メタモルフォシス

澁澤青蓮

小説

22,446文字

パートナーからDVを受けていた唯は偶然出逢った翠に助けられた。そのうちに唯は翠と一緒に住むようになる。そんな翠は特殊なフォトグラファーとしてある女達を写真に収めていた。次第に翠に魅せられてゆく唯。しかし翠には大きな秘密があった。
百合×SMです。
2022年大藪春彦新人賞応募作品。

1.

 

真赤なルージュをひいた唇から紫煙を吐き出す。真紅のネイルが彩る華奢な指に挟んだ煙草から緩く烟が立ち上り視界を薄く遮り、ほろ苦い匂いが漂う。中山翠なかやまみどりは殺風景な部屋の中央に佇んでゆっくりとした仕草で煙草を吸いながら、を細めて白い壁に貼られた一枚のポラロイドを見詰める。小さな紙片に印刷された画は黒と白とあかで構成されていた。

漆黒に浮かび上がる白皙はなだらかな曲線を描き、輪郭は女性の裸体を形作る。赫は白の上を這い、躰を縛めていた。緊縛された被写体の容貌は闇に沈んで判然としない。だが翠は知っていた。他でもない彼女がカメラのシャッターを切ったのだから。

翠は視軸をキッチンへ移す。微かな稼働音を立てる大型の冷凍庫。白い箱。この冷たい箱の中には――。

翠は半分程燃え尽きた煙草を唇の端に咥えて手を伸ばし、壁からポラロイドを剥がした。と、記憶の扉が押し開かれ、鼓膜の奥で声が鳴る。

――私にあなたと同じ痛みを与えて。

白いシーツの上に拘束された躰を横たえながら彼女はそう懇願した。

彼女は脆かった。今にもくずおれそうだった。だから。

煙草を灰皿で揉み消すと手にしたポラロイドを吸い殻の上に置く。そうして傍にあった燐寸を擦り、灰皿の中に投げ入れた。小さな火が写真へ燃え移り、緩慢に侵食していく。黒く焦げてゆく。翠は無感動な眸で灰になっていく写真を眺めていた。そうしながら彼女と共有した時間の堆積も一緒に焼け崩れていけば良いと思った。

 

 

息が苦しい。肺が痛む。壊れそうな強さで心臓が鳴る。躰が悲鳴を上げていた。だがそれでも走ることを止めるわけにはいかなかった。市川唯いちかわゆいは激しい恐怖心に突き動かされて午前零時過ぎの闇の中を当て所もなく駆けていた。必死だった。思考は麻痺し、ただ本能が赫い警鐘を鳴らしていた。唯は走った。脇目もふらず走り続け、遂に呼吸が続かなくって視界に飛び込んできた煌々と明るい光を放つ電話ボックスへ身を滑り込ませた。

唯は乱れた呼吸をどうにか整えようと喘ぎながら硝子の壁に背を預けて、そのまま壁伝いにずるずると蹲った。疾走に火照った躰は強張り、ふるえていた。唯は痛む躰を自身で抱くように身を縮こまらせる。全身を巡る血の拍動に呼応して鈍痛が躰を苛んだ。徐々に呼吸が落ち着いてくるとじんわり目の前が滲み始める。戦慄く唇を噛み締める。が、堪えていた雫は決壊して頬を濡らした。唯は声を殺して泣いた。

どれくらいそうしていたのか、不意に電話ボックスの扉を叩く音がした。肩をびくつかせて濡れたひとみを背後に向けると見知らぬ女性が立っていた。扉が開く。冷えた夜気が流れ込んで、唯は僅かに躰を慄わせた。そこで初めて着の身着のままで――春先の、まだ冬の名残を孕んだ肌寒い夜の中へと――部屋を飛び出したことに気が付いた。

「具合が悪いの? 大丈夫?」

女性は気遣わしげな眸で唯を見ながら身を屈める。反射的に唯は顔を俯け、身を引いた。

「……あの、大丈夫です」

消え入りそうな声音に「全然、大丈夫そうには見えないわ。本当に大丈夫――」女は唯の顔を覗き込んで息を呑んだ。唯の血の気の失せた顔は――右眼は腫れて痣ができ、口元が切れたせいか、顎に乾いた血がこびり付いていた。後ろで一つに結んでいる髪も乱れている。暴力を受けたのは明らかであった。

女――中山翠は肩にかけたバッグからポケットティッシュを取り出すと唯の血で汚れた口元をそっと拭った。痛む傷に唯は眉を顰めて顔を背けた。

「酷い怪我だわ。付き添うから今から病院へ――」

「いえ、良いんです。大したことないから」

「そんな。大したことないって。とてもそんなふうに見えないわ」

「本当に大丈夫ですから」

「でも――」

「大丈夫です。本当に。ご親切にありがとうございます」

翠から逃げるように唯は早口で告げた。こんな惨めな自分を誰にも見られたくなかったのだ。だが翠も引かなかった。どのような事情があるか知れないが、怪我を負った彼女を放ってはおけなかった。

「じゃあ、貴方の自宅まで送るわ。せめてそれだけはさせて。心配だから」

唯は押し黙った。先刻の出来事が脳内でフラッシュバックする。投げつけられる罵声と躰を殴打する硬く強い拳。髪を掴まれ引き摺り回された鋭い痛み。

唯の沈黙に何事かを感じ取った翠は、

「私の家、すぐそこなの。少し休んで行って」

立てる?――彼女の頼りないまでの細腕を軽く掴んで立ち上がらせる。唯はふらつきながら腰を上げると翠に促されて電話ボックスから出た。

翠はゆっくりとした歩調で唯を支えながら歩いた。道行、翠は名を名乗った。それを受けて唯も名を明かした。しかしそれ以上、会話は弾まなかった。両者の間に横たわる無言を、アスファルトを叩くヒールの高い足音が際立たせる。唯は引き摺られるように歩いて、これから先のことをぼんやり思った。

――これから先、私はどうしたら良いのだろう?

しかし思考はそこで行き止まりになる。凄まじい暴力の後はいつもこうだ。虚脱、虚無、空虚……己を受支えていた糸が無慈悲に断ち切られてしまったように。

隣を歩む翠の横顔を一瞥する。顎で切り揃えた黒髪と真赤なルージュが印象的だった。寄り添っている彼女からふわりとムスクが香る。酷く官能的な香りだった。

「どうかした?」

視線を感じた翠が薄く微笑すると唯は緩く首を振った。

十分足らずで翠が居住するマンションに着いた。暖色の明かりに満ちたエントランスホールを横切り、無人のエレベーターに乗り込む。翠は手慣れた動作で目的の階のボタンを押す。静かに二人を乗せた箱が上昇してゆく。エレベーターに備え付けられた鏡に映った己を見て唯は愕然とした。自分で思っていた以上に酷い有様であったので。このような姿を見たら誰もが病院に連れて行こうとするだろう。唯は凄惨な暴力の痕跡を留めた自身から目を背けた。

程なくしてエレベーターが停止する。六階。扉が開き、二人は白い箱を後にする。廊下を進んで翠は六〇六号室の黒いドアの施錠を解いた。どうぞ――玄関を開けて唯に入るように促した。お邪魔しますと小さく断りを入れて唯は室内に足を踏み入れる。

「適当に座ってて」

リビングに通された唯は照明の眩しさに一瞬、目が眩んだ。予め空調を入れていたのか、室内は程良く暖まっていた。寒さに悴んで強張っていた躰が緩む。唯は遠慮がちにソファの隅に腰掛けた。部屋を見回す。白と黒を基調に整えられたリビングは物が少なく、すっきり片付いていた。室内の印象はそのまま翠の気性を表しているかのようだった。

