背中がびくりと震えた。振り返ろうとした首の動きが止まる。腕が力なく落ち、一瞬の抵抗の後に敢えなく前のめりに崩れた。しばらくは弱く痙攣していたが、やがてそれも静かになった。
諸共撃ち抜いてはいないと思うが、助けたはずの友の姿は死体の向こう側に隠れて見えない。
「おい、生きてるか」
およそ半年ぶりに再会して最初にかける言葉がこれとは、つくづく救いのない世界だと思う。
「おい、アオ。死んでたら返事しろよ」
返事はない。ややあって、動かない死体の影で血に塗れた腕が弱く床を掻くのが見えた。意識があるだけでも上等だと、明石は緊張に詰めていた息を短く吐いた。
部屋を横切って、覆い被さったままの花嶋の死体をどけてやる。ようやっと相見えた友は仰向けに倒れてぐったりと全身を弛緩させたまま、焦点の合わない目で朦朧とこちらを見上げていた。
「ま、だ……ここ、は、地獄、か」
ざらついた声。女のように細く白い首筋に、絞められた指の痕がくっきりと赤黒く残っている。
「残念ながら、天国ではないな」
色を失った唇からさざめいた笑いが零れる。助け起こそうと手を差し出すと、蒼月は何か言葉を紡ごうと息を吸いかけ――しかしすぐにぶるりと戦慄いた。
「ッあ゛…、ぅ、――ッ、っゔ、」
鳩尾の少し左あたりをきつく押さえ、身を折って蒼月は呻いた。ぎりぎりと音がするほど噛み締めてもなお殺しきれない苦痛が溢れる。
記憶違いでなければ、こいつはこんな風に痛みに喘ぐところを簡単に人に晒すような奴ではない。そもそもここまで手酷くやられるより先に、相手が動かなくなることの方が多いはずだった。
もう少し早く介入できたらよかった。花嶋が彼の首に手をかけているところからしか見ていないから、その前に何があったかは知らない。
せめて息がしやすいようにと、脱いだジャケットを頭の下に差し入れてやろうとした。
「さわッ、る、な…ッ゛、ぁア……っう、ぐッ――」
肩に触れた途端、ばしりと邪険に拒絶された。しかし些細な動作さえ激痛を呼び起こすのか、痙攣するように身を震わせる。ほとんど意味をなさない浅い呼吸を繰り返す様子に、肋の一本か二本は折れていると直感した。
「おい、下手に動くな」
血を吐いたり意識を失ったりしていないところを見るに、恐らく内臓まではやられていないだろう。しかしこのままでは自力で動けそうにはない。
「固定できれば多少はマシになる。痛むだろうが、一度体を起こせるか」
人に助けられるのを彼は嫌うだろうが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「さわ、るな、って、言って、る、だろ……ッ」
「ごちゃごちゃうるせえんだよ。いいから、」
「薬を、盛られた、……なに、しでかすか、わかんねぇぞ」
「は?」
どうにも噛み合わない拒絶の理由がようやくわかった。正気じゃないから下手に手出しをするなと言いたいらしい。
本当にバカだ、こいつは。自分以外は野垂れ死のうが苦しもうがどうでもいいみたいな顔をしておきながら、その実他人が自分のせいで傷つくのを心の底から恐れている。
「アオ、お前が俺にケンカで勝てたことがあったかよ。安心しろよ、お前なんかラリってようが、ぶん殴って気絶させるくらい容易い」
「ひど、い……な」
蒼月は諦めたように笑った。気が抜けたのかぐらりを視線を彷徨わせ、何度か苦しそうに咳き込む。
「盛られたって言っても経口だよな。なら回りは遅いし鈍い、口にしても気がつかなかった程度の量ならすぐに抜ける。ちょうどよく鎮痛剤になったと思って、そのまましばらく大人しくしてろ」
「やけに、詳しいな……? いつの間に、手を出したんだ」
少し落ち着いてきたのか、蒼月はゆっくりと瞼を閉ざした。色の抜けた頬に、乾きかけた血の雫が点々と跳ねている。
「バカ、俺はクスリだけはやらねえよ。……弟分がこの間過剰摂取で死んだ」
蒼月は何も答えない。上滑りするような浅い呼吸を繰り返しながら、聞いているのかいないのかわからない様子でぐったりとしていた。
