天使の肉片

内野あきたけ

小説

7,941文字

破滅派に登録して、第一作目の小説作品です。純文学を意識しました。

「先生。あのぉ……僕には、本当にそういう記憶があるんですよね。こんなことを言うと、頭がオカシイって思われるかもしれませんが、本当なんですよ」
「だいじょうぶですよ。何でも構いませんから。どうぞ好きなように何でもおっしゃってください」
担当してくれたのは三十代後半か、四十代くらいの女性のカウンセラー先生だった。
彼女の体格はとても小柄だった。目が異様にパッチリ大きくて、病的な色の白さをしており唇が少し紫色だった。暗めの茶髪の髪の毛が、ふわっ。としていて、全体的な雰囲気はとても優しそうだ。若ければ可愛い系の美人さんだな。と、僕は思った。
「ありがとうございます」
と僕は言う。そうしてペコリと頭を下げた。そろそろ本題の話を始めなければならないと思って、僕は顔を上げて一度、大きな深呼吸をした。
「…………保育園の頃の記憶なんですけど。保育園の……卒園式の二、三日くらい前の日。みんなで集まって、あるイベントが行われるんです。それは毎年恒例の行事で、年長さんは必ずみんなやります。『扁桃腺取り出し』というイベントなんです」
「ほうほう。扁桃腺?」
彼女は目をぱちくりさせながら、真剣にメモを取っていた。
カウンセリングルームの白い天井に取り付けられた換気扇から、低くてくぐもった音がずっと鳴り続けている。建物は新しいけれど、掃除はあまりされていないようだった。
「ええ、扁桃腺です。扁桃腺を取り出す行事です。僕たちはみんな、大人になる為には扁桃腺を取り出さなくてはならない。と思っていました。扁桃腺がくっ付いているのは、まだ子供の証拠で、取れるのは、大人になった証拠みたいに考えていました」
「なんだか、乳歯が抜けて永久歯が生えてくるみたいな、感じですね」
彼女は言い、ふふふ。と無邪気に笑った。そうして、
「あっ。すみません……ええっと、それで、扁桃腺が取れるのは大人になった証拠だと」
「はい。そうです。まず、保育園の先生が前に立って、扁桃腺が付いている人ぉーっ。って言うと、みんなが手を上げて、はぁーい。って言います。そしたら先生が、今日はみなさん、待ちに待った扁桃腺取り出しの日ですっ。って言います。そうしたら友達のコウキ君という子が、先生! 扁桃腺取り出しができると、ステレオタイプになれるんでしょ! って言ったのを確か、僕は覚えています。先生は、コウキ君は物知りですねぇ。そうですよ。みなさん、一緒にステレオタイプになりましょう! 扁桃腺は、大きい人もいれば小さい人もいます。デコボコしている人もいれば、ツルツルしている人もいます。これから皆さんに一枚ずつ『扁桃袋』を配ります。みなさん、一枚とったら、その一枚の中に二個、扁桃腺をどっちも入れてください。分かりましたかぁ? と先生は元気よく言ったのを覚えています」
「なかなか興味深い……とっても面白い記憶ですね! わたし、そういう話けっこう好きですよ!」
と彼女は少し興奮の表情を浮かべながら、目を微かに細めながら、そう言った。
「でも心配なんですよ。この記憶があるのは僕しかいない。大学生になった今でも、どの友達に聞いても、そんな記憶は無いってみんな言うんですよね。でも僕は確かに経験したんです」
「でも現に今、アナタの喉には、ちゃんと扁桃腺が付いているんですよねぇ」
「あの。それにはまだ、話の続きがあるんです」
と僕がそう言うと、彼女は背筋をピン。とか、シャキッ。とか、そういう感じで勢いよく伸ばして、「あっ。すみません……どっ、どうぞ」
手の平をこちらに向けて、僕の話の続きを催促した。
「扁桃腺を取り出すのは、人それぞれかかる時間が違うんです。すぐに取り出せる人もいれば、なかなか取り出せない人もいる。扁桃腺の形も人それぞれなんですが、僕は、扁桃腺を取り出すのが……凄く怖かったんです」
「そりゃ怖いでしょうね。私だってイヤ」
彼女はそう言って、自分の喉をかきむしる仕草をした。
