Overture
愛する人よ
貴方の周りの薔薇の棘は
僕が取ってあげましょう。
愛する人よ
貴方が歩く道の石ころは
僕が取ってあげましょう。
愛する人よ
永遠にあれ。
僕の隣で、ね。
─────────────────────
彼女は僕の近くでこんな歌を口ずさむ。彼女がよくイアフォン越しで聞いているのだ。ビートルズの「レット・イット・ビー」を。
一通り歌い終えると、彼女は僕にこう言う。
「……素敵な歌詞だと思わない?」
「そうだね」
「うん。……あるがままに。……私もさ、どんな事があってもあるがままで……居ていいのかな」
風が屋上に吹く。僕は夕陽が眩しくて目を細めていたが、その中でも彼女の横顔ははっきりと見えて心地よかった。アスチルベのヘアーピンを留めている。確か彼女の母親のプレゼントだった筈。
彼女の質問に僕はこう答えた。自動販売機で買った炭酸水を飲み干して。
「勿論。君の人生だからね。僕だってあるがままに生きるさ」
その時僕はさもその事が当然の様に語った。……何故なら僕は……。それが彼女にとって一番の回答だと思ったからだ。
僕は彼女から「リンゴ君」と呼ばれていた。由来は彼女の溺愛するビートルズのドラマー、リンゴ・スターから。
確かに僕は小さい頃から家にあったドラムを嗜んではいたが、正直ビートルズという存在も知らなかったので、最初に、
「じゃあ貴方、リンゴ・スターなのね! じゃあリンゴ君って呼ぶから」
と言われた時は意味が分からなかった。でも僕は彼の様に左利きではないし、イギリスのリヴァプールで生まれてもいない。
彼女は先程も言った通り、ビートルズを溺愛していた。ジョン・レノンやポール・マッカートニーの声に惚れて、ギタープレイングをお手本にしていた。親に無理を言って彼と同じモデルのギターを買ってもらっていたくらいだ。
彼女はおそらくビートルズと惹かれ合う運命だったのだろう。僕と同じ様に。
僕もビートルズが好きだった。小学生の時に僕は彼女と出会い、自然とビートルズを共に歌う様になった。「イエスタデイ」やら、「インマイライフ」やら。
あまり距離が近すぎると、その人物は影響を与えないと言うが、彼女はまさしくそれだった。僕にとって彼女は家族そのものでもあった。
正直に言うと、彼女を恋人と思った事は無い。家族だから。
だから高校の軽音部で、彼女がジョン・レノンの様にギターを歌って弾いて、僕がリンゴ・スターの様にドラムを叩くのも当然だった。
回想はこの辺りにしておこう。
僕はある日、彼女と教室で練習をしていた。すると彼女が「ヒアー・カムズ・ザ・サン」を歌い始めた。全くこの夕日に似合っている。
夕日に彼女の黒いキューティクルが光っている。ヘアーピンのアスチルベも僕の目を刺激している。
歌い終えると、彼女は僕の近くの机の上に座り、こう言う。
「『オウア・ライフ・イズ・オウア・アート』」
「ジョン・レノンだね。僕らの人生は僕らのアートだ」
有名な言葉だ。今更聞くまでもない。
「この言葉を聞くとね、何だかはっと気付かされるの。人生って、彼の言う通り絵画みたいな物なんでしょうね」
「ああ」
「あーあ。私も自由に生きたいな」
彼女は芸術作品だ。いつも夢見がちな発言をしている。だがその言葉一つ一つが僕にとっては優れた芸術の様に感じる。
自由に生きる。その自由がどれだけ苦難なのかも、彼女はおそらく知っている。
「……今の内はまだ無理だろうね」
「ふふふ。そうだね。……あー、いや。違うよ」
