1
「差別主義者が茹でたパスタを食べた者は差別主義者になる」
そんな諺が正しかった時代など無かった。差別都市から流出したものではない小麦と水は、差別エネルギーの媒体にはならない。そして、差別都市の出現以後、差別主義者がパスタを茹でたという記録はまだ無い。
「差別主義者にパスタの代金を渡した者は差別主義者になる」
これも正しくはない。供与した金は、差別主義の維持と拡散のために再利用されてしまうかもしれないが、その用途が、渡した者の精神に直接的な影響を与えるわけではない。「差別主義者とみなされうる」なら、時代環境によっては正しいことがあるのかもしれない。しかし現在、そんな判断をする者など、ヒューマン世界にはいないだろうと思われる。
「差別主義者から冥合通貨を受け取った者は差別主義者になる」
これは多分、この世界においては正しい。ここでいう「冥合通貨」が、ヒューマン世界で多分ただ1種類だけ流通している冥合通貨であるところの〈差別コイン〉を指すのであれば、議論の余地すら無い真理である。
差別主義者にはなりたくない。決算期までに充分な余裕をもって、私は支給された差別弾を全弾消費した。弾丸は50体以上の差別主義者に命中し、そのうち半数以上の差別主義者が墮地獄した。
――さあ帰ろう。
いや、どこか天気のいい土地へ出かけよう。
私の定住地の気候は、この戦場を覆い尽している雲と霧とを軽く一払いした程度のものでしかない。
ニルパライソ――名前とわずかなデータしか知らない輝く土地へ、今度こそ本当に行ってみたい。その気になれば、どこへでも行ける。私を奈落へ引きずる気配が今も漂う部屋から離れて。私は独りだ。
私は差別銃士分隊のパーソン世界に声をかけた。
「パーソン切手、お先に失礼します」
「え、早くない? ちゃんと当てた?」
「だいじょうパーソンです。閾値の20%は切ってます」
「ナイフで支援とかは、してくれない感じ?」
「勘弁してくださいよ。ここの主義者、なんか速度にムラがないですか? 怖いってほどじゃないけど、気持ち悪くて」
「な。このあたりって、今はどこもこれ系? やってらんないよね」
そう言ってから、パーソン世界は手を振った。
「じゃ、お先です」
「あ、ちょっと待って。あれ、見とかない?」
「……うわ、マジっすか」
「チャリとか、戦ってるの初めて見たよね」
東側の谷間を抜けて、時速30キロほどの速さで突っ込んできた〈差別チャリオット〉――2頭の差別馬に差別弓兵台をひかせた差別戦用馬車の軍勢が、差別主義者の群れを取り巻いての旋回運動を始めた。差別弓兵たちが放つ差別矢は、かなりの精度で差別主義者たちを墮地獄させていく。
「けっこう面白いですね。絶対やらないけど」
「観戦武官♪」
「どこの国か、わかります?」
「元群島系? めちゃくちゃゴタってるからもうよく知らんけど、そのへんの国旗の派生型に見える」
「領内で差別メタルを確保できなかった系ですか」
「差別騎乗のテクくらいは開発しとけよって感じだけど、もう遅いかもね」
「実質、詰んでますよね。あれ、事故ったら終わりでしょ」
「終わりそうだし……あー、1台終わった。今、終わりました」
転倒したチャリオットから投げ出された弓兵が、さっそく差別主義者の攻撃を受けている。つかみ起こされ、肩口を噛まれている。1滴の血も流さない、甘噛みのようにも見える行為。しかし、差別コイン情報は確かに譲渡され、差別弓兵は差別主義者になっていく。
「塵阿弥陀仏……塵阿弥陀仏……」
パーソン世界は祈りの言葉を口にしながら、チャリオットを襲う差別主義者たちの頭部を次々と撃ち抜いていった。高額の差別コイン情報を含有する差別メタルが差別主義者を地獄に返す。
「私の反差別も、これでおしまい。温泉とか行っちゃおうかなー」
温泉。その発想は無かった。悪くない。どちらにしよう。
「えー」
「俺まだ完済してないっすよー」
「個パーソンの自由すぎるでしょ」
隊員たちが抗議の声を上げた。
「うっさい」パーソン世界は差別銃に差別封印を貼りながら言った。「君らも、差別主義者が膠着まってるうちに終わらせて。銃士であることに感謝しながら」