僕は自分が座っていたイスから腰を浮かせた。長い時間座っていたから、太ももの辺りから尾骶骨にかけてかなり痺れていた。緊張して変な座り方をしていたのかもしれない。窓の外の景色を眺めようとしてふと横を向くと、腰と首がポキポキと派手に音を立てた。
「うふふ。若い証拠ですね」
と彼女は言う。年を取ると、もう骨はポキポキと言わなくなるのだろうか。
右に捻って背中がポキポキ鳴ったので、今度は左に捻ってポキポキ鳴らしてみた。うまい具合にバランスが取れた気がしてスッキリした。それから窓の外の景色を見てみる。
どこまでも青空が広がっている。涼しそうな風が、カイズカイブキの樹々を揺らしている。スズメが窓のすぐ近くを通った。遠くで学生たちの騒ぎ声、カラスの鳴き声、グラウンドから聞こえる、カキーンという野球ボールの乾いた音。
カウンセリングルームは、一階にあって、人が通るとすぐ分かるのだが、大学の健康増進センターの一角にあるこの部屋の傍を通る学生はほとんどいなくて、だから覗かれる心配もない。安心して扁桃腺の続きの話ができるのだ。
「どこまで話しましたっけ? あっ、そうだ。僕は怖かったんです。扁桃腺を取り出す作業が、恐ろしくて、できなかった。どうしよう、どうしようって、子供ながらに考えたんです。もう怖くて泣きそうでした。そうしてある一つの作戦を思いついたんです。油粘土で、扁桃腺を偽造することです。一人一枚、扁桃袋が配られる、その袋は分厚いフェルトの生地でできていたんで、中身は覗かれません。とっさに、僕は扁桃腺を取り出すふりをして、扁桃袋に油粘土を入れてしまったんです!」
「すごーい。子供ながらによく考えましたね。それでバレなかったんですか?」
「なぜ、バレなかったのか分かりません。でも、僕はその時、とても怖かった。油粘土を詰め込むとき、何だかとても悪いことをしているような気がして、心臓がドキドキしました。それから、幼稚園を卒園してからも、ずっと罪悪感に苦しんでいたんです。何であの時、油粘土なんか詰め込んじゃったんだろうって、後悔しました。僕は悪いことをしてしまったと。それで、小学校一年生の時に、母親に打ち明けました。それで……この記憶は他の人には無いものだって分かったんです」
「おおぉー」
彼女は目をキラキラさせながら、小さく拍手をしていた。
カウンセリングを受けろと仲間たちから言われたので、面白半分で来てみたものの、根本的な解決には至らなかった。まあ自分が幼少期から人とは違う人間だ。なんていう平凡な問題に対して、根本的な解決などある訳がないのだから仕方がない。それに扁桃腺の記憶以外に面白い話を持っている訳でもないから、面談はかなり早く終わった。
研究棟まで戻って扉を開けた瞬間に、カップ麺の汁の臭いが漂ってきた。それから仲間達から「どうだった?」と声が掛けられた。
四階までエレベーターが付いていないこの研究室まで行くのには、階段を上るしかないから、僕はちょっと息を切らしていて、
「どうもならないよ。全然、根本的な解決には至らなかった!」
言うと彼らは笑っていた。僕は辺りを見渡す。
僕が辺りを見渡すというのは、これは高校の頃からの治らない癖だった。全体をまんべんなく見渡すと、何だか世界の構図が見えるような気がして、やめられなかった。
僕は辺りを見渡す。何本か増えている酒の空き瓶。微かに漂うウォッカの臭気。机にこぼれたカップ麺の汁はトイレットペーパーが被せられ、茶色く染みを作っている。砕け散ったポテトチップスの残骸には上から直接リセッシュが吹きつけられている。キーボードに挟まった髪の毛たち。これにもリセッシュ……キーボードが危うい。
僕はこの部屋をまんべんなく見渡してみて、なんて幸運な部屋なんだ。と思った。
「なんて幸運な部屋なんだ」僕は声に出し、ちょっと手を広げてそう言った。もちろん、小さい声で。小さい動作で。次に僕は心の中で静かに願うのだった。もっと廃れてくれ、もっと翳ってくれ、というふうに。いつも、この部屋は何かが中途半端な気がする。それに加えて僕の理想とする芸術には、まだまだ程遠いな、と少し残念に思うのだ。
