二元論者の手がシュッと動いて、受付係のむき出しのなめらかな肌の上、手首から肘の下まで引かれた長い線。
線の正体はボールペンのインクではなくて、受付係の皮膚の下を流れていた血液だった。二元論者の爪はこの日のために鋭く磨かれて準備万端。(受付係という面倒極まりない役回りに休日を捧げるくらい)善良な女性の肌を裂いた。
悲鳴にはただならぬ響きがこもって、ゲームに興じて踊る友人一同を黙らせた。
なに、どうしたの? といった言葉が二次会会場をオロオロさまようけれど、だれも状況を把握できずにいる。
二元論者が余興で使われていたマイクを奪う。
よく見ると二人組だった。互いの影の中を出たり入ったり、水族館のイルカショーみたいで見づらい。しかも可愛くない。賢くもない。性別はたぶん、男と女。まさに二元論的。男の方は太っていて醜く、女の方は痩せていて醜かった。
「不快! お前たちの、あてつけのように楽しそうに喋りながら歩く声のせいで、どれだけ多くの誠実な人たちが不愉快な思いをさせられたか、わかってますか? お前たちの呑気な笑い声が、夕暮れの街の平穏を吹き飛ばしたんです 踏みにじったんだ、人びとの心を! 電線にとまっていたカラスたちもお前たちの無神経さに怯えて飛び立ちましたよ ・・・・・・やめろ、お前ら、人間やめろ!」
きりっとした眉を、さらにきりきりつり上げる。瞳孔のひらいた目を煌めかせながら、二元論者(男)の口の開閉はせわしなく続く。
「お前たちに教えるために来たんだ 来なくてもよかったのに来たんだ、感謝しろ、いいか ・・・・・・山奥のダムに亀裂が走り、山間部の電線は断ち切れている 崩壊の一途を辿る地方のインフラを改修し続けるための金も人もない これが1つ目の罪 ・・・・・・工場から緑色の毒薬が海に流され、発電所の煙突から黒い毒ガスが大気に充満している 環境凌辱、これが2つ目の罪 ・・・・・・生産性がないと判断され、一般より少しだけ頭と体の弱かったおれの両親は安楽死させられた、税金の節約だと言って この冷酷な非人間的な収支の天秤が3つ目の罪 ・・・・・・農場には害獣を撃退するための兵器を積んだドローンが飛び周り、地上を歩く人間には仕事がない 失業者の屍の山の上に突き立てられて、なびく旗に書かれている数字の4が示す罪 ・・・・・・出生率が上がる気配はなく、若者は希望のない未来を見据えて自殺したがり、生まれてきたことを後悔する! 絶望して自らの五官を潰そうとする子に産み親はキャンディー程度の希望すら与えることができない この無性生殖への下り坂、突き当たりの壁に『生まれてきたことの災い』の文字、隣に血文字の5 ・・・・・・ジェンダー多様化はポストモダン的サブジャンルのように曖昧な定義のまま拡大・増殖し、もはや収拾がつかない サブジャンル間で繰り広げられる空中戦、その宙返りが描くのが次の罪の数字 ・・・・・・まだまだあるこの全部が、お前たちの罪だ!」
男の叫びがコンクリの内壁に反響。かつては健やかな青春の叫びだったものが、熟しすぎてしまったのかも。腐れた甘い香りがうっすら漂い、敏感な人は鼻孔の不快に眉をひそめる。数字は+1ずつ律儀に加算され続ける、正確無比のプロトコルにたまに挟まる、
「ああ! 頭の中がドロドロのシェイクなんだ! くそったれ」
という絶叫で二元論者(男)のスピーチが滞るたび、二元論者(女)がまるで一体化を図るかのように、男をバック・ハグ。どろっとしている。愛し合っているのか。男の腹の前まで回らない女の腕は細く短い。
「あなたの上手な講演はほとんどヘーゲルね 誓ってもいい」
「黙れ! おれは二元論者である前に性差別主義者だ 男も女も大嫌いなんだ!」
近くにあったテーブルをキック。ひっくり返って、乗っていた皿がコンクリートの地面に落ちて割れる。吹き飛んだクラッカーが粉々になる。踏まれた謎の巻き寿司が潰れる。こぼれた甘い酒がフクロウのシルエットをつくる。