今や、差別主義者の中にも剣士や槍兵がいる時代だ。数で押されてしまえば、差別騎士でも不覚をとりかねない。そんな局面で今、私たちが差別銃をきちんと支給されているのは、幸運であるとしか言いようがない。
「マジ感謝」
「首相マジ感謝」
「偉なる首相にマジ感謝」
「先行者利益おいしいです」
終わりが見えた戦場。和やかな空気。
だが、ノイズが混じっている。
疾走する差別馬の蹄の音。
見慣れない伝令兵が駆け込んできた。
差別馬に乗った伝令兵。彼らはいつも、差別主義者の勢力圏では使用できない通信機器の代わりに、危険な戦場を駆け回っている。誰もが皆、肝のすわったパーソンであるはずだ。
そんな伝令兵が、明らかに取り乱していた。
「あの! どこ! アタマ! アタマ誰すか!」
「落ち着いて」リーダーが手を上げた。「私が、分隊三笠のパーソン世界です。何があったの?」
「あった! すよ! 満期がもう今だって! 嘘だろって! 自分もですけど言う人いますけど!」
「落ち着いて。ゆっくり、私に、わかるように伝えて」
パーソン世界にそう命じられた伝令兵は、馬上で呼吸を整えてから、最悪の報せを口にした。
「地獄オーバーフローです。我が国で、地獄があふれました」
「超わかる」
パーソン世界は硬い声で短く応え、可能な限り速やかなる撤収を隊員たちに命じた。
私たちは、今から帰る。異国ではない。住み慣れた、分厚い雲の下へ。
他の隊員たちと同じく、私も思わず声を漏らした。
「ああ……」
温泉。
選べなかった。
ニルパライソの空。
2
遠い昔。
N国が、完全中立都市オーヴァゼアに助けを求めた。
その国は追いつめられていた――というほどでもないが、核弾頭とミサイルの製造に成功した隣国に、ニュークリアマウントをとられそうになっていた。
はるか遠くの同盟国は、自国の中枢に危険を及ぼす大陸間弾道ミサイルの開発阻止にのみ力を注ぎ、N国を射程に収めた中距離ミサイルについては許容の構えを見せていた。
「ニュークリアマウント、厭ですよね」
N国の首相は、閣僚たちに同意を求めた。同席していた者たちは、無言でうなずいた。
「そこで私は、もはやオーヴァゼアしかないという結論に達しました」
首相が指を鳴らすと、控えていた秘書たちが、オーヴァゼア通信端末のセッティングを始めた。ほどなくして、部屋の中央に置かれた青い小箱がわずかに震え、その直上に五次元映像が現われた。
この世のものではない門扉が、ゆっくりと開いていく。
居並ぶ閣僚たちは、誰もが皆、座席の位置に関係なく、まったく同じ光景を見ているはずだ。
「これが、もうひとつの〈窓口〉です。かくいう私も、ここから先を見るのは初めてです。皆さん、歴史に、乾杯」
グラスを上げない者はいなかった。
「さて」首相は首をひねった。「これは……文字、だよね。外務大臣」
「は、何らかの文字かと思われます」
「何語?」
「さあ……なにぶん、オーヴァゼアのことですので……」
「キミ」首相は、秘書の1人に眼を向けた。「なんて読むの、これ?」
「僭越ながら」秘書は五次元映像を数秒ほど見つめ直してから答えた。「我々の世界のギリシア文字で、「エンポリオン」と綴られています。古代のことですが、交易上の要地であった街の名前だと思われます。転じてロマンス諸語では――」
「あー、もういいもういい。なるほど。エンポリオン。わかりやすいじゃないですか。ヒューマンフレンドリーだ」首相は目を閉じて大きくうなずいた。「皆さん、これが、オーヴァゼアで我々を支援してくれる人たちの、裏サイトです」
おお、と閣僚たちが声を上げた。拍手の音が、それに続いた。
この世界と異界とを接続ぐ都市――オーヴァゼア。
超科学と超魔法と超存在が交じわるその都市を通じて、先進文明とのコネクションを持てれば、N国の現在の苦境を打開することなど造作もないはずだ。
「それでは」首相は拍手をやめ、両手をこすり合わせた。「交信いでください」
電子技術担当秘書が、手元のキーボードを勢いよく叩きはじめた。
「すごいねキミ」
「ハッカーみたいだ」
「実際ハッカーでした」
首相たちが談笑する中、秘書は一心不乱にキーボードを打ち続けた。
〈門〉を越えたわずかな文字列が、五次元映像の表面を流れていく。
やがて、
