「先生」
部屋の中ほどから呼びかけるも返事はない。待ちくたびれて眠ってしまったのか、柱に寄りかかる薄い羽織の背が寂しげに見えた。
起こさぬように足音を忍ばせてそっと隣に座る。やはり先生は目を閉じていた。少し俯きがちに首をこくりと傾けて、口元は微かに笑んでいた。膝に置いていた手が落ちて、縁側の木に触れて冷たくなっていた。
「ほら。咲いたよ」
落ちた手をとり膝に戻してやる。冷えた指先を何度か擦ってから、上に向けた手のひらに小さな花を乗せてやった。
咲ききらぬままに枝から離れてしまった花は、先生の手の上に居場所を得た。誰にも見られることなく落ちて、それゆえ先生の手の上にやってこられた小さな一花。明日には萎んでしまうだろう花は、今は優しく先生のためだけに咲いていた。
「啓司」
ほとんど声にならなかった。こんなにも唇に乗せるのが痛い音だと思わなかった。
「先生。……春が、きたんだよ」
やはり先生と呼びかける方がしっくりきた。名を呼ぶよりも近くに感じるのは、一体どういうことなのだろう。あの老人が言ったように、彼はずっと昔から先生であったということなのだろうか。
痩せた肩を引き寄せる。力をなくした体はそのまま倒れこんで、藤倉の肩にこつりと骨の感触を残した。
「……いくのか」
俯いた顔を隠す髪が風にそよいでいる。目に見えないくらい少しずつ、魂の質量が溶けていく。砂時計の時間は止められない。さらさら、さらさらと、一粒ずつの重さと色を指先に残して零れていく。
「花の上、か。そこから何が見える?」
落ちる先は花の上か。落ちるのではなく上へいくのか。
「いつか、俺も手を伸ばすよ。……だから、そのときは」
どうか、受け止めてほしい。待っていてほしい。何十年先か、はたまた思いのほかすぐになるのかはわからないが。
いや、先生はずっと先の未来でと言ったな。先生の言うことだ、きっとその通りになるだろう。
薄く笑んだ形で時を止めた瞼に手を伸ばす。
「おやすみ、先生」
そっと押さえる。熱をうつして、離れる。
四月拾七日
願はくば花の上にて春死なん その如月の望月の頃
沢山の人に愛され、また愛した一人の教師が、花の上へと旅立った。
この年最初の桜の咲いた、穏やかで優しい夕暮れのことだった。
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