Adan #9

Adan(第9話)

e.s.

小説

1,905文字

画家のデスティニーさん〈9〉※倒れたらボールを離さないと反則だなんて、僕の信念を全否定するようなルールだ。

僕はお兄さんに繰り返し呼びかけたんだ。だけど、応答はなかった。当然さ。お兄さんは聴覚障害者なんだ。でもこのときに限って言えば彼の聴覚に障害がなくても、もう手術を済ませて聴力を取り戻していたとしても、その耳は機能を果たせはしなかったろうね。〈恋〉が〈愛〉の機能を果たせないように。

 

お兄さんは飲み屋の玄関と思われる木製のドアの前で仰向けに横たわっていた。目は半開き、口は全開きで、大きないびきをかいていた。そしてお兄さんのそばには細身のお婆さんが立っていた。お婆さんは白髪をポニーテールにしていて、裾の長い黒のワンピースを着ていた。腰は曲がってなかったけど、お婆さんの顔は皺くちゃだった。田舎の小学生が着てるTシャツくらい。

 

「あんた、人見知りしない死神にも相手にされないこの飲んだくれの知り合いかい?」とお婆さんは大きな鼻から煙草の煙を吐いて僕にそう訊いた。お婆さんに吸い込まれた煙は口から出られることを知らないようだった。煙はみんな鼻から出て世界へと旅立っていた。

 

「知り合いっていうか、未来の義理のお兄さんっていうか」と僕は答えた。「一度お会いしたことがあるだけですけど」

 

今度は歓喜に酔って歩けなくなりそうだった。さっき供養したばかりのデスティニーさんが生き返ったのだ。お兄さんを通じてまたデスティニーさんに会える、僕はそう思ったのさ。

 

僕はお婆さんに、これはどうゆう状況なんですか、と尋ねた。するとお婆さんはこう答えたんだ。

 

「うちの店で飲んで酔い潰れたのさ。今日も自殺は未遂に終わったってこと。毎日死に損なってる。例えるなら、夜な夜なココヤシの木の下に自殺を試みに来てるって感じ。今日もヤシの実は頭に落ちて来なかったってわけ。まあ、ヤシの実もこいつの頭なんかに落ちたくないだろうが」

 

事の次第を聞くや否や、北斗がお兄さんを(ぞんざいに!)指差しながらお婆さんに訊いた。「このおじさんって聴覚障害者なの? お婆ちゃんが今言ったような、小言を食えないの?」

 

北斗も酔いがさめているようだった。お兄さんを疑っていたわけではなかったが、僕は息を呑んでお婆さんの返答を待った。お婆さんは鼻から煙をゆっくり吐き出してから言った。

 

「こいつは聴覚障害者だよ。成人になってから聴力を失ったらしい。聞こえてないから私も気兼ねなく小言を言ってるのさ。この男の耳は何者の声も拾えない。おそらく神が耳元で叫んでも」

 

僕は北斗の顔を覗き込んだ。間抜けな男の顔を拝みたかったのさ。見ると、北斗は信じられないといった表情をしてくれていた。僕は彼に言った。

 

「お兄さんに感謝しろよ、北斗。これで君も少しは人を信じられるようになっただろうから」

 

「じゃあ、お婆ちゃん」と言って北斗は僕を押し退けた。「この人の奥さんって見たことある? 両頬にほくろがある人なんだけど」

 

お婆さんは首を横に振った。「それは妹。こいつに嫁なんぞいるもんか。ちなみに、その妹の両頬のほくろを同時に押すと願いが叶うか、あるいは誰かのアキレス腱が切れるらしい。セックス依存症を克服したいというのが私の願いなんだが……」

 

デスティニーさんは嘘をつけない。えくぼをほくろでキャップする慎ましい人が嘘をつくはずないんだ! と僕は心の中でそう叫んだ。本当に兄妹なの、と北斗はお婆さんにしつこく聞き質していたが、彼のその姿は目下のお兄さんと同じくらい無様だった。

 

「ここはお任せください、お婆さん」と僕は言った。デスティニーさんのほくろをからかったお婆さんの冗談は聞き流して。「僕がお兄さんを介抱します。ナイチンゲールも顔負けの」

 

このとき僕は頭の中でこんなシナリオを立てていたんだ。まずお兄さんを近くのホテルまでおんぶして、快適なベッドで天使たちと大酒を食らう夢を見てもらう。それから昼過ぎに起きたお兄さんを迎え酒でもてなしたあと、気の済むまで酒風呂に浸からせてあげる。で、最後に銘酒をプレゼントしてお兄さんを車で自宅まで送り届けるわけだけど、お兄さんはその車中で、僕にたどたどしくもこう言うんだ。兄弟の盃を取り交わそう、と。完璧なシナリオだ。

 

「介抱する必要はないよ」とお婆さん。「なぜならもうすぐその妹の両頬のほくろを同時に押すチャンスが訪れるから。つまり、もうすぐその妹の運転する迎えの車が来るから」

 

つづく

 

 

#毎日連載 #連作短編 #ユーモア小説 #フィクション #軍用地主

2019年10月1日公開 (初出 https://note.mu/adan

作品集『Adan』第9話 (全60話)

© 2019 e.s.

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