シャワーからお湯が出ない

小雪

小説

3,170文字

僕の家のシャワーが壊れました。ほんと、僕の生活がいかにシャワーのお湯に支えられてきたかが良く分かりますね。大切なものはいつもそばにある。シャワーほど、この言葉を人間に実感させるものはないでしょう。

ハァ、今日の業務、終わり。疲れたわ。さて、帰ろ。

……。

 

気が晴れない。金曜日の仕事終わり、いつもなら踊り狂うほど嬉しいのに。ワントーンもツートーンも上げて、「ではでは~♪」なんて言いながら退社してやるのに。今日のタイムカードはなんだか鉛のように重い。入口の自動ドアが開くと、ぴゅーっと風が吹いた。乱れる前髪を治しながら、ハァとため息をつく。吐き出した息は白くなって、夜空に消えた。

 

本当は分かってる。私の、気の晴れない原因。シャワーよ。シャワー。

ああ、シャワー。今日一日中ずっと頭の中でぐるぐるしていた単語、シャワー。本当、呟くたびに憂鬱。でも、呟かずにはいられない。

ハァ――寒い。なんで今日に限ってこんなに寒いの。いつもは「全然冬来なくて困る。十二月なのに秋服よ?」なんて友達と愚痴を言い合うくらいに暑いじゃない! なんで今日に限って、本物の――いや、本物よりも――十二月なのよ! 寒い!

 

……シャワーが壊れちゃったの。

 

え? いや、壊したわけじゃないわよ。壊れたの。急にお湯が出なくなった。私の知らないところで、音もなく、すうっと。すうっとお湯を出さなくなったの。

わかんないけど、生き物が死ぬのと同じなのかしら。昔飼ってたハムスターが死んだときもそうだった。ある日、朝起きて、挨拶をしようと思ったら返事がなくて。ちょん、と触ってみても動かなくて。ひっくり返しても起きなくて。そっか、死んだんだなってなった。

んで、しばらくして――その日は運よく休日だったから――ソファにもたれかかったら急に涙が出てきたの。愛ちゃん、死んじゃったって。あ、愛ちゃんはハムスターの名前ね。愛してるから愛ちゃん。そう、愛してたの。凄く愛してて、凄く哀しくて。友達の言葉がふと蘇ったわ。「ハムスターは短いからやめときなよ」。私、なんて言ったっけ、「愛があればなんとかなるわ」って言ったっけ。バカみたい。もう一生ハムスターなんか飼わないわ。ハァ――思い出したら辛くなってきた。何の話だっけ、シャワーか。アアア、シャワー!

もちろん、シャワーのことは愛ちゃんなんて呼んでいなかったわ。でも私、同じくらい愛してたと思うの。この後、シャワーからお湯が出てきたら、私、迷わず愛ちゃんって呼んじゃうかもしれないわ。ハムスターの愛ちゃんには申し訳ないけど、きっと許してくれると思う。だって、愛ちゃんだって、あのシャワーのお湯で体を洗われてたんだから。もっとも、愛ちゃん、嫌がってたけど。でも、あれが冷水だったら、きっと飛び出して玄関から転落事故を起こしてたに違いないわ。愛ちゃんも、あのシャワーの命の恩人だから。だから――シャワーよ、帰ってきて……。

 

え、業者には電話したかって? もちろん、したわよ。私だって、くよくよしてるだけのバカな女じゃないわ。はっきり言ってやったわよ。「早く直して!」って。……でも、今考えてみると悪いことしたかしら。だって、シャワーが壊れたのは自然の摂理だもんね。業者は悪くない。でも、仕方ないのよ、私だって気が動転していたの。だから、「今すぐ来て、早く直して」って言ったんだわ。

 

業者は、言われた時間通りに(もうちょっと早くきてくれてもいいじゃない)慌てて来たわ。ハァ、ハァと息を切らして。誠意ある青年だった。青い繋ぎに青いキャップ。仕事してくれそうって感じの制服だった。彼は、白い前歯を見せて、失礼しますねって私の部屋に入った。その姿が、なんかちょっと慣れてて嫌だったけど、仕方ないわよね。彼は私の救世主になるかもしれないんだから。彼は、私のシャワーの元の方をゴリゴリと開けて、テキパキと仕事をしてた。私はその後ろ姿を熱心に見てた。多分、見惚れていたと思う。恋すらしてたかもしれない。とにかく、夢うつつのままシャワーの行く末を案じてた。それで、この男性と一緒にシャワーを浴びるのを想像しちゃってたかもしれない。でも、夢はやっぱり夢だった。彼、言ったの。「完全に焼けちゃってますね。直すのは、多分、二週間後になっちゃうかもしれません」。