「どういう事だい?」
ドラムを叩いて疲れていたので、僕は近くにある水筒の蓋を開けて、水を飲む。アルミの味が口いっぱいに広がった。
「……私、この檻の中で自由に生きるよ。生憎この檻は呆れるほど大きいからね」
「……ははは。君らしいね」
僕はそうとだけ言った。彼女の言う事は、どこか現実離れしている。……彼女は本当はこの世界で生きていないのかもしれない。本当は僕達が想像出来ない様な夢の世界で生きていて……。
練習が終わった後、帰り道を彼女と共に歩いた。彼女が重そうにギターを抱えているので、僕が代わりに持ってやった。
「……ギターはかっこいいけど、重いよね」
「良い物は皆重いんだよ。……女の人とかね」
「やあだなあ。リンゴ君のその言い方」
高校生の癖にやけに気取った言葉だなと思ったが、まあいい。
遅くだからか人通りは少ない。夕焼け空にカラスが吠えて、何だか途方も無い存在を感じさせる。
「ねえ、リンゴ君は好きな人とかいるの?」
「……ははは。居ると言えば居るし、居ないと言えば居なくなるさ」
僕は半笑いでそう言う。すると彼女は少し膨れて言った。
「何それ。……はあ。何だかんだ小中高と付き合い続けて来たのに。悲しいなあ」
「……それなら、君には居るのかい? 意中の人が。僕が言ったのに、君だけ言わないのは……そりゃ不公平というやつだよ」
彼女は頭を悩ませる様子も無く、こう言った。
「居ないなあ。こんなに可愛い女を放っておくなんて、世の男はどうかしてるわ」
「おうおう。それはまた大きな志で」
僕は薄ら笑いながらそう言ってやった。彼女も同じ様に皮肉混じりに笑っていたが、それが終わると神妙な顔つきになって、ぽつり呟いた。
「恋っていうのはつくづく恐ろしい物ね。それまで信じられてきた友情という物も、恋の前にはひとひねり」
「……」
僕はその世迷言があまりにも真剣だったので、僕も恋について考えてしまった。
恋。恋か。
正直遠い存在で、考えた事も無い。……僕には既にその空間を埋めている存在が居る気がするから。
「でもとてもロマンティック。恋に落ちる二人はとっても美しい。まるで薔薇みたいよね」
「……美しい薔薇には棘がある……か」
恋というものはやはり薔薇と似ているのだな、と思った。
「きっと私達も恋が交わってしまえば友情も無くなってしまうのでしょうね」
「変えられないな」
僕はそう言う。……だが僕にそんな不安は無い。
「……私達、ずっと仲良くしましょうね。恋なんかに負けたくないから」
「……ああ。勿論」
彼女が手を差し出す。白く繊細な手だ。……彼女は本当に人間なのだろうか。きっと違う。彼女はこんな薄汚れた世界の中に希望を灯す天使なのだろう。ビートルズが好きな。
僕は彼女の手を潰れない様にそっと握った。彼女の手は暖かい。……僕が力を入れてしまえば、ふっと潰れてしまいそうで怖かった。彼女は蚕の成虫の様であった。
僕は彼女と別れた後、執拗に彼女について考えていた。緑色の電車は今日も不機嫌に揺れている。
田園風景とも、都会の風景とも言えない曖昧な景色が左から右へ流れていく。僕はそんな風景を見ながら、彼女の非現実的な姿を思い浮かべる。
正直に言ってしまえば、僕には彼女が恋に落ちるという様子が思い浮かばないのだ。何故なら彼女は既にジョン・レノンに恋に落ちているから。
彼女はビートルズを聞いた瞬間に彼の歌声に恋に落ちた。それはどんなに素晴らしい瞬間だったか。彼女はその時に人生の支えという物に出会い、そしてそれを通して僕と出会った。