翠はコートとバッグを片付けるとキッチンに立って湯を沸かし、茶の用意をして客人に出した。痣になった部分を冷やすためのタオルも忘れない。唯は恐縮しながらタオルを受け取り患部を冷やして、湯気を立てるカップにおずおずといった風情で口をつけた。ぴりっとした痛みが走る。胃へと流れ落ちる液体に躰の内側がじんわりと熱くなる。殴られた鈍痛はあったが漸く人心地ついた気がした。

「煙草、吸っても良いかしら」

問われて唯は頷いた。翠はバルコニーに面した窓を細く開けるとその場で煙草に火をつけて吸った。美味そうに紫煙を燻らす翠を不思議な思いで眺めてから壁にかけられた時計を見遣る。午前零時半過ぎ。

「少しは落ち着いた?」

「……はい。すみません。すっかりご迷惑をおかけして……」

「良いのよ。気にしないで。怪我が酷いわ。随分痛むでしょう。やっぱり朝になったら病院へ行った方が良いわね」

「……はあ」

「鎮痛剤あるから飲んで。今日はもう遅いから泊まっていきなさい」

「いえ、そこまでご厄介になるわけには……」

「良いから。唯さんをひとりで帰すのは心配だし、別にあなたひとり泊めるくらいどうってことないわ。着替えもあるからお風呂も使って」

「でも……」

「人の好意には素直に甘えなさいな」

唯の頑なな態度を和らげるように翠は微笑んだ。唯は彼女の優しい表情に、これ以上親切な申し出を固辞するのも憚れて、ありがとうございます――首を縦に振った。

そうと決まれば話は早いとばかりに翠は短くなった煙草を灰皿で揉み消して、いそいそと風呂に湯を溜め、唯に貸す衣類を揃える。彼女の動きを目で追っていた唯は、どうして自分は此処にいるのか、成り行きとはいえ、何故家に戻らないことを選択したのか、突然奇妙に――他人事のように思われるのだった。

唯がシャワーを浴び、ベッドに潜り込んだのはそれから一時間後のことだった。鎮痛剤が効いているのか痛みは遠のいて薄れていた。疲労もあってか眠気はすぐにやってきた。眠りの淵を彷徨っていると人の気配がして傍らに湯上りの温度を感じた。薄く目を開くと翠の背中があった。瞼が重い。もう開けていられない。

「おやすみなさい」

滑らかなアルトの声音が穏やかに告げる。唯は言葉を返す前に眠りの底へと滑り落ちてゆく。

 

翌日、唯が目醒めると翠の姿はなかった。リビングへ行くとテーブルの上にコンビニエンスストアで買ったであろう、缶珈琲とサンドイッチ、メモ書きと鍵が置かれていた。紙面には唯を気遣う言葉から始まり、帰宅は夕方になること、好きなだけ此処にいて良いこと、自宅に戻る場合は合鍵を置いておくので施錠をしてドアポストに入れておいて欲しいこと、念のためとして翠の携帯電話の番号が書き連ねてあった。条件反射か俄かに空腹を覚えた。時計を見れば時刻は午前十時を過ぎている。窓から差し込む陽射しが眩しい。真青に晴れた空が目に沁みた。

唯はソファに座ってサンドイッチを食べた。咀嚼しながら不意に涙が滲み出す。どうして自分が泣いているのか解らなかった。困惑すればする程、とめどなく涙は溢れて頬を熱く濡らし、顎先から幾つもの雫が落ちた。誰もいない部屋で唯はひとり、号泣した。

 

2.

 

家に戻りたくない気持ちと翠にはこれ以上、迷惑をかけられない気持ちとで揺れて動いていたが、結局彼女は自宅に戻ることを選択した。人目につかぬよう、人影が乏しい道を選んで歩く。その足取りは酷く重たかった。帰路に就きながら、何度も翠の自宅へ引き返しそうになった。家に戻らず、翠の元にも行かず、誰も知らないところへ行きたいと切望しながら、しかしその実、唯には行き場所がなかった。実家は遠方であるし、加えて親との折り合いが悪い。親しい友人はそれなりにいるけれども、彼女達に助けを求めるのは気が引けた。友人等も決して暇ではない。仕事に家事、子育てに追われているのを知っている。迷惑はかけられなかったし、何より今の自分の現状を知られるのも厭だった。

俯き加減でとぼとぼと歩いて、見慣れた白壁の住宅が見えてくる。唯は少し立ち止まって我が家を眺めた。何の変哲もない、こじんまりとした一軒家。此処へ移り住んだ時の、明るい未来を思い描いていた過去が嘘のようだ。今は何の感動もない。唯には巨大な墓石に映った。意を決して再び歩き出す。頭の中で数を数えながら、なるべくゆっくりと歩いた。

唯は恐々と自宅の玄関のドアを開けた。ただいま、と小さく呟くと、ああ良かった――雄哉が安堵の表情を浮かべてリビングから顔を出した。唯に歩み寄ってくる。反射的に唯は俯いた。心が冷えて強張っていく。昼間なら雄哉は仕事でいない筈だと思っていたが、今日が土曜日なのをすっかり失念していた。唯は項垂れてその場に立ち尽くした。雄哉の声が虚ろに響く。

「昨日はごめん。本当にごめん。俺もつい、カッとなっちゃって……大丈夫? 痣になっちゃってるね。手当しなきゃね。唯が家を飛び出してすぐに俺も追いかけて探したけど、何処に行っちゃったのか見つからなくて……今まで何処にいたの? 携帯も財布も置きっぱなしで。俺、心配で昨日一睡もできなくてさ。唯がいなくなることを考えたら堪らなくて。でもまたこうして戻ってきてくれて良かった。ねえ、俺の話、聞いてる?」

無言を貫いている唯の顔を覗き込むと雄哉は手荒に彼女の手首を掴んで無理やり面を上げさせる。下手に出ていた態度が豹変した。怒りに眦を吊り上げて唯を睨み付け、怒鳴りつける。

――ああ始まった。いつも、こうだ。

唯の思考はぼやけていく。聴覚が遠くなる。焦点が合わなくなってゆく。

「聞いてるかっつってンだよッ! また殴られたいのかよ、てめェはよッ!」

どす黒い憎悪を含んだ怒声と共に平手打ちが飛んできた。強かに左頬を打たれて唯はよろめく。と、また腕を強く引っ張られて今度は右頬を殴られた。燃えるような痛みと口の中に広がる鉄錆の味。涙が滲む目で雄哉を見る。彼の眼付は尋常ではなかった。激憤に染まった眸は我を忘れていた。唯は恐怖に瞠目する。怖気立つ躰は怒気に縛されて硬直する。逃げられない。

「俺がいつもどんな思いでいるかてめェは解からねェのかよッ! なンだよ、その目は。てめェ、俺を莫迦にしてンのかッ⁉ してンだろッ! 死ねよ、死ねッ! ぶっ殺してやンよッ! 死ねよ、オラァッ! 死ねッ!」

