞いた。
「人間、死ぬときは死ぬじゃんか」
「そのへんにいる人間なら、死のうが生きようが勝手にすればいいよ あたしには関係ない でも・・・・・・」
「・・・・・・マーサと直接話すんだな 私は協力できない」

サムは目に涙をためてフェリスを見つめる。
「お願い あたしたち、古い友だちでしょ?」
「・・・・・・ごめん、私はアスリートなんだ」

はあ、とサムのため息。

自分自身のため息に乾かされたように、サムの目に浮かんでいた疑似涙の潤いの膜はすでに消失している。まるで煙のように。
「交渉決裂ね」

サムは立ち上がりざま、ローテーブルの上の芸術的な盛り付けのフルーツをなぎ倒した。そして残った硝子の皿を、フェリスの顔めがけて投げつける。フェリスは亀のように首を縮めて回避。派手な音をたてて皿が割れた。散らばっていた弟子の短距離走者たちが慌てて応接間に集まりだす。
「アスリートなんて、みんな自己中のくそったれよ」

サムは玄関脇の像を横切りながら「趣味の悪い彫像! 成金趣味!」と大声で吐き捨てる。それはいにしえの左派リベラルのアーティスト集団が考案した、機械と人間の融和図を3D化したものだった。機械が個人の弱点を補強することで人間同士の能力格差がなくなり、真の平等が実現し、平和な人間的世界が築かれる。今となってはひまわりのように楽観的で、ちくわのように空っぽかつ、やわなコンセプトだった。
「最後に聞いていいか?」と、フェリスが割れた皿のかけらを意味もなく一つ掴みながら「去年の世界陸上のマーサのふくらはぎの不具合は、きみなのか?」と尋ねた。

サムは答えなかった。

 

 

マーサが何度電話をかけても、サムは出なかった。

二人がよく通っているカフェで人びとが見かけるのは、一人ぼっちで肩を落としているマーサの姿だけ。黒いコーヒーから立ち昇る白い煙と向き合って動かない。彼女のファンも声をかけるのをためらう雰囲気。やがて冷めたコーヒーは煙を吐くのを止め、より濃くなる黒。熱力学第二法則は万物に当てはまるルールで、マーサにも、サムにも、隔てなく適用される。

世界陸上前日の夜、マーサは不安な気持を抱えたまま電気槽に入って身体の余計な電気を放電していた。このデンキナマズ療法は、機械と協働するアスリートの定番の最終調整として知られる。

そのとき、マーサ同様に音信不通だったフェリスから電話がかかってきた。そこでマーサは初めて、サムの裏工作とその頓挫を知った。フェリスは続けた。
「このことを言うべきか分からなかった だから黙ってた、ごめんな だけどカフェに一人ぼっちでいるきみを見かけて、やっぱり言わないでいるなんてできねえって思ったんだ スポーツマンシップは、臨機応変な判断力のことだ だから私は、スポーツマンシップに則り、きみにすべてを話すべきだって判断したんだ・・・・・・ 明日は世界陸上だろ? 私たちは明日一日のために364日生き延びてきたわけだ もやもやを抱えたまま明日を迎えるなんてことがあっちゃいけねえ まだ自信はねえけどな こうして打ち明けちまうことが、君とサムにとっていい結果になるか、それとも・・・・・・」

フェリスは気分が上ずっている様子。明日は大舞台、仕方のないことかもしれない。普通のアスリートなら、そうあってしかるべきだろう。マーサだけが例外的にどん底だった。人と喋る気分ではなかった。
「・・・・・・まあとにかく、私は君とアスリートとして戦いたいし、サムとも和解してほしいって思ってんだ これは本当、嘘のない気持ちなんだぜ わかるよな」
「フェリス、もうわかったから、わたしの話を聞いて 最後に会ったときのサムは、これからどこに行くか言ってなかったの?」
「待ちなよ、サムを探すのなんて後回しでいいじゃないか まずは目の前の世界陸上だろ?」
「答えて」
「・・・・・・なにも なにも言ってなかった 私が協力しないって言ったら、サムはぷりぷり怒って出てったんだ そういえばあいつが泣いてるところ、初めて見たな」
「泣いた? サムが?」
「ああ、一瞬だけどな 目に涙を浮かべて ・・・・・・きみも見たことないだろ?」

マーサは電話を切った。

電気槽が警告を発する。
「動かないでください 体内電気のトリミングは現在進行中 進捗66%です」

槽を出ようとするマーサの鍛え抜かれた背中に向かって追加の警告。「今外に出たら、0からやり直しになります 引き返してください 時間を無駄にすることになります」

浴室の扉を後ろ手で閉めると、電気槽は喋るのをやめる。

暗い部屋の中、裸のまま立ち尽くすマーサ。シリアルの箱に描かれた下品な顔つきのクマに視姦されていることに気づいていない。それどころではない。アスリートに対するリスペクトを持ち合わせない野辺のクマなんて、どうでもいい。

サムは子供の頃、無邪気に太陽を見つめすぎたせいで両目を焦がしてしまっている。白い光の奥になにかが見える気がしたと言っていた。あれは冗談だったのだろうか? 今でもわからない。とにかく、サムの眼はそれ以来ずっと義眼。涙のオプションはつけていない。「涙なんて非合理なシステム、残しておくほうがどうかしてるわ」とサムはベッドの上で笑った。「でも、あんたは残しておいてね 涙」そのときの二人に枕は一つで十分だった。鼻が触れそう。まつ毛は触れている。目と目で愛撫している。「あたし、あんたが泣いてるところを見るのは好きなの 泣くのを我慢しているところも 人が嬉しいときにも泣くなんて、嘘だと思ってた」深緑色の髪をなでる。マーサの鳶色の目は光を吸っている。「どうして?」サムのすみれ色の目は光を放っている。「さあね 理由なんか無いよ」