「広野。お疲れさま。良かったら食う?」
いきなり、横から浩二がパピコを手渡してきた。彼はパイプ椅子に腰を下ろし、「パピコってさ、最初食べるとき、この上の部分を引きちぎるじゃん。あれ俺、誰かの首を引きちぎるみたいに思えて嫌なんだよね。だから片方やるよ」
と言う。そうして僕は、浩二から貰ったパピコの首を、
ブチッ、っと引きちぎった瞬間に、
「あっ…………心霊スポットに行きたいなぁ」
その願望は、僕を強く惹きつけて離さなかった。
僕がそう思った経緯は、間違えなくパピコの首を引きちぎったことに由来するものだったが、なぜ、そういう気分になったのかは分からなかった。パピコの首を引きちぎったことと心霊スポットの間に、何の関連性もないのだが、唐突にそう思って、しかし僕は近い将来、絶対に心霊スポットに行くのだと確信していた。僕はこの時、妙な清々しさを感じていた。本当に楽しみだなぁと僕は思った。
取れたての免許で、僕を心霊トンネルまで連れて行ってくれたのは浩二だった。彼は非常に優しい奴だった。まだ、日が落ちていない心霊スポットは、少しだけ迫力に欠けたが、それを差し引いてもあり有り余るだけの不思議な不気味さで満ちていた。
トンネルは、少し道を外れた場所にある。『この先通り抜けできません』という黄色い表示と共に、コンクリートの道がちょうど終わったところに、その黒い口を大きく開いて待ち構えている。僕は、そのトンネルを不気味だと思ったが、同時に神秘的だとも思った。昼間でも絶えることのない不気味さを感じて、僕は少し興奮していた。
ふと急に視線を感じた。誰かがコチラを見ているようだ。それは赤い服を着た少女だった。しかし、別にオバケという訳ではないようだ。
彼女は軽く、僕らに向かって会釈した。
「おい、あの人、二組の真島さんだよ」
と浩二が言う。
「奇遇ですね」
こちらに気が付いた彼女が、足早に寄ってきた。
彼女とは話したことがあった。
「久しぶり」
と僕は言う。
僕は、彼女との出会いを思い出した。彼女とは、以前にも会ったことがある。
あの時は、人生で初めて美しい光景を目にした日だった。僕はその時の光景を、必死に回想していた。
あの時。
人生で始めてムカデの交尾を見た時、空は快晴だった。
温かく、爽やかな風が吹いていた。その下で、何十本もの太く短い脚を苦しそうにウネウネと動かしながら絡み合うグロテスクな生物を見たとき、僕もいずれはこうなるのだな。と、確信した。僕はしばらくこの光景をジッと見つめていた。そうすると、なぜだか心が安らぐ気がしたので、軽い瞑想状態とも言える感覚に陥った。
そのとき、首元に優しい息が吹き掛けられたのだ。
「アナタも不登校なんですか?」
驚いて、声のする方向を振り向いたら、女の黒髪がバサッと僕の顔に当たった。いい匂いがした。もう少しで相手の顔面に触れるところだった、と少し焦った。
「ごめんなさい」
と彼女は謝る。
これが彼女との出会いだった。
「すみません。こちらこそ」
と僕は言った。そうして彼女の瞳を見た時、僕は深い闇の中に沈み込むような、まるで催眠術にでも掛けられたかのような感覚に陥って、彼女の瞳から目を離せなくなった。
「いえ。突然話しかけてすみませんでした」
と彼女は言う。
「……交尾、見ていたんですよね」
「ええ」
と僕は言う。地面に目を落とす。彼らは依然として交わっている。こんなにも醜悪な節足動物に、愛とか性愛とかいう感覚が備わっているように思えて僕は驚いた。いや、生物学的にはどうだか分からない。
しかし彼らの醜い交わりを目撃しているうちに、創造主の趣味の悪さを垣間見た気がした。
「奇遇ですね。私も虫の交尾を見るのが好きなんです。私は、教室にはあまり行かないから、こうしてよく校舎裏で自然を観察しているんですよ。昨日はここで大きなジョロウグモが巣を作っていたんですが、もう消えちゃいましたね」
と彼女は言う。彼女の瞳の奥は暗かった。普段からあまり表情が豊かなほうではないのかもしれないなと僕は思った。