「せめて応急処置だけでもやらせてくれ。こうなったのには俺にも多少責任がある」
争う物音が聞こえ始めた時点で、さっさと介入しておけばよかったのだ。己の身かわいさと、こいつなら放っておいても自力でなんとかするだろうという油断が生んだ結果だった。
「……責任?」
「ああ。だって俺はお前よりも先に――」
言葉の続きは突然の異変に奪われた。
ひゅ、と目の前の細い喉が鳴る。元より危うかった呼吸がひきつけを起こしたかのように乱れて、痩せた背がぎくりと震えた。
「おい、大丈夫か、」
最初はドラッグが抜けるに従って鎮痛作用も薄れてきたのかと思った。それならば効果のほどは怪しいが、手持ちの鎮静剤を打ってやろうか、とも。
蒼月は早い呼吸を手のひらで握り潰すように、胸元をきつくおさえた。先程までとは違って、胸の中心に近いところを。
「ッ……、は……ッは、は、ハ……ェほ、けほ…ッ……」
――深刻なのはドラッグの影響でも外傷でもない。
「アオ、聞こえてるか?」
「……ッぐ……! ッあ゛あ、うッ…く、っふ…ゥう、せヒュ…っこホ、ゼォッゼぉ……いッぁア゛……!」
喉元からひゅうひゅうと隙間風のような音がしている。呼吸がまともにできていない。蒼月は身を捩り、思い切り胸元に爪をたてた。
もう十年くらい前になるだろうか。ガキの頃に何度か、発作を起こして動けなくなった彼を介抱したことがあった。生まれつき心臓に欠陥があるらしいと知ったのもその頃だ。
「心臓か。たしか薬持ってたよな」
尋ねると、蒼月は朦朧としながらも首元に手をやった。
力の入らない手が彷徨うとおりにボタンをひとつ、ふたつまで外してやると、日に焼けることを知らない白い肌に絡む細いチェーンが見えた。手繰って引っ張り出した先にはシンプルな銀製のロケットチャームがぶら下がっている。開けてみると、中には小指の爪半分ほどの大きさの錠剤がいくつか入っていた。
「これ一度に何個だ?――気絶する前にせめて数くらいは教えてくれよ!」
蝋燭の灯が吹き消されるように、ふっと蒼月は意識を手放していた。痛みのあまりに気を飛ばしたのか、それとも心拍数が落ちたせいか。どちらにせよ悠長に薬の個数ごときで悩んでいる余裕はなさそうだった。
何個でもいい、とりあえずはひとつ――錠剤を半ば無理矢理に薄い唇に押し込んで、そこでようやく水がないと気がついた。
うろうろと辺りを見回す。テーブルの上でひっくり返ったワインボトルが目に入った。持ち上げてみると、幸い薬を飲み下せる程度は残っている。
この際アルコールは無視だ。二つあるうち、片方のグラスは床に落ちて粉々になっていたが、もう片方は運良く無事だった。中身を全て注ぎ、ぐったりとした背を片手で支えながら口に含ませた。
飲み下す力さえないのか、ワインは色の失せた唇を無意味に滑り落ちる。落ちる様が一瞬血のように見えて、余計に焦りが募った。
「ああくそ! 後で怒るなよ」
やむを得なかったとはいえ口移ししたなどと知れたら、こいつは間違いなくしばらく口もきいてくれなくなるだろう。とはいえ迷っている暇もない。知られなければいい話だと開き直って、意を決してワインを自ら一口含んだ。
「……っ! こいつ、これ口にして何も気がつかなかったのか」
舌に触れた瞬間生じた違和感。考える間もなく吐き出した。元々の風味で判別しにくくはなっているが、明らかに何か混ぜられているとわかる。
普通はこんな手には引っかからない。普通は。たしか常用している薬の副作用で味がよくわからないとかぼやいていたっけか。たぶんそれのせいだ。
つまり花嶋はそこまで知っていてこの場を設けたというわけだ。致死性の毒物ではなくドラッグを選んだのは、生かしておいて情報を抜きたかったのと、花嶋自身も口にすることで蒼月の警戒を解くためだろう。
ここまで手の込んだことを花嶋の独断でできるとは思えない。お世辞にもそこまで頭が回るとも思えない。絶対に裏で手を引いた者がいるはずだ。順当に考えるなら呉山か、いやそれとも――?