雄哉は口汚く唯を罵りながら、矢鱈滅多に殴りつけた。硬い拳がその場に蹲った唯の頭を叩き、蹴りが入る。肉体を打つ鈍い音。痣になっている個所を再び殴られた時の激しい痛み。鳩尾を蹴られて唯は呻いた。酸っぱいものが逆流してくる。嘔吐しそうになるのをどうにか堪えながら、腕で頭を庇って身を丸めた。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい――泣きながら只管に謝罪するも、一度ついた雄哉の憤怒の焔は容易に収まる気配を見せなかった。雄哉は「死ね」「ぶっ殺す」と繰り返しながら息を乱して唯を殴り続けた。唯はただ身を硬くして嵐が過ぎるのを待った。心を殺し、息を潜めて。抵抗すればもっと激しく殴られるのをこれまでの経験で解かっていたので。

不意に暴力が止み「クソッ!」舌打ちと共に玄関のドアが開く音がした。唯はきつく瞑っていた目を薄く開け、視線だけで背後を振り返ると閉じるドアの隙間から雄哉の背中が見えた。パタンと小さな音を立てて扉が閉まるのを見届けて、唯は深く息を吐いた。助かった――そう思った途端に殴られた痛みが強烈に返ってきた。心臓が早鐘を打って、その度に躰の深部まで痛みが貫いた。唯はのろのろと酷く緩慢な動作で立ち上がると靴を脱いで上がった。

洗面台の前に立つ。鏡に映る己の顔は昨夜にもまして酷かった。左の目許は大きな痣ができ、口元は腫れていた。また唇が切れて血が出ている。服の袖を捲ってみるとあちらこちら醜く膚が変色していた。この分では腹部や腰、脚にも痣ができているだろう。両の目も真赤に充血して一種異様な姿であった。

蛇口を捻って、流水を掌で掬うと口に含んで口内を濯ぐ。吐き出した水は一筋の血を含んで流れてゆく。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔も洗い清めた。タオルで水気を拭き取り、まじまじと鏡像を見詰める。大して変わってはいなかった。身を引き摺るようにして寝室へゆくと、ベッドの上に崩れるように倒れ込んだ。躰中が痛い。目を閉じると新たに涙が滲んでくる。

――どうして。何故。

――彼は愛していると言う同じ口で私を罵って、暴力を振るうのだろう。

恋人として交際していた時は雄哉は決して暴力を振るうような人ではなかった。いつもいつも穏やかで優しい人であったのに。それが結婚してから一変した。彼は些細なことで不機嫌になり、暴力を振るうようになった。雄哉の怒りの感情は彼なりの理論があり、秩序があるようであったが、唯には全く理解不能であり、予測不可能であった。何が彼の怒りのスイッチを押すのか解らなかった。昨夜も何が切っ掛けでそうなったのか、解からずじまいだ。

それでも雄哉から暴力を振るわれた初めの頃、唯は果敢に抵抗をし、冷静になって話し合おうと働きかけた。だが雄哉は応じなかった。唯は粘り強く暴力行為を辞めて欲しいことや、殴る理由を訊ねたが「てめェのせいだ」との一点張りで、尚も追及すれば「そんなことも判らないてめェは莫迦で屑だ」と暴言を繰り返し、暴力が加速していった。

離婚や別居を考えたのは一度や二度ではない。離婚用紙を貰ってきて泣きながら書いたり、家出しようとして身の回りの物をスーツケースに収めたこともあった。だが、唯ができたのはそこまでであった。酷い目に遭っていながら、雄哉を思い切れなかったのだ。また恐怖心に呪縛されて身動きが取れないのも多分にあった。それに何処へ逃げて良いのかも解らなかった。金銭的な面でも躊躇いがあった。結婚してから専業主婦になった唯が自由に使える金は乏しかったので。

雄哉から殴られる度に、唯は自分が悪いのだと思うようになった。私が彼を怒らせているのだと。あんなにも優しい彼が烈火の如く怒り猛って自分を殴りつけるのは私に落ち度があるからだと。彼の怒りが収まれば元の優しい人に戻ってくれる。ごめんねと謝って今にも泣きそうな顔をして。俺唯がいないと生きていけないんだよ。本当だよ。信じて。俺は唯がいなくなるなんて耐えられない。愛しているんだ。本当に。心の底から。酷いこと言ってごめん。殴ってごめん。莫迦なのは俺の方だね。うん。もうしない。もうしないから。ごめん、ごめんね。どうしたら赦してくれる? ねえ、唯。唯のためなら俺、何でもするよ。唯が望んでいること、全部。美味しいもの食べに行く? 何か買ってあげようか。ああ、ほら、前に欲しがっていたバッグ、あったろう? 今から買いにいこうか。プレゼントするよ。ねえ、唯。どうか俺を捨てないで――。

唯は手を伸ばしてベッドサイドの棚から携帯電話を取る。画面には昨夜、家を飛び出した直後の時間に雄哉からの着信が一件。唯を探していたという話は本当らしかった。一瞬、雄哉に電話しようと思ったが、すぐさま打ち消した。ふと思い出してズボンのポケットから紙片を取り出す。翠が書き残したメモである。文面の最後に記された彼女の携帯電話の番号を液晶画面をタップして入力する。スピーカーフォンにすると僅かな間を挟んで呼び出し音が流れる。翠は出ないかもしれない――諦念を抱いた時、呼び出し音が途切れ、雑音の後に滑らかなアルトの声音が応じた。彼女の声を耳にした瞬間、どっと涙が溢れた。

『――もしもし? 聞こえていますか?』

「……助けてください」

そう言うのが精一杯であった。

 

3.

 

カーテンの隙間から陽が差し込み、白い天井を染める。唯は醒めきらない眸で明るい天井を眺めた。寝返りを打つ。隣は蛻の殻。あった筈の体温も疾うに冷めていた。枕元にある時計を見遣る。時刻は午前九時半過ぎ。唯は身を起こすと寝間着の上にカーディガンを羽織り、寝室を後にする。リビングに足を踏み入れると「おはよう」ソファに座って珈琲を飲みながらテレビを見ていた翠がにこやかに告げる。

「おはようございます。すみません、寝坊しました」

「良いのよ、もっとゆっくり寝てて」

「そんなわけには……」

「言ったでしょう、遠慮しないでって。自宅だと思って寛いで頂戴って」

「……はあ。ありがとうございます。すみません、本当に。すっかりご厄介になってしまって」

「そうやって謝るのも禁止。ね? それより、お腹減ってるでしょう? パンくらいしかないけど……目玉焼きは食べる? それともスクランブルエッグが良いかしら?」

翠が立ち上がろうとするのを唯は押し止めて「自分でやりますから、大丈夫です。キッチン、お借りしますね」一言断ってキッチンに立つと冷蔵庫を開けて卵をひとつ取り出し、朝食の準備に取りかかった。そうすることで穏やかな日常を取り戻せる気がした。

 

翠に助けを求めた唯は、必要最低限の身の回りの物を持って翠のマンションに転がり込んだ。それが七日前のことである。唯と再会した翠は驚いた。痣が増え、怪我が酷くなっていたので。訊ねたいことは幾らでもあったが、ともかくも手当が先だった。翠は頑なに拒否する唯を半ば強引に病院へと連れて行った。医者の前に引き出された彼女は咄嗟に嘘を吐いた。階段から落ちて怪我をしたと。医者は猜疑の眼差しで患者を見たが、事情を尋ねるのは後回しにしてレントゲンや念のためにMRIでの検査を行った。幸いにも骨や脳に異常は見られなかった。酷い打撲だということで鎮痛剤や湿布薬を処方し、薬が無くなった時点でも痛みが引かなければ来院するように告げた。唯が診察室から出ると入れ違いに付き添いの翠が入室した。担当医は一体何があったのか翠に尋ねた。何らかの事件が絡んでいるのではないかと判断したためである。そうとなれば診断書などが必要になってくる。だが、翠には答えようがなかった。誰かから暴力を受けたのは翠の目から見ても明白ではあったが、詳しい事情を知らなかったので。「そうですか。ではお大事に」医師はやけに淡白な口調で言って診察を切り上げた。

