紫陽花と女の人

大猫

小説

1,507文字

雨が降ると思い出す小さいお話です。紫陽花と雨、紫陽花と子供、少女、とても似合います。

ケンちゃんはお母さんとバスに乗って家に帰ってきたところでした。バス停を降りてまっすぐ行った三本目の角に郵便局があり、そこを曲がった突き当たりがケンちゃんのお家です。雨が降ってきましたので、ケンちゃんもお母さんも急ぎ足です。やっとお家に着いて、玄関の前でお母さんがお家の鍵を探しています。ケンちゃんはお母さんの後ろに立って、ぼんやりと今来た道を振り返りました。

ケンちゃんはこの道が好きです。この道は車が入れないから、子供が好きなように遊んでよかったからです。今日は雨だから遊べません。紫陽花がきれいに咲いています。ケンちゃんの家の玄関にも、お隣のお家の庭にも、大きな青い毬のような紫陽花で一杯になっています。

 

郵便局の角を曲がって、薄いオレンジ色の服を着た女の人が、ケンちゃんのお家の方へ歩いて来ました。女の人は傘を持っていませんが、それを気にするふうもなく、ゆっくり、ゆっくりとやって来ます。

女の人がごく近くまで来た時、ケンちゃんは不思議な気持ちがしました。なんだか普通の女の人と違うなと思いました。そして女の人が裸であることに気がつきました。お椀のような乳房が見えました。薄い乳首も見え、小さなおへそが見え、黒々と生えている毛が見え、そこからまっすぐ伸びた脚が見えました。

オレンジ色の服かと思ったら、違ってたんだな、とケンちゃんは考えていました。女の人は家の前までやって来て立ち止まりました。そうしてじっとケンちゃんを見ていました。
「あたし、きれい?」
女の人の声は、ケンちゃんの保育園のお友達と同じように子供っぽく可愛らしく聞こえました。
「ねえ、あたし、きれい?」

ケンちゃんは口がきけなくて、ただ女の人の顔を見ていました。すると女の人は片手を伸ばして、紫陽花をぽんと触りました。青色の紫陽花がふわりと揺れて、たまっていた雨粒がばらばら落ちました。

振り返ったお母さんが、あッ! と、小さな声を上げました。母さんは泡を食ってケンちゃんをドアの中に押し込んで、絶対に外へ出て来てはいけないと言いました。ドアの内側にいるケンちゃんに、お母さんの声が聞こえてきましたが、何を言っていたのかは分かりませんでした。

 

「可哀相にねえ、礼儀正しい娘さんだったのに」
「あの家、娘が二人いなかったっけ?」
「妹さんの方」
「いつからそんなになっちゃったんだろうね」
「さあ、知らない。送ってったんだけど、親御さんはただありがとうございますって言うばっかりだし、まさか興味本位でそんなこと聞けないし、ねえ」
「失恋でもしたのかねえ」
「それは聞いていないけど、とにかく、可哀相でね、何を聞いても、あたしきれい? って言うばかりなの」
「そういや、昔、口裂け女ってのがいたな」
「それ、ちょっとひどいんじゃない?」
ケンちゃんも口を出したくなりました。
「あの女の人、きれいだったよ」
「そう?」
「僕ね、オレンジ色のお洋服を着てるんだって思ってたけど、そうじゃなくて裸だったの」
「ケンちゃん、よしなさい!」
お母さんに恐い顔で睨まれたので、ケンちゃんはテレビの前へ走って逃げました。

でも、ぼく、きれいって言ってあげればよかった。とケンちゃんは考えていました。本当にきれいだったとケンちゃんには思えたのです。

 

その後も、ケンちゃんは、紫陽花のそばにいた女の人を何度も思い出しました。しまいには紫陽花がきれいだったのか、女の人がきれいだったのか、よく分からなくなりました。

きっと誰もきれいだって言ってくれなかったから、裸になったんだよ。裸になってもきれいって言ってもらえなかったから紫陽花のそばに来たんだろうな、とケンちゃんは思いました。

2019年6月9日公開

© 2019 大猫

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