「今日は海の方へ行ってみようか」
俺がそう提案すると、ウルムは必ずといっていいほど、緊張した面持ちでタヤンに目配せする。
「ハルト、海竜が出るかもしれないから、カルマルに確認してもらいましょう」
タヤンは落ち着いた様子で長い銀色の髪を手櫛で梳きながら、言った。タヤンは顔や声のみならず、その癖までもが楓そっくりだった。遭遇して生きて帰った者はいないといわれる海竜の気配を読んで海辺の安全を確認するのは、召喚術に長けたカルマルの役目だった。カルマルは亮に似ているが、顔を斜めに走る古傷の痕が目立つ。
「じゃあ私は海がダメだった時のために、山の方見てくるね」
ウルムは七海とうり二つの声で言い、同じく七海そっくりの小さな身体を翻して宿屋から駆け出していった。
アークゼルド。それがこの世界の名前だった。
2022年7月、夏休みを控えた蒸し暑い夜、俺は自宅に侵入してきた強盗と対峙していた。十九歳の誕生日に強盗に入られるなんて、ついてない。目出し帽を被った二人組の男は俺にバールのようなものを向けていた。ちょうどその時、妹の七海が玄関を開けながら「ただいまー」と帰ってきたのだ。男たちが玄関に気を取られた瞬間、俺は無我夢中で強盗たちに襲いかかった。だが頭部に強烈な衝撃を受け、俺は意識を失った。
たぶん即死だったのだろう。気がついたときには山の中腹に倒れていた。
「あの……大丈夫ですか?」
通りかかったタヤンが恐る恐る話しかけてきた。そうか、転生したのか。タヤンが身につけている不思議な意匠を施した甲冑と剣を見て、俺は悟った。
アークゼルドに来てからしばらくの間、俺は塞ぎ込んでいた。元の世界に残してきた妹が心配だった。俺が無謀にも強盗に挑んだせいで、妹もやられたかも知れない。相手は男二人だ。最悪の想像が頭をかすめる。五年前に両親が事故で他界し、保険金を取り崩しながら生きてきた、この世でたった二人の兄妹だ。胸を引き裂かれる思いだった。
恋人の郁恵とは、俺が死ぬ前日に大学で喧嘩したのが最後だった。こちらも、くだらない理由で言い合いをしてそれきりだったのが悔やまれた。そして郁恵の親友だったのが、楓だ。後悔に打ちひしがれていた俺を冒険に連れ出し、気を紛らわせてくれたのはタヤンだった。奇遇にも楓と見た目も喋り方もうり二つのタヤンに、俺は若干の背徳感を覚えながらも惹かれていった。
アークゼルドでの俺は控えめに言ってヒーローだった。現代科学無双で幾多の化け物を退治し、ハルトの名を知らない者はいなかった。俺は生前の名である陽人をそのままここでも名乗っていた。
「今日は海はマズイ。先に山へ行ったウルムを追って頂上へ行こう」
カルマルは顔の中心を横切る傷痕を触りながら、自慢の特殊アイテム〈蟷螂の杖〉で山の方角を示した。動きがいちいち亮っぽいのが笑える。亮は俺の大学での親友だった。実家がとんでもない金持ちで、いつも羽振りがよかった。
「やはり昨日の嵐が海竜を呼んだのね」
タヤンが言った。アークゼルドは周囲約十キロの島で、中心に標高三百メートルほどの山が聳えている。島からは未だ出たことがない。船で島を漕ぎ出せば、海竜の餌食になって二度と帰っては来られないだろう。
俺たちはパーティーを組んで山を目指した。途中タヤンがカルマルに話しかける度、俺の胸が疼く。俺は楓が亮にひとかたならぬ思いを寄せているのを知っていた。魔剣〈黄昏の剣〉の柄を軽く握りながら、俺はその埒もない想念を振り払った。ここはアークゼルドだし、タヤンは楓ではないし、カルマルは亮ではない。俺はこの世界ではヒーローだから、皆の尊敬を集めている。タヤンも、たぶん俺に好意を持っているだろう。
頂上附近でウルムに合流すると、狩りを始めた。二ヶ月前までは強敵だったモンスターたちも、俺の編みだした科学的戦術で難なく倒せるようになっていた。
狩りを終えると、ウルムとカルマルは補給のために山を下った。俺とタヤンはランダムモンスターを狩りながらゆっくり山を下りることにした。途中、雨が降ってきたので俺たちは近くにあった洞穴に入って雨宿りした。
「島から出てみたい」
俺とタヤンは並んで座っていた。すぐ隣にタヤンの体温を感じ、俺は沈黙を嫌って言った。
「だめよ、海竜が……」
「戦いもせずに勝てないと決めつけてるだけじゃないか。俺が今までやってきたように、奴らに対しても必勝法を見つけられるかもだろ」
俺は二ヶ月も島に閉じ込められていて、ウンザリしていた。きっと、人々を海竜の恐怖から解放し、この島から広い世界へと導くために俺はこの世界に遣わされたのだろうと思うようになっていた。タヤンは珍しく焦燥を隠さずに訴えた。
