それからしばらくして僕らは席を立って会計を済ませて、そのままホテルのフロントへ向かったんだ。それぞれの想いを胸にね。
フロントに着くと、摩子は男性フロント係と交渉を始めた。喫煙できる部屋にチェンジしたいというのが摩子の要望だったわけだけど、それは難なく受理された。喫煙可能な六階の部屋のカード型ルーム・キーは僕が受け取った。宿泊費は先払いだったからレストラン同様もちろん僕が支払ったよ。
エレベーターに乗ってそうして部屋の扉を開けるまで、摩子とのあいだに会話(寝起きくらい機嫌悪くいさせてほしいよねって話とか、悪い人間がいなくならないのは悪い人間を嫌う人間がいるからだよねって話とか、真の敗北とは勝負すべき相手を誤ることだよねって話とか)はあったものの、視線を交わすことはなかったなあ。視線を交わしたのは僕が部屋の扉の施錠を解き、扉を開けて彼女に入室を目で促したときさ。摩子は僕と目を合わせると、笑みを浮かべながら部屋に入った。僕は摩子のあとに続いて部屋に入り、そして扉を閉めた。チェリーボーイである過去の僕をホテルの廊下に残してね。
部屋は二十平米ほどの広さで、ダブルベッドと机と椅子と小さなテレビと小さな冷蔵庫があった。まあ、お得な料金通りといったところさ。窓から見える景色もその料金の適正さを証明してたよ。
僕と摩子はダブルベッドに並んで座った。そしてホテル内の自販機で買った小瓶のホワイトビールを飲んだ。でね、摩子は例のブックマッチで煙草に火を点けて吸い、僕は電子葉巻を吹かしたのさ。
それから僕らは高校時代の話とかウースターグループの話とか、勝敗をつけるのはいかがなものかって言う人がいるけどその人は勝敗をつけるその問題に対して勝敗をつけようとしてるよねって話とか、ひとつの答えを追い求めるのは「答えは数多あってひとつもない」ってことを悟るためだよねって話とか、大きな夢を抱いたほうがいいのは小さな夢はすぐに叶わないと耐えられないからだよねって話をしながらホワイトビールをそれぞれやっつけたあと、じゃんけんをしたんだ。どちらが先にシャワーを浴びるかじゃんけんで決めようと摩子が言ったからさ。僕は別に先でも後でもよかったんだけど、天は僕らのシャワーの順番を決めかねてたみたい。あいこが五回も続いたのさ。結局六回目のポンで摩子が勝って彼女は後に入ることを選択したから、僕が先にバスルームに入ったよ。
体は家でちゃんと洗ってきたけど、僕は全身をくまなく磨き直した。緊張で萎縮気味のあっちのほうもあらゆる角度からしっかり磨き、歯磨きもした。そうしてボディーソープの容器よりも清潔な体になってバスルームを出たんだけどね、バスルームを出てすぐ僕はまた悪い汗をかいてしまったんだよね。腰にバスタオル一枚巻いただけの姿を摩子に見られて恥ずかしかったのさ。日頃の不摂生の成果であるジャンクフードでつくり上げられた肉体を部屋の照明がこれ見よがしに照らし出していたってわけ。そんな僕の肉体を見た摩子の反応はどうだったのかというとね、彼女は平然としてたなあ。摩子は「明るいと恥ずかしいからベッドサイドのランプシェードだけ点けててもらえるかな」とそれだけ言って僕が出てすぐバスルームに入ってったよ。
僕は摩子がバスルームに入ってただちにベッドサイドのランプシェードを点けて部屋の照明を消した。そして僕はバスタオル一枚姿で窓際へ行き、カーテンを少しだけ開けて宿泊料金の適正さを証明する夜景を眺めながら美女の裸体に降りかかっているであろうシャワーの音を聴いた。そのシャワーの音色は今まで聴いたどんな音楽よりも美しかったなあ。
つづく
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