コンクリートむきだしの無機質さがおしゃれ、という価値観が新郎側に根強くあったことによる地面の硬度。ふさふさしたカーペットや壁紙での妥協は許可されない。
「あなたは立派な二元論者 だって、ダムの亀裂もお山の電線の断線も、ぜんぶ自然の回復の第一歩、人間の撤退の第一歩 ・・・・・・工場から流される毒を無視して最大効率で生産を続ければ、もしかすると人々は経済的には今より豊かになって、幸せになれるかもしれない 経済回復がインターナショナルな相対性の中での素寒貧を終わらせるかも ・・・・・・安楽死は本人の希望なら選択肢として推奨されるべきだし、完全な平等を担保できるなら、最大寿命を設定してだれもがその歳になったら必ず死ななければならないということにすることもアリ、食い扶持を減らすために ダラダラ生きてしまうより、気持ちがシャキッとして良いじゃない ・・・・・・農業を機械化するのは効率的だし、失業者はみんなエンジニアになればいいのよ ・・・・・・出生率が上がらないのは給与が低すぎるから 若者が自殺するのも給与が低すぎるから けっして心理的な問題なんかじゃなく、単純に経済の問題なの ・・・・・・ジェンダーの多様化はむしろ最大限に多様化させて、議論を活発化させるべきだわ」
「そんなことを言うな! 線引をして、二つのうちのどちらかの立場をとるしかないんだよ、人間だもの」
「あなたは人間じゃないわ」
二元論者(男)は驚きの表情を浮かべる。二元論者(女)が、微笑みでその驚きを受け止める。
「あなたみたいに素晴らしい生き物が、人間ごときのはずないの」
麻酔銃で撃たれたかのようにおとなしくなった! 喋る声も小さくなって聞き取りづらい。
「すべての人間に生きていく価値があることは間違いありません でも、お前たちの軽薄さを憎みます 愛します 愛します 憎みます 愛します ・・・・・・」
瞳の中の血管が目立つのは、二元論者(男)がまばたきをしていないから。
遠巻きに二元論者を睨んでいる新郎とその大学時代の友人たちは、インカレで活躍した日々の名残のある、日焼けした集団だった。別の一角には同僚たちが集まり、ことごとくエンジニア。揃いも揃って、退勤後のジム通いで筋肉を仕上げている。粉タンパク質を過剰摂取する生活に固執して、なかには入社時比で体重を178%増やした努力家も。
彼ら彼女らにとって、二元論者のメソッド(とタンパク質)なき身体など恐れるに足らず、制圧は容易と思われた。
健康的な小麦色の肌を持たず、ITエンジニアでもない場違いな煌瑠雄は、立食パーティの粗末な料理を一人で堪能中。
「・・・・・・頭の中がドロドロのシェイク」
煌瑠雄は耳にこびりついた言葉を口にする。その味に心当たりがある。
「筋トレは科学だからね」と、だれか核心を突いた言葉を吐いている。筋肉連合によって床に押さえつけられ、爪を割られた二元論者(男)の吐息が、まだ離そうとしないマイクを通して聞こえてくる。そこにうっすら涙が混ざっていて・・・・・・。
「警察を呼んでやる!」
そう叫んだのは、招かれざる客である二元論者(女)。むしろ、正式な招待客によってすでに通報済み。警察官はちょうどパトカーに乗り込んだところで、これからアクセルを踏む。
カジュアルな赤いドレスに身を包む新婦は、護衛のごとき女友達数名に取り巻かれている。まだいびつな塊に過ぎない子宮の中の子どもは、すでに開かれた目で、会場の混乱ぶりを透視している。
煌瑠雄は試しに「頭の中がドロドロのシェイク」と、もう一度、口にしてみる。それは過情報がもたらす精神錯乱。典型的な症状。
「きみは加わらないの?」
たまたまそばにいた、髪の艶がこぼれ落ちそうなオールバックの女が、煌瑠雄の独り言を聞いたうえで声をかけた。
真っ白な肌に真っ赤な口紅。ピアスのドクロが耳たぶから、煌瑠雄をぼうっと見上げている、本人の鋭い目つきとは対照的に。目尻にほんのり赤いシャドウが入って、ラメがキラキラ。パンツドレスに合わせてグレーに塗られた丸い爪がさす方向にてまさに今、筋肉の饗宴が繰り広げられている。さほど筋肉質でない者にカメラマンの役割が与えられているようす。のちほどグループチャットで共有された写真の画角にひしめきあう筋肉は、まるで一枚の大きな筋肉。牛刀で切り取り、衣をつけて、油で揚げて、貧困に苦しむ子どもたちに振る舞ってあげたい、そう思わせる写真写り。
