バゲット

緋糸椎

小説

1,251文字

フランス在住5年になる僕には恋人がいなかった。見かねた知人の勧めで見合いをするため、日本に一時帰国するのだが……

「S’il vous plaît monsieur, que désirez-vous repas?(お客様、お食事はいかがなさいますか?」
 パリ行きの飛行機の中で客室乗務員から声をかけられた。
「……Je n’ai pas faim.(何も食べたくないんです)」
 我ながら素っ気ない返事だと思った。彼女はフランス人にしては小柄で、秋葉原で地下アイドルでもやっていそうな顔立ちをしていた。しかし、今の僕はそんなことに関心を持てず、またゾウリムシほどの食欲さえ湧いてこなかった。

 僕はパリ在住5年になる。恋愛先進国と呼ばれるこの国で、僕は未だにその恩恵に預かったことがない。そんな僕を見かねた知人が日本に住む女性との見合い話を持ちかけてきた。写真を見たら好みのタイプだったので話に乗った。

 そしてメールのやり取りがあり、意気投合して会ってみようという話になった。それで20日前、休暇を取って久々に日本の地を踏んだ。どこからともなく畳の匂いがする気がして懐かしい気持ちになった。

 帰国した次の日に彼女と会った。写真で見るよりずっと綺麗だった。僕は彼女のことをすっかり気に入ってしまった。僕は彼女と色々なデートをした。そして夢中であっという間に時が過ぎ去った。ところが僕がパリに帰る日の直前、最後のデートに出かけようとした矢先に彼女から電話がかかって来た。
「ごめんなさい、あなたと一緒になるのはやはり難しいと思う」
「えっ? どうして?」
「最初はパリで生活なんて素敵だなと思ったけど、私、やっぱり日本が好きで、ここを離れたくないの」
 思わず落としてしまった携帯電話が、足元の水たまりに沈んだ。気がつけば日本独特の物憂げな梅雨空で、僕は傘もささずに雨に打たれながら、ただ立ち尽くしていた。頬を濡らしていたのは雨なのか涙なのか、僕にはわからなかった。
 

 それからのことはあまり覚えていない。気がついたら飛行機に乗っていた。ウラル山脈上空に差し掛かったあたりで、先程のアイドル顔をした客室乗務員が再びやって来た。
「Tu devrais manger quelque chose(何か食べた方がいいですよ)」
 そういって手渡されたバゲットを僕はしばらく見つめ、そして観念したように頬張った。無造作に齧り続けていたが、着陸体制に入る頃には跡形もなくなっていた。

 飛行機を降り、入国審査でパスポートを準備していると、
「日本の方ですか?」
 と声をかけられた。見ると若い日本人女性だった。見合い相手とどこか似ていたが、もっと可愛かった。
「フランス語お上手なんですね。こちら長いんですか?」
「ええ、パリに5年住んでいます」
「わぁ、それなら助けて欲しいんですけど……」
 彼女はこれからパリで留学生活を始めるとのことだ。下宿までの行き方がわからないそうだが、たしかに初めてのパリでの移動は難しいだろう。
「僕も途中まで同じ道なので一緒に行きましょうか」
「本当ですか? 嬉しいです」
 喜ぶ彼女の顔がとても可愛かった。
 そして僕は微かに甘い予感を感じながら、彼女と一緒にゲートをくぐって行った。

2021年10月22日公開

© 2021 緋糸椎

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