脇から汗が噴出するほどの初夏の日、大親友のさわ君が阿波池田でジビエ店をやるんだと言って新宿の風俗案内所からUターンして徳島に帰ってきた。おれは喜びいさんで駅まで迎えに行ったが、そこに居たのはさわ君ひとりではなかった。肌のつるつるとして陰気な影を持つ若い黒髪の女がさわ君の隣で涼しげな黄緑のサンダルを履いて佇んでいた。そのふたつの目は虚ろに輝いていた。さわ君と一年前に結婚したその女は、来華といった。
さわ君が帰ってきてから、阿波池田の連中はもう急いでかれを囲って酒盛りをやった。阿波池田の連中はUターンしてきた男には優しい。縮れた赤い布がかかった阿波池田の寂れた商店街を見ればわかる。死者だけが増えてゆき、若い人間が少ない土地の特有の力がそうしていた。親父の手打ちうどん屋を継いだおれ筆頭に、幼稚園時代からかれを知る人間らが地元の飲み屋に集まり酒に狂った。もちろん話は来華の話でもちきりだった。さわ君はまだ三十二で、結婚するタイプに見えなかったからだ。坊主頭に髭を生やしたさわ君は首から下げた金色のネックレスをじゃらじゃらやりながら、焼酎を煽って言った。
「あの女は、ドのつく淫乱やけん、あいつが働いとった風俗に通うとったんやが、寝るたびに店の料金以外の金を要求されてな、もう俺はあいつに二百万と貢いどる。それやったら結婚してタダで寝るほうがええじゃろ」
おれは酒を吹き出しそうになった。そんな女なのか。
「しかも虚言癖もあるしな、一緒に暮らしとったんやが、自傷行為かなんか知らんけど壁に頭ドンドンぶつけてうるさい。隣の部屋から苦情がしょっちゅう来とったわ。そんな女、俺は放っておかれへんかったな。徳島でジビエやる言うたら着いていくわ言うけん、結婚して持って帰ってきた」
「さわ君、優しいけん、おれやったらそんな女見捨てるわ」とおれは言ってのけた。
「また偉い女と結婚したなあ。美人ちゃ美人やけんど」と饅頭屋の池田君が言った。
「おまいらも気ぃつけやあ、あいつの手口に引っかかると面倒やぞ。あいつは色んな手口で男を誘惑するけん、もちろんそんなんが俺の耳に入ったらボコボコに殴るけどな」
さわ君がそう言った瞬間、店に来華がふらりとやってきた。彼女は破ろうと思えばびりびりに破れそうな繊細なレースで編まれたワンピースを纏っていた。おれはそんな女見捨てるわと先ほど言ったけれどもとてもさわ君の言うような悪女には見えなかった。ただの垢抜けた東京の女だった。おれたちは焼酎をただただ煽りながら彼女を見つめた。
「さわ君と、さわ君の友達で飲んでんねんな。どうも。来華です」
おれはその方言から来華が大阪から上京した女だと言うことを知った。
さわ君は「賃料が安いけん」と阿波池田の商店街の一角でジビエ店をやるらしく、帰ってきてからも開店準備に追われているようだった。さわ君が帰ってきてから二週間ほど経ったある日のこと、おれのうどん屋に来華がひとりでやってきた。午後の四時だった。おれはぎょっとして、茹でたばかりのうどんを駄目にするところだった。
「来華、さん」
「来華でええよ。そんでさ、イケメンのお兄ちゃんなんて言う名前やの」
「おれ……おれはさわ君の幼稚園からの同級生で、加藤典明言うけん、『ノリ』でええ。あの、なんか、食べてく?」
「うん。そのつもりやってん。さわ君店の準備で忙しいてな、あんまりあたしに構うてくれへんねん。よかったら食べた後、徳島案内してくれへん? 観光名所とか。ノリも忙しいか?」
「……」
おれは頭の中で、さわ君の『あいつは色んな手口で男を誘惑する』と言う言葉を反芻していた。
「いや、ええよ。もう今日は客も来ぇへんし、閉めて案内する。車出すわ」
頭の中と言葉がバラバラになった。来華への興味が勝ってしまった。その悪女の片鱗や秘密を知りたいと心から願ってしまった。それはもうおれの中で、彼女がうどん屋に現れたときから、溢れそうになっていて、上から蓋を閉めてもどんどん湧き上がってきた。