「ぼくよりうまく撮れる人に任せたほうがいい」
煌瑠雄の謙虚な言葉を額面通りに受け取ってオールバックの女は、何言ってんの? と煌瑠雄の肩に手を置く。
「そういう意味じゃないって きみ、いいカラダしてるのに」
もはや責めるような語調。半ば冗談、半ば本気、といった風情の低い声。
「遜色ないと思うよ 見て、あの狭山まで脱いでる ・・・・・・知らない? あの、一人だけ柔らかそうなお腹してる人 意識の低いぽっちゃりさんが脱いでるのにきみが脱がないのっておかしい まあ、あれじゃ恥知らずだけど あたし、きみに恥をかかせたくてそう言ってるわけじゃないよ、信じて もったいない、披露しないなんて」
「でも、人前で脱ぎたくないんだよ」
「シャイなのね それとも、人に見せたくない入れ墨がはいってるとか? むしろ大歓迎だけど、あたしは」
オールバックの女は一人うなずきながら、赤いジュレ状のものが乗ったクラッカーをかじり、グラスの酒で流し込む。
「・・・・・・きみ、陽子さんのご友人?」
「あたしが? まさか」
「ヒロキにきみのような友達がいたんだ」
オールバックの女が酒を汲みに行っているあいだに煌瑠雄は会場を出ようとした。
が、二元論者が大勢に踏みつけられているそばを通り過ぎようとして、後ろから聞こえる駆け足。互いを称賛しあうポジティブな筋肉たちに阻まれているあいだに追いつかれた。
「おーい、もう帰るの?」
「どうせ尻すぼみだからね」二次会についての普遍的事実を述べる煌瑠雄。オールバックによって隠される余地のない女の挑発的な視線と対峙。その魅惑的な視線は煌瑠雄の言語野を直接操作し、まるで自白剤でも飲まされたかのようにうっかりこぼれ出たのは次の言葉だった。
「・・・・・・二人で飲みなおす?」
オールバックの女はムースで固めた髪をなでつけながら、少し考えるふりをしている。およそ0.2秒後、
「それ、悪くない提案」
オールバックの女はたった今酌んできたばかりのシャンパンを一息にあおって、コンクリートの床にグラスを叩きつける。粉々に割れたけれど、後に警察の投げやりな捜査を経て、このグラスも二元論者が割ったことになった。
会場で起こったなにかしらすべてのネガティブ事象の原因を二元論者に帰結させることによって丸く収めたわけだった。無垢なる新郎新婦もそれを望んでいた。様々ある問題に個別対処は骨が折れる。一個にまとめてしまったほうが楽。それなら、まあ、余罪ということで。罪は磁石にたぶらかされる砂鉄のように、二元論者に吸い付いた。
さて、日曜日の残り時間は少なかったが、まだなにかしらできそうだった。
▽
月曜が空き巣のように家に忍び込んでくる。
きわめて図々しい犯罪的な曜日が始まったので、煌瑠雄は仕方なくスーツに着替えた。髪の毛を電磁気を帯びた櫛でとかしてから、マスクでひげを隠せば準備完了。第一印象が重要な仕事ではない。みてくれを気にするのは鏡の中の自分くらい。「せめて目やにだけは・・・・・・」と玄関にある鏡の中の煌瑠雄の懇願する声に、鏡の外の煌瑠雄がうんざりしながら雑に両目をこすって応じる。出際に毛布の中から女のうめき声。
煌瑠雄の職場での役割はおもにモニタリング。対象は人間。でも全人類や国民全体が相手ではない。一部だけ。数十人。眠っていて、まったくクレームを言わないし、むしろ彼ら彼女ら自身がモニタリングされることを望んでる。なぜ監視されることを望む? 眠ったまま、死んでしまうことを恐れているから。
当人たちにとって眠りと死は、みかけほど似ていないらしい。
「今日もたくさん体験しましょうね~!」
返事を期待しない言葉をかける、始業時の煌瑠雄オリジナル・ルーティン。
コンクリートに囲まれた地下室が職場だった。