「無理よ。いくらハルトでも海竜は」
弱気を見せたタヤンの様子が、俺の心に火をつけたらしい。雨の洞穴に二人きりだったシチュエーションが俺の背中を押した。
「え!? ハルト、ちょっと」
俺はタヤンの上に覆いかぶさり、抵抗する彼女の手首を掴んで身体を開かせた。なあに、いつものタヤンの素っ気ない態度も、時々カルマルと睦まじげに話すのも、こうして抗っているのも、ツンデレってやつだ。タヤンは俺を受け入れるに違いない。
「タヤン、お前が好きだ」
タヤンの豊満な乳房が半ばまで露わになったとき、俺はその乳房の内側に小さな星形の痣があるのに気付いた。そのせいで一瞬俺は動きを止めた。
「嫌ッ!」
たじろいだ隙に強烈な膝蹴りを股間に受け、俺はもんどりうった。タヤンは飛び起きて、洞穴から雨の中へと駆け出していった。ツンデレなんかじゃない、本気の拒絶だった。
股間の痛みから立ち直ると、俺はタヤンを追った。山の麓まで下っても、タヤンの姿は見えなかった。町まで行けばウルムとカルマルがいるだろうし、タヤンも戻っているかもしれない、と思ったが、俺はなぜか町を横目に素通りして、海岸へと向かった。
タヤンの態度に、むしゃくしゃしていたのだ。身体を求めて拒絶されたのもあるが、海竜に対抗する術があるかも知れないという俺の意見を頭から否定されたのが、癪に障った。
もし本当に海竜が現れて、殺されても構わないと思った。どうせ転生するならもっと広大で自由な世界だったら良かったのに、と思う。俺は自暴自棄になっていた。
嵐のあとで、海岸には大量の漂流物が打ち上げられていた。モンスターの身体の一部と思われる腐った魚のような悪臭を放つ物体。ロープや漁網のような道具、流木や人々の生活雑貨。
俺は海棲モンスターの気配に警戒を怠らないようにしながら、海の向こうで生活を営んでいる人々が確実に存在するという証左を求め、浜に打ち上げられた雑貨の一つを手に取った。
妙に軽くて頼りない感触のそれは、深めの食器のような形をしていた。外側に文字が書かれている。アークゼルドの文字ではない。が、何故か俺にはその文字が読めた。
「日清カップヌードル」
最初、意味が分からなかった。アークゼルドに存在してはならないものだという、基本的な感覚も麻痺していた。
俺は目が覚めたように飛びあがり、周囲の漂着物を片っ端からひっくり返した。自然の漂着物やアークゼルドの文物に紛れて、俺にとってはよく見慣れた、しかしこの世界にあってはならないものが多数落ちている。日本語、英語、ハングル、中国語。様々な言語で印刷されたプラスチック製のパッケージ、ビニール袋、発砲スチロール。
俺は猛ダッシュで町に戻った。カップヌードルの空き容器を手に、タヤンやウルムやカルマルのいそうな場所を回る。
俺たちの根城である宿屋に、三人は集まっていた。
「これ、どういうことなんだ」
俺はカップヌードルの容器をカルマルの鼻先に突き出して言った。
「どういうことって?」
亮は顔の傷痕を触りながら、白を切った。いや、亮ではなくカルマルだ。俺は死んだ。死んでアークゼルドに転生したはずだ。
「七海、お前もグルだったのか?」
今度はウルムに詰め寄ると、妹そっくりの魔道士は困ったような顔をする。
「ナナミって誰? 私はウルムよ」
俺は眼だけでタヤンの姿を探した。さっきまで居たはずのタヤンが見えない。と、背後から腕をとられた。
「ゴメンね」
振り返ろうとした途端、首筋にチクッと針の刺さる感覚を覚える。首をねじろうとする動作は最後まで果たせず、俺は視界の隅に楓、いやタヤンの申し訳なさそうな顔を捉えながら、意識を失った。
遠のく意識のなかで、俺は微かに三人の会話を聞いた。
「だから嵐の後には海岸に近づけるなって言っただろ」
「仕方ないじゃん、陽人のやつ何を勘違いしたか急に襲ってくるんだもん」
「お兄ちゃんサイテー」
「まあ本人は死んで転生したと思い込んでるんだからさ」
「余計気持ち悪っ」
「あははっ、郁恵ちゃんいなくて良かったね」
「良かったねじゃねーよ絶対言いつけてやる」
目が覚めると、俺は見知らぬベッドの中にいた。アークゼルドの、埃っぽい宿屋のベッドとは違う。金属のフレームとプラスチックでできた、清潔なベッドだ。壁には「酸素」「吸引」の文字。ナースコールの呼び出しボタンとベッドテーブル。間違いなく病院だった。
ちょうど病室に妹の七海が花瓶に活けた花を持って入ってくるところだった。
「お兄ちゃん、気がついた? 良かった!」
七海は花瓶を取り落としそうになりながら駆け寄ってくる。
