彼が採精室から出てきて、長い廊下を歩いてやってくる姿は、激しい戦いを勝ち抜いてきたかのような堂々とした歩きぶりで、その背後には人類が乗り越えた重大な危機すらほの見えるような気までしたのに、ようよう近づいてきて表情が判別できるようになると、実はかつてないほど穏やかに微笑んでいて、まるで宗教指導者が祝福を与えるためにどこからともなくやってきたようにも見えた。
「ムカつくんだけど、その顔」
私がそう言って、ようやく夫のテルは神妙にも見える面持ちをやめたけれど、今度は手を自分の顔のあたりまで持っていってから「ゴッドハンド輝」と言って、いつもの半笑いをするのでまたムカついた。『ゴッドハンド輝』を読んだこともなければ、夫以外の人から聞いたこともないと何回も言ってるので余計に。けれど、そのムカつきは日常のありふれたムカつきで、初めての人工授精に緊張気味だった私は少し落ち着くこともできた。
「採精室はどうだった? ナナミのDVDもあった?」
私がそう聞くと、午後七時の待合室には私たち以外誰もいなかったのにテルは急に気まずそうにした。
「ああ、どうだろ? あったかな? ってかあいつ今はYouTuberだろ? 誰も見てないらしいけど」
そういえば、職場の先輩が言ってた。男は「ヤった」とか「超気持ち良かった」なんて抽象的な話はよくしても、どういう順番でどんなことをしたとかっていうような具体的な話はしたがらないって。テルにそんなことを聞かなくても、ナナミのDVDは部屋にあるだろうということはわかっていた。男なら誰でも知っていて、同僚の一人はわざわざ私が同郷の同い年ということを突き止めて話を聞きにくるくらいだったから。私は彼女がどんな人だったか聞かれても何も答えられなかった。本当はなんでも答えられたけど、たいしたことを話さなかったのは、ゴシップをばらまきたくないという善意からではなかった。木の葉を虫たちが分解して土に還すように、私にとって大きな意味のあったことは蛆虫たちの想像力によってあとかたもなく分解されてしまうだろうからだった。それに、私がただ彼女と三階建ての小学校の中を何度も何度も走り回ったことなんて、YouTuberになろうとした彼女に誰も興味を持とうとしなかったのと同じように、大人の男の誰も興味がなかったろう。私たちの最高の三年間のはじまり。保護者会のあった日、生徒はみんな、親よりも先に家に帰るか学童に行ったのだけど、私とナナミだけは学校で会が終わるのを待っていた。ナナミとはそれまで大した話しをしたことがなかった。ナナコという私と名前が似ていて、髪型まで似ている彼女のことがむしろ嫌いだった。意地の悪いわたしはナナミが足が遅いことを知っていたから、学校一周のかけっこをしようと提案した。意外にも彼女はすぐにうなずいた。校舎の入口側の階段の一階から三階まで駆け上り、そこから一番奥に見える教室脇の階段を駆け下りて一階の入口にまで戻るレースだった。足が遅いと思っていたナナミは、別人のような、超能力でも授かったかのような、サイボーグにでもなったかのようなスピードを見せたので私は驚いた。三階から階段を駆け下りるときに彼女は私のほうに振り返って見せて余裕のある笑みが輝かせた。そして、もとのスタートでありゴールである校舎の入口で、彼女は初めから走ってなどいなくて、そこでずっとわたしのことを待っていたかのように、全く息を切らさず廊下に飾られた絵を眺めていた。陸上部に入っていて、百メートルも四百メートルも県大会で優勝していた私はただただ唖然とした。けれど、彼女の満足気な笑顔をはじめてみると、それはとても魅力的で、不思議と私はナナミのことが好きになった。
「どうして足が速いってだけで、あの子のこと好きになったんだろ? バカみたい!」
