そういえば商店街の掲示板に美術館の案内が貼ってあったような気がして、僕はひとりで商店街へ向かう。やはりあった。他のチラシはみな画鋲が錆びついている。
公衆トイレのそれみたいに、展示室の入り口はくの字になっている。チケットと一緒に渡されたチラシを丸めて腰の後ろで意味もなく揺らす。
彼女は片方の踵を上げて、マスカット色の花瓶の前で立っている。黒い服は彼女の曲線をなぞっていた。彼女はガラス張りに映った僕に気付いて、そっと次の作品へ歩いていく。会場の隅の椅子に座っていた職員が立ち上がってどこかへ歩いていく。誰かを注意しにでも行くのだろうか。僕も次の作品へと二歩。その螺鈿細工の箱の前に来て、僕は申し訳なくなってきていた。彼女に付き纏うつもりなんてさらさらないというのに、悪いことをしている気分だ。僕はその箱をじっくり見ることにした。彼女が三、四個先に行くまで待っていれば、お互い気を遣うことも彼女が変な憶測をすることもなくなるというものだ。眠れぬ夜に羊を数えるように、僕は螺鈿の模様を数え始めた。しかし僕の右の彼女の気配は一向に消えない。彼女もずっと見ている。
もう箱の手前二面の螺鈿は全て数え終えてしまった。彼女はまだ見ている。きっとこの箱が気に入ったのだろう。僕は彼女より前に出ることが正解だと思って、そっとガラス張りから頭を離して次の作品へと爪先を向けた。彼女は勢いよく歩き出して、僕の前へ出た。僕は諦めた。このまま出口まで僕は彼女のストーカーなのだろうか。
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