「ようこそ、エンポリオンへ」
五次元映像上に姿を見せた人物が、その場の誰もが理解できる言語で来訪者を迎えた。
「わたくし、支配人のエンポリオと申します。貴国の御様子と御希望に関する風の噂は、すでに承知しております。これから500秒程度で、御満足いただける文明を御紹介いたしたく――」
「お、緊迫してきましたね」首相は身を乗りだした。「よし、腹、割りましょう。ぶっちゃけ核です。核さえ何とかできればいい」
「承りました。超科学・超魔法・超存在、お好みはございますか?」
「うーん、よくわからない。そこは、おまかせで」
「かしこまりました。お値段のほうは、松・竹・梅とございますが」
「松!と言いたいところだけど、それ、どれくらい取るの?」
「はは。なにぶん当方、オーヴァゼアなもので」支配人は頭をかいた。「非常識かもしれませんが、とりあえず、このような感じになっております」
五次元映像上に、巨大な数値が提示された。
「ハイ来ました。国家予算の10倍来たよコレ。あのね、無理です」
「いやいやいや、貴国の国力ならその気になってさえ頂ければこれくらい、と申し上げたいのが本音ではありますが、ここはまだ当方に実績がございませんので、まずはお試しということで、梅からの長いおつきあいを――」
再び提示された数値を見て、首相は渋い顔をした。
「うーん、これ、梅? そういうこと? まあ……ねえ……」
ややあって、財務大臣がうなずいた。
「じゃ、今回は梅でいきましょう」首相は手を打ち鳴らした。「国家の一大事だ。値切ったりはしませんよ」
「ありがとうございます。それでは調子に乗ってさらに甘えさせていただきますが、弊社の仕事をときおり見てくださる人材を、貴国からオーヴァゼアへ、お2人ほど……」
「え? なに? そういうこと? 枠? 裏枠? あくの? やり手だねぇ」
「恐れ入ります」
「よし。即断即決。すぐに送りますよ。2人? 3人? 2人? はい、わかりました」
「よろしくお願いいたします」支配人エンポリオは、にこやかに笑って頭を下げた。「それでは只今より、超科学文明、ラスコーフラスコ、という文明にお接続ぎいたします」
「え、ちょっと待って」
「ラスコーフラスコ、でございます」
「うん、ちょっとメモするからね。うん。ラスコーフラスコ、って言えば御無礼なく通じるのね?」
「はい。あとは貴国の言語で御交渉いただければ、字幕など併せて、こちらで万事調整いたしますので、若干のタイムラグだけ御容赦を願って……」
「助かります。あ、それと、マナー的なことは、どんな感じですか?」
「ああ。まったく気になさらない方々です。超科学文明なので」
「そうなの? これだけは絶対に言うな、とか無い?」
「宣戦布告、くらいですかね」
「面白い。キミ、面白い。そうだよなあ。それはダメだよ。うん。わかった」
「なにぶん、何千年も前にジョークを捨てた方々なので、勝算と、言葉の上での正当性さえあれば、どちらの文明様に対しても遊びの無い先制攻撃をなさいます。もちろん、弊社もオーヴァゼア自治政府も、然るべく対応させていただきますが、それを2度行なうつもりはございません」
「そうなの……うん。わかりました。充分に気をつけますよ。どうか、オーヴァゼアの皆様とも、末永いおつきあいを」
「いやいやいや、何をおっしゃいますやら。こちらこそ宜しくお願いもうしあげなくてはならないところで何をもう――と言っております内に、そろそろ準備のほうが整いまして……」
「ああ、そうなの。じゃあ、はい、その、ラスコーフラスコさん。よしっ。お願いします」
「はい。それでは」
腰を折ったまま、支配人の姿が消えた。
しばしの間があった後、通信端末――青い小箱の上に、完全な球体が映し出された。
その青く見える球体の表面こそが、異界――超科学文明ラスコーフラスコが在る世界――とヒューマン世界との間に出現した界面だった。
「私がラスコーフラスコだ」
音声が響き、文字が流れた。
N国の首相は立ち上がった。
「これはこれはどうもお忙しいところお呼びだてして……」
「情報は私に認識された。前置きは不要――」
「失礼しました!」
「とエンポリオが明確に伝えていないことも知っている。この