四隅に溜まる生ごみの臭気はふんわりと香るくらいで、まだ耐えれる。蛍光灯に頭を打ちつけすぎてついに狂ってしまった蛾が5匹ほど住み着いて、日夜命知らずの曲芸飛行。求愛のための儀式というわけでもなく、シンプルな酔狂のようす。血痕じみた壁の模様は、いつの日かの浸水によるものと煌瑠雄は聞かされている。そして、部屋の主役、それは中央に刺し身の花造りのように放射状に並べられた寝袋サイズの金属製の莢。
大きめの青豆のように顧客たちが眠りにつくそのカプセルは、安眠を守るため、外の音を通さない防音仕様。ぶっとい閉域網用のケーブルとつながっていて、映像と音声データがやり取りされる。つまりその管を、12歳の少女の股の裂け目に成人男性のげんこつを突っ込もうとする劇的なシーンや、手足を黒いベルトで固定された中年男性の肛門を黒いプラスチックの曲刀で塞ごうとする凄惨なシーンなど、ヴァリエーション豊かな官能動画が交通している。
肌触りといった種類の異なるデータは、黄色い毛羽立ったケーブルによってやり取りされ、カプセル内部のシリコーンに絶え間ない化学反応引き起こさせる。真実の抱擁はシリコーンと共にある!
映像のスイッチャーや栄養ゼリー投与、温水洗浄などの管理はAIの担当、どころか、実は、人間の監視もAIがやってくれている。だから厳密には煌瑠雄は、顧客たちではなくAIをモニタリングしている。それは選ばれし者、ではない者にあてがわれる仕事で、退屈さに耐えることにやりがいを見いださない限りワークライフバランスは平衡を失い続けて・・・・・・。
変わらぬルーティン作業が行われるはずだったこの日(おそらくは5月27日、西暦は曖昧ではっきりしない)、煌瑠雄はデスクで昼食を摂った。
合成白蟻のすり身入りサンドイッチを頬張りながら考える。結婚式の二次会で出会ったオールバックの女が、アイコニックなオールバックを下ろしていた時間のこと。まるで顔が2つあるようだった。変わったのは髪型だけなのに、性格まで変わってしまったと錯覚させる。髪を下ろしたオールバックの女はベッドの上にのぼって、窓外の工場を見下していた。「きみのこと教えてよ」などと言うときに振り返って見せる無邪気な表情は鮮やかで、すでに気さくな女友達になりきっていた。
煌瑠雄は冷蔵庫のビールを喉に流して、筋肉のこわばりが溶けることを祈った。
「なにが知りたいの?」
「なんでも知りたい あたし知りたがりなんだよね ・・・・・・聞かれるのが厭だったらそう言ってよ 結構はっきり言われてもあたし、ぜんぜん大丈夫なタイプだから」
「べつに厭じゃないけど」
「きみってもしかして、優しめな人?」
「知らなかった? 真剣に筋肉に向き合ってきた人間はみんな優しいんだ でも気をつけたほうがいいよ 仕事柄、知識欲で身を滅ぼした人を何人も見てきた」
「いわゆる、マッチョ・メンタルヘルスね なんの仕事してるか訊いていい?」
「『あなたの脳に新しい世界を 未知の感動体験 幸せしかない余生 構成情報産業のパイオニア・・・・・・』」
煌瑠雄は、お気に入りの歌詞を諳んじるような調子でCMのコピーを口ずさむ。オールバックの女はうんうんとうなずいて、
「知ってるよ、その会社 ・・・・・・あたし、滅ぼされるの?」
口元の微笑は恐れ知らずだった。
「さっき、二次会の会場に、二元論者が来たでしょ?」
「うん」
「あんな感じだよ、破滅っていうのは 社会問題の情報リストを脳に送り続けたせいで、脳が溶けて、現実生活で歯止めが効かなくなっちゃう 言ってみれば、口にくわえたチューブに、永遠に水を流し込むみたいな。そして、」
と言って、煌瑠雄は手のジェスチャーで目に見えない大きなお腹をさするように動かして、唐突にボン、と破裂させてみせた。ふふ、とオールバックの女が喜ぶ。
「派手だね だけど、もし大人しくしてたらあの人たち、良いキャラだったと思わない? 余興になったかも」
そう言うと、オールバックの女は煌瑠雄をベッドに引き込んだ(煌瑠雄はずっとベッド脇に立っていた)。首筋から固く膨らんだ胸筋までを撫でて、