大人になると同級生たちはちっちゃな女の子だった自分たちのことを愚弄するように高笑いしたものだけど、私はその意見に同意しかねた。みんな、なにかを忘れたか、もしくは感覚器官の一つをどこかになくしてしまっただけだった。足の速さ、高い身体能力を眼前で見せつけられたことへの感動は決して偽物ではないはずで、プロスポーツ選手の試合を見るときのように、彼らは自分の体に縛り付けられた私たちを現実から飛翔させてくれる存在であり、その最も身近な例のはずだったから。だから私はハヤトのことがずっと好きだった。顔がもっといい子もたくさんいたし、面白い子だって別にいたし、優しい子だって、頭のいい子だっていたけれど、私より足が速いのはハヤトだけだった。何かのきっかけで恋が生まれて、平凡な仕草や性格のひとつひとつが特別なものに見えてしまうように、足の速さはハヤトの存在を根底から変えた。ナナミもハヤトのことを好きだと知ったとき、ライバルだとは絶対に思わなかった。ナナミは私と同じ理由でハヤトのことを好きになったわけではなかったけれど、ハヤトはさほどモテるようなタイプの少年ではなかったから、初めて彼の美点を見出す友達に出会えたことがうれしかった。
ハヤトと付き合ったら、どんなデートをしようかなんて想像の話ばかりしていた時期もあったけれど、二人とも母子家庭だったから何でも打ち明けられるような友達になって、普段口うるさい母親の悪口をよく言い合った。何よりも楽しかったのは、私の祖父の持つ小さな山を二人で駆け巡ったことで、私が陸上部の練習の翌日にもう走りたくないと思っても、普段見ることのないナナミの全速力はいつも私を元気にして、追いつかないことは分かっていても彼女のことを追いかけ回した。そんなことをするだけで楽しかった。小学校最後の夏休みは二人で家出をしたが、それは彼女の父親の家に一泊するだけで終わった。私は二人で県境を越えてどこまでもいくものだと思っていたから、なんだか拍子抜けした。そのころから、私たちはハヤトの話を全くしなくなった。
ただ私の熱が冷めたというわけではなかった。ハヤトは中学校に入るとテニス部に入って、陸上をやめたけれど、彼の走る姿、スピードが私の胸に焼き付けられていつまでも消えなかった。同級生たちのように、何かを失くさなければ大人にはなれないことが今の私には分かっているけれど、その頃は小学生のときにあったはずのものが消えていくことが怖かった。ハヤトはテニス部に入ってもあまり変わらず、モテるわけでもなく、特別勉強ができるわけでもなく、孤立しているわけでもなく、ただ背が伸びるだけだったが、ナナミはすっかり変貌してしまった。もはやハヤトのことなど問題にすることもなく、母親が金持ちの男と再婚したせいでお小遣いを月に数万円ももらえるようになって、学校にブランド物のバッグを持ってくるようになった。小学校ではいつも百点をとっていたのに、中学校の授業中にはずっと寝ていて、起こされても教師を睨みつけていた。放課後の女子トイレで彼女にタバコを差し出されたとき、私は思わず泣きだしてしまったので、彼女は大笑いして立ち去った。彼女の笑い声がそれから数年間は私の心のなかでずっと響き続けた気がする。タバコは大きな時の隔たりの象徴として差し出され、その間に横たわる悲しみをナナミが理解しなかった、あるいは拒絶したせいで、私の目からは涙が流れ続けた。そんな風な子供だったから、私は全日制の公立高校に入ってもすぐ変調をきたして、学校をやめた。定時制の高校に私が入りなおすと、そこにはナナミもいた。またタバコが差し出されたら受け取ろうと私は思っていたけれど、彼女の親がまた離婚をすると、すぐにナナミは学校を辞めてアパレル店の店員になった。ナナミが上京するまでの二年間は私の地元では伝説的な時代となっている。地元のクールな男の誰もが、そればかりではなくクールな女の誰もがナナミとセックスをしていたという。乱交だって薬物だってなんでもありの世界で。地元にまだいるころから、それは噂になってはいたが、彼女が神話的なAV女優となって日本中の男たちの脳内の一部に根を張って巣食いはじめると、噂は単なる噂ではなくなり、本当に彼女が地方都市に存在したのかすら怪しくなり、ウィキペディアに載る彼女の経歴(多少脚色はされていたが、出身地や生年は間違いない)は歴史の教科書のような抽象性を帯びて、太平洋戦争で爆撃を受けた都市が戦後にはアスファルトとコンクリートで固め直されて、もはや同じ都市なのかどうか分からなくなったのと同じように、現実は崩壊し、無数の虚飾がそのあとを固めた。