 

やっと階段を登り終わると、私は部屋の扉の前まで来た。ハァ――と、また溜息をつく。鍵を開けて、扉を開くと、真っ暗な部屋が私を待ち構えていた。おいで、今日も冷水シャワーを浴びなさいって。本当、いつも一緒に居てやってんのに、とんだ部屋だ。ご主人様に向かって何事だ。と、ほとんど投げやりに、バッグをソファに投げつけた。

先に言っておくわ。ここから先、とっても醜いわよ。冷水を浴びる女の阿鼻叫喚なんて、聞けたものじゃないわ。でも、浴びない選択肢はないの。やっぱ汚いから……。

 

ブラウスのボタンを一つずつ外す。その度に、私が溜めていた温い空気が逃げていく。憂鬱が反比例してのしかかる。スカートを脱ぎ、ストッキングを取ると、いよいよ体が冷気に晒された。あぁ、寒い。あふう、ひ……脱がないでシャワー浴びられたら。なんで人間って服着なきゃなんないの? と、下着を取ると、鏡に貧相な体が写り込む。ハァ――鏡の中の私は随分余裕そうね。こんなにぶるぶる震えているのに。ああ、浴室に行きたくない。これが、いつものシャワーだったら飛びつくのに、ハァ――なんで、今日に限ってこんなに寒いの?

 

浴室は、部屋よりもずっと寒かった。今日でシャワーからお湯が出なくなって一週間。きっと、長い間お湯で温められてないから、こんなに冷たいんだわ。ハァ――シャワー浴びなきゃ。うう、嫌だ。これ以上寒いの嫌だ。蛇口を掴む。瞬間、全身がブルと震える。これを回したら、上から冷水が出てくる。上から冷水が出てくる。あ、いや、ちょっとダメ。後ろ向けておこ。こうして、こう。よし、回すか。

ヒャアアアアアアアアア! ちょっと、聞いてない。水の勢いでシャワー回るとか聞いてない! 冷たい! ――私は、バックステップでシャワーの冷水から距離を取った。無情にも冷水は勢いよく流れ続けた。あれを止めるには、ちょっとでも冷水を浴びて、蛇口をひねらなきゃいけない。無理。このまままた浴びるしかないわ。じゃなきゃ、いつまで経っても体を洗えない。――私は、またステップして、一気に冷水を浴びた。

ひいっ、ひいやっ、あああああ、うひいいいい、胸ええええええおなかあああああ背中、背中はまだマシっ、あしも、ふひっ、まだましいいいい、でも、おなかはむりいいいいい、おなか、おなかおなかおなかおなか、おなかあああああああ!

ああ、ああ、無理、もう無理、ああ、うひっ。と、私は急いで蛇口をひねった。ハァ、ハァ。無理すぎ。冷たい、無理、ああ、髪の毛は後でキッチンで洗おう、掃除大変だけど、背に腹は代えらんない、やっぱ無理。

 

私はボディソープを手に出して、体を洗う。――だけどね、実はこの作業は苦じゃないの。恵まれたみんなは知らないと思うけど、冷水を浴びた後って全然寒くないのよ。むしろ、凄くあったかい。私の身体の熱がじわじわと血管を伝って全身に行き届くのが直にわかるわ。ボディソープの泡だって、身体を揉んでるうちに、とっても熱くなるのよ。あぁ、私って生きてるんだな。ちょっとだけ、快――感。あはっ。

あは、あは、あははあは、あはははははは、これ、洗い流さなきゃいけないのよ。わかる? うふ、あは。ああ、脇が揉み終わっちゃった。もう、洗うとこない……ハァ――もっかい冷水浴びなきゃ。

私は再び蛇口に手を当てた。心臓がドクンドクンと脈打つ。全身が逃げたがっている。逃げちゃダメ。もう今日は一回浴びたじゃない。あなたならできるわ。やるわよ。いい? いいわね。いちにのさんで開けるわよ? じゃあ、数えるわ。

 

いち、にの、さん――

2019年11月1日公開

© 2019 小雪

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