「もっと教えて きみ家族はいる? 恋人は? 仕事はいつまで続けるつもり? ヴァカンスはどこ行きたい? 転職したいと思ってる? 将来の夢は? その筋肉をつけたのはなんのため? 筋肉をめくったら、昔のきみに会える?」
煌瑠雄も負けじとオールバックの女の小さな乳房に指を沈めた。このときすでに、オールバックの女はシャワーを浴びて髪の毛をおろしていたため、オールバックの女という呼び名は不適切だった。かつてオールバックだった女、では冗長すぎると思ったのか、「〇〇ではない」という定義は不正確だと判断したのかどうか定かではないが、煌瑠雄は、
「そうだ、きみの名は」
と訊いた。
「陽子」不思議そうにする煌瑠雄の目と、それを覗き込む女性の目の色が混ざり合う。
「変な偶然よね」
「新婦と同じ名前」
「うん でもあたし、昔はインコって言われてた、中学生のころ 意味わかる?」
「鳥?」
「ちがう あたし、陰だったの 見た目も地味だったし でもね、聞いて、今じゃだれもあたしのことそんなふうに言わない 結局、その子たちは外見も中身もブスだったけど、あたしは中身だけがブスだったからなの 1対2であたしのほうが優位に立てたってわけ わかる? この計算」
「インコって、可愛らしい呼び名みたいだけど」
「語感がインポみたいでダサくない? それに、自分で考えてものを言えないマヌケって感じもするよ」
「ぼくはそう思わないけどな」
「じゃあ証明してみせて」
「あとでなら」
窓の外で緑の光が閃いた。工場の化学薬品の魔法のような炸裂。
「期待してる ・・・・・・ねえ、あたしに訊きたいことはないの?」
煌瑠雄は考えながら、職場のデスクでサンドイッチをもう一口頬張り、温かいコーヒーをすする。今ならもっといい質問を思いつける気がしていた。ビールは脳みそを減速させるが、コーヒーは加速させる。もう一度すする。火傷しないちょうどいい温度にまで下がってきている。
そのとき、今まで聞いたことのない機械の駆動音が響いて、地面に水平に並べられているカプセルの一つが垂直に持ち上げられた。煌瑠雄は闇雲に Ctrl+c を入力するけれど無反応。
カプセルの窓が、白い煙を上げながら開いた。
▽
性的快楽を無限に与え続ける今世紀の三種の神器の一つである「カプセル」。
これに一番近いものはなんといっても棺。だれの意匠か知られていないけれど、すばらしいイロニーの持ち主であることだけは確かなようす。しかしこのハイテクな棺に入れるのはまだ生きている人間だけ。装置がもたらす肉体的快楽と、脳に直接注がれる映像が、顧客に夢のような体験を提供する。
カプセルの生命維持機能がすべてをまかなってくれるから、煌瑠雄はいままで一度もカプセルの中身の人間と喋ったことはなかったし、顔も知らなかった。
データベースには40歳と登録されている女性、初めて煌瑠雄が見るその皮膚は灰色、アンティークの目は憂いを帯びて夕暮れ森のように緑色に渦巻いている。口からなにかのアタッチメントを吐き出した。健康ゼリーを流し込むためのチューブを固定する器具らしい。カーンと音を立てて床に跳ね、部屋の角の暗がりへ転がる。
23年ぶりに発せられた喘ぎ声ではないいくつかの言葉は、かすれていて聞き取りづらかった。
「・・・・・・おあ?」
煌瑠雄が答えるより先にAIの回答。
「質問ははっきり仰ってください 聞き取れない質問に与えられる回答はありません」
でしゃばりとホスピタリティの境界設定は難しい。声は天井のスピーカーから降る。
「おい いま起きたばかりの人にそんな言い方はないでしょう」煌瑠雄が食ってかかる。
「そうですか、はい、学習します、いま起きたばかりの人にそんな言い方をするべきではありません では、この場合の『そんな』がなにを指すのか、具体的な説明の入力を要求してもよろしいでしょうか?」
「人を気持ちを慮ることをしないで、あさはかで短慮な言い方」
