店の前を行きつ戻りつ、三度目でようやく心を決めて、早渕悠貴はドアノブに手を伸ばした。年季の入った喫茶店の入口は、覚悟の重さに見合わずあっさりと開いた。
洒落たドアベルの音などなく、錆びた蝶番と、年月の染み込んだ床板の軋みだけが来店を告げる。この辺り一帯はかつての戦火で一度すっかり焼け野原になったはずなのだが、この店だけはまるで半世紀以上前から変わらず存在しているかのような風情をしていた。こだわりの強い店主が焼け跡からありったけの資材をかき集め、変わり者で知られる建築家をわざわざ捕まえてきて設計させ、さらに金に糸目をつけずに舶来の調度品をしこたま投入して作り上げたらしく、戦前のどこか暢気で世間知らずな豊かさを見事に再現している。戦後に生まれ、この国が敗者に成り果てる前のことを文献や当事者の語りからしか知らない早渕の内にも、不思議と望郷の念が沸き起こった。それは遺伝子に染みついた記憶が見せる懐かしさなのかもしれない、と非科学的なことをふと考える。
店に違和感なく溶け込み、どっしりとした存在感を放つ一枚板のカウンターの向こうには、店主と思しき古老の男が立っていた。
店主は来客の気配に一度ちらりと顔を上げたきり、まるで興味がないといった様子ですぐに手元に視線を戻した。客よりも美しい装飾の施されたコーヒーカップが大切らしい。あまりにあからさまな不干渉と非歓迎の態度に、用があって訪れたのでなければ、店を間違えたふりをして今すぐ立ち去りたい思いが湧き起こった。
店内には数人の客がいたが、どれも一人だった。誰かと談笑するでも書類と睨み合って神経質に仕事を片付けるでもなく、まるで彼等ひとりひとりがこの店の家具になってしまったかのように、日の暮れかかった気怠げなひとときをただ無言で過ごしている。人間よりも、深いコーヒーの薫りの方が雄弁だった。
目当ての人物はすぐに見つかった。十人も入ればすれ違うことすら困難になる狭い店内の最奥に座る彼に声をかけるにはやや覚悟が要ったが、意を決して一歩踏み出した。
「あの、すみません。……青柳さん、ですよね」
カウンターの一番端、影に沈むように座っている男が顔を上げた。問いかけに否定も肯定も返さない、静かな瞳が早渕を気怠げに捉える。初対面の人間に突然声をかけられた驚きもなく、物音がしたからその方向に意識を向けただけといった風だった。
想像していたより若く見える、というのが第一印象だった。彼の持つ中性的な雰囲気が要因のひとつかもしれない。女性と見間違えることはまずないが、ステレオタイプな男性らしさからも離れたところにいるように思えた。正確な年齢はわからないが、恐らく二十代半ばくらい、自分と同じか少し上ではないだろうか。
無地のグレーシャツに闇夜をそのまま染め抜いたような濃藍のナロータイ、細身のシルエットに合ったブラックスキニーという出で立ちは至ってシンプルだが、彼の容貌と照らしてみればこれくらいでちょうどいいのだとわかる。ぱっと目を惹くほどではないが、同性から見ても文句なく整っていると思わせる面立ちに、色素の薄い長い髪を後ろでひとつに束ねた彼は、目立つ恰好をせずとも自然と意識に残るだろう。
深い海の底を思わせる瞳が、早渕の頭から爪先までをゆっくりと廻った。いやらしさや威圧感はなかったが、視線が体の内側までじわりと滲み入ってきたかのような錯覚に襲われて、背に冷たい汗が伝う。大して興味もない店の商品をぐるりと見渡しているだけのようで、その実貴重な品物は一目で見抜いているような鋭さに触れて怖気が走ったのだった。
「あの、」
これくらいで早々に根負けしてもいられない。しかし続けようとした言葉は小さな音に遮られた。男が右手に持っていたカップをソーサーに戻したのだ。
まだ中身の残っているカップの側に半分に折り皺のついた紙幣を置き、男はカウンターへ向けてご馳走様、と声をかけた。柔らかな低い声だった。店主は慣れた様子でひとつ頷いた。
椅子の背にかけていたコートを片手に男は立ち上がると、呆気にとられる早渕の横を一足で通り過ぎた。古い木と香薬を混ぜ合わせたような、どこか異国めいた微風が過る。