同じ屋根の下で寝起きして一週間。未だに唯は多くを語らない。だが、一緒に生活をしてみて朧気ながら彼女の身の上について解かってきた。

雄哉というパートナーがいること。どうやら彼から謂れのない暴力を受けていたこと。そして今、雄哉が唯を探し回っていること。というのも、唯が家を出た日――翠の自宅へ避難して来た日、ひっきりなしに唯の携帯電話に彼からの着信があったからである。その時の唯の怯えようは普通ではなかった。真青な顔色で床に蹲り、躰を慄(ふる)わせて「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」泣き叫びながら赦しを請うていた。

雄哉は留守番電話にもメッセージを残した。初めは何処にいるのかと純粋に心配する口振りであったが、次第に言葉が荒くなった。今何処で何をしているのか、真逆他の男と一緒にいるのか、浮気をしているのか、この間の夜もその男と一緒にいたのではないか、俺を莫迦にするのも大概にしろ、相手を電話に出せ、電話に出ないと殺す、てめェも男もぶっ殺してやる、どんなに逃げても俺はてめェを探して見つけ出すからな、覚えてろ、必ず殺してやるから……、

翠は唯に携帯電話の電源を落とすように言って、雄哉との間に起こった出来事について無理に聞き出すことはしないがいつでも話を聞く用意があること、法的手段を取るならば手伝うこと、また此処には好きなだけ居て構わないことなどを伝えた。すると唯は不思議そうな顔して問うた。

「……どうして、中山さんはそこまで親切にしてくださるのですか?」

「何か理由が必要?」

「いえ、単純に気になったから……」

「――そうね、あなたを放っておけないから。ただ、それだけよ」

そう言って翠は赫い唇に笑みを刷いた。

 

 

染井吉野が満開になる頃、唯は大分落ち着きを取り戻して翠との生活にも慣れていた。半月前は独りで外出することもままならなかったが、今では近所なら翠がいなくとも平気だった。尤も、雄哉との問題は何も解決していなかったが。携帯電話の電源も落としたまま。今でも彼は血眼になって自分を探し回っているのだろうか――考えると忽ち躰が恐怖に凍り付く。極力、雄哉のことは考えないようにしていた。が、時々、夢に魘されることがあった。夢の中でも雄哉は黒い憎悪となって唯に激しい暴力を振るった。唯は必死で謝って泣きながら額づいた。隣で眠っている翠に揺り動かされて目を醒ますと泣いていた。翠は夢に怯えて泣く唯を柔く抱きしめて宥めた。彼女が悪夢に苛まされるのを目の当たりにする度に傷の深さを思うのだった。

 

「私、もう少ししたら仕事を探そうと思います。いつまでも中山さんにお世話になっているわけにはいきませんし」

ある日の昼食の席で唯は切り出した。

「そう? 私のことは気にする必要はないけれど……。何か伝手があるの?」

「いえ、特には……。そう言えば、中山さんはどんなお仕事されているんですか?」

以前から気になっていたこと訊ねた。翠は平日でも度々自宅にいることがあり、かと思えば祝日や週末でも「仕事があるから出かける」と家を空けることが多かった。そんな彼女を見てサービス業に就いているのかと唯は推測した。だが翠の返答は少々意外なものであった。

「写真を撮ってるの。フォトグラファーね」

「凄い。写真家なんですか。どんな写真を撮るんですか?」

「少し特殊なものを。――今日、撮影があるの。良かったら見にくる?」

「一緒に行って良いんですか? それならぜひ」

翠は笑顔で応じ撮影は夜に行うと言う。彼女の誘いに久し振り唯は心が弾んだ。

それから家を出たのは夕方の五時頃であった。電車に乗り、三駅先のところで下車する。駅から十五分程歩いて辿り着いたのはマンションの一室であった。七〇五号室。翠の話によれば、此処はスタジオ代わりに使っている部屋らしい。

十六畳程のリビングの中央には大きな白いベッドが置かれ、窓は全て厚手の遮光カーテンに覆われている。照明器具らしき物がベッドの周囲に配置され、天井には幾つかの鉤状の金具が打ち込まれていた。三脚の丸椅子が部屋の隅にあり、その横に黒いパーティションが置かれた。キッチンには大型の冷凍庫と電気ケトル、数個のマグカップがあるだけで生活感は希薄だった。一体この部屋でどのような撮影が行われるのか、唯には見当もつかなかった。翠は『特殊』と言っていたが。

暖房をつけ、翠がキッチンで珈琲を淹れているとインターフォンが鳴った。翠に代わって唯が玄関のドアを開けると現れたのは中年の女性。相手は驚いたふうに唯を見た。

「あの、中山さんは……?」

「中にいます。どうぞ」

失礼します――女性は軽く頭を下げて玄関へ入った。その後ろに唯が続く。

「いらっしゃい。河口さん。お待ちしておりました」

「どうも、お世話になります」

河口と呼ばれた女性は何処か緊張した面持ちで会釈すると、やや離れたところに立って居る唯を一瞥する。翠が唯を助手であること説明したが、河口の表情は硬いままであった。三人は丸椅子に腰をかけて温かい珈琲を口にしながら、当たり障りのない会話をぽつぽつと交わした。そうしているうちに河口も多少緊張が解れたようであった。カップが空になったところで撮影の準備が始まった。

「河口さん、此処で衣服を脱いでください」

「解りました」

頷くと河口はパーティションの向こうへと姿を消す。翠も奥の部屋と去っていく。ひとり残された唯は丸椅子に腰を下ろしたまま、じっとしていた。だが落ち着かない気分だった。静かな室内は空調の稼働音と僅かな衣擦れの音しかなかった。唯は時間と己を持て余して、見るともなしに白いシーツに覆われたベッドを眺めていた。河口も翠もなかなか姿を現さない。時計がないために時間経過の感覚も曖昧になる。

どれくらいそうしていたのか、リビングのドアが開く気配に視軸をそちらに転じると着替えを済ませた翠を捉えた。唯は彼女の変わりように愕然と大きく眸を開いた。

翠は漆黒を纏っていた。エナメル素材のコルセットを締め、黒いレースのストッキングにガーターベルト。足元は七センチのハイヒール。腕を覆う長手袋もエナメル素材で、部屋の明かりを受けて妖しい光沢を帯びる。細く長い手足が際立って見えた。コルセットに押し上げられた胸が白く隆起し、腰は細くくびれていた。目許を縁取る睫毛は濃く、口元は赫く、纏った漆黒の上に漂う香りは酷く官能的なムスクの香り。あまりにも妖艶な翠の姿に唯は言葉を失って見入った。

翠は片頬だけで微笑すると唯の傍を通ってパーティションを覗く。程なくしてバスローブ姿の河口が姿を見せた。翠はジェラルミンケースを手にしている。

「河口さん、バスローブを脱いでください。……そう。今から私の言う通りにしてください。もし痛ければ、遠慮せずに仰ってください」

河口はちらと唯を見てから小さく頷いてバスローブを脱ぎ、ベッドに上がる。翠はケースから赫い縄を取り出すと慣れた手付きで河口の裸体を縛めていく。背後に回された両腕を縄で縛り、次いで両脚に縄をかけ、縛りあげる。力加減を訊ねながら胴にも縄を巡らせて複雑な文様を膚の上に描いた。河口は感じ入ったように深く息を吐いた。

