ワタキミちゃんとアレンさんの舌戦はイブニングになってもなおつづいた。僕はこの舌戦が翌朝までつづくのを覚悟して夕食のビュッフェをあきらめていたけど、ところがおもいのほかずっと早くその戦いは幕をとじた。アレンさんが地雷を踏んだんだ。「君の吐く毒は抗体のある僕にはまるできかない。だから手加減しなくていいんだよ。手加減してるからその程度の毒なんでしょ?」とアレンさんはワタキミちゃんにそう毒づいたんだ。自身の舌に含まれる毒の致死量をからかわれることがラッパーにとってどれほど屈辱的なことか僕には想像もつかない。ワタキミちゃんの怒りはそうとうなものだった。ワタキミちゃんはソファーから立ち上がり、およそ人間にはもちこたえられないと思われる毒を一時間ノンストップでアレンさんにあびせつづけそして彼女はスタジオを出て行った。僕はこのときはじめて白目をむき悶絶した人間をこの黒目で目の当たりにした。
僕はベンチソファーから立ち上がった。そして椅子に腰かけたままぐったりして動かないアレンさんの首筋に手をやり脈を確認したわけだけど、そのとき僕は結露した検索窓に「検索窓」ってワードを打ったとき以上に呼吸を忘れちゃったよ。絶対死んでると思ったのにアレンさんは生きてたんだ。彼は呼吸を忘れてなかったのさ。そんなわけで僕はスタジオを出てワタキミちゃんのあとを追った。
僕はスタジオを出てすぐワタキミちゃんを見つけた。彼女はスタジオの目の前の信号をゆっくりとした足取りで渡っていた(青信号が点滅して赤になっても彼女は急いで渡ろうとはしなかった。赤信号になって彼女はむしろ歩く速度を落としたようにもみえた)。僕は一定の距離を保ちながら彼女のあとをつけた。
しばらくワタキミちゃんのあとをつけていると彼女は公園に入って行きそしてベンチに腰をおろした。その公園は夜香木の生け垣に囲まれていて、バスケットゴールとベンチと青色の外灯だけある小さな公園だった。近隣に住んでる子供のさわがしい声がしっかり聞こえてくる誰もいない静かな公園だったよ。
僕は無言で彼女のそばにそっと座った。ワタキミちゃんはピンク色の北京タイガースの帽子を目深にかぶっててうつむいたまま動かなかったけど、隣に座ったのが僕だってすぐ分かったようだった。夜香木は甘い香りを放っていた。このとき鼻腔をくすぐった夜香木の花の香りを僕は生涯(朝も昼もね)忘れないだろう。
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