「ゼぉ、けほ……ぅ……っ、ん……っ」
余計な方に向かい始めていた思考が引き戻される。
薬が効いたのか、蒼月は意識を取り戻していた。しかしふらふらと彷徨う視線はこちらの存在をはっきりと捉えない。
見えない、と掠れた声で呟くのを聞いてぎょっとした。しかしそれもしばらくのことで、徐々に理性的な色を取り戻していく。
「おま、何……やってんだ」
呆れた気配を孕んだ声が落ちる。
「いや……薬を飲ませたかったんだが、水がなくて」
ワインにドラッグが仕込まれていたことは言わないでおくことにした。こいつのことだから、きっと盛られたと気づいた瞬間にその手口も悟っただろう。わざわざもう一度伝える必要もない。
「は……く、そ………い、ってぇ、な……ッ」
胸を庇って前屈みになりながらなんとか上半身を壁に凭れさせ、蒼月は浅く息を吐いた。発作の残滓を引きずってまだ呼吸が苦しいのだろうが、肩で大きく息をすると傷めた胸に障るのだろう。
「…ぅ、ッ……っは、は――…ッ、は…っけほ、ぇほ……ッえ、げほっ、」
「吐いたほうが楽になるんじゃないのか」
胸をおさえたまま繰り返し咳き込み、挙げ句嘔吐くように喘いだのを見て、思わず背に手が伸びた。
触れた体はやけにひんやりとしている。無理にでも吐かせるべきか否か。これ以上体力を削る行為は避けた方がいいのかもしれないが、自分には正しく判断できない。
「お前の前で、吐くくらいなら……ッ、先に、お前を殴って、黙らせてからにする」
口をきくだけでも苦しいだろうに、蒼月はきつい目で睨んできた。これはマジな目だ。
「それだけ軽口が叩けるなら心配して損した」
蒼月は包帯代わりにシャツの袖を裂こうと悪戦苦闘していたが、手に力が入らないらしく、やがて投げ出すとぐったりと肩を喘がせて目を閉じた。諦めたのか、今度ばかりは手を貸しても何も言わずに受け入れた。
「なんで、お前がここにいるんだ」
「訳あって花嶋を張ってた。誰かと会うことまでは把握していたが、まさか相手がお前だったとはな」
右肩の傷の応急手当をしながら、明石は淡々と答えた。
だいぶ出血したようだが、そのわりに傷自体は大してひどくもない。おおかた至近距離から放たれた銃弾が軽く掠めた程度だろう。むしろどうしてこうまでだらだらと血を流し続けるのか不思議なくらいだった。
ともかくこれくらいなら簡単に処置するだけでどうにかなると、裂いたシャツを巻きつけた上からネクタイで縛ることにした。あまりきちんと手当てすると、見かけによらず面倒くさがりで適当なこいつはそのまま放置しかねない。後でやり直す必要があるくらいに、敢えて雑にしておいた方がいい。
「……さっき言ってた、責任ってのは」
はぁはぁと忙しない呼吸を忘れようとするかのように、蒼月は話を続けた。
「密会の存在を事前に知っていたくせに、危うく見殺しにするところだったってことだ。……悪かった」
「謝ることじゃない、お前にはお前の事情があるだ、…ッ! っう、ぐ…っ」
縛る腕に力をこめた瞬間、蒼月は思わずといった様子で低く呻いた。
「悪い、強すぎた」
「いきなりやるな、クソ馬鹿力……ッ」
折る気かよ、そう冗談めかした声で囁くも、その唇に色はない。あまりに気分が悪そうな様子に、少し横になるかと訊いたが、蒼月は力なく首をふるばかりだった。
「明石、お前、何か隠してるだろ」
呼吸も落ち着かぬうちから、蒼月は鋭い視線を向けてくる。
「は?」
「隠せてるつもりか? 分かり易すぎるんだよ」
いいから吐け、とその目は脅している。隠し通すという選択肢はないようだった。
他に誰も聞いている者がいないことを改めて確認してから、明石は声を落として告げた。
「七澤の組長が三日前に亡くなった」
蒼月は短く息を呑んだ。
「まさかお前からそんな特ダネを持ち込まれる日がくるとはな」
確かか? 念押しするように蒼月は尋ねる。
「ああ、間違いない。呉山本人から聞かされた。……俺は今、呉山の側近をしてる。対外的には使い捨ての用心棒という扱いだが、実質は右腕といったところだ。幹部会にも出入りしてる」
