三 空蝉・暗雨

薄暮教室(第4話)

篠乃崎碧海

小説

13,825文字

あの日雨が降らなければ、彷徨いこまなければ、今もここで笑っていられたか?
いいや、きっとそんな未来はあり得なかった。何があろうと、お前さんはその小さな手を離すことはなかっただろうから。

 ハツ子が家に走って帰り着いたのと時を同じくして、両親と近所の人達も捜索から一旦戻ってきていた。近所を探しても見つからないので、これからもっと遠くまで探しにいくという。

 先生が一人で山へ向かったと伝えると、大人達はさっと顔色を変えた。あの山が何と呼ばれているか知らないのか、着の身着のままで飛び出すなんてどうかしている。まずいぞ山の方はきっともう降り出しているはずだ。そんな声まで聞こえてくる。やがて支度を整えた大人達は提灯を片手に、列をなして出ていってしまった。

 がらんどうの家に一人取り残されたハツ子は、居間の座布団の上に固く正座したままじっと俯いていた。小さな両の手はぎゅっとちゃぶ台の足を握りしめている。

 聞き慣れた柱時計の音がやけに大きく聞こえるようだった。恐怖がじわじわと音を通じて染み入ってくるようで、きつく目を閉じ耳を塞いでも、それは体の奥から次々湧き出すかのように離れてくれない。しばらくしてようやく、それが自分の心臓の鼓動だと気がついた。

 風に煽られた窓ガラスがふいに大きな音を立てた。大げさなくらい肩が飛び跳ねて、その拍子に堪えていた涙がぱたりと音を立てて畳に落ちた。

 一彦だけでなく、もしも先生まで帰って来なかったら――そう思うと怖くて堪らなくなった。もう限界だった。一度決壊を許すと後から後から溢れて止まない涙に、頭の中が真っ白になっていく。

――暗くなってから慣れない道を、特に山道を歩くのは避けるべきなんだが、どうしてもというときは……

 白飛びした脳内に誰かの声が閃いた。ああ、あれはクマ先生の言葉だ。

 クマ先生は旅をしていたと言っていた。彼ならば、きっと先生を助けてくれるに違いない。

 弾かれたように立ち上がり、左右も確認せず草履をつっかけて玄関から飛び出すと、ちょうど雨粒が屋根瓦に水玉模様を描き始めていた。山はふもとのあたりから霧で覆われていて、輪郭がはっきりしない。

 ひとつ、ふたつと家の灯りが増えていく大通りを、ハツ子は必死に走った。

 神様どうかお願いします、どうか間に合わせてください。走る間に溢れた新しい涙は、すぐに雨粒に混ざってわからなくなった。

 

 走って走って走って、ようやく見えた教室には灯りがともっていた。玄関先に大人の影がふたつ見える。

「クマ先生っ……!」

 走ってきた勢いのままに、背の高い方の影に飛び込んだ。

「っ……! 何だ、どうした……!?」

 足音に気づいて振り返ったのとほぼ同時に抱きつかれた藤倉は、突然のことに驚きを顕にする。

「お願い、お願いします、先生を助けてくださいっ……」

「助けるって、もしやまた倒れたか? どこにいる?」

 藤倉と直次は先日ようやく決まった、例の子どもの引き取り手に会ってきたところだった。引き取り手に決まったのは東京行きの列車の駅がある、ここよりは栄えた隣町で洋菓子屋を営む若い夫婦だ。今日のところは挨拶をしただけだが、次には子どもも連れていくことになっていた。

 ようやっと帰ってきたばかりの二人に、ハツ子は嗚咽しながらも必死に事のあらましを伝えた。

「兄さんの馬鹿……!」

 聞くや否や兄によく似てそのまま駆け出そうとした直次を、藤倉は慌てて引き止める。

「落ち着け。そんな恰好で日の暮れた、まして雨の山に入るのは死ににいくようなもんだ」

「うるさい……! 早くしないと兄さんが、」

「落ち着けと言ってるだろうが!」

 藤倉は直次の着物の襟元をぐいと引き寄せると、無理矢理に彼と目を合わせた。ひどい混乱と恐怖に塗りつぶされた鋭い視線が、キッと睨みつけてくる。

 一秒、二秒と沈黙が場を支配する。永遠の一瞬の後、目線を外すことなく藤倉はゆっくりと言った。

「俺が行く。俺が一番旅慣れてる、山のことも知っている。俺なら町の人間より、いや誰よりも早く見つけ出せる」

 直次の瞳が揺れる。逡巡、恐怖、信頼、怒り、ありとあらゆる感情を綯い交ぜにした視線が、藤倉の真っ直ぐな視線と正面からぶつかる。

 血が出そうなほどきつく唇を噛んで、泣くのを堪えるように目を瞬かせて――そしてもう一度、しかと藤倉を見据えた。

「兄を、お願いします」

 理性の戻った瞳に、藤倉はひとつ頷く。

「ああ、任せろ。ハツ子のことは頼んだ」

 直次の肩をぽんと軽く叩くと、藤倉はすぐさま部屋にとって返した。いくつかの旅道具と玄関先にかけてあった防寒用のコートをひっつかみ、雨の夜町へと飛び出した。

 雨足はいよいよ本格的に激しさを増してきている。目指す山に時折閃く稲光に、思わずチッと舌打ちした。

 目裏にありありと浮かぶのは息も絶え絶えに喘ぐ細い首筋、強張る背中。ただ呼吸をすることさえ満足にできず、胸をおさえてうずくまる姿。あれだけ虚弱な、ましてここ最近暑さで特に体調の優れない先生が、この雨の中濡れて平気で居るはずがない。

 もうひとつ悪夢のように蘇るのは、あの春先の山間の村での出来事。滝のような豪雨と不気味に轟く地鳴り、呆気なく土砂に呑まれて陥落した粗末な丸太橋。

 考えるな、考えるなと低く呟いても、最悪の想像を止められない。迫る轟音を前に、泣きじゃくる子どもを痩せた胸に庇いきつく抱きすくめる姿が否応もなく繰り返される。

「死んだら許さねえ……!」

 恐怖に耐えかねて、藤倉は雨に吠えた。

 この暗さと雨に山道の悪路も重なって、正直先生を確実に見つけられる自信などないに等しかった。

 それでも絶対に見つけなければならない。いや、見つけてみせる。

2021年4月5日公開

作品集『薄暮教室』第4話 (全17話)

© 2021 篠乃崎碧海

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