中学校の同窓会で男たちが「おれもヤった」「おれは4Pだった」と口々に言っているのを聞いて、純朴に「いいなあ!」と口に出している、大人になったハヤトの姿を遠巻きに見ながら私は泣き笑いが止まらなかった。男たちが自慢気に彼女の話をするたびに、私も彼女との思い出を自慢したくなった。決して、神話でも伝説でもない、真実の思い出を。
あの日、彼女に負けまいと何度も学校を走り回って、絶対に勝てなかったけれど、初めて私は本当の友達ができたような気がその時からもうしていた。保護者会の終わったあとの教室に行くと、担任の先生が会で余ったお菓子を私たちにくれた。なんの変哲もない、いつも食べるのと同じ赤い包装のキットカットだったけれど、私はそんなものもらえると思ってもいなかったから、とてもうれしかった。ナナミと目を合わせて輝かしい戦利品を獲たことを喜びあった。人生で一番おいしいキットカットだった。セックスなんかより、キットカットが重要だったときのことを誰も覚えてなんかいない。キットカットを割りもせず口に放り込み、ぽろぽろウエハースをこぼしながら私たちはむさぼり食べた。
ナナミが有名になれば有名になるほど、地元の神話は拡大し続け、彼女とセックスをしたことのある男は増え続け、(自ら公言しなくても)セックスしたことのある女の数も増え続けた。ナナミの子供が地元には十人くらいいなければ、計算が合わないと思えるくらいに、各方面で秘かに彼女が産んだ子供の話を聞かされた。地元の女性陣はナナミのことを本名で呼ぶこともなければ、かといって芸名で呼ぶこともなく、かといってハリー・ポッターをパロディにしたようなギャグでもないのに、「例のひと」か「あいつ」と呼んでいた。地元の女性は、都会の同年代の女性に比べると保守的だった。上京して初めて私が驚いたことは、都会の女の子は「クソ」という言葉を使うことだった。田舎では女の子が「クソ」ということはなかった。そう言いたくなるときは「やだ」とか「最悪」とかそんな言葉を使うことになっていた。別に「クソ」という言葉を非難するわけでもなく、はしたないと思うような上品な子だったわけでもないが、私たちの肌感覚にはなじまないものだった。だから、こんな地元でナナミが女性とセックスをしていたというのは眉唾で、実際にそんなことがあったとしてもたった一人だけだろうと私は思っている。地元の女性たちの間で、ナナミは最悪の悪女とされていた。他人の彼氏をむさぼりくい、ブランド物だらけの華美な服装で、嫌味な高級香水をむんむんさせている堕落した女。もしくは、男をとられた経験のない人たちのなかには、彼女は可哀そうな女なんだと言う人もいた。私は、どうして実際に知っている人たちが彼女との真実の思い出を語ろうとしないのかと怒りたくなった。地元の街を歩く現在の中学生たちは、彼女の芸名を決して口に出してはいけない破壊の呪文のように呟きあって笑っている。
けれど、彼女の大きな魅力は男性が圧倒的優位を保っていた時代にあった、いまでは保守的な女性像にも負っているところがあったはずで、キッチュで可愛らしい仕草は優雅だった。私が廊下を一生懸命走って、ようやくナナミに追いついたと思ったとき、彼女は人差し指を小さな唇にあてて今も変わらぬ最高の笑顔で私に言った。
「ねえ、足が速いってことはみんなには絶対秘密だよ」
彼女の純粋さ、私も含めて現代の女性が絶対に肯定しないような無邪気な純粋さ、それが少しでも現代の男に伝わっているのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。彼女が県大会で優勝した私よりもずっと足の速いオリンピアン級の才能を隠しきれていたことこそ大事なことだった。それを叫んだとしても、誰にも伝わらず、男たちの哄笑、女たちの非難や哀れみの渦の中に消えていくのだから、彼女の言った通り秘密を守り続けることが私にできる唯一のことだった。