「……え、あっ、待ってください!」
あまりに無駄のない鮮やかな所作に、黙殺されたのだと我に返って気がつくのに時間がかかった。
呼びかけても男は足を止めてくれない。数人の客が何事かと迷惑そうに顔を上げたとき、彼の姿は既にドアの向こうにあった。
慌てて店を出る。数軒先の建物の陰に消えるシルエットが見えて、早渕は猛然と追いかけた。
角を曲がりかけて突然体がつんのめった。影の中から伸びる冷たい手が、早渕の腕を掴んでいた。
あ、と思う間もなく駆ける勢いそのまま路地に連れ込まれる。足がもつれて転びかけたが、掴まれた腕を引かれてよろよろと空足を踏むに留まった。
咄嗟に振り解こうとしたが敵わなかった。状況もわからぬまま、さらに強く引かれて背中が壁にぶつかる。日の差さない路地は前後感のない薄暗さに支配されていて、距離感が掴めない。混乱も相まって、すぐ目の前さえよく見えない。
「はじめまして。ご新規の情報提供の方ですか? それとも取材の申し込み?」
早渕の腕を掴んだ男はくすりと笑って言った。
声音だけは純朴そうな、害のなさそうな色をしているが、明らかに演技だ。言葉とは裏腹に隙がなさすぎる。
押さえつけられた腕にじわりと圧がかかる。手の甲がざらつくコンクリートに擦れて鈍い痛みが走った。
「離して、ください」
真綿で絞めるように、とはまさにこういう状態を指すのだろう。片腕をとられただけ、それも手首を掴まれただけだというのに一歩も動けない。
相手は細身の男一人、それに大通りからたった数十歩離れただけ。抵抗して暴れることも大声を出して助けを求めることもできるはずなのに、掠れた声で懇願するのが精一杯だった。少しでも逆らう素振りを見せようものならどうなるか、想像が先行して身体をその場に縫い止めていた。
「あんたの顔には覚えがない、少なくとも俺が青柳と名乗るときにはな」
そう簡単に騙せると思うなよ。男は低い声で囁いた。今度は演技ではない。棘々しくはなく、しかし大声で恫喝するよりも人を思い通りに動かす力を持っていた。まるで役者のように、たった一言発するだけで周囲の空気ごと一瞬のうちに変えてみせる。彼は暴力に訴えず人を屈服させる術を心得ていた。
早渕より頭半分ほど背の高い体を屈めて、彼はわざとらしく真正面から早渕の目を覗き込んだ。
ようやく暗がりに慣れてきて顔がはっきりとわかる。真っ直ぐに射貫くような瞳は意外にも凪いでいた。底知れぬ海溝のような不穏な静けさがどこまでも深く横たわり、身を竦めた早渕の意識までもを呑み込もうとしていた。
男は右手を不自然に背に回している。その手に握るのは刃物か、それとも拳銃か――
本能的な恐怖に耐えかねてついに膝が崩れた。無理矢理に引きずり起こされるかと思ったが、男はあっさりと掴む手を離すと一歩下がった。
右手は空だった。はったりか――安堵すると同時に心臓を直に握られたかのごとき圧力から一気に解放されて、早渕は這いつくばって情けなく喘いだ。
男は早渕を痛めつけたいわけでも、接触してきた理由を吐かせたいわけでもないらしかった。単なる気まぐれ、戯れはもう充分とばかりに、抵抗の意思を手放した早渕をこの場に放置して、何事もなかったかのように通りに引き返そうとしている。
「待って、ください……!」
どうしてもこの機会を逃すわけにはいかなかった。これを逃せば用心深い彼はしばらく姿を現さなくなるだろう。それだけで済めばまだいい方で、もしもこちらを危険だと認識すれば、裏から何らかの手を回す可能性もある。後々他のやり方で接触することもできなくはないが、それなりのリスクは覚悟しなければならない。全くの初対面、相手にとっては何の情報もない、不意打ちにも等しいチャンスはこの一度きりだ。
早渕の必死の呼びかけに男は足を止めた。しかし振り返ることはなく、次の出方を見定めるかのように沈黙している。早渕がどう動いたところで、背を向けたままでも十分相手にできると言わんばかりの余裕も見えた。
「貴方の力が必要なんです」
言うなれば彼は鍵だ。光のない世界を渡って向こう側へと泳ぎ着くための、唯一の燈火。