そして彼女は神聖だ。彼女の言葉一つ一つが僕にとっては神からの授かり物なのだ。
クラスの皆は彼女の事を時々「夢見ている」などといった言葉で表現するが、それは大きな間違いだ。彼女は夢を見ているのでは無い。彼女は夢そのものなのだ。
夢という物は人如きには掴めない。彼女もその通りで、凡庸な男等では彼女を捕らえることすら不可能なのだ。
……僕が彼女の恋に落ちる様子が想像出来ないのはその為だ。彼女はこの世界での恋だの愛だの軽薄な物とは触れない。
彼女は特別だから。
……車輪ががたりごとりと乱雑に音を出す。七二○○系の吊革は好きだ。僕に合わせて位置を下げてくれる。全ての電車がこうなればいいのに。
あれからしばらく経った。
僕はいつも通り京阪電車に乗る。優等種別が止まらない駅から、しばらく準急に乗る。
彼女は朝早くに通学するので、そこで会う事は無い。
また彼女は連絡手段も持っていなかった。よく学校内でスマートフォンを使って注意される学生を見るが……彼女にはそんな概念も無いのだ。
電車の中には常に誰か変な人が居る。例えば床にうずくまってしまう人。何かぶつぶつ呟いている人。
でも僕は彼等を何か異常者だとは思わない。人間は皆異常だ。皆心の奥底にケイオスという名の化け物を飼っている。普段はそれを見せないだけ。
世間一般に異常者と言われる彼らは、その化け物をミスをして見せてしまっただけに過ぎない。
……そうだ。僕だって、彼等よりもよっぽど異常者だと言えよう。
僕は学校が終わるとまたいつも通り彼女と練習をしていた。
僕は普段と変わらずドラムを叩いていたのだが、彼女が何やら随分とにこにこしていた。普段は至極真剣そうにしているのだが。
「……今日はいつにもなく笑顔だけど、どうしたんだい」
僕がそう言うと、彼女は待ってましたと言わんばかりにギターをスタンドに置くと、わざわざ僕の目の前に立った。全く、どんなにハッピーな報せが聞けるだろうか。
「……私ね、つい最近告白されて……それで付き合う事にしたの」
彼女の羽が抜け落ちていくのを、信じられないかもしれないが僕ははっきり感じた。
そして、あまりにも衝撃的な出来事と出会った時には、掠れた声すら出ない事も初めて知った。
「ほんと最初はびっくりしたよ。でもこうも愛を伝えられたら……ね? でもリンゴ君が『あるがままに生きればいい』って言ってくれたからさ。私、そうする事にした。……いいよね?」
僕は胸に込み上げる何かを抑えながら、それでも必死に笑顔を作る。口角を上げる。
「……勿論。……ああ。良かったね」
そして、自分の愚かさを呪った。
僕はその日、彼女とタイミングを合わさずにさっさと帰った。そして、普段降りる駅の一駅前で降りた。
僕はただひたすらに走った。この世の全てを置いて走った。京阪電車の線路に沿って走った。そして僕はその中で彼女の事を思った。
……彼女が、堕ちた。僕の中にはその事実のみが残っている。
どこぞの馬の骨かは知らないが、ある男が彼女の羽を無理矢理引きちぎり。そして僕達が住んでいる汚らしい地上に下ろしたのだ。
……僕の中の唯一神よ。こんな事が許されて良いものか!
何故その男に罰が与えられないのだろう! 神よ、貴方は人に等しく罰を与える存在では無かったのか! 貴方はこの光景を見ていないのか!
僕は叫んだ! 力の限り叫んだ! 周りの大人達が変な目で僕を見ているが、それでも僕は叫んだ! ふざけるなと叫んだ!
