死について考えることはある?
俺は考えてる、四六時中。
――昔のフランス映画
山谷感人が死んだという。実際には文学的な死と称して筆名の「山谷感人」を廃し、本名に戻るという話らしい。いちおう本名も知ってはいるのだが、この原稿の校正段階で本人から検閲が入ったらしく、名前は出してくれるなと注文がついた。小心者め。ロックじゃねえぜ。検閲なんざ、体制側の連中がすることだ。
そもそも文学的な死というものがいったいどういうものなのかすら、ぼくにはよくわからない。山谷感人がネットの片隅や誰も読まない同人誌に向かって路上に痰を吐くように書き捨てた文章が後世に残るとは到底思えないし、山谷感人の名が文学史においてなんらかの意味を持つことは金輪際ないと断言したっていい。アルコール依存症で肝臓を病んでいてガンマGTPの数値が大変なことになっているそうなので、本人もそのうち死ぬだろう。文学的にも、肉体的にも長生きとは縁のなさそうな男だ。好きにしろ、山谷感人。死にたければ勝手に死ぬがいい。
内輪受けを狙った小説ほどつまらないものはないが、さいわい(かどうかはわからないけれど)ぼくにとって山谷感人は「内輪」ではない。ぼくが2016年に破滅派に入ってから一度も会ったことがないし、たとえ会ったところで仲良くしてはもらえないはずだ。ぼくと山谷感人では、住む世界があまりにも違いすぎる。喩えていうなら、ぼくは人生に多少の不満を抱きながらも従順に生きている羊の群れのなかのそこそこ出来の良い一頭であり、山谷感人は野生の絶滅危惧種である。彼のような種の絶滅を危惧する人間がもし仮にいるとすれば、の話だけど。
それでも、ぼくと山谷感人には奇妙な共通点がいくつかある。それらひとつひとつの符合はささいなことだけど、どこか運命のいたずらを感じさせるものがある。ぜひとも君にもデスティニーを感じ取ってもらいたい。
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