それから僕は話を続けた。
「あの、僕は不登校ではないんですが。今日、ふと思い立って教室を出たんです。いつも優等生を気取っている僕が、突然何も言わず教室を出たらどうなるのかなぁって思って期待していたんですけれど、誰も何も言わなくて、ちょっと拍子抜けしちゃったんですよね。それで散歩がてら、この校舎裏まで来たんです。」
「うふふ。アナタ……実は幽霊だったりして」
「えっ。そうなのかな。なんかそんな気がするなあ」
と僕は言う。彼女の無邪気な微笑みを、可愛いと思った。そうして、彼女に言われたことが気になったので、自分の手首に触ってちゃんと脈があることを確認した。
「じゃあ、貴女は。幽霊じゃないんですか?」
と僕は彼女に問いかけた。
「確かめてみますか?」
彼女は、そう言って白く細い腕をこちらに伸ばした。
奇麗な白い肌に緑色の血管が流れているのがよく分かる。脈を取れということなのだと理解し、僕は恐る恐る、彼女の手首に触れると、微かにトクン、トクンと小さな脈動を感じるのだ。
その確かな小さな生命の流れを感じた時、地面にいるムカデと、我々とで、その存在に大した違いなど全く無いのだと確信した。
「安心しました……ちゃんと命があるんですね」
どういうふうに言葉を続けていいか迷って、僕はそんな当然の事実を口にした。
「うふふ」
と彼女は笑った。
「そうですよ。私にも、この子たちにも、ちゃんと命があるんですよ」
ムカデはまだ交尾を続けている。春風が彼女の髪の毛をふわりと揺らすと、日は一瞬、雲に隠れて少し暗くなった。それからまた明るくなった。
「あの、何年生の方なんですか?」
僕は気になって、彼女に問う。
「三年です」
「じゃあ、僕と同級生だ」
と、僕らは微笑んだ。
僕の心の中には、巨大な火の玉が出現したような妙な感覚があった。
それは遠い世界の知らない地上の片隅で、天変地異が発生することを予期した異界の鳥の心境みたいに……そう例えるしか表現のしようがない、本当に奇妙な感覚だった。ただ、それは醜悪でありながら、その奥にれっきとした鮮やかさを残している。暗澹の中を鋭く照らす光源のように刺激的なエネルギーを秘めていた。
ヘドロの中を一筋の光が通過するとき、光の持つ熱量が周りの汚濁を一瞬で蒸発させるような、そんな鮮烈さがあった。
家に帰ってから彼女のことを考えた。瞳の奥が黒い人だったと思った。それはただ単に暗い表情をしているというのではなく、人間の根本に群がる得体の知れない汚染によって中身までもが変色した異形の存在に思えた。そうしてその異形の存在は、稀に、駅のホームだったり、スーパーの中だったり、道を歩いていたりする。僕はそういう存在を見かける度に、本能的に恐怖し、目を反らす。見た目は普通の人間でも、おおよそ普通の人間にはない本質的な闇がある。僕はそういう人たちを見、恐怖しながらもその恐怖の中に存在する確かな興奮を楽しんだ。
彼女には特にそれが似合った。あの時、ムカデの交尾を見ながら、彼女はどんなことを考えていたのだろう。いや、どんなことを考えていたにせよ、醜悪な虫の交尾を、薄ら笑いを浮かべながら、ジッと楽しそうに見つめる女性というのは、闇が似合っている。
僕はその闇が美しいと思う。美しい女性の中身の、美しい微かな闇に、僕はすごく惹かれてしまう。
そう、これが彼女との出会いだった。
僕はこの時、彼女の名前を聞かなかった。いま浩二に言われて初めて彼女の名前が真島さんというのを知った。であるから、僕は彼女の名前を呼ぶことができる。
「真島さん」
「なあに?」
「どうして、ここへ?」
と僕は聞く。よく考えればあんまり意味のない質問だったなと思って少し後悔した。僕たちは偶然、たまたま出会ったのだ。
「よく来るの。この不気味さ、静けさが、私には心地が良くて」
と、彼女は言った。奇遇だ。僕も同じことを考えていた。
「話をさえぎって悪いけど……」
浩二が鬼のような形相で地面をにらんでいる。
「アレは、なんだ?」