「ハヤトくんより私の方が速いなんて、絶対秘密だよ」
そう言って、彼女はまた私のことを置き去りにして、ミサイルのように、その先にある自らのキッチュな可愛らしさを破壊するかのように長い廊下の遠くへ飛んで行った。
それから長い時間がたった。小学校のとまるで似たような、長い廊下からのろのろ歩いてやってくる夫が異様に見えたのも、それとは逆に向かって疾走する彼女の姿が輝きはじめると、途端に面白おかしく思えてきて、なぜだか人工授精はきっとうまくいくんだというような不思議な感覚にと変わっていった。
千本松由季 投稿者 | 2021-11-21 10:37
文章の書き方が面白かった。特に文頭。私は長い文が書けないので、参考にしようと思います。人工授精のことと、学校時代のことが、実はあんまり関係ないところが笑えました。
春風亭どれみ 投稿者 | 2021-11-21 11:05
確かに元のお話はAV嬢になったというところまででYouTuberはとってつけただけなのかもしれませんが、話自体に惹かれました。その秘密は思春期に食むキットカットのように颯爽としてます。書き上げるまで、他の方の作品は読まないようにしてるのですが、AV嬢→YouTuberという設定で完全に上回られたなあ…と。
松尾模糊 編集者 | 2021-11-22 23:10
わくさんは幼少期の心理描写にとても長けていると感じます。キットカットなど小物使いも巧みだなと思いました。タイトルも良いですね。小学校に陸上部があるのか、そこが少し引っかかりました。
大猫 投稿者 | 2021-11-22 23:43
噂とか伝説とか、実像とかけ離れれば離れるほど、本当の姿を話す気になれなくなる。ナナミは子供時代のヒーローだったからこそ、誰にも貶めることも汚すこともできない。
凄烈な思いをさんざんつづった後、ナナミのDVDで抜いたかもしれない夫との人工授精に臨むと言う、これって真面目なのか皮肉なのか。
鈴木沢雉 投稿者 | 2021-11-23 05:57
初めて新人賞に出した小説が足の速い女の子の話だったことを思い出しました。
酷い出来だったのに、二次選考を通過したために「これでいいんだ」と勘違いし始めたきっかけでもありました。
かなり冗長なんで、この長さならもっと削れると思います。あるいは短編~中編くらいに膨らませたのも読んでみたいですね。
古戯都十全 投稿者 | 2021-11-23 12:35
著者の他の作品でもそうですが、語り手が語る対象に抱く、憧憬とも羨望とも嫉妬ともつかない、うまく言葉にできない思いを浮かび上がらせるのがうまいなと思います。
最後まで一気に駆けていく感じの文章がナナミの速足とダブりました。
曾根崎十三 投稿者 | 2021-11-23 15:21
YouTuberの後付け感はありましたが、のろのろとやってきた夫から足の速いナナミの回想話へと流れ、また現代に戻ってくる中で、言いようのない懐かしさが感じられました。
足の速い人って子供の頃妙に好かれていたし、不思議な魅力があったなぁと何となく思い出しました。
波野發作 投稿者 | 2021-11-23 15:40
そういえば中学に上がるまでは、女性に生まれたらよかったのにと思っていましたが、小6ぐらいから足が速くなってからはあんまり考えなくなったことを思い出しました
Juan.B 編集者 | 2021-11-23 15:54
youtuberの話は確かに後から組み込んだ感があるが、思い出のギャップが良く生々しく描かれている。
一希 零 投稿者 | 2021-11-23 19:16
文章がとても良かったです。YouTuberの扱いについては仰る通りかと思いますが、ひとつの作品として良く読みました。
小林TKG 投稿者 | 2021-11-23 19:52
地元の神話って表現、面白いですね。地元の神話かあ。大変だなあww