「早渕悠貴」という人型の容れ物の中にどういうわけか生じて根づいた、常人の枠でくくれない思考や精神。明らかに正常から逸脱していながらも特には生きづらさを覚えなかったどころか、どちらかというとあらゆる面で有利に働くことの多かった、一般的価値観に完全に擬態した異常性。
どうして自分は違うのか? 何をもって「異常」と定義するのか? 早渕はただ、この世界に星の数ほど存在するはずの「本物」にひとつでも多く触れたいだけだった。確かな手触りが欲しかった。もっと言えば、世界の真相をこの手で暴いたのだという充足感が欲しかった。
確証はない。そもそも早渕の求める「本物」は形を持たず、それゆえ確かに存在しているという証明も叶わない。
しかしこの情報屋は知っている。
彼の持つものは、彼が今もなお求める真実は、早渕の生まれてこのかた満たされたことのない欲求を埋めてくれる手がかりになる。
そう確信したからこそ、彼に接触しようと決めたのだ。
「人を、探しているんです。貴方にしか頼めない。お願いです、話だけでも、どうか」
そう投げつけた瞬間、決して揺らがないとみえた目の前の背中に、ふっと感情が過った。
「その相手は探されたくないのかもしれない。あんたの厚かましさに呆れ返ってな」
情報屋は静かに言葉を返した。かつての自分と似た存在に偶然行きあって一瞬過去を思い出したような、ぽつんとした寂しさが見えた気がした。
「見つけて――どうする? 二度とどこにも行けないように束縛するか、洗脳するか、それとも――」
殺したいか?
情報屋は振り向くと、ほとんど聞こえないくらいの声で、しかしはっきりと言った。コツン、とわざと音を立てて、早渕の方へと一歩踏み出す。
「僕はただ、真実を知りたいんです」
早渕はもう怯まなかった。
†††
先程騒々しく飛び出してきたばかりの喫茶店に戻り、互いに押し黙ったまま数分が過ぎた。
早渕がおずおずと差し出したシュガーポットの蓋を彼は無言で閉じると、元の場所に返した。どうやらブラック派らしい。
「依頼を受けるかは話次第だ」
湯気の立ったコーヒーを一口すすり、彼は気怠げな吐息を零した。ようやく血の通った人間らしい所作を目の当たりにして、緊張が少し解けるのを感じていた。どれだけ底が見えなかろうが危険な存在であろうが結局は同じ人間、肺と心臓と脳が機能を停止すればただのモノになる。
「ありがとうございます、青柳さん……いえ、蒼月さん」
「なんだ、やっぱり知っているんじゃないか」
気配が“こっちの人間”らしくないから半信半疑だったが、と情報屋はため息混じりに呟いた。
「すみません。一番当たり障りのないものを選んだつもりでしたが」
「青柳」はグレーゾーンな取材行為を繰り返す自称ジャーナリストで、芸能絡みの派手なスキャンダル中心の週刊誌に時折情報提供をしているようだが、その他にも彼が“青”繋がりの名前を複数使い分けているというのは知っていた。彼は初対面の相手が何と呼びかけてくるかで、その人物がどこから情報を得て接触してきたかを判断する。だから一番浅く広い人脈のありそうな「青柳」と呼びかけてみたのだが、あっさり見抜かれていたようなので、最初から捻らずに接触する方が正解だったのかもしれない。
「蒼月」は彼の情報屋としての通り名だ。誰が最初にそう呼び始めたのか、どうして呼ばれるようになったのかは誰も知らないという。しかしこうして実際に会ってみると、闇に浮かぶ月を思わせる印象はまさにその名の通りだとわかる。夜職の人間がどこか共通した色を持っているのに似て、彼は深い夜のにおいを纏っていた。
「申し遅れましたが、僕は早渕悠貴と申します。四聖会病院で研修医として働いています」
「へえ、医者か。あまりそうは見えないな、学生かと思った」早渕を怒らせたいのか、蒼月はわざと皮肉めいた物言いをした。
「よく言われます」
早渕は曖昧に微笑んだ。つまらない挑発に引っかかって余計な情報を与える気はない。こういう人間は二言三言会話を交わす間にも、自分の欲しい情報をそれとなく抜き出す技を体得していると考えてほぼ間違いない。
「時間が惜しいので、早速本題に入らせてもらいますね」