彼女は僕だけが触れられる天使なんだ! 地上に生まれた愚かな男如きに彼女が奪われてたまるものか! と。
僕はそうして叫んで……自らのぐちゃぐちゃした気持ちを吐き出した。
翌日、僕はその昂る気持ちを抑えながら学校に行った。獣の様な目で、彼女を地上へと堕とした不届き者を探している。
だがそんな事をしても彼女はもう一度羽を生やす事は無いだろうし、彼女が戻って来る事も無い。
僕はようやくその時に事の重大さに気付いた。彼女はもう二度と戻れない深い深い地上へと堕ちてしまったのだ。
……そしてもう、僕が彼女の為に蜘蛛の糸を垂らしてやる事も叶わない。
今日、彼女はいつもの教室に来なかった。連絡もよこさずに。でもまあ、そういう事は何度かあったので、あまり気にしない事にした。
ドラムを叩く気にもなれないので、スティックを置いて、彼女について考えた。
……もういっその事、彼女については諦めてしまおうか。
彼女はめでたく愛する人を手に入れて、羽を自ら捨てた。まるで知恵の実を食べたアダムかイブの様に。
……そして人間は発展して来たのだ。神に背いた事で、人間はここまでの知恵を手に入れた。
……ならば、彼女のこの行動も……ある意味正解なのかもしれない。
そう思ってしまおう。そう思わなくては耐えられない。
彼女は昨日、別の人となった。羽がまだ生えているのは僕だけだ。それだけの事。
僕は何も出来ないまま練習時間の終わりを迎え、一人で電車に乗った。
今日来たのは一○○○系。古い電車だ。空調が整っていない。
外を見ると、薄暗い田舎都市の風景の中で雨がざーっと降っている。梅雨はいつ明けるのだろうか。
このまま、永遠に雨が降っている様な気がする。そうなってしまえば、僕達は永遠に薄汚れた水の底……。案外悪くなさそうだ。
濡れた傘が床に小さな池を作る様子を眺めながら、僕はお目当ての駅に着くのを待っていた。不思議と晴れやかだった。
やがて、急ブレーキをかけて電車が駅に着いた。僕は定期券をその手に握りながら、葛葉駅の急階段をかけ下りる。
そうだ。彼女とはもうすっぱり別れてしまおう。彼女はもう僕とは違う存在なのだから。
そう心に押さえつけて、僕は階段の下の方を見た。
僕はその瞬間に息を飲み込んだ。
そこには、彼女が居た。それだけなら良かったのだが。
彼女が知らない男と手を結んでいた。彼女の声が聞こえる。何を言っているのかは分からないが、汚らしい言葉だ。
……ああ。彼女はこんな存在になってしまったのか。覚悟はしていたが、どうやら足りなかったらしい。
……彼女は、本当にただの「人」になってしまった様だ。天使の彼女は何処へやら。
……堕天。そんな言葉があるが、まさしくこの現状に合わせるべき言葉なのだろう。
「……堕天。かあ。はは」
僕はそう薄ら笑いした。そして、手に持っていた手頃な傘を、ゆっくりと前に突き出した。
そして。
えい、と彼女の背中に傘を勢いよく突いた。
途端彼女はバランスを崩して、人を巻き込みながら階段から落ちていく。勿論、手を繋いでいた男も一緒だ。
人の瓦礫状態になった葛葉駅の階段を僕は眺めている。……ああ! 人の悲鳴が煩い!
僕はポケットからイアフォンを取り出し、耳にはめ、スマホで音楽を流した。
……ビートルズの「ミッシェル」。もう彼女が聴く事は無いのだろう。だって普通の「人」はビートルズなんか聞かない。
すっかりギターの音と、ポール・マッカートニーの声で悲鳴は聞こえなくなった。
さあ、歩こう! 元気よく歩こう! 機嫌良く歩こう! この世の果てまで歩こう! 機嫌良くすれば、神様も笑ってくれるさ。
僕は人の瓦礫を上手く避けながら、階段を下っていく。にこにこ笑いながら。
階段から駅の道を歩き、改札に定期券をかざすと、改札も気前良く僕を通してくれる。
さあ帰ろう。折角だし、傘もささずに帰ろうか。
誰も僕を止められない。
仮に僕を責める者が居れば、僕はこう反論してやろう。
「彼女が悪い」とね。
僕はそうして雨の降る道を、ポール・マッカートニーと一緒に仲良く歌いながら歩いたのだった。
袖が雨で濡れている。
"I and You, in the Dirty LOVE."へのコメント 0件