あまり時間がかからずに作業を終えると、部屋の照明を落としベッドの周囲に設置された間接照明をつける。室内が薄暗くなり、ベッドに横たわった裸体がぼんやりと浮かび上がる。膚に食い込む赫い縄が彼女の肉体の柔さを物語る。縄がかかった部分はきつく引き絞られ、その分行き場を失った肉が隆起する。小さなくびれが幾つもできたその肉体は有毒の芋虫のようでもある。年齢に緩んだ河口の躰は縛められることで淫靡なオブジェと化していた。

翠はカメラを構えてシャッターを切る。様々な角度から人格を剥奪された肉のオブジェを写してゆく。その様子を、唯は瞬きを忘れて見詰めていた。目の前で繰り広げられている異様な光景に嫌悪感よりも、何か妖しいときめきのようなものを感じていた。そんな自分が心底不思議であった。もし、私があのベッドの上に横たわって自由を奪われたら――刹那考えて慌てて振り払う。しかし、一度浮かんだ想念は再び唯を捉えた。

――裸になって翠に縛られ、彼女の眼差しに晒されて写真を撮られたら。

翠は真剣な、熱っぽい眸でファインダーを覗いている。あの眸に捉えられたら、どんな心地がするのだろう――唯は思い出す。悪夢に魘され、目醒めた時、優しく翠が抱きしめてくれたのを。あの時の仄かに感じた甘やかなもの。間接照明の光を受ける翠の横顔を見て一瞬、鼓動が早くなった。

撮影は一時間もかからずに終えた。部屋の明かりをつけると今まで室内に蟠っていた淫らな空気が一掃された。唯は眩しさに目を瞬く。夢や幻から醒めた気分だった。

翠はてきぱきとした動作で縄を解き、河口はバスローブを羽織ってベッドから降りるとパーティションの向こうへと回る。翠もカメラをケースに仕舞い込み、長手袋とハイヒールを脱ぐとほっとしたような表情を浮かべた。衣類を身に着けた河口が顔を出す。最初の頃より、随分とさっぱりしたような、妙に晴れやかな顔付だった。彼女の変化が唯には不可解だった。

「河口さん、お疲れ様でした。躰は大丈夫ですか?」

「ええ。何処も痛くありません。大丈夫です」

「それは良かった。写真を現像しましたら、ご指定の住所にお送りしますので」

「解りました。宜しくお願いします。では、私はこれで……」

河口は会釈するといそいそと部屋を後にした。玄関の戸が閉じるのを見届けてから、翠はキッチンに立ち、回した換気扇の下で煙草を吸った。美味そうに煙を細く吐き出す。

「どう? 驚いた?」

「……はい。最初、特殊だって言っていたのが、解りました。中山さんは、いつもこういった写真を撮られるのですか?」

「大体は」

「どうしてですか? もっと他の被写体もあると思うんですけど……風景とか、人を撮るにしても、ファッション雑誌のグラビアみたいな……」

翠は眸を細めて何処か遠い目付きをする。僅かな沈黙の後に口を開いた。

「……そうね、私がああいった写真を撮るのは、相手の慾望を見たいからだわ。奥に隠している、自分自身でさえ認識し得ない慾望。あるいは剥き出しの、感じ易い、強い慾望が。服を脱がせて躰を無防備な状態にするように、縛ることで心の襞に深く分け入って奥に眠ったままの慾望を炙り出す……。慾望って生きるためのエネルギーでしょう。その慾望が醜悪であればある程、エネルギーも強く濃くて生への執着も一層、激しくなる。私は、それが見たい」
「何故?」

「あなたは何にでも理由が必要なのね」

「気に障ったらごめんなさい」

小さく謝罪すると翠は可笑しそうに嗤って、赫い唇の端に煙草を咥えながら唯に近付いた。緩く立ち上る紫煙のすぐ向こうに濃い化粧を施した翠の端正な顔があった。瞬きをすればふわりと風が起こりそうな程長い睫毛が照明を受けて高い頬骨に影を落とす。真直ぐに唯を見詰める眸は黒々として底が知れない。強い眼差しに縛されて唯は翠から目を逸らせなかった。

翠は煙草を左手に挟むと右手で唯の細い頤を捉えた。息が触れ合い、唇が触れそうになるまでに顔を近付ける。

「唯さんが奥に秘めている慾望はどんな形をしているかしら?」

「……私……私は――」

「私はあなたの裡にある慾望が見たい」

翠は唯の耳元でとろりと毒を流し込むように囁いた。微かに色情を帯びた彼女の吐息にカッと全身の血が滾った。背筋が粟立つ。着替えてくるわ――唯の様子に頓着しないふうで翠はリビングを出て行った。残された唯は騒がしい心臓を押し止めるようと胸の前で拳を握った。熱を持った躰は容易に冷めそうになかった。

 

その日の夜、唯はなかなか寝付けなかった。目を閉じると眼裏まなうらにまざまざと赫い縄で縛り上げられた白い裸体が映し出された。鮮明な残像は次第に移ろってゆく。エナメルの質感、黒いレースのストッキングに包まれた細く長い脚、コルセットに隆起した白い胸、濃い睫毛に縁取られた漆黒の双眸、翠の赫い唇……。躰の芯が熱くなる。深部で疼くものがある。もうずっと忘れていたものだ。

寝返りを打って深く息を吐くと隣から「眠れないの?」静かなアルトの声。身を反転させて翠と向かい合う。

「すみません、起こしちゃって」

「気にしないで。厭なことでも思い出した?」

「いえ、そうじゃないんですけど……ただ……」

「ただ? 何?」

「……さっきの撮影でのこと……私の慾望を見たいって……」

ああそのこと――翠は薄く笑って顔を寄せる。

「唯さんがその気なら写真を撮るわ。近いうちに」

「――今」

口を突いて出た言葉に唯自身、驚いた。翠も目を見開いている。だが、もう後には引けないと唯は思った。そっと翠の白い頬に触れる。

「今、が良いです。……私も翠さんの慾望が見たい」

翠は触れる唯の細い手を掴んで薄く目を伏せた。ゆっくりと唇が近付く気配に唯も瞼を閉ざす。最初の口付けは淡く、二度目は深く長く、唇を重ね合わせた。翠は華奢な唯の躰を抱き寄せて長い髪を撫で、梳る。寝間着のボタンを外して前を開くと浮き出た鎖骨の下に翠は唇を押し付けた。赫く小さな華を日焼けしない膚に咲かせながら、唯の躰の輪郭をなぞって、下の寝間着も下着ごと脱がした。俄かに暴れ出した心臓に喘ぎながら唯も翠に衣服を脱ぐように強請る。手早く脱衣した翠は再び唯を抱き寄せて素肌を合わせた。柔らかな感触と滑らかな膚が心地良い。唯は初めて知る彼女の体温を味わうように目を閉じた。

単純に男女では肉体が異なるというのもあったが、翠との性交は雄哉とのそれとは全く違っていた。翠はただ優しかった。傷口を労わるような、そんなセックスだった。手で、指先で、唇で、舌で、あるいは言葉を用いて、くまなく労わり、愛撫する。また雄哉が相手では感じなかった強烈な快感が唯を襲った。躰の輪郭が溶けてなくなってしまうような恍惚感。翠は唯が欲しているものを的確に理解していた。唯も必死に翠に応えようとした。彼女が望んでいるものを、慾望の在り処を探し出して触れた。翠は躰を慄わせてオルガズムの悲鳴を小さく上げる。最後は情慾に汗ばんだ躰を重ね合わせ、互いの腿を深く交らわせて、何度目かの絶頂の果てに、脱力した四肢を乱れたシーツの上に投げ出した。