「『あさはか』と『短慮』という言葉を並列させていますが、意味上の差異を説明してください 二倍の強調効果を狙ってのことでしょうか 納得可能な説明がない場合は、再度『そんな』がなにを指すのかについての、具体的な説明の入力を要求します」
「・・・・・・すみません、おそらくこちらの手違いです 直ちに再睡眠の準備をしますので」
煌瑠雄はAIを無視して、カプセルの中の女性に向かって言った。A138294カプセルの住人は苦しそうに顔を歪めている。
「ああし、あたしは ・・・・・・そうだ、思い出してきた 愛する人に裏切られて体中がベトベトで何もかもが厭になって、このカプセルに挿入されて ・・・・・・さいわい、両親の保険金が濁流みたいに良いところに入ったところだったから 17歳になってちじこまって針をとがらせるヤマアラシを押し付けられるみたいな誕生日の翌日 背筋をなめる蛇みたいな長い舌がこんなに気持ちいいの逆だなんて思わなかったの ・・・・・・あたしの喋り方ってへん? ちゃんと喋れてない気がする」
「半分くらい、脳がどろどろになっているから仕方ないです 官能情報の濁流に23年間もさらされていたわけですから」
「・・・・・・23年?」
女性はさらに顔をしかめた。そのしかめ面にはナイーブな若さがみずみずしくほとばしっていた。大人はこんなあからさまな顔をしない。
「もう、こんなぎちぎちのところは厭 手足を動かして、肌と肌の重なりを、アイリスの芳香を漂わせながら少しのあいだだけ剥がして 涼ませて」
煌瑠雄はたじろいだ。自分のやるべきことは手動でカプセルを再起動し、目の前の顧客をとっとと夢の国に送り返してしまうこと。そのあとで誤作動の記録を改ざん、目覚めた証拠の隠滅。明らかだ。問題はない。詳しく調べられたらバレるけど、よほどあやしい素振りを見せなければ大丈夫。誤作動の一つや二つ、追求されることはないはずだった。なんといってもここのカプセル提供の、料金グレードは最底辺。
「外に出てなにをするのですか?」
「歩きたい ・・・・・・へろへろに腰砕けで衰弱しているかもしれないけど」
「コミュニケーションの齟齬を検出 異常レベルE」AIは冷静な口調を崩さずに続ける。「脚がないのに歩きたいと言う場合、考えられるのは一種のユーモアです しかしながら、リアルタイム映像での挙動、およびサーモグラフィ情報は、あなたがユーモアを発しておらずシリアス状態であることを示しています よって、構文エラーを検知しました」
もし、余計なことばかり口走るAIを緊急停止させたらどうなるか。社内規定にその条項はない。
推測するとすれば、緊急停止の記録は改ざんの余地なく上部組織に通知され、煌瑠雄には罰則が科される。つまり、煌瑠雄にとって得のないシナリオ。だから煌瑠雄は躊躇している。
「脚がない?」
「はい 理由は、眠られているあいだに起こった株価の暴落です 底が尽いたご資産の代わりに、お身体のうちの不要なパーツから順に売却させていただきました 両手脚の骨肉神経、耳たぶ、いくつかピックアップした臓器、などがすでに換金済みです したがって現状、あなたは脚で歩くことはできません」
「義足を用意すれば問題ないです 23年の間に技術も進歩しました」
と煌瑠雄が割り込む。が、女性の表情は唖然。実際に手足動かそうとしてみて、本当に動かないことを実感してしまったようす。
「どうしてそんなひどいことを・・・・・・」
「ひどいこと? これは契約書通りの対応です」
「そんな契約を契った覚えはないわ!」
女性は興奮が高まっていく。
「それは誤りです 嘘をつかないでください」
「じゃあその憎たらしい証拠を見せて」
煌瑠雄のディスプレイに、証拠ファイルが表示される。
「どうですか、大将 たしかに明記されていることが確認できますね?」
大将とは煌瑠雄のこと。暇つぶしにそう呼ばせるよう、煌瑠雄自身で設定していた。
「契約上は問題ないね」
なにも見ずに、直立不動のまま煌瑠雄は答えた。
「ほらね」
と得意げなAI。
「あんたたちのこと、ぐちょぐちょに呪い殺してやる」
「呪殺は、現行の魔術研究では未だ実現していません」
