アネックはどうしてか、おれに七三分けを進めてきたんだ。おかしな話だろう? だってアイツは自分の赤い頭髪を粉末に変えて、それを『ヤクブツ』として若手常用者に売っているんだ。おれも試しに一度だけそれを買って、使ったことがあるけれど、はっきり言ってあの程度のモノで生計を立てることができているってことに驚いたよ。それぐらいアイツの『ヤクブツ』はひどいモンだった。削岩機フェスティバルにすら参加していない初心の薬物常用者たちを欺くこともできないだろうし、逆にいくつもの薬を何十年にも渡って体内に入れてきたしわくちゃの連中たちからは相手にされないだろう。おれみたいな、いわゆる中堅たちからも同じ。さっさと嗤われて終わると思う。実際におれがそうだった。
なら、どうやってアイツはあれでカネを得ているのか。昨日、バーで訊いてみた。それは意外にも単純なことだった。アイツが商売をする先の連中は、麻薬取締官たちなんだ。彼らは確かに捜査官としては優秀だけれど、所詮は薬物を危険物として見ている真面目な連中に過ぎない。確かに彼らの中には、おれたちと同じように薬物を生きるためのエネルギーとして考えているやつもいるけれど、あっちの世界じゃ、そういう思考はすぐに淘汰されるらしい。だからあいつらは、麻薬取締官とかっていう格好の良い名前をぶら下げている割には、薬物の内部事情については圧倒的に疎い。だからこんな、甘い香りがするだけの砂鉄みたいな赤いヤクでも騙せる。嬉々として買う。そして試して、その粗悪さにガッカリする。しかし逆に喜びもする。
「連中はこの程度の物に人生を費やしているのか」
「へへ、トリップってのは、軽いな。へっへっへ……」
深夜の警察署内で罵る声と姿が目に浮かぶ……。おれは瞼を閉じて妄想に打ち込みながら、ヤクブツまみれの二本指を咥える。
指の全体が唾液と舌の感触に包まれと、すぐに天井と床が逆さになってゆく……。脳が固形になると同時に、体中から発泡スチロールをこすり潰す音が聞こえ始める。まるで駅に近づいてくる汽車のような音が、おれに街中を高速で見せつけていく……。
「大丈夫、大丈夫……ぼくはシャブ打ちじゃないから……」
おれは気づけば、塗装が剥がれかけている橙色の壁に背中を擦り付けて、路地裏特有の錆びれた騒がしさに必死に耳を向けている。砂の地面にはおしゃぶりがあった。橙色のおしゃぶり。おれはいくつもの小さな瘡蓋が剥がれかけている両手で、大きなコカイン袋を握りしめている。
「すー、すー、すー」
三度めの深呼吸。薬物常用者の深呼吸は文学的な表現が安易。楽にできるので、麻薬取締官の書記係は簡単な仕事という認識が組織内にある。しかしそれは間違いで、実際は自分の中の妄想をスポーツカーのような速度でまくし立てる薬物常用者の全ての文言を記録しなくてはならない。おまけに、そんな妄言に付き合わされる事情聴取担当の麻薬取締官は、それに釣られるように激しくなる。クール野郎を気取っていたエリート麻薬取締官も、囚われた連中らの妄想に付き合うと、たちまち眼鏡の両方のレンズを破裂させ、熱い𠮟責を食らわせる。薬物常用者はその程度ではへこたれない。むしろその熱い言葉にさらに妄言を放つ。どうしようもなくなった二人を外から眺めていた上官が止めに入るまで、彼らはコカインの香りがする爆音の言い合いを続けてしまう。書記係はその全てを報告用紙に記さなくてはならない……。
深呼吸を終えたおれは、すぐに一昨日に作った予定を思い出す。おれはすぐにアネックという常用者の元へ行かなくてはいけないことを思い出す。擦り付けていた壁に口づけをしてから、アネックがたむろしているホスト店に急ぐ……。
少量の水が入った茶碗を両手で抱えるホームレスの老人。すでに使われていない建物に寄りかかって、体育座りで水面を見つめているホームレス老人。おれはその水面に指を指して、「これお前のオシッコ」と助言をしてみる。するとホームレスは数秒間の制止の後にじわじわと顔色を青くしていき、喚く。
茶碗が宙を舞い、水がホームレスのはげ頭にかかる。すぐに蒸発を開始する。
おれは船に上げられた蛸のようにジタバタとしている老人を見限り、お目当ての、夜の姿になったラフバエスター・カフェに入る……。
「おれはいつでも紙をむしゃりとやるぜ? 小さい頃からな」
「まあ! 本当に山羊のようね!」
アネックは適当に摘まんだコカインの紙幣をおれに突き出してくる。彼女の眼球を覗いてみると、そこにあるのは目を見開いている山羊の顔面だった。
「ほら、貴方の好物よ!」
アネックという薬物常用者の中では、すでにおれは山羊になっているらしい。
「ははっ! まるで飼い主だな。それか牧場に来た面倒な客」
おれは一口で最大サイズのコカイン紙幣をむしゃりとやる。
いつかの夕暮れ時にすれ違った議員が鼻息を鳴らして近づいてくる。おれはそれにつかみかかる。後ろからアネックの声が聞こえてくる気がするが、耳奥に入る前に湾曲をして雑音になってしまう。目の前にある議員の、カバのように硬そうな肌に舌を伸ばす……。
「お前の汗は正常か?」
「私は選挙にでませんよ」
議員がおれの両手を優しく包む。だらしなくしたままだったおれの舌に唇を乗せてくる。おれは驚きこそはしたが、拒絶はできなかった。議員の岩のような圧力がそれをさせなかったので、結局十分以上にも及ぶおれのファーストキスは、カバの臭いに犯された。
議員に離されて赤いソファーに腰を落とす。後ろに居るアネックが両肩に手を乗せてくる。そしておれの上半身をぐいっと動かす。
アネックの顔がすぐ近くに現れる。おれは驚いて口を開くと同時に肺から息を出す。
「ワンタンそば」
「え、ワンタンそば……?」
アネックは混乱した。視界の中のありとあらゆる輪郭がボヤけている。アネックの脳では、ワンタンそばの単語が強く反響している。目の前のきっちりキマっている男の顔などはすぐに流れて消えた。何も見えなくなったと思ったら、何十にも連なるワンタンそばの一言が脳を液状に変化させ、鼻水として垂れていく。両手でそれを受け止める。透明で粘り気のある液体は冷たかった。
すると男がアネックの両手に顔をうずめる。手の平を這う舌の感触が襲う……。
「それ、ワンタンそばの味?」
「んん。キミの鼻水の味」
脳が死んでいると思った。それでもワンタンそばの一声はアネックの中で反響し続けている。まるで作りの良いスーパーボールのようにあちこちを跳ね回る。脳が流れ切った後の、空になった頭蓋骨の中を駆け巡っている。
結局ホストの店から出たアネックの両手には茶碗。塗装が剥がれて銀色が見えている中には、少量の水があった。
「それお前のオシッコ」
通りすがりのはげ老人が助言を吐き捨てる。
"アネックのどうしようもない薬。"へのコメント 0件