 

「――私もね、過去にある人から暴力を振るわれていたの」

ベッドヘッドに凭れて煙草を吸う翠は眉尻を下げて淡く微笑む。寂しげにも見えるその笑みに彼女の傷はまだ血を流し続けていることを唯は悟った。慰めの言葉を発するよりも先に翠が言葉を続ける。

「相手はロープアーティストで――緊縛師ね――私に緊縛の技術を教えてくれた人だったんだけれど。最初の頃はごく普通の、恋愛関係だったの。でも段々と関係が捻じれて……。相手は緊縛の技術を教えながら、戯れに私を縛ることがあった。私もそれは厭ではなかったわ。躰を縛られて相手に服従すること、己の全てを明け渡して委ねること、何より縛られることで自分の存在が確かなものに感じられた。心地良かったわ。セックスした時とは異なる満ち足りた気分だった。――緊縛はね、見た目には痛そうに見えるかもしれないけれど、実際には全然痛くないの。技術が未熟な緊縛師程、痛みが生じる。縄の痕も残ってしまうものなの。相手は――彼はある時、私を手荒に縛り上げた。とても痛かったのを憶えているわ」

――本当はこうされるのが好きなんだろう。

――俺には解かる。お前は本当は痛みや苦しみが欲しいのだろう。

――苦痛は全てを忘れさせるから。

「彼は私に馬乗りになって首を絞めた。息が詰まって苦しい。段々焦点がぼやけてくる。聴覚も遠くなって頭がぼんやりしてきて、現状が解らなくなってくる。恐怖感もそのうち麻痺して苦しさに何も考えられなくなる。彼が言ったとおり、苦痛は全てを忘れさせたわ。過去の出来事も、現在のことも、これから先のことも。ただ、感じるのは痛みと苦しみだけ。私はそれらの中に閉じ込められる。彼は度々、私を縄で縛っては暴力を振るったわ。意に沿わない性交も強いられるようになって、私と彼の関係は歪んでいった。そのうちに、もうこのまま死んでも構わないって思うようになった」

「そんな――」

「だからね、彼に殺してってお願いしたの。滅茶苦茶に殴って縄で首を絞めて殺してって。彼は一瞬驚いた顔をしたけれど、私が望んだことをしてくれたわ。でも駄目だった。死ぬのってそう簡単にはいかないのね」

「それからどうしたんですか?」

「彼とは別れたわ。あっさりと。何か憑き物が落ちたみたいに。きっと私のことを手に負えないと思ったのかもしれないわね」

何でもないことのように告げて翠は長くなった煙草の灰を手元にあった灰皿に落とした。

「……翠さんが縛られた女性を写真に撮るのは、もしかして本当は死にたいからですか?」

翠は虚を衝かれたかのように眸を見開いて唯を見た。

「――そうね。そうかもしれない。きっとそうだわ」

静かに頷く翠に唯は手を伸ばし、無造作に置かれた左手を掴む。爪を染める赫いネイルが薄闇にも鮮やかだ。

「翠さん、死なないで。そんなのは悲しすぎるから」

言いながら涙が滲む。大丈夫よ――翠は幼子をあやすような笑みを浮かべて唯の右手を握り返す。それがまた切なくて唯は右眼から涙を零した。翠は煙草を揉み消すと指先で唯の濡れた目許を拭う。

「唯さんは可愛い人ね。そんなに簡単に死んだりしないわ。私は大丈夫。唯さんの方が心配。あなたの方が余程――」

「いきなり泣いたりして、ごめんなさい。私も、大丈夫です。死んだりしませんから。だから――もう少しだけ翠さんと一緒にいさせてください」

「勿論よ。あなたが此処にいたいだけ、いると良いわ。――大分遅くなってしまったわね。そろそろ寝ましょうか」

時計を見ると午前二時を過ぎている。翠がベッドに横になると唯が擦り寄った。互いに何も身に着けてはいなかった。触れ合う素肌が心地よく、目を閉じると緩やかな睡りが彼女達を捉え、夜の底へと攫う。どちらともなく「おやすみ」を言い合って意識を手放してゆく。

 

4.

 

二人の生活は穏やかに、ゆっくりと過ぎていった。共に食事をし、買い物に出かけ、同じベッドで眠り、時にはセックスをした。彼女達の性交は、本能的なものに突き動かされつつも、労わりや傷の舐め合い、慰めをも含んでいた。唯も翠も口にはしなかったが、二人の関係は殆ど、恋人と名付けてもおかしくないものに変化していた。

そんな日常を営む一方で、翠は相も変わらずフェティッシュな衣装に身を包みながら――彼女が言うにはこれらの服装は雰囲気作りや自身の気分を切り替えるためらしい――縛られた女達をカメラに収め、唯は助手としてその場に立ち会った。何もすることなくその場を眺めているにすぎなかったが。

カメラの前で裸体を晒す女達は二十歳から四十過ぎの中年まで、また職種も多種多様であった。

被写体になる彼女達にどんな理由があるのか、唯は一度訊ねたことがある。三十歳くらいの女で、見た目にはこれといって特徴はなかったが、薄く施した化粧の下に、生活に倦み疲れた色が透けて見えた。彼女は唯の疑問に答えて言った。

――彼女に縛られて写真を撮られることで、要らない部分が、持て余している自分がすっかり解体されて削ぎ落されて、まるで生まれ変わったような気分になるんです。また後から送って貰った写真を見て自分の肉体的な美しさに思わず惚れ惚れとします。中山さんの腕が良いから美しく見えるんでしょうけれど……。きっと中山さんに縛られたい、写真を撮られたい人は、私みたいに自分が揺らいでいる人なんじゃないかしら。

女の言葉は解かるようで解からなかった。自分も体験すれば、何か解るのだろうか――唯はカメラのフラッシュが薄闇に閃くのをぼんやりと眸に映していた。

 

私を縛ってください――唯がそう切り出したのは二十代女性の撮影が終わり、彼女を送り出した後だった。

「そう言えば、まだあなたを撮ってなかったわね。良いわ。これから撮りましょう」

翠は承諾して吸いさしの煙草を灰皿に投げ入れた。

服を脱いで――言われるままに唯はベッドの上で脱衣する。同性同士とはいえ、明るい部屋で裸になるのは矢張り恥ずかしい。翠は唯の性の相手でもあるのだ。だが、翠は特に気にする素振りも見せず、感情が凪いだ眸で唯を眺めていた。唯が脱衣を終えると早速縄を手にする。

「もし痛かったら言って頂戴」

一言断りを入れて翠は縄を手に取ると唯の華奢な裸体を手慣れた様子で縛めていく。腕が後ろ手で縛られ、縄を天井のフックに引っ掛ける。唯は爪先立ちになった。安定させるために左腿も縛って天井から吊るす。無理やり開かれた脚に猛烈に羞恥が募る。