「強盗に殴られて、二ヶ月も意識不明だったんだよ! もう起きないかと思ったよ」
半泣きの七海のあとから、楓と亮が病室に入ってきた。夢オチだって? 俺は信じない。アークゼルドで過ごした二ヶ月、あれは本物だった。俺は考えていた。亮が金にものをいわせて無人島を借り切り、エキストラを雇ってアークゼルドをでっち上げたのだ。モンスターたちも特殊メイクや立体映像だろう。どうしてそんな余興を始めたのかは分からない。が、どうでもいい趣味に億単位の金を遣う亮のことだ。俺の誕生日祝いと夏休みの暇潰しを兼ねて思いついたというところだろう。
俺は亮たちを問い詰めたが、彼らは「リアルな夢を見たな」とまるで取り合わない。そこで俺は思い出した。洞穴でタヤンを襲ったとき、乳房の内側に見えた星形の痣を。アークゼルドが現実なら、楓にもそれがあるはずだ。
「楓っ!」
俺は楓に飛びかかり、ブラウスを脱がしにかかった。
「ちょっ、何すんの陽人」
ちょうどその時、病室に郁恵が入ってきた。郁恵は泣きはらしたような顔で「陽人、ケンカしちゃってごめんね~」と言いながら踏み込んできたが、俺が楓の胸元をこじ開けようとしている姿を見て凍りついた。
思い出したくないけれど、それが俺の夏休みの終わりだった。
小林TKG 投稿者 | 2022-09-23 04:43
おそらく日本海側ですね。あるいは九州か、西日本山口とかか。しかしまあ、もしトゥルーマンショー的な感じだったとしたら、ちょっとハルトさんはかわいそうですかね。
Fujiki 投稿者 | 2022-09-24 00:24
強盗に殴られて意識を失ったところから亮の差し金だとすれば、陽人はもっと激怒していいと思う。さわやかな読後感がいい。
大猫 投稿者 | 2022-09-24 21:58
転生したのか夢なのか、やらせのセットなのか、どうとでも読めるようになっているのがいいですね。未知の異世界にあっさり適応して、本人もいい気になって暮らしていたのだから人のことは言えないかも。
しかしラストは可哀想すぎます。これは道徳的に非難されるべきことなのだろうかと考えたら夜も眠れなくなりそうです。
曾根崎十三 投稿者 | 2022-09-25 03:22
星の痣の真偽はいかに……。
騙されていたとして一体何のためになぜ……?みたいなことをまじめに考えてしまいました。
個人的には一番異世界転生モノっぽい文体でした。 オシャレな名前の中「郁恵」だけ妙に古い気もして郁恵が黒幕?とも思いましたがそれは考え過ぎですね。
諏訪靖彦 投稿者 | 2022-09-25 23:28
曾根崎さんの言うように、これが仕組まれたことだとしたら何のために? と疑問が残るので私は本当に夢落ちだったと解釈しました。世の中にツンデレなんていません!笑
ヨゴロウザ 投稿者 | 2022-09-26 00:21
たまにまさにこの作品の内容のようなシチュエーション、なんならもっとえぐいシチュエーションを夢で見て自分でも目覚めてからぎょっとすること無いですか。そんな夢見たなんて誰にも言わないし自分でも無かったこととして忘れようとしますが。お金持ちが遊びで前後不覚で倒れてる人を助けて夢の(ような)世界で遊ばせてそれを見て楽しむというのは古典的な設定で、確かアラビアンナイトで出て来て『じゃじゃ馬馴らし』の冒頭もそれを流用してますけれど、そこで自分でも認めたくないようなえぐい願望が露わになる、周りにも知られてしまうというのが面白いと思いました。
松尾模糊 編集者 | 2022-09-26 13:19
男性的欲望と短絡的な行動が物語を駆動させているあたり、男性としてあーダメだなあと他人事にできない、身につまされるものがありました。異世界転生ものがそういったものを全てファンタジーとして消費するアンチテーゼとしても上手いなと思いました。
波野發作 投稿者 | 2022-09-26 18:03
テンポが良く、文章が上手いので、楽しめました。そうまでして亮たちがハルトにドッキリ?を仕掛けた動機がわからないが、それはきっと続編(解決編)で明かされることだろう。
Juan.B 編集者 | 2022-09-26 18:29
トゥルーマンショーは自分も思った。誰が何を仕組んでいる、と言うのは異世界転生には付き物だが…。今後が気になるところだ。
退会したユーザー ゲスト | 2022-09-26 21:18
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