思い出がマーサを慰め、同時に傷つける。

マーサは速度を出すため、用意していたパジャマには見向きもせず、競技用スパッツとタンクトップに着替える。ソックスの指が分かれているのは、指先の機器との連携を高めるため。玄関で選んだのはオレンジと紫の SHIDEN のシューズ。玄関の扉が勝手に開き勝手に閉じた。誰の目にもそう映った。でも、すでにマーサの姿はない。コマ送りにしてはじめて、マーサが人間離れした初速で部屋を飛び出して行ったことがわかる。

飢えたピエロたちが踊っている真夜中の公園、見物人がコインを投げている。マーサが通り過ぎると一陣の風が吹き、ピエロたちが一斉に転び、紅葉がはらはらと地に落ちる。

車通りはほとんどない。加速するマーサの太もものインジケータが黄色の点滅から緑色の点灯に移行し、もはや水平疾走の稲妻。木々は興奮して枝を鳴らし、家屋は道を譲り、空の星々が嫉妬する。マーサとこの地上との強い信頼関係。蹴るたびに親密に蹴り返される、地球との言葉なき会話。

海、海、海。疾走時のマーサの頭の中は最軽量化されている。インプットされているのは目的地のみ。他は圧縮してあって、立ち止まったときに解凍される。海、海、海。加速が済むと、目的と結果は逆転している。マーサが海にたどり着いたのではなく、海がマーサにたどり着く。空間は速度によって歪む。SHIDEN が砂浜にめり込んだ。減速しながら、扉のない家の看板に「海岸線拡張工事」の文字を見つける。

店先にはサムと同じ目が、完全密閉の透明のガラスケースに入って並んでいる。すべて海の方向を向いている。真っ暗闇の海。水平線の奥でなにか大きな廃品が解体され、潰されて、粉々にされているような轟音が、間断なく聞こえている。

表向きはもう店じまいの様子。技師の老婆は折りたたみ式の椅子を外に持ち出して深々と座り込んでいる。手には酒、両目にまばたきは無く真っ赤なルビーの輝き。マーサが声をかけると、すぐに誰か気づいたようで、
「まだ、涙はでるかえ?」

としわがれ声で言う。
「サムはどこですか?」
「涙はどうして出るかえ?」
「ここにいますよね?」
「ちがうえ わしが儲かるためだえ」

メッキを貼った前歯が輝く。
「意地悪しただけだえ 行くがいいえ」

ルビーの目が、一つの方向に視線を向けた。追いかけるようにマーサが目を向けると、海岸沿いの見覚えのある崖が月明かりに照らされて見えた。

 

 

崖際に車を止めてフロント席から見下したのは、海岸にうじゃうじゃ集まる海水浴の客たち。人間の絨毯、とサムは言った。すぐ飽きて、車の中でにぎやかなニューメタルを聞いた。潮風が心地よかった。
「お酒持ってきてくれた?」

風で暴れる髪を梳きながら、サムが運転席に座ったまま、振り返らずサイドミラー越しに訊く。
「だって、炭酸が抜けちゃうから・・・・・・」
「炭酸のないお酒だってあるじゃない」
「度数の高いお酒は飲まないようにしてるの ・・・・・・知ってると思った」
「思ったより遅かったね」

マーサはむっとして言う。
「あなたこそ、ずっとここにいたの?」
「さあね」
「心配してたのに」
「なんの心配? あたしが一人でいるのが心配?」
「そうじゃないけど・・・・・・」

マーサはサムの言葉にトゲがあることに気づいていたけれど、その理由が分からなかった。
「・・・・・・隣に座ってもいい?」
「だめ」

サイドミラー越しに二人の視線がぶつかる。競技用の衣装の下の肩が小さく上下に揺れているのがサムの目に入る。その身体は圧倒的な速度に耐えるためのものであって、自分のためものではない。とっくに整理したはずの気持がこぼれだし、むき出しの神経に風が触れるみたいにサムの胸はきりきりと痛みだす。
「フェリスから聞いたでしょ? あいつ、なに言ってた?」
「全部教えてもらった」
「失望したよね」
「・・・・・・ううん」

マーサは大きく首を横に降った。涙が左右に飛び散って、足元の草むらの中に落ちていった。
「もう帰ったら? 大会は明日でしょ」そして、慈しむような、励ますような不思議な声色で言う。「マーサ・スプリンター」

星星はそ知らぬ顔で輝いている。時間は無関係なふりをしてそそくさと過ぎ去ってゆく。
「フェリスよりよっぽど似合う あんなセンスの悪い女、潰しちゃいなさいよ」
「・・・・・・本当は試合に出てほしくなかったのね? だから、フェリスに頼んでわたしの埋め込みに不具合が起きるように細工しようとしたのね・・・・・・?」
「もっとあなたと一緒にいたかったの なんでだろ、逆効果だって分かってたのに」
「・・・・・・あたしアスリートなの」
「ノミもそうだった」
「うん・・・・・・」
「すばらしいくそったれのアスリート」
「・・・・・・うん、すてきなボケナスアスリート」

二人の控えめな笑い声で寝ぼけていた虫たちが起き出し、もう一度、思い出したように歌い出だす。

マーサは願う。もっとゆっくり、永遠にゆっくり、ほとんど止まっているくらいにゆっくり。何事も変化しないで。奪わないで。
「さよならを言いに来たんでしょ?」

サムが言うとき、本当の悲しみはまだはるか後方で、ぜいぜいと息を切らして、追いついてくる気配がなかった。

2023年9月3日公開

作品集『Hypnagogic Drift|ヒプナゴジック・ドリフト』第3話 (全8話)

© 2023 燐銀豆|リンギンズ

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