早渕は一枚の写真を取り出して、テーブルの真ん中に置いた。
「探しているのはこの女性です」
右端に写っている、明るい髪色にやや派手な化粧をした女性を指差す。三人の女性が楽しげに笑っている写真は、性能の悪い画像編集ソフトで無理矢理に拡大処理を施したようで、お世辞にも画質が良いとは言えなかった。
「三科彩央里、二十一歳。先月末、祖父の見舞いのために病院を訪れたのを最後に失踪しました」
「名前にも姿にも覚えはないな」
迷う素振りもなく蒼月は即答した。
「知らない」という、情報を扱う者にとって致命的にもなり得る事実をこうもあっさりと、それも初対面の自分に向かって答えた意図はなんだ? 早渕は当惑したが、それを態度に出さないくらいにはまだ冷静だった。
「警察を避けたい事情があるなら、人捜し専門の探偵にでも依頼した方が話が早い。どうしてわざわざ俺に持ちかけた?」
「失踪の理由がはっきりしているからです。裏社会で情報を扱う貴方が一番適している。彩央里さんは、祖父が優先的に新薬の治験に参加できるようにと、ある人に取引を持ちかけた……いいえ、体よく利用されたんです。彼女は最も取引すべきでない相手を選んでしまった」
敢えて回りくどい言い方をしたにも関わらず、蒼月は口を挟むこともなく黙っている。
少し試してやろう。早渕は何気ない口調で一歩踏み込んだ。
「蒼月さん。呉山圭という人物を、ご存知ですか」
早渕の言葉を聞くなり、蒼月は自然に、しかし素早く周囲に目をやった。
ちょうどカウンター近くの席に座った二人組の客が和やかに会話を始めたところで、店主がジャズミュージックの音量を少し上げたところだった。早渕の発した言葉は、恐らく蒼月の耳以外には入らなかっただろう。
「呉山は一般人が一飛びに取引できるような相手じゃない。こんなところで無遠慮にその名前を口にできるあんたにはわからないかもしれないが」
「知ってて言いました」
早渕は平然と答えた。
「蒼月さん、貴方なら『三科』という名を聞いた時点でピンときていたのでは? 三科規夫という人物のことも、当然ご存知でしょう」
蒼月は諦めたように息を吐いた。やや目を伏せ、一瞬何かを考え込むような態度を見せる。僅かに翳った表情に、彼の迷いが見て取れた。
「あんた、相手が俺で幸運だったな。持ちかけた相手次第じゃ、その失踪した女の二の舞になってた」
「だから最初に言ったでしょう。貴方にしか頼めない、と」
「全て織り込み済みというわけか」
返答の代わりに、早渕は蒼月の目を真っ直ぐに見返した。直視されても少しも揺らがない目は、持ちかけられた厄介事を楽しむ余裕さえ感じさせる。
やはりこの情報屋を使ってみて正解だったと早渕は思った。
本当は人探しなどどうでもいい。首尾よく運べば三科規夫にもついでに恩が売れるから、どうせなら上手くいけばいい。その程度のことだった。
ようやく出会えた。本当に探していたのは、彼のような人物だ。
「彩央里さんは、三科規夫の孫娘です」
「つまり、あのじいさんが末期癌で死にかけてるって話は本当だったわけか」
あんたの情報を鵜呑みにする気はさらさらないが、と蒼月はわざとらしく付け加えて言う。
「あの様子ではもう延命は望めません。保って半年程度かと」
「おいおい、医者に守秘義務ってものはないのか?」
「情報も立場も使いようです。そうでしょう?」
早渕の言葉を聞くなり、蒼月は軽く笑った。人は見た目によらないな、と独り呟く。
その深い夜の色をした瞳に自分の姿はどう映っているのだろうか。早渕は知りたくなった。どうしたら知ることができるか――その先に考えを巡らせ始めてすぐやめた。それを明らかにするのは、彼をもう少し使ってからでも遅くはない。
「そろそろ回りくどい話はやめます。貴方には、彩央里さんを呉山の下から連れ戻してほしい。もしくは、呉山が三科一派にちょっかいを出している暇がなくなるように、事態を撹乱させてほしい。手段は問いません」
「話は戻るが、そもそもどうしてその女を探してる?」
蒼月は目を細めて尋ねた。
「そこまで言わないと情報を売らない主義ですか」