僕はふと目を落とす。地面にはテニスボールくらいの大きさのピンク色の物体が無数に転がっていた。
それは、間違えなく、僕が幼少期に見たことがあるアレだった。
「……あの、アナタ。すみません。まだ、私はお名前をお伺いしてませんでしたね」
僕が、地面に無数に転がった扁桃腺を、凝視しているとき、真島さんは、僕に向かって名前を聞いてきた。僕は、仰天しながら、
「……広野です。広野肇」
「広野くん」
「なんだい」
「私は、この光景を見に来たの。地面に転がる無数の扁桃腺が空に帰るとき、私たちは一般の人間へと戻るんだよ」
と真島さんは言った。
その彼女の目の奥は、何か、希望を秘めているように感じられた。
日は、だんだんと陰ってきた。雲の隙間から漏れる太陽の光が、僕らを照らしている。このトンネルの前は、樹木が多くて鬱蒼としている場所だったから、その日の光が樹木たちを照らして、地面に木漏れ日を作っていた。
「……おれ、もう帰っていいかな」
と浩二が言う。彼はうつむきながら、気持ちの悪そうな表情をしていた。
「体調が悪いなら、車に戻って休んでいればいよ」
と僕は言うが、彼は、、そうじゃない。という。
「そうじゃない! 何なんだよ! この地面に転がっている気持ちの悪い物体はよぉ!」
浩二は、ものすごい形相で怒鳴った。
地面に点々と広がり、木漏れ日の光を受け、なお一層とテカテカと光り輝いている無数の扁桃腺たちは、まるで僕らの存在をあざ笑っているようだった。
「あれは扁桃腺だよ!」
と僕は怒鳴る。
「正気か! 広野! おれは帰るぞ」
そう言って、浩二は車に戻ってしまった。
残されたのは、僕と真島さんだった。
「……アナタにも、そのような記憶があるんですね」
「ああ。もちろん」
僕は、たぶん、彼女の言うその記憶というのは、幼稚園の頃の扁桃腺取り出しについての記憶だろうと思って、うなずいた。
「あれは、不思議なではないんだと思う」
彼女は、その美しい瞳で、地面に無数に点在する扁桃腺を眺めながらそう言った。
「……不思議な記憶では、ない」
「ええ。思えば、私たちが最初に出会った日、あの時も、不思議なことが起こっていたんですよ」
僕は考える。
あの時、僕が人生で初めてムカデの交尾を見た日、何か不思議なことが起こっただろうか。
「……ムカデは、交尾をしなの」
「……えっ」
「ムカデは、雌の産んだ卵に雄が精を掛けるの。だから交尾はしない。私たち人間も、扁桃腺取り出しなんて、しない。でも、私たちはムカデの交尾を見た」
僕はコクリとうなずいた。
「だから、記憶と、矛盾を、この場所で消化しないといけない」
「確かに」
僕はすごく、彼女の言葉に納得した。
その時、僕たちの周りから、ジュウジュウという肉の焼けるような奇妙な音が響いているのが聞こえた。その音は、どうやら、辺り一面に散らばった扁桃腺から発せられている音のようだった。
「始まります。矛盾が、解消されるのです」
ジュゥウ
という、より一層、大きい音とともに、扁桃腺が一つ、空中に舞い上がった。続いて、二つ目、三つ目と、扁桃腺が舞い上がり、空に浮かんだ。
それはまるで、桃色の風船のような形をしていた。
「これで、良かったの。私たちは、この光景を眺めて、普通の人になっていくの」
真島さんは上を向いて、いつまでもその光景を眺めていた。
僕も上を見る。何十個もの扁桃腺が、空に舞い上がるさまは美しかった。

2019年12月28日公開

© 2019 内野あきたけ

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"天使の肉片"へのコメント 2

  • 読者 | 2020-01-09 11:34

    ちょっと分かりにくい語彙あったけど、その面白さを感じられるよ(外国人でーす)

    • 投稿者 | 2020-01-13 01:22

      ありがとうございます!!

      著者
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