「少なくとも半年前までは掃いて捨てるほどいる下っ端のうちのひとりでしかなかったはずだよな。うっかり組長の命でも救ってやったのか? それとも気に食わない幹部連中を恫喝でもしたのか」
「お前は俺をなんだと思ってるんだ? ……まあ、そこまで完璧に騙れていたのなら、上出来だったということかな」
蒼月に気取らせなかったのなら、諜報作戦としては大成功だろう。とはいえこいつが七澤組の内部事情にまるで関心を持っていなかった可能性もある。つまらない内輪揉めを注意深く見守っていられるほど暇ではないのだろう。
「話は戻るが……組長は消されたのか?」
当然とも思える蒼月の問いに、明石は首を横に振った。
「いや、日頃の不摂生が祟ってコロッと死んだだけだ。怪しいところはなにもない、暗殺はありえない。……しかしまあ、その死をいいように使われようとしてる。あまりに突然のことだったから、結局組長が次代を誰にと考えていたのかも、遺産相続についても闇の中だ」
まったく、考えつく中で最も最悪に近い形の死に方をしてくれたものだ。これからのことを考えるだけで頭が痛くなる。
「亡くなったことを知っているのは幹部連中だけだ。呉山は当然知らされているが、花嶋にまで伝わっていたかはわからない」
「恐らく知らなかったんだろう。もし知っていたなら、俺にドラッグを盛ってる余裕なんてないはずだ――」
ああ、そうか。そこまで言ってはたと気がついたように、蒼月は微かに笑った。
「呉山は花嶋を切ったのか」
明石は頷く。
「明日にも密葬を終える予定だが、葬儀が終われば隠しておくのも限界だろう。舵を失った跡目争いは一気に泥沼化する。暴走しそうな花嶋を、呉山はこの機に切ったんだ」
呉山は花嶋のことなど端からこれっぽっちも信用してはいなかった。ただ使い棄てにしただけだ。
「切ったあと、次はそこに誰を据えるつもりだ?」
「もうわかってんだろ」
「お前か」
「ああ」
俺もまたいいように利用されて棄てられるのだろう、そう初めからわかっているのがせめてもの救いかもしれなかった。信じてたとか、裏切られたとか、余計なことを考えなくて済む。棄てられるのを黙って待つつもりはないが、少なくとも期待はしないでいられる。
「明石、お前にとある人から伝言がある。『じいさんがお前ごと七澤をぶっ潰す前に帰ってこい』……だそうだ」
確かに伝えたからな、後は勝手にしろ。蒼月は目を合わせることなくぶっきらぼうにそう言うと、目元に落ちてきていた横髪を苛々と掻き回した。
「それ、言ったの椎原先生だろ。忠告は感謝するが、まだ当分無理だって伝えておいてくれ」
「俺を使うな。文句は自分で伝えろ」
どうしてこいつはこんなにも苛ついているのだろうか。諜報に関わる以上二つの組織の間で板挟みになるのは避けられないし、危険も承知の上だ。それなりに上手くやっている自負もあった。
何より今更降りる選択肢など存在しないことを、こいつもわかっているだろうに。
わかっているが故の苛立ちならば、やはりこいつは向いていない。こいつは、こんな掃き溜めの世界で擦り減っていっていい奴じゃない。頭は良いし、クチは悪いが人にも好かれる。陽のあたる場所で真っ当に生きていける。今ならまだ間に合うかもしれない。
「明石。……こいつはどうするんだ」
背中から心臓を一撃で撃ち抜かれて物言わぬ物体と化した体を指して、蒼月は訊いた。
「こっちで適当に処理する。問題ない、どうせ遅かれ早かれこうなっていたんだ。お前は今日この場にいなかった、それでいい」
「わかった。お前に任せる」
もうこの場にいる必要はないと判断したのか、蒼月はふらふらと立ち上がった。
「どうせここには誰も来ない。もう少し落ち着いてからでもいいんじゃないか」
どう見ても壁に片手をついてようやく立っているという有様だ。横髪に半分隠れた頬をつっと汗が伝う。二、三歩試すように動きかけたが、すぐに胸をおさえて俯いた。
「……いい、アドレナリンが切れただけだ」
