僕は返答に窮した。当然さ。子供のいる食卓にセックスというワードの副食物が出て動揺したのと、モラちゃんの視線を感じていたのと、それに何より、ついさっきキス(しかも過激な!)をしたばかりなのだ。
結局、僕はこんな返答しかできなかった。〈ただ俯いてスプーンでエビの口元辺りをつつく〉という返答しか。
「亜男を見くびるなよ、ヒカル」と姉が言った。大きな顔をして。「歯がすべてなくなれば虫歯に悩まされることもないのにって発言するくらい、亜男はオーラルケアに気を遣ってるんだぞ。キスくらいしたことあるに決まってるだろ」
僕はモラちゃんを見た。モラちゃんは、キスならさっきしたよね、とでも言いたげな表情で僕を見ながらエビの頭をもぎ取っていた。
でも、僕はそんなモラちゃんの余裕綽々たる態度に困惑しなかった。なぜならヒカルさんの発言のほうに困惑したからさ。ヒカルさんはこのとき陽光照りつけるルーフバルコニーのほうに顔を向けながら、ぼそっとこう言ったんだ。衝撃的な一言だった。
「さっきのキスは激しかった……」
聞き違いじゃない。確かにヒカルさんは、さっきのキスは激しかった、と言った。聞き違いじゃない。
僕はヒカルさんがそう呟いたあと、みんなの顔を見た。ところが姉も利亜夢もモラちゃんもパエリアを食べるのに夢中といった様子で、ヒカルさんのその呟きを聞き取れたのは僕だけのようだった。
僕は全身が熱くなった。シャンパンのせいでも太陽のせいでもない。ヒカルさんのその呟きは、先刻のキスの関与を示唆したものと解釈できるじゃないか!
「ムルソーじゃなくてよかった、私」とヒカルさんが声のボリュームを上げて言った。眩しそうな顔でルーフバルコニーを見つめながら。
「頼みたいことがあるんだが、ヒカル」と姉。「生き急いでるっていう今の彼と別れたあと、亜男の初体験の相手をしてくれないか? 無論それなりの金は払う」
僕は姉からヒカルさんに視線を移した。するとヒカルさんは僕の目を見ながら即座にこう答えたんだ。
「こんな私でよければ」
このとき自分がどんな顔をしていたのか、容易に想像できるが想像したくない。ヒカルさんの彼氏が死に急いでくれるのを僕が熱望したのは言うまでもない(ヒカルさんの彼氏の存在を知っても僕はさほどショックを受けなかった。それはそうさ。モナ・リザに彼氏がいないなんて考えられる?)。
そんなこんなでパエリアを食べ終え、デザートのブラウニーの感想も言い終えたころ、【能動的な我々の憎むべき暇な午後について】という議題が持ち上がった。するとそのとき利亜夢がゲームセンターに行きたいと言い出して、姉が息子のそれに前向きな姿勢を示したから、僕はその場を退くつもりで椅子から立ち上がった。そうしたわけは、姉に子守を押しつけられることが分かっていたからさ。
「亜男くんも一緒に行こうよ」とヒカルさんが言った。「子供たちを連れて疑似夫婦デートして、そのあと仲よく疑似夫婦喧嘩しよう」
「その夫の役柄、二分で役作りしてみせます」
僕は右手の人差し指と中指を立ててヒカルさんにそう言った。そして僕は駆け足で部屋に戻ったんだ。
つづく
※台風……大丈夫だったかなあ……
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