「痛くない? 大丈夫?」

「はい。でも……恥ずかしいです」

「そうやって恥じらっているあなたは可愛いわね。素敵よ」

真赤な唇が笑うと、ふっと照明が落ちた。変わって間接照明が柔らかな光を放つ。翠はカメラを構えて、様々な角度から唯を写した。瞬くフラッシュ、シャッターを切る音。時折ちらりと見える翠の熱っぽい眸。私は今完全に無防備な状態で写真を撮られているのだ――躰の深部が熱を持つ。縛められた胸の裡で鼓動が高鳴った。爪先立ちの脚が微かに慄える。膚がじんわりと火照って、淫らな焔が裡に燻り始める。ああどうかこのまま――唯は薄く瞼を伏せた。

撮影はそれ程時間がかからずに終わった。天井から吊るして撮影する場合は躰への負担を考えて短時間で終えるようにしていると翠は説明した。縄を解かれた唯はシーツを躰に巻き付けてベッドの上に座った。翠もベッドの縁に腰掛ける。

「どうだった? 縛られた感想は?」

「それは言わなくても解かっているでしょう?――私の慾望の形は」

どうでしたか――言葉は口付けに捥ぎ取られた。二人はベッドに倒れ込んで口付けを繰り返す。翠は唯が纏ったシーツを剥ぎ取る。唯の中で燻っていた淫火が大きく燃え上がった。

「ねえ、もう一度私を縛って。痛くしても良いから。うんときつく縛りつけて」

唯は翠に懇願した。翠は傍らにあった縄を再び唯の躰に回しかけていく。今度は頭の上で両手を縛り上げる。それから胸の隆起を際立たせるように膚に赫い縄を食い込ませ、胴の部分は複雑な綾を描いて縛めた。足首から脚の付け根まで、菱形が美しく連なるように脚にも縄をかけていく。

自由を奪われた唯はベッドの上で呻いた。それには官能的な響きがあった。翠は横たわる唯に馬乗りになって素手で首筋を撫で上げる。唯は擽ったそうに目を眇めた。

「とても綺麗」

言いながら腰骨をなぞる。前戯を思わせるその手付きに唯の背筋が粟立つ。快楽の予感に潤んだ眸で翠を見上げる。逆光になった彼女の表情は影に覆われて定かではない。ただ唇が誘惑するように赫く熟れていた。

「私にあなたと同じ痛みを与えて」

「唯さん――」

「私の首を絞めて。あなたが昔されたように」

あなたがくれる痛みが欲しいの。

あなたがくれる苦しみが欲しいの。

優しさよりも苦痛の方が長く残ることを知っている。

苦痛は低温火傷のように躰を侵食する。

いつまでも治らず、躰と記憶を苛み続ける。

壊死したように爛れていく。

忘れないために傷付けて。

苦痛を与えて。

あなたの全てが欲しいの。

私はあなたになりたいの。

私はあなたに――ああ。

翠は躊躇いがちに唯の細い首に手を回す。手の中で温かな血が拍動する。

「……もっと、もっと……力を入れて……もっと……」

促されて手に力を込めて絞め上げる。唯は苦しそうに口を薄く開く。焦点の合っていない眸は淫蕩に蕩けて妖しく光る。涙の膜が張った彼女の眸に映り込む翠の虚像は瞬きに崩れ去る。唯の首をきつく絞めながら翠も息を詰めた。唇を噛み締め、更に手に力を込める。指先が色を失くす程の力加減に翠の鼓動も忙しなくなってゆく。大きく慄える心の臓は恐怖のためか、あるいは興奮のためか。眉根を寄せる唯の顔は窒息に鬱血した顔色になり、鼻血が一筋流れ出す。翠は咄嗟に縛めていた手を離した。唯は大きく咳き込みながら喘いだ。激しく胸が上下し、喘鳴する。翠は瘧のように慄える手で慌ててシーツを掴み、彼女の鼻血を拭った。大丈夫かと何度も問いながら縛った縄を解いてゆく。唯は幾度か頷いてみせた。しかし呼吸困難に戦慄く躰は容易に鎮まりそうもなかった。暫くの間、ぐったりと横たわる唯の背中を宥めるように翠は撫ぜた。

「――あと少しだったのに」

唯は静かに呟いた。何が?――翠が訊き返すと唯は腕を伸べて彼女に身を寄せる。

「もう少しで意識が飛びそうだったの。頭の芯が痺れて眼も霞んできて……何も聴こえなくなる。まるで海の底へ沈んでゆくみたいに。不思議な心地よさだった。翠さんも覚えがあるでしょう? 窒息に意識が薄れていく感じ」

「そうね。私はあと少しであなたを殺すところだったわ」

「もしかして怒ってますか?」

「別に怒ってはないわ。ただ昔のことを思い出しただけよ」

何処か冷淡な口調で告げながら唯を柔く押し返すと、着替えてくるわ――立ち上がってリビングを出て行った。ひとり取り残された唯は閉まるドアを見詰めていた。

シーツの上を這う赫い縄は妙に生々しく、血管のようだった。

 

5.

 

夥しい雨に景色は白く烟っていた。間もなく日没を迎えようとしているために辺りは薄暗く、迫る夕闇は淀んで重たげだった。

男はビニール傘をさし、フードを目深に被って電柱の影に身を潜ませるようにして前方を窺う。数メートル先には並んで開いた二つの傘。傘に遮られて顔までは解らなかったが、確信はあった。男は気が付かれないように気配を殺しながら二つの傘の後を追った。二つの傘は住宅街を抜けて繁華な通りに入り、やがて辿り着いたのは駅。帰宅ラッシュの人混みの中を、濡れた傘を閉じて二人の女は改札を通り抜ける。男も一定の距離を於いて見失わないように彼女達の後をつけた。

程なくしてプラットフォームに電車が滑り込んでくる。彼女達が乗車するのを視界の端で捉えてから男も乗り込む。車内は程良く混雑していた。人いきれに車窓が曇る。蒸し暑い。男はじっと女達を見詰める。彼女達はまるで彼に気が付いていない様子であった。何やら楽しげな笑みを浮かべて会話を交わしている。男は小柄な女を憎悪の眼で睨み付けた。それから隣に立つ背の高い、真赤なルージュをひいた女を見遣る。年齢は三十代後半くらいだろうか。写真で見た印象より若く映った。男は苦虫を嚙み潰したような顔をしてズボンのポケットの中で興信所の人間に撮らせた女の写真を握り潰した。

女達は三駅先の駅で下車する。男も電車から降り、雑踏に紛れながら彼女達を見失わないように尾行する。階段を降り、改札を抜け、再び傘を開いて二人は往来を歩いてゆく。仲睦まじげに手を繋いで。それを目の当たりにした時、男の中で妬心が黒炎となって燃え上がった。激情に目の前が赤くなる。

十五分程歩いて、彼女達は十二階建ての白いマンションのエントランスホールへと入っていく。男は少しの間その場に立ち尽くした。エレベーターで鉢合わせしないようにと注意を払ったためである。女達の部屋は解かっている。七〇五号室。これも興信所に調べさせた。男は一度携帯電話で時刻を確認してからマンションのエントランスホールに足を踏み入れた。無人のエレベーターに乗って七階まで上がる。誰とも擦れ違わずに共同廊下を歩いて目的の部屋のドアの前に立った。隠し持ってきたサバイバルナイフを背に回した右手で握り、左手でインターフォンを鳴らす。俄かに心臓が大きく鳴り出す。男は深呼吸をして繰り返し、三カ月間毎日のように頭の中で夢想した事の手順を改めて思い返して張り詰めた心を落ち着けようとした。