握り締めた手が痛みに震えている。また倒れるのではないかと思ったが、どうやら気力で保たせきるつもりらしかった。
これ以上気にかけても拒絶されるだけだ。たとえ身体がついていかないとしても、蒼月は精神の弱いところまで表に出すことはない。
「これで貸しひとつか? いやたしか前は俺が死にかけてどうにかしてもらったから……今回で清算終了か」
彼は人を頼るということを知らない。裏返せばそれは、自分以外の何者も信じていないということだった。もしかしたら自分のことも信じていないのかもしれない。何ひとつ信じられずに、どこかに身を預けることもできずに、たったひとりで立ち続けて。
「お前との貸し借りなんざ、ッぇほ、けほ……多すぎて、いちいち覚えてられるか」
「お前も忘れたりするんだな? ……まあいい、次どこかで会うときまでに思い出しておけよ」
冗談交じりにそう返すと、蒼月は一瞬驚いたような目をして、それからふっと寂しげに笑った。
「アオ。……ありがとな」
話し相手に困ることはないが、友と呼べるのはこいつだけかもしれないと思った。言葉を交わして気が楽になるのはこいつだけかもしれない、と。
「急に真面目くさってそういうことを言うな、気色悪い」
無視されるかと思ったが、蒼月は不機嫌そうに言葉を返した。
こいつにとって俺は特別でもなんでもないのだろう。他の人間を信じないのと同じように、俺のことも信じてはいないだろう。
「椎原先生のありがたい忠告を無視するようで悪いが……俺はまだ戻れない。こっちでやるべきことが終わるまでは」
「好きにしろ。お前がどこに属していようと、どう動こうと、俺には関係ない」
「ははッ、冷たいな」
信じてもらえなくていい。特別でなくていい。それが彼の動く力となるのなら、軸になるのなら、寂しくはあるが喜んで彼の人生の部外者になってやろうと思う。
それでも、彼の中に少しでも言葉をきく余白が残されているのなら。ほんの一部分だけでも許されるのなら。
「……なあアオ、死ぬなよ。少なくとも俺の知らないところで死ぬな」
蒼月は何も答えなかった。
†††
いたく上機嫌な医者はこの日何度目かの「よくやった」を口にした。
「突然発送者不明の大量の荷物が届いたときは何事かと思ったが、中身を見た瞬間に悟ったよ。どこぞの医者相手に相当ふっかけたんだろ?」
功労者たる当人は素知らぬ顔でコーヒーを飲んでいる。珍しく本気で褒めてやっているのだから、少しくらい誇ってもいいだろうに。
「麻酔薬、抗菌薬、その他諸々おまけに輸液類まで揃ってる。お前、いつの間にこんなに知識つけたんだ? 的確なオーダーに加えて量も申し分なし。これで安定的供給まで求めるのは罰が当たるってもんだ。文句なしだよ」
「ご満足いただけたようでなにより」
返ってきたのはあからさまな愛想笑いだった。あまり身体の調子が良くないのか、それともただ不機嫌なだけなのかはよくわからないが、相手にするのが心底面倒だと顔にはっきり書いてある。……用を済ませたらさっさと帰れとも。
「そいつを使って早速仕事をしてやる、傷を見せろ」
聞くなり無言で席を立とうとした蒼月を引き留める。こいつの医者嫌いもそろそろどうにかならないものか。
後ろ暗い理由や人に明かせない理由を抱えたまま治療を求めてくる患者を診続けているうちに、無駄な観察眼ばかりが鍛えられてしまった。
こいつの顔色が良くないのはいつものことだが、ふとした瞬間に目眩を堪えるようにしばらく目を閉じるのは看過できない。恐らくかなり血を失ったか、長く痛みの残るようなことをされたか。何をどうしてこうなったかまで詮索する気はないが、また面倒事に巻き込まれた(か、自分から進んで首を突っ込んだ)のだろう。普段から色々と依頼している手前、少なからず責任は感じていた。
「怪我してるのなんか反応見てりゃすぐわかる。隠してるつもりなんだろうが、庇って動いてるのが丸わかりなんだよ。どうせお前のことだから、熱さえ引けば後は放置だろ」
