僕は家から帰ったあとに散歩に出かけるのだが、彼女はいつも散歩先にいる。
「なんで飛んで餌を取りに行かないの」
と僕が言うと硝子はつん、と済まして言う。「私の翼は虫けらを啄むためにあるんじゃなイ」
おお、なんて盛大な自尊心だ、と僕は思う。その時はそのままその場を後にした。
次の日も彼女はそこにいた。てくてくと歩いては地面を啄み、また啄みを繰り返す。そしてときおり大事そうに翼を嘴で手入れするのだった。
「また来たノ?」
「いや、君がここにくる前から僕はここにいたよ」
「ふーん」
硝子は頑として飛ばないようだった。その翼をとても大事にしていた。実際その翼は綺麗だった。天女から貰った羽衣のように繊細で、黒いのに透き通っているようだった。そして硝子はその翼を大事にするためなら、それ以外のことに頓着していなかった。細い足で非効率に歩くことも、周りを警戒するためにたくさん首を動かすことも厭わなかった。
僕は散歩にいく。
彼女がいる。
ちょっと話す。少し仲良くなる。
それは全て夕暮れ時に行われた。僕たちはほんの少しだけ仲良くなれていたと思う。
僕たちは一緒に散歩するようになった。僕は彼女よりずっと足が速かったし、俊敏に動けるから、 彼女の餌とかをとってあげるようになった。彼女はそれを当たり前のように振る舞っていたけど、僕が餌を渡すと少し首を傾げて感謝を伝えてくれた。僕はいつもその仕草を見たくて餌をとった。ただ首を傾げているだけなのに、とても洗練されていて、何だか蓄積された格のようなものを感じる。優雅だけど深いかなしみがあるように思えた。
「飛んでよ」
と僕は言う。それはある日のこと。今までより硝子と仲良くなれたな、と瞬間的に分かった日のこと。僕はそういう失礼で破壊的なことを、盛大な自尊心をもって尋ねた。不遜に。傲岸に。超えたくなった。もっと仲良くなりたくて。彼女の飛ぶところを見てみたくなった。
「うん」
うん、と硝子は二回言う。一回目は戸惑いのうん。二回目はかなしみのうん。二つとも笑っていた。硝子は今にも砕けてしまいそうで、それを見せつけるかのように危うくて、きれいな、飛行をした。くるくると、空に舞い上がり、きらきらと、飛んだ。回転して、消えた。後悔したときにはすでに遅く硝子は消え去った。
僕はその愚かな問いを塗りつぶすかのように疾走した。
来る日も来る日も、二人で歩いた道を駆け、彼女のいた形跡を探した。僕は自分の過ちを後悔した。それが僕の足となり、疾走となり、硝子を渇望する原動力になった。
やがてそれが僕の一部になった時、手紙が落ちてきた。その手紙には書いてある。「わたしはここ」幼く拙い文字で、弱々しく綴られていた。そして真っ白な紙の余白にはあまりうまくはない絵が描いてあった。どうやらそれは家のようだった。ここからそんなに遠くはない。僕は何もかもが一つの糸になったのだ、と確信してその場所に急いだ。
手紙に書かれていた場所は古ぼけた一軒家だった。あれ?と僕は思う。僕はこの辺の家のことは大体知っている。なのに、この古い家は記憶にない。
「最近は他のことに夢中だったからな」
と僕は自分で苦笑して、自分を慰める。そう、ここ最近、僕の心の中心にあったのは硝子だったから。僕は彼女のことしか考えてなかったし、事実それ以外のことは何もしてなかった。僕はがりがりの骸骨のようになっていた。まるで吸血鬼が撃つ弾丸に込められた狗の怨念のように。僕は一つのことだけを、考えて、それを糧として食んで、生きていた。
僕はその古い民家のドアをノックする。失礼のないように。でも住人はなかなか出てこない。もう一度。こんこんこん。沈黙。こんこんこん。足音。階段から降りてくる音。ずず、っと何かを引きずる音。ぱりん、と何かが割れた。軽い悲鳴。けれどそれはすぐに古木の廊下に吸い込まれる。そして何秒か。ドアが開く。
「どなたさま?」
中から出てきたのは老人だった。もう男女の区別もつかないくらい煤けたしわくちゃの、たぶんおばあさん。
「あなた、どなたさま?」
一瞬泳いだ視線が僕をとらえる。
僕は精一杯、貧困にあえいだものの真似をする。
「突然ごめんなさい。もう数日ろくに食事もしていません。もし僕をすこしでもかわいそうだと思うなら、お水を一杯頂けないでしょか」
僕は首を垂れ、喉の奥でちぎれかけたバイオリンみたいに、情けを誘う声を出す。
「まあまあ」
おばあさんはたいそう悲しそうな顔をした。ただし、その目には怯えがあった。「主人がなんていうかしら……」おばあさんは家の奥をちらと見やる。「でも仕方ないわよね。こんなに……かわいそうなのだもの」おばあさんはちょっと、ぎょっとするくらい目を見開いて僕のことを見つめた後「おいでなさいな」と僕を招き入れた。
僕には分かっていた。ここには硝子がいる。そういう匂いがある。僕は確信していた。廊下を進んでいくと居間があって、もう一人の老人がいた。これも、おばあさんとはまったく区別のつかないおじいさんだ。おじいさんは薄暗い部屋の中で何かを箒で掃いていた。それはどうやらガラスのようだった。僕たちの足音に気付いたおじいさんは振り返りぎょっとする。「お前!」と箒でおばあさんを叩く。「またこんなのを連れてきおって!」おばあさんは、ごめんなさいごめんなさいと申し訳程度に手をかざして身を守る。僕はそれを無表情で見ている。
