彼も山羊の吸い過ぎで山羊になりかけている。役員どもは山羊に浮かぶ宇宙を感じている。彼は頭部だけが山羊の女と情熱的で殺風景な性行為をすることに寛容ではあるが、そもそも山羊は人間の真水の中の血液で愉悦を感じることはないだろう。彼は通常の山羊と会話のような電波の入り乱れる行進をすることができると噂されているが、これは二つの意味で間違っている。第一に、彼の内部には山羊のような高等の種族と対等にやり合えるだけの電波塔が存在していないということ。これに関しては晩年の役員連中も同様で、故に彼らはその命が尽きる最期まで電波塔を欲しがった。彼には迫り来る電波を無事に受け取ることも、自分から安全な電波を放つこともできなかった。第二に、彼には行進の際の作法やいわゆる暗黙の了解というものに関する知識が全く無い。皆無といっていい。彼は確かに山羊について調べ、山羊についての書物をいくつか執筆しているが、実際に山羊と触れ合い、山羊と対等に電波のやり取りをしている人間からすれば、それらの書物など子供の落書き以下のずさんなお遊びに過ぎない。彼は本物の山羊評論家の間では笑いものにされている。しかし彼自身や彼に関わる人間はどうしてかそのことに気づいていなかった。おそらく彼が発明した山羊カウンターの微細で絶望的な電波キャッチ・デストロイが認識の誤差を産んでいるのだろう。そのことを知っている本物の山羊評論家たちはまたしても彼のずさんさに腹を抱えて笑い転げた。
街に住む女の八割が山羊吸いに抵抗を感じている。しかし実際のところ、その八割の群衆の中の五割ほどが山羊に対しての漠然とした恐怖から山羊吸いを拒んでいるに過ぎない。そして残りの五割は過去に山羊吸いをしたことで全身が山羊らしい体毛で覆われ、過呼吸になって病院に送られた経験を持っている。とにかく、女性の中で山羊吸いを嫌っている人間は多い。男どもや役員、本物の山羊評論家連中はそんな女性を一人でも多く減らそうと日々邁進している。
山羊を殺すには女子高生が首吊り自殺に使用したロープで首を絞めるか、女児のふけとトリカブトの粉末を溶かした液体を注射する以外に方法がない。役員連中は街の中での女子高生の首吊り自殺を常に監視し、女子高生が死ねば感知することができるため、いつでも山羊を殺すことができる。しかし役員の六割ほどが本当はこう思っている、『女子高生が使用したロープは、自分で使用したい』と。
山羊の中にも女子高生に溺れている固体が存在している。大体全体の三割程度が性癖に女子高生を持っている。それは自分を殺せる可能性を持っている女子高生への興味だった。山羊には人間でいう、いわゆる『美人』や『ブス』の概念が無い。山羊連中は人間を選ぶ時、見た目などではなく概念や雰囲気、そして電波の色や音で選んでいる。つまり山羊にとっては女子高生というステータスが最も重要で最も興奮できる材料だった。故に山羊に対して学歴詐称をするのはおすすめしない。彼らは山羊評論家の次に嘘を嫌う。山羊の中の社会は真実とそれに伴う信頼で成り立っている。
飢餓に苦しまずに死んでいく山羊も居る。彼らは鈍感になっている。日常の中の性癖の摂取によって自分の中と外との区別がつかなくなり、やがて腹の中に何も入れなくても過ごすことができるようになる。しかしこれは過程に過ぎず、そうなった山羊はやがて自分の飢餓に鈍感になり、身体が動かせなくなり、空腹に気づかずに空腹で死んでしまう。
完全無欠の山羊のままで人間のような二足歩行を手に入れてしまう山羊が稀に居る。彼らのような特殊の個体には脳の概念が喪失している場合が多い。しかしここで間違えてはいけないのが、彼らは本当に脳を喪失したのではなく、身体全体が脳になっている。解剖をするとよくわかるが、身体の全てが脳としての機能を有している。例として、記憶を司る部位は右腕に、物事の数学的分析を司る部位は肺の位置に、文学的な出力を司る部位は眼球の位置にある。ではそこに元々あった臓器や、その臓器の機能はどうなるのか。同居しているのである。人間の肉体のような構造を得た山羊はその身体の全てに脳を宿し、しかし元の身体の作りを壊すことなく生活することができている。
彼は人間の言葉を理解したばかりの山羊人間に変身して鳴き声を上げる。「母さん、ぼくは立派な前立腺で向かうとするよ……。あんたの性行為の記録で一晩じゅう氷水を被ったり、精液入りのシャンプーで身体を清めたり、父親のような男のションベンで姉のマスクを洗ったりするとには飽きてしまったんだよ。母さん、もういなくなってしまった母さん。どうか聞いてくれ。そしてできれば否定してくれ。ぼくたちの家族はどこが悪かったの? どうしてみんな子宮に帰ってしまったの? お隣の宗教活動に参加するようにいわれたとき、ぼくは百点のテスト用紙を持っていたんだよ? どうして父さんは帰ってこなくなったの? どうしてぼくは、ぼくだは山羊から人間になれたの?」そしてカプリコーン・コーポレーションの恐るべき青色の国家の旗を振り、すでに残骸になってしまっているかつての我が家に笑みを向ける。「父さん! ぼく、就職が決まったんだよ!」
神聖山羊帝国のキャッチコピーを知っているか? 『おれが山羊になる!』だ……。
山羊は他人の中へと入りこもうとすることがある。それは物理的な介入ではなく、精神的な介入である。他人の内部へと入り込み、他人を一人称の視点で見ることで、他人の内部へと入る前に視た三人称的視点と合わせ、他人への理解をより深めようとするのである。
「そんなんでいいのかい?」
「一人称なんてね、何個あっても不思議じゃないですから」老婆役の男児が喋っている。睾丸を喪失したばかりの彼は二日前に始めた商売をすでに投げ捨てて放棄し、新しい坂道での経営で所在を明らかにした山羊を食らったようだった。
「今年もクリスマスツリーで戦おうぜ」カラビナの山羊顔の所長が轟いて海老ぞりの山羊に水滴を漏らしている。
そして所長は自分だけの机をコツコツと鳴らしながら、『新しい山羊の日』の低音のパートだけを切り抜いて歌う。微細な震えを何層にも重ねたような歌声は全ての山羊に安らぎとして届き、人間にははた迷惑な雑音として認識される。この歌を数秒だけ聞いた人間はそれだけで耳鳴りを訴え、翌朝には少しだけ山羊の言葉が理解できるようになっている。山羊の方はというと、人間の言葉を理解できるようになっているというわけではなく、この歌がただの安眠の歌として広まることを願っている。
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