平気な顔を取り繕って動けているくらいだからそこまで深刻でもなさそうだが、蒼月の場合は他の不安要素が多すぎた。
こいつが自分で思っている以上に、自由に動ける残り時間は少ない。しかしそれを正直に伝えたが最後、彼は残りの時間全てを一瞬に注ぎ込んで終わる道を選ぶだろう。自分が生き延びることよりも大切なものを得てしまった人間ほど、何をしでかすかわからないものはない。
「別に、大したことはない」
「お前のそういう反応は大抵ロクなことがない、いいから――」
基本的に許可なく体に触れないようにはしているが、慣れている相手であるし、腕を掴むくらいは問題ないか。そう思って手を伸ばした。
蒼月もその動きは予想していたのだろう。最小限の動きで軽く身を引こうとして――ふいに呻き声をあげた。
「! ッう…っ」
また発作を起こしたのかと思ったが、どうも様子が違う。
「お前、それ肋骨やってるな」
しばらく声も出せずに苦痛を噛み殺すのを見て、思わずため息をついた。
「……折れたもんは仕方ないだろ」
ようやく呼吸が通るようになったのか、蒼月は掠れ声で言い訳がましく呟く。仕方ないじゃない、怪我するような真似はするな。そう説教してやりたくなったが、どうにも勢いを削がれてしまった。
「いいから診せろ」
案外素直に応じてくれた。バレたからには開き直るつもりらしい。
薄く骨の影の浮いた体には、あちらこちらに古い傷痕が刻まれている。大半は彼が十代の頃、手加減というものを知らないどうしようもない師範に無茶な鍛えられ方をされてつけられたものだが、その他にも消えない火傷痕やケロイド状になったものもある。
表通りから遠ざかった世界で長く医者をしていると、わりと見かけることの多いものだ。暴力の絶えない環境で育った子どもは、心と身体に残った傷痕の数だけ傷つけられることに慣れてしまっている。理不尽に虐げられることに疑問や怒りさえ覚えなくなっている。そして運よく大人になれれば、今度は当たり前のように別の誰かを暴力で支配するようになるのだ。
「蒼月。もうこれ以上危険なことに首を突っ込むのはよせ」
彼等を殺させたくない、と思う。蒼月だけでなく、暴力と不平等を当たり前のことだと思っている子ども達全てを生かしてやりたいと思う。思うだけで何ひとつ行動に移せない自分が情けなかった。
彼等はただ、他の世界を知らないだけなのだ。教えてやるのは、大人の役目だというのに。
「別に足を洗えとまでは言わない。言える立場じゃない、俺も結局日陰者だしな。でもな蒼月、お前の頭と要領の良さがあれば、もっと上手く生きて――」
「説教しにきただけなら帰れ」
蒼月は苛ついた声で遮った。今更何を言われても手遅れだ、そう言っているようにも聞こえた。
「上手く生きるとか価値のある生をとか、正直反吐が出る。その基準を決めたのは一体どこのどいつだ? ……俺は他人の決めた価値では生きてやらない」
人より短いのなら、尚の事。蒼月はそう言うと、深い夜の色をした瞳でどこか遠くを見つめた。
彼の見ているものは、彼にしかわからない。
「そういやお前、自分のための薬も報酬に加えただろう。こんなもの使うのはお前くらいだから、礼代わりに全部持ってきてやった。運送代はまけておいてやるよ」
これが主目的でわざわざ出向いたというのに、彼の気迫と機嫌の悪さに気圧されて、危うく忘れてお望み通り帰るところだった。
それにしても、この薬品類を揃えた相手はよくもまあここまで専門的なものを短時間で手配できたものだと思う。大病院の勤務医か、多方面に顔が利く開業医か。なんにせよ大枚はたいてでも蒼月と取引しようとする奴だ、どうせまともな人間ではあるまい。
「いいか、くれぐれも濫用はするなよ。……蒼月? どうした」
自分で頼んだものだろうに、蒼月は驚愕に目を見開いていた。
「――言ってない」
「あ?」
「薬を報酬にと寄越した奴に、俺はこの身体のことを一言も話してない」
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