「でもあなた、ほら、あの子も喜ぶかもしれないし……」
おばあさんがそういうとおじいさんは少し落ち着いたようだった。そして「寝る」と行って寝室に引っ込んでしまった。
「ちょっと待ってなねえ」
おばあさんはそういうと僕に水を出すためにどこかへ行ってしまった。僕はこの時を見逃さなかった。匂いのもとに駆けていく。分かっている、どこにいるかは。今を駆け抜ける。そして裏口に出るとそこは楽園だった。
楽園は息をしていなかった。あらゆる植物と、絵画と石像が置いてあった。動物のはく製、由縁も知らぬ骨の椅子や、コーヒーミル。蓄音機やバイオリン。ピアノは大きな水槽に沈められ溺死していた。その中央に棺がある。光がうっすら窓から差し込んで、埃のステンドグラスを投影している。その中に小さなものが横たわっている。それは儚くて小さなもの。胴体が細かく砕かれていた。吹けば飛んでしまうくらい細かくなっていた。もう回らなくて済みそうなくらいに。唯一、頭部のみが原型を保ったままその砂の上に鎮座していた。僕はそれの表情を見ていない。どんな顔をしているかなんて関係ない。僕は逃げ出した。おばあさんが出してくれた水を蹴り、何事かと降りてきたおじいさんを突き飛ばし、玄関に体当たりして、転がるように外に出た。外はよく晴れていた。境目はくっきりとしており、光と影の対話がよくなされていた。僕は振り返る。古い家からは何も出てこない。本当に何もなかった。だから僕は何か恐ろしいものが出てこないうちに逃げた。
そして日が暮れる。影が光を説き伏せる時刻。
僕はいささか落ち着いた。そしてよく考えた上で、もう一度あの家に行くことにした。まだ僕は何も確かめてはいないじゃないかと。
今度は下手なことなんてせずにどうどうと入る。ドアが開いた瞬間飛び込んでやろうと身構える。ノックする。こんこんこん。はい。
白い女の子が僕の前に出てきた。体の力が抜けた。この子を僕は知らなかった。心底知らなくて、本当に、よく知っていた。女の子はびっくりしたように立ちすくむ。すると背後から金切り声をあげた老人が二人ほど僕に掴みかかる。僕はされるがままだった。引きずられ棒で打ち据えられた。女の子が何やら懇願している。泣いているかもしれない。視界が不明瞭になっていく。
僕はずるずると引きずられ、楽園に連れていかれた。僕は砕かれてばらばらにされた。そして棺の中にばらまかれる。僕の頭部は無造作に置かれる。しばらくすると白い女の子が入ってきた。後ろには老人がいる。老人は僕の頭部を引き裂くつもりらしい。手にいろんな鋭利なものを持っている。彼らが僕を切り刻もうとしたとき、彼女が言った。「なんで来たノ?」彼女は笑っている。よく笑っている。そして回った。くるりと縦に宙返りする。僕の体は元に戻っていた。そしてなんで彼女が飛ばなくていいかを理解していた。僕の体は理解していた。回転について、硝子は飛べないから犬にはなれないことについて。
硝子はただの硝子になっていた。老人たちは「禁忌を犯したな!」と言って怒り狂い硝子をめちゃくちゃにした。もうそこには何もない。ただの鋭利で他人を傷つける物体が転がっているだけ。ばらまかれているだけ。
「硝子はそんなのになりたくなかったのに」
僕は理解している。硝子がくれた縦回転が僕に特別な理解を及ぼした。
僕は咆哮した。わん。
老人はちっとも動かなくなった。
「わんわんわん」
ぼくはかなしかった。全部のことに理解が及んで悲しかった。
老人たちに飛びかかる。彼らの抵抗を僕は無視する。僕の四肢は獅子よりも強くなっていた。この膂力が時空さえ曲げれてしまうだろうと思えてしまうくらい。彼らの顔をがっちりと掴む。僕は老人に微笑む。ずっと微笑み続ける。目を見て。僕の永遠を彼らに注ぎ込む。
わん。わんわん。
わんわんわん。わんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわん。
わんわんわーーーーーん。僕はかなしいよ。この声が君に聞こえなくなってしまって。
わんわん。もう会えないことがさみしい。わんわん。わああああん。
かなしいから世界中に僕の理解を与えよう。わん。わん…。わおん。うおん。
わんわん。泣いている。わんわん。泣き叫ぶ。僕の慟哭が満ちるまで僕は回り続けるよ。わん。
僕はわんわん泣いて、大きくなってその家を突き破った。そして世界中に慟哭と回転による理解を及ぼし続けた。そのうち僕は僕の住む世界も突き破り、僕の咆哮が僕の理解を世界に届け、やがて慟哭があらゆる物質間に満ちてゆき、物理法則が終わりを迎える。最後の瞬間は季節柄、何とも言えない時節だった。春かもしれないし秋かもしれない。でもその中で僕がずっと世界に泣き続けている景色は、何にも選択する必要のない穏やかな、夕景。夕景。夕景。
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