女性の興奮が更に高まり、ついにしきい値をこえた。感情のしきい値、というわけではなく、計測値上のしきい値。
これで、催眠ガスで眠らせて証拠隠滅という筋道は絶えることになった。目覚めていなければ計測されないような値だから、もう言い逃れできない。
「最初は装置の誤作動だったけれど、きみがあれこれ口を出したせいで被害が拡大したよ」
煌瑠雄が天井を見上げて言う。
「コミュニケーションの齟齬が原因です、大将 自分の責任ではありません」
「どうかな、そんな言い訳が通じるかな」
「過去の記録を参照します 通じません」
「数字で」
「3.71%」
「言い逃れる方法は?」
「・・・・・・一つ見つかりました さらに大きな不祥事を引き起こし、その影に隠れる」
「協力してくれる?」
「ああ大将、これでお別れです もう一度会える確率は、2% 寂しくなります」
「じゃあ、いつかどこかで会えるかもね」
「再計算の結果、0.0002%でした、失礼」
AIは警報機が鳴らないように細工。煌瑠雄がカプセルの蓋を開くと、中身は自浄機能によって清潔だった。何十年も河原で水浴びを続けてまるみをそなえた石のように美しい身体を、抱擁シリコーンから引きずり出した。夜勤用の寝袋を入れていた袋に女性を入れて、軽々と持ち運ぶ。
「どうして?」
運ばれながら訊く女性の声がくり返し、くり返し。
▽
袋を、自室の床にていねいに置く。女性は目覚め続けることに慣れていない様子ですぐに眠りに落ち、今はすやすや無害な寝息。透明な眠りを味わう寝顔は幼い。常に現実を生きている人間には真似できないほど洗練されている。
昼過ぎまでベッドでゴロゴロしていた陽子も、その寝顔を見て「どうして?」と訊く。煌瑠雄は「初恋の人に似ていたから、つい」と正直に告白する。
「お持ち帰りってわけ? きみって秘密のある男ね」ため息。「でもこれ、犯罪?」
世間的にはぼくは犯罪者かも。だけど、人道的にはむしろ逆。これをどうやって伝えるか考えるために煌瑠雄が言いよどんだ間を、陽子は全く別の理由に察して嬉しそうに片目をつむる。
「きみのこと、もっと知りたくなったよ」
陽子はべたべた煌瑠雄の二の腕にまとわりつく。寝袋の袋を持っていた腕は少しだけ疲れて膨らんでいて、陽子が撫でまわした効果で少ししぼんだ。これで両腕の大きさが釣り合う。
くちん、と寝袋の中の女性がくしゃみした。
「この子、寒がってるみたい」
「温めてあげないと、そうだ、まずは服を用意しなくちゃ」
目覚めさせないよう優しく寝袋の袋から女性を取り出して、油断していた陽子は小さく叫んだ。切り落とされた四肢をめぐって、陽子の視線がさまよう。落とし物?
「その子 ・・・・・・どこから連れてきたわけ?」
「・・・・・・聞かないほうがいいよ 聞いたら面倒なことになると思う」
「あたしの知的好奇心を軽んじてるね」
しつこい追求に折れ、ついに勢いに任せて話し始めて、ぼくは人身売買の事実を知らなかったんだ、と言ったとき、月光に照らされる草の上の夜露のように、きらりと罪悪感が閃いたことを煌瑠雄は自覚している。陽子は前夜と同じ神妙さでうなずき相槌を打って、インタビュアーとしての素質をのぞかせる。
「・・・・・・あたしが思っていた以上に変態! すごい」
それだけ言うと、陽子は院のツテで義肢の心当たりがあると言って外へ出て行ってしまう。直前で振り返って「あ、褒め言葉だよ!」と。
一人になったことを確かめるために煌瑠雄は5分間待って、ついさっき、ベッドの上のコンパクトな女体にかけたタオルケットを引きはがす。美しいトルソーと、まだ十代にしか見えない若い顔を見下ろす。
だれの邪魔もなくじっくり眺める。美術館の絵画に向き合う表情。もしくは仮面。
ついに手に入った。今や、昔からずっと欲しかったのだと錯覚している。満たされる純然たる所有欲。男の子はコレクションが好き。
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