やや間を於いて、くぐもった返事がし扉が開いた。ドアの影から現れたのは翠であった。これから撮影するモデルが来たのだと思い込んでいた翠は驚いた。

「どちら様――」

当惑している翠を無視して、男は素早く玄関の内側に身を滑らせると、騒いだら殺す――押し殺した声で言いながら、手にしていたサバイバルナイフを突きつけた。咄嗟のことに翠は凍り付き、悲鳴すら上げられなかった。理解が追い付かない。

「翠さん、どうし――」

何事かと察した唯が顔を出すと尋常ではない光景に叫んだ。男は翠の横を擦り抜け、靴のまま上がり込み、奇声を上げてナイフを振り翳しながら唯に突進した。唯は突き飛ばされ床に転がる。強かに頭と腰を打った。痛みに貫かれ、すぐには起き上がれない。悶える唯に馬乗りになった男は血走った眼を見開き「死ねェェェ!」絶叫し、細首目掛けてナイフを振り下ろした――が、途中で手が止まった。

「ぐ……う……ッ」

「翠さん!」

見ると翠が赫い縄で男を背後から渾身の力を込めて絞め上げていた。男は苦しみ藻掻いて手足をばたつかせる。その際に目深に被っていたフードが脱げ、容貌が露わになった。

唯は愕然とした。雄哉だった。げっそりと頬肉が削げ、蒼褪めた顔と無精ひげが痛々しく、眼だけが凶暴にぎらついていた。

「……唯さん! 逃げてッ!」

翠は苦しそうに叫ぶ。力では男である雄哉に勝てない。しかも凶器を持っているのだ。このままでは殺される。

唯は這うように立ち上がって部屋の隅に置かれた丸椅子を掴むと、強かに雄哉の頭を殴りつけた。何度も何度も椅子を叩き付ける。血が飛び散る。椅子の脚が変形する。雄哉の首ががっくりと項垂れて大人しくなっても唯は殴るのを止めなかった。殴って、殴って、殴り続けた。彼の手からナイフが落ちた音に漸く唯は我に返って、椅子を手放した。翠も縛めていた縄を緩めて肩で大きく息をした。と、床に雄哉の躰が傾いで床に倒れ込む。

「……この人が……」

「そうです、彼です。私に暴力を振るっていた……」

唯は恐々と雄哉の傍らに膝をつく。口元や頭から血を流していた。やがて床に小さな血だまりができる。

「どうして私の居場所を……」

「何かで調べたのかもしれないわね。あるいは何処かで知らないうちに彼に見られていたのかも……もっと慎重になるべきだったわ。ごめんなさい、唯さん」

「そんな、謝らないでください。翠さんは何も悪くないんですから。――とにかく彼をどうにかしないと……警察に連絡した方が……あと救急車も……」

待って――鋭い声が制止する。

翠は縄を手放すと雄哉の躰を仰向けにさせて、血に汚れた顔を覗きんだ。見開かれた眼――瞳孔が開いている。

「――死んでるわ」

「え?」

「だから、彼、死んでる。息してない」

「そんな――」

信じられない思いで唯は雄哉と翠とを見比べた。

――死んでる?

――本当に?

――あの雄哉が?

「嘘でしょう?」

思わず零れた呟きは慄えていた。涙が滲み出す。一体何の涙か。罪を犯したことの恐怖か、それとも彼が絶命したことへの悲しみか。

激しく動顛している唯とは対照的に翠は酷く落ち着きを払っていた。泣き出した唯の前に屈み込んで、両の手で小作りなかんばせを包んで見詰める。

「良い? 私が今から言うことを良く聞いて頂戴。――あなたは何もしなかった。何も見なかった。そして、このことは生涯、誰にも言わないでおくこと」

「それじゃあ、どうするの?」

濡れた眸を瞬かせて問うと翠は薄く微笑する。

「彼は私が殺したことにする。どうせ一人殺すのも二人殺すのも一緒だわ」

「何言って――」

言いかけてはっとした。血の気が引いてゆく。

「真逆……真逆、翠さんは――」

「その真逆よ。過去に人を殺したわ。ロープアーティストだった彼を。半ば事故みたいなものだったけれど。緊縛の練習中にね……誤って首が締まってしまったの。すぐに縄を解いて手当をしたけれど、駄目だった。自分が殺したと思ったら、怖くなって……救急車を呼ぶことも警察へ出頭することもできなかった。酷い女でしょう。知り合いや友人から彼の消息について訊ねられる度に気が気じゃなかったわ。罪が露見してしまうんじゃないかって……三年経った今でもたまに夢に見る。彼が死ぬ瞬間を。自分の罪が暴かれるのを。私は此処にくる度に罪の意識に囚われる。彼が此処にいるから」

翠はキッチンにある大型の冷凍庫を指差した。

「後始末は私ひとりでやるわ。あなたは帰りなさい」

「そんなことはできません。翠さんひとりに全てを背負わせるなんて」

「良いから。私の言うことを聞いて。最後のお願いよ」

「最後なんて言わないで。私は翠さんが好きなの。愛しているのよ。解かるでしょう?」

唯は泣きながら翠に縋った。翠は柔く彼女を押し返す。

「ええ、そうね。解かってるわ。解かってる。でも私は――あなたを愛してない」

「嘘。嘘よ、嘘だって言って。ねえ、翠さん」

翠は泣きじゃくる唯の腕を掴んで立ち上がらせると引き摺るように玄関へと連れてゆく。尚も抵抗する彼女を強引に扉の向こうへと押し出す。

「待って、翠さん」

「さようなら――」

無慈悲にドアが閉ざされる。慌ててドアノブを引いてみるが、鍵がかかっていて開かなかった。

「……翠さん……」

唯はその場に立ち尽くして、いつまでも泣いていた。

翠もまた、ドアの向こう側で静かに涙を流していたのだった。

 

 

真赤なルージュをひいた唇から紫煙を吐き出す。真紅のネイルが彩る華奢な指に挟んだ煙草から緩く烟が立ち上り視界を薄く遮り、ほろ苦い匂いが漂う。翠は殺風景な部屋の中央に佇んでゆっくりとした仕草で煙草を吸いながら、眸(め)を細めて白い壁に貼られた一枚のポラロイドを見詰める。小さな紙片に印刷された画は黒と白と赫で構成されていた。

漆黒に浮かび上がる白皙はなだらかな曲線を描き、輪郭は女性の裸体を形作る。赫は白の上を這い、躰を縛めていた。緊縛された被写体の容貌は闇に沈んで判然としない。だが翠は知っていた。他でもない彼女がカメラのシャッターを切ったのだから。

翠は視軸をキッチンへ移す。微かな稼働音を立てる大型の冷凍庫。白い箱。この冷たい箱の中には――。

翠は半分程燃え尽きた煙草を唇の端に咥えて手を伸ばし、壁からポラロイドを剥がした。と、記憶の扉が押し開かれ、鼓膜の奥で声が鳴る。

――私にあなたと同じ痛みを与えて。

白いシーツの上に拘束された躰を横たえながら彼女はそう懇願した。

彼女は脆かった。今にも頽れそうだった。だから。

煙草を灰皿で揉み消すと手にしたポラロイドを吸い殻の上に置く。そうして傍にあった燐寸を擦り、灰皿の中に投げ入れた。小さな火が写真へ燃え移り、緩慢に侵食していく。黒く焦げてゆく。翠は無感動な眸で灰になっていく写真を眺めていた。そうしながら彼女と共有した時間の堆積も一緒に焼け崩れていけば良いと思った。

 

(了)

2022年9月26日公開

© 2022 澁澤青蓮

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