「夢を見ただけだろ」と北斗は言った。「瞼の裏に録画してあった願望を観賞しただけだ」
「僕だって夢であって欲しいと思ってる」と僕は言った。「こんなファーストキスは嫌だからね。でも、非現実的なハプニングがたいてい非現実でないように、今回のハプニングもご多分にもれず現実なんだ。僕は眠っていなかった。いつも襲ってくる睡魔の奴が熟睡してたんだ」
あのいまいましいタクシーを降りたあと、僕は北斗に電話した。北斗はアルバイトが休みで自宅にいた。だから僕はタクシーを拾って彼の家へ行ったんだ。
北斗の部屋に上がり込んだ僕は、さっそくキス事件の顛末を彼に話した。もちろん「さっきのキスは激しかった」というヒカルさんの呟きを聞いたこともぜんぶ彼に話したんだ。
そう言えば北斗の家、樋川家についての説明はまだだったね。ええと、うん、手短に述べる。まず、彼の家も北谷町にある。僕の自宅マンションと彼の住むおんぼろアパートはどういう因縁か、徒歩五分の距離だ(近いほうが誰かさんにとって都合がいいんだろうね!)。介護福祉士をしているまだ三十代の母親と、北斗はその三階建ておんぼろアパートの二階の狭い2DKの部屋でひっそりと暮らしている。北斗は僕と同じく母子家庭で育った。両親が離婚したとき、彼はまだ赤ん坊だったという。つまり北斗も僕と一緒で世話を焼きたい病を患うかもしれなかった父親に手を焼かされることなく育ったってわけ。僕の父親がすでに他界したことは話したはずだけど、北斗の父親のほうはと言うとまだ生きている。昨年の暮れ、ワシントンD.C.に住んでる父親に北斗は十数年ぶりに会いに行ったと言っていた。軍人だった彼の父親は数年前に除隊して、今は軍事ジャーナリストをしているとのこと。そうそう、北斗がプレイボーイなのは親譲りさ。彼の父親は離婚と再婚を繰り返していて、北斗が家を訪問したときには僕らと同じ年齢である二十歳のウクライナ人女性と火遊び中だったらしい。ジャーナリズム精神が旺盛だね。敬礼!
「夢じゃないんなら」と女たらしの息子の女たらしが僕の電子葉巻を吹かしながら言った。彼はパイプベッドの上であぐらを組んでいる。「姫宮さんに襲われたってことか。膝上丈のメイド服を着てるのはお前を誘惑していた、そういうわけだったんだな」
「姫宮さんは休むって言ってたんだ。法事があるとかで」と僕は言った。僕は北斗が幼い頃から使っている学習机の椅子に腰掛けていた。「あと、姫宮さんのあの格好は単に趣味で着ているだけだと思う」
「それじゃあチャッキーにやられたんだろう。お前の顔もボストン・テリア界では通用するのかもしれない。かろうじて」
「利亜夢と同様チャッキーが僕に懐いてくれないのは君もよく知ってるだろ。僕がチャッキーに向かって『お手!』と言ったら必ずその手を噛まれるのは、そういった芸を仕込んだからじゃない。嫌われてるだけなんだ。それに僕はアイマスクとイヤーマフはしていたけど、ノーズクリップまでしていたわけじゃない」
「じゃあ、そのモラちゃんって子にやられたんだろ。よかったじゃないか、ファーストキスが人間で。しかも女だ」
「一万円は一万円札でもらいたいじゃないか。一円玉で一万円を渡されても困る。性別はフィーメイルでも、五歳児にファーストキスを奪われるというのはそういうことだ。っていうか、モラちゃんと一緒にデパートにも行ったけど、彼女は僕にまったく懐いていなかったんだ。ということは……」
僕は北斗に犯人捜しをしてもらうつもりでやって来たわけではなかった。僕は彼の口から、キスしたのはヒカルさんに違いない、といったハッピーな台詞を聞きに来ていたんだ。
「ということは」と北斗が言った。「ウォーカーヒルで悪霊にとり憑かれて帰って来たってわけか。ギャンブルにはまり、借金苦で自殺したゲイのおじさんの霊に唇を奪われたわけだな」
僕は嘆息をもらした。で、こう言った。「世の中には暇つぶしが溢れるほどあるせいで現代人はその暇つぶしに追われて自分のやりたいことをする時間を失ってしまったわけだけど、おばけは僕ら以上にそうだと思う。おばけ社会も暇つぶしが溢れるほどあって、僕なんかにとり憑いてる暇はないはずだ。とにかく、利亜夢でも姫宮さんでもチャッキーでもモラちゃんでもない。ということは――」
「亜利紗にやられたってわけか」
僕は北斗に向かって両手の中指を立てた。できることなら両足の中指も立てたかった。
つづく
#裏切りません
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