最初、祖谷の隙間だらけで下が透けて見えるかずら橋に連れて行って、橋を渡るときにまるで子供みたいにキャーキャーはしゃぐ彼女を見て、おれはやっぱりさわ君はなんか来華のことを間違えて捉えてるんじゃないかと思った。それからおれは時々店を早めに閉めて、来華をうず潮やら大歩危小歩危の妖怪村やらに連れていった。たばこ記念館に行って煙管を上手に吸う彼女を見て、おれはボケっとしてしまった。ただの、どこにでもいるような美人やないか。別に悪女やない。おれたちはLINEを交換した。その帰り道の車の中でいきなり来華は淡いブルーのワンピースを脱ぎ始めた。おれは何してんねと慌てて来華を止めたが、もう彼女は服を脱ぎ終わっていた。
物凄い青痣が肋の浮いたガリガリの体全体に散っていた。でもおれは来華に自傷行為があるということも知っていた。だけど、度を超した痣だった。とても自分でできるものではないとわかるようなものだった。
「……」
「さわ君、徳島帰ってきてからあたしに暴力振るうようになってん」
「そんな……」
そして来華は決定的な一言を言った。
なあ、さわ君のこと、殺してくれへんか? ノリ
「いきなり殺すなんてことお前」おれは車を脇に止めて言ったがもう遅かった。来華の華奢な腕がおれの体を包んだ。瞬間、脳味噌がブチ切れ、おれの血が騒いだ。おれは食べるように車の中で来華を乱雑に抱いた。何度も何度も。来華を家の近くまで送る頃には、空に光る星が唸るように照り続けていた。
さわ君のジビエ店は大繁盛した。阿波池田中にその評判が広まり、すぐに店の情報が地元新聞に載った。小洒落たものを出すから料金は多少高かったが、おれは来華目当てで毎日自分の店が終わったあとに足を運んだ。
「おお、ノリ。最近毎日来るけん、おまいそんな毎日酒飲むやつやったか?」
「さわ君の店と違ってうどん屋は毎日暇やけん、酒でも飲みたなるわ」
来華がおしぼりを持ってきた。
「いらっしゃいませ、加藤君」
「ああ、来華さん、ありがとう」
おれたちは何事もなかったかのように接した。でも頭の中は来華のことでいっぱいだった。おそらく来華も。すると、微妙な空気でも察したのか、さわ君が、
「お前、ノリに色目使てるんちゃうやろな。ノリは顔がええけんな。もしそうやったらぶち殺すぞ」と言った。
「乱暴な言葉遣いせんといてな。あたしにはさわ君しかおらんて」来華は困ったように笑った。するとさわ君は自分の女やと見せつけるように来華の尻を触って客を笑わせた。手を叩いて大爆笑する客も居た。口笛も飛んだ。おれはいたたまれなくて視線を酒瓶に落とした。
本当に毎晩殴られてんのか? 直接さわ君に聞こうかと思ったが、そんなことをすればまた来華は殴られてしまう。そんなことを考えていると、おれのスマホが振動した。来華からのLINEだった。
『もう耐えられへん』
おれは目を伏せた。そして、
『今日の夜、さわ君が寝た後、抜け出せるか? おれの店、来れるか?』と返した。
『あいつの酒に眠剤入れて行くから多分大丈夫、待ってて』と返ってきた。
もうおれも来華を抱けない生活に耐えられへんかった。
深夜の二時に、来華は店にやってきた。灰色のスウェット姿で髪はぐしゃぐしゃに乱れ、便所サンダルで駆け込んできた。
「来華、なにがあったんや」
「嫌や、言うてんのに無理やりレイプされた、もうあかん」
その瞬間、さわ君への憎悪が噴火した。来華の言ってることが本当か嘘かなんか最早おれにはどうでもよくなっていた。
「来華、今度同じようなことがあったら正当防衛で刺したったらええ。そしたら別にムショに送られることもない」
「できん、怖い、そんなこと」
「おれかて殺すなんて怖いけん、でも……」
「ノリ!」
来華は目に涙を溜め、シンクをガンガンと叩いて俺を呼んだ。俺は急いで来華の元へ寄り、スウェットを脱がせたが、あのとき見た酷い痣はひとつもなかった。綺麗に消えていた。俺は舌を来華の唇に突き入れながら確信した。あれは来華が自分で施した化粧だったんだと。
でももう、来華はおれの頂点だった。
ことが終わって、後ろから彼女を抱きしめ煙草を吸いながら思った。来華を手に入れるには、さわ君を殺すしかない、と。
それからおれは店そっちのけで殺害計画を考え始めた。どうしたらうまくさわ君と来華とおれで山奥に行けるか。死体を隠せるか。なるべく深夜がいい。人目につかない所。下手に誘ってもおれが来華に惚れたことをさわ君は察するだろう。さわ君は賢い。するとおれに神のような案が降りてきた。親父の時代からおれの店は、薪で焚いて徳島の新鮮な水でうどんを締めて客に出す。最近薪の在庫が足りなくなってきたのは事実だった。だが、普通は業者から薪を仕入れるが、客も少なくなってきてその金がないから自分で薪の木を調達することにしたのだと、そう言えばいい。それを来華と一緒に手伝ってくれと、さわ君に言うのだ。思いついたときおれは自分のことを田舎モンなのに頭ええやんけとそう思った。この案ならば、さわ君も自分の店が終わったら来てくれる。ジビエ店も閉まるのが遅いし、勝手に深夜開始になる。おれはすぐに来華にLINEで計画を送った。だが、返信はなかった。既読にすらならなかった。まだ向こうの店は仕込みも始まっていない昼だというのに。突如おれは物凄い不安に襲われた。これで来華が嫌だと言ったら、もうおれは来華を手に入れることができない。
おれが客のいない店の椅子に座ってスマホを見ながら煙草を吸っているとき、扉がしゃらりと開けられるのがわかった。おれは焦ってスマホを床に落とした。
「おう、ノリ。今日も暇してんのか。うどん食わせてくれ」
さわ君だった。おれは急いでスマホを拾い、もちろん、と言い、台所に立った。そして、うどんを茹でているときに、何気なく薪の話を言った。心の中は震えていた。さわ君は快諾した。そして、薪を調達するには早い方がええけんな、とさわ君が優しく言った。だから、三人で行くのは明日の晩になった。
その晩になっても来華からLINEが返ってくることはなかった。おれは狂いそうになりながら車に薪を切る鋸やらを荷台に積み込んだ。だが、来華は予定時刻の深夜三時に、真っ白なワンピースを着て現れた。とてもひとを殺すような格好じゃなかったし、薪を切る格好でもなかった。さわ君はジャージでおれもジャージだった。そうして、おれの車の後部座席にさわ君と来華が乗り込んだ。おれは車を発車させた。
大歩危には深い森と湖がある。昼には観光者向けに遊覧船も運航している。おれはその森の方に車を停め、真顔で木を切り始めた。さわ君も鋸で切り始めた。それを来華が後ろからナイフで刺すというのがLINEで送った内容だった。でも来華も呑気に手伝い始めた。なにをやっているんだとおれは叫びたくなったが、その瞬間は突如訪れた。いきなり来華はさわ君をぶっ刺した。来華のスカートが返り血で鮮血に染まった。
「おまい何するんじゃ」とさわ君がキレた瞬間におれはロープでさわ君の首を絞めた。
「おまいら、グルじゃったんやな、」さわ君は暴れ、なかなか窒息まで行かない。
「来華、おまいがノリをそそのかしたんじゃろ、な、おまいのそのインランは一生治らんぞ。男を変えても、また同じことの繰り返しやぞ」
来華はその言葉を顔を歪めて聞いていた。おれは力まかせに手の力を強めた。額から汗が溢れた。さわ君の最期の言葉は、
「来華、おまいは病人じゃ!!」
そして地面にくにゃりと倒れて、動かなくなった。
「あかんかった」
「え?」
「あかんかった、あたしはまた、自分の欲望に負けた。ノリを見て、誘惑したろ、さわ君殺してまた別の男と、と思ったんよ。でもさわ君の言う通り、もう一生あたしのインランは治らんよ」
おれがさわ君の死体を埋めている間、来華は全ての力が抜けたようにしゃがみこんだまま、空を仰いでいた。
「来華、おれからは逃げるなよ、だって、殺してやったんだから、なあ来華!」
おれは土を被せながら、乱暴に言った。来華の感傷が癪に触った。
「あかんかった……」
「なにがや! もう大丈夫や。来華は阿波池田でさわ君に捨てられ、おれと結婚して、幸せになる」
「……そうやな」
それが来華の見せた最後の笑顔だった。
次の日、さわ君がいなくなったと大騒ぎになっているうち、警察が来華を事情聴取に連れて行った。でも来華はその日阿波池田に帰ってこなかった。おれは待った。ひたすら、待った。でも、いつまでも、帰ってこなかった。
"あかんかった"へのコメント 0件