ワタキミちゃんにからんできたお兄さんは中肉中背で頭に脳みそ柄のドゥーラグをかぶっていた。彼は素肌をさらしたいのかさらしたくないのかどっちだったんだろ、白のタンクトップ姿だったんだけどそのさらされた腕はタトゥーでおおい隠されてた。そういえばその柄悪お兄さんがマイク片手に登場したとき客席から大歓声があがってたっけ。僕はまだジャパニーズヒップホップシーンについて浅学で分かんなかったんだけどさ、ワタキミちゃんにからんできたお兄さんはカラムという名前でシーンでは名の知れた人らしかった。なんにせよ表現の世界で生きてる人って不憫だよね、ほんと。僕が沓石に靴の絵を描いてもそれはただの落書きだって見なされみんな無視してくれるのに芸術家がおなじことしたらアートと称され騒がれてしまうわけだし、くわえて僕が「ゴミ箱に向かってゴミを投げても入んないからゴミ箱を百個置いてみました」ってくだらないジョークをSNSに写真付きでアップしてもみんなちゃーんとスルーしてくれるのに芸術家がそれとおなじレベルのことをしたら深いだのなんだのってたいそうまじめなコメントされちゃったりする。芸術を生業にしてる人って気の毒だよね、ほんと。
まあそれはそれとしてカラムさんはワタキミちゃんをぞんざいに指さしながら彼女をののしっていた。悪口を言われるのが好きじゃないワタキミちゃんはとうぜん言い返していた。マネージャーならそのケンカをとめるべきだ、と思った人はヒップホップの勉強するべきだ。カラムさんとワタキミちゃんのののしり合いは「MCバトル」とよばれるものでね、まあ一種のショーなのさ。したがってマネージャーがそのケンカをとめてはいけないし、それになによりシーンの大物がバトルを挑んできたってことはワタキミちゃんが認められた証でもあるんだ。そうそう、ステージ上にセッティングされてたターンテーブルにはDJがいつのまにかいてね、そのDJがスクラッチしたら攻守交代ってルールでふたりはバトルしてたよ。
ワタキミちゃんの口が悪すぎて会場は大盛りあがりだった。会場にいた青少年たちは青少年有害媒体物といっても過言じゃないワタキミちゃんに熱狂していた。おそらくカラムさんとのバトルからライブを見はじめた人はワタキミちゃんの人間性を疑うだろうね。
とはいえMCバトルにおいて口が悪いのは正義なんだ。もはやオーディエンスはワタキミちゃんを聖女と崇め彼女の信徒と化しつつあった。カラムさんの敗北は決定的だと誰もがそう思ったにちがいない。
ところが、だ。事態は思わぬ方向へ急ハンドルを切ったんだ。いや、思わぬ方向という思ったとおりの方向にある目的地に向かい事態はきちんとルート修正したといっていい。
カラムさんはリズムにのってこう叫んだんだ。「今から投下するアトミック・ボム♪ 会場の兄弟心配するな、おまえらが被爆するわけじゃない♪ この小娘の正体教えてやるぜ♪」
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