私はすぐに服を着る。昨夜アイロンを掛けたスカートは床の上で、埃にまみれて皺くちゃになっていた。籠った部屋の空気はありもしない事までも一瞬で語り出してしまうだろう。ベッドから立ち上がり、窓を開ける。目の前の中学校か高校のグランドで少年が一人、バスケットボールをしている様子が見える。ここから少年とボールまでの距離は二百メートル程だろうか。少年の指からボールが離れる。ボールは弧を描き、ゴールを目指す。私は急いで目をつむり、一、二、三、四、五まで声には出さずに数を数える。目を開ける。少年は再びドリブルをしている最中であった。その時彼の部屋から、少年の放ったシュートが外れる所を見たくはなかった。
「味気ない眺めでしょう」
声の方を向くと、彼は怠慢に体を横たえた姿勢のまま、煙草を吸っている。
「そんな事ないよ。今、いいもの見た」
「いいものって?」
「秘密……」
「なんだよ、何見たんだよ?」
「ねぇ、昭君、もしも今していた事がお母さんに気づかれたらどうする?」
窓際からベッドに戻り、彼の腹部で丸くなる。
「考えたくないな、それ」
「だから、例えばの話よ」
「シラを切り通すか、結婚という言葉に頼るかそのどっちかだな」
「案外狡いのね、あなたって人は」
「そうかい?」
「真理子ならどうするのさ」
「そのままを言うと思う、きっとね」
彼の下腹部に口づけをしつつ、私は瞼の裏側が暴れ出すに任せた。規則的な呼吸で波打つ彼の腹部が一層、記憶への懐古を安全なものにした。
それは、私の祖父が亡くなった時の事だ。ちょうど祖父の危篤の際、実家に帰っていた私は通夜の前夜、心配する両親を「用意するものがある」と説き伏せて、一人暮らしのアパートへ戻る事に成功した。両親はそんなもの買えばいいと言ったが、下着の替えも必要だったし、その時既に生活の拠点となっていたアパートで泣き、葬式の為の用意を丁寧にしたかった。そうでもしなくては、生活と切り離した所で祖父の死が永遠と生き続けてしまう恐怖に駆られたからだ。電車を降りてアパートに向かう道すがら、私はある男の人を電話で呼び出していた。それはほとんど無意識にといっても嘘ではない。その時の状況を駅前のスーパーの横で説明すると、ある男の人は「すぐに行くよ」と言ってくれた。しかし、私はある男の人を隣りに慰みが欲しかったのではない。むしろ悲しみとは独りで向き合うつもりだった。そもそもその時に呼び出した相手とは、精神的な関係を築いていた訳ではなく、お互い気の向いた時に会うだけのものだった。ある男の人という呼び方以外呼び方を持たない人と会う目的は、言葉にするまでもないだろう。祖父の死という絶対的な時間の中にあっても、その目的は微動だにせずに、私の中にあった。その絶対的な時間を突破口にして、ある男の人との関係を再構築しようなどという歪曲した考えはもちろん持っていない。私はきちんと好きだった祖父の死を前にして、最も滑稽でうっとおしく、卑しい事がしたかった。必要だと感じたのだ。それにはあれがちょうどよかった。ちょうどいいというよりも、私にはあれ以外の方法が思いつかなかった。スーパーで飲み物とサンドウィッチを買い、アパートの鍵を開けた。三日間帰らず放置された部屋の中は黴臭く、私は真っ先にカーテンはそのままに窓を開ける。電気を点けると、三日前の生活が電球の中に浮かんで見えた。一人暮らしをしていると、部屋の中が勝手に変わっているという事はない。冷蔵庫では捨てるまで野菜は永遠に腐り続けるし、読みさしの本はそのままの形で折れ曲がり小さな島を作っている。つまり、三日前の生活を保存し続ける事も可能な訳だ。もちろん三日前の生活を保存したいなどと思ってもいない私は足元に転がった小島を片付け、飲みさしのコップを台所にせっせと運んだ。
机の上、周辺の床には原稿用紙が散乱している。思い返せば三日前の夕方、ある言葉をきっかけに、私は久しく思い出す事ができない程の熱意で原稿用紙に向かっていた。しかし、今原稿用紙のマス目を見やるまで、内容は思い出せず気づいた時には、「また紙の無駄をしちゃった」と一人呟いていた。散らばった原稿用紙を一ヶ所に集め、そのまま憑かれたように部屋の中を磨き上げる。しまいには引っ越して一度も手をつけていない窓のサッシまで雑巾で拭いた。一通り掃除の済んだ部屋で、今日初めての空腹を感じる。祖父が危篤になってからまるで空腹というものを感じなかったが、実家では「気丈でいなくてはいけない」という母の言葉の下、空腹を知らぬままに、食料を口にしていた。普段以上に食べていたのではないだろうか。冷蔵庫に入れておいた野菜のサンドウィッチを取り出して、口に運ぶ。シャカシャカとレタスを噛む自分の歯の動く音を聞き、現在が異様に静かである事を知る。まるで私以外の人々、街全体が喪に服しているかのようだった。丁度一つ目のサンドウィッチを食べ終えた所で、ドアを叩く音が室内に響く。私は机の上にあったお茶で口の中を洗い、ドアを開ける。
「大変だったな」
ドアとある男の人の隙間から流れ込む風が、夜露とシャンプーの匂いを室内に運んだ。きっとお風呂に入り、テレビでも見ていたのだろう。ある男の人の声は普段よりも低く聞こえた。努めてそうしている声音でもあったが、その優しさに僅かに心が揺れた私は、
「うん……」
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