「いいや? ただこちらも慈善事業じゃないんでね。顧客が取引相手として相応しいかを見定めなくちゃならない。あんたは現時点では何一つ信用を持っていないし、こう言っちゃ悪いが、リスクを飲み込んで今関係性を築いておくことで、この先の利益に繋がるとも思えない。危険を冒して働いたところで、金銭以上の報酬を得られそうにもない。その条件で都合よく欲しいものだけを手に入れられると思うか?」
つまりお前は信用できないし今後の役にも立たない、というわけか。そればかりはどうしようもないと早渕は思った。
蒼月の言う通り、自分に差し出せるものはほとんどない。裏の世界との繋がりが薄い分、対価として提供することで相手の信用を勝ち取る「これだけは失いたくない」というものが何もないのだ。こちらは常に安全圏、相手は最悪命を賭けるようでは、たしかに取引にならない。
「三科規夫本人に貴方を頼れと指示された、と言ったら?」
「世間知らずの研修医を駒に使うなんて、三科も焼きが回ったな」馬鹿馬鹿しい、と蒼月はせせら笑う。
「前提から成立しないな。そもそも俺が三科に信用されるわけがないんだよ。俺を嵌めるつもりならともかく、大事な孫娘の命を俺に預けるわけがない」
あんたには知る由もないことだけどな、と蒼月は突き放すように言った。
やはりこの情報屋は、どちらかといえば神津側の人間なのだろう。現状のこの街のパワーバランスを考えれば妥当な判断だ。明確な野心を灯した側につくより、安定と治安維持を掲げる神津寄りに身を置いた方が情報に偏りが出ない。中立を謳うことによって各派閥の深部にはアクセスできないという弱点も抱えるが、そこは何らかの方法でカバーしているのだろう。信頼のおける内通者を複数持っているか、あるいは弱みを握っていいように使っているか。
「まあいい、誰の指図で動いているかなんて興味ない。問題なのは、やはりあんたの目的が一切見えてこないことだな。最初はその女の恋人かと思ったが、そういうわけでもないだろう」
「そうですね。僕と彩央里さんはお互い顔は知っている、そんな程度の関係です。病院でたまに挨拶するくらいでしたから」
この情報屋が、金になるならどんな案件でも引き受けるような、見境のない商売人ではないというのは最初から知っていた。彼の中には金以外の明確な判断基準があるのだろうが、それを決して明らかにはしないことも。
「わかりました、信用が足りないのは諦めます。その代わりに貴方の得られる利益を増やしましょう。それで対価になりますか?」
努めて冷静な表情を保ったまま、早渕は静かに問いかけた。
ほとんど空になったコーヒーカップの向こうから、醒めた目がじっとこちらを見つめている。無言の圧力が突き刺さって、手のひらに嫌な汗が浮いた。
「……貴方の探している人について、知っていることがあると言ったら?」
これで何の反応も返さなかったら、今度こそこちらの完敗だ。
「僕の依頼を受けてくれたら、対価としてその情報を提供します。足りない信用を埋めるために、前情報もいくつか。受けるかどうかは、それを聞いてからでも構いません」
夜のような瞳に呑まれてしまいそうで、耐えきれず視線を外した。喉が渇いて仕方がない。
切れるカードはこれで全てだった。もうこちらには何もない、それを気取られてしまったら終わりだ。
「人探しなんざ日常茶飯事で持ち込まれる案件だ、どれのことを言っているのかわからないな」
情報屋は僅かに目を細めてそう返した。
――ああ、勝った。
「蒼月さん、『マイクロジェスチャー』ってご存知ですか。人が嘘をつく、あるいは本心と異なることを口にする瞬間、コンマ数秒だけ表れる本能的な行動のことです」
例えば指先や爪先の向き、微笑む唇の角度、眇める仕草、声の調子。その人本来の癖ともまた違う、嘘への本能的な反発行動。
「いくら理性で完璧に取り繕ったとしても、脳はそれより一瞬だけ早く、正直に答えてしまうんです。貴方は言葉と態度で人を翻弄することに長けているから、言葉より一瞬の行動を見た方が真意がわかりやすい。そこだけは人間が決して嘘をつけない、いわば神の作った絶対領域なんですよ」
最初から全て見ていた。彼はあまりに隙がなく、恐らく人から見られることにも慣れているから、徴候を掴むのは難しかった。
それでも一瞬の本能は嘘をつけない。彼は明らかに、早渕の言葉に動揺したのだ。
「なるほど、それは勉強になった」
蒼月が返したのは余裕の笑みだった。ああ、この人は本当に精神が強い。恐らく、無意識までも制御するほどに自己というものを完璧に作り上げ、あらゆるものから深層心理を護っている。
しかし、だからこその弱みもある。こういうタイプは、一度でも崩れてしまえばあまりに脆い。
「僕ね、本当は犯罪心理学者になりたかったんですよ。でも実際に一線を越えてしまう犯罪者の心理は、わかりやすすぎてつまらない。だから心理学の専門家になるのはやめて、色々な人を観察できる方に進みました」
その人をその人たらしめるものは案外単純でちっぽけなものだったりする。どうも自分はそれを見抜く才能に恵まれたらしかった。
見抜いて伸ばしたいわけでも、人材派遣をしたいわけでもない。早渕はただ、それらを眺めていられるだけで幸福だった。時折壊さない程度につついてみて、反応を楽しむくらいだった。
「今からでも遅くないんじゃないか? 大学病院の臨床医を続けるよりお似合いだ」
カップを置くと、蒼月はゆったりと腕を組んだ。指先がひとつ、ふたつと肘のあたりを叩く。
心理学的な視点で見れば警戒心、隠蔽心、怒りなどを表す。相手が一般的な人ならその通りの心理状況だと判断していいだろう。
しかし彼は違う。彼は早渕がそう読み取るであろうことをわかってやっている。早渕が心理学を専門に学んだ人間であること、細かな所作を見逃さないこと。その情報を得た瞬間から、彼ははっきりと態度を変えた。普通ならわからないくらいにさり気なく、しかし早渕には確実に伝わるように。決して踏み込ませはしないという明確な意思でもって反撃したのだ。
――ああ、壊してみたい。壊して、もしもその後にいいように作り変えることができたなら。
「で? 俺に何をさせたいんだ」
ふいに蒼月の声音が変わった。路地裏に連れ込まれたときに聞いた、ぞっとする冷たさを孕んだ声。
「……怒ってます?」
「そう見えるか?」
落ち着き払って返したかったが、怖気にあてられて震えた。他人の心理が読めるからといって、自分の心理を完璧に制御できるわけではない。些細なことで容易く動揺するほどに、この心は弱い。
「七澤組内部の次期組長争いを呉山優位に進めるための情報を与える代わりに、彩央里さんを安全に解放すると約束させてほしいんです。貴方の中立の立場を崩すほどのことじゃない。今回は少しだけ呉山に肩入れする、その程度のことです。それに呉山が勝った方が、神津組にとっても益でしょう? 結果的に貴方にも有利に働くはずです」
こちらの弱みにつけ入られる前に畳み掛けなくてはならない。小手先の交渉術などこの情報屋の前には無駄だろうが、手も足も出せないよりはずっといい。
「先程も申し上げたように、彩央里さんが失踪した原因には呉山圭が絡んでいます。三科一派にとって、一番手を出してほしくなかったところです」
「手を出すったって、その孫娘が勝手に系列のホスト狂いになった挙句に、店を仕切ってた呉山に辿り着いて利用されたってだけだろう。言い方は悪いが自業自得だ」
「なんだ、知ってるんじゃないですか」
話が早くて助かります。安心したように軽く笑ってみせると、蒼月はうんざりだとばかりに首を振った。
「あんたのやりたいことはわかった。持ってる『対価』もな。でもやはり、どうにも腑に落ちないな」
「それは、直感ですか?」
「ああ。悪いか?」
「いいえ。ただ興味深いなと思っただけです」
多くのものを見てきたであろう彼の、言葉と理論に落とし込めぬ何か悪い予感を、もしも明確に形にすることができたなら。
「貴方が僕の望む結果を持ち帰ったときには、僕も貴方の欲しい情報を全てお話ししましょう」
そうですね、まずは手付け金代わりに――早渕は口を開いた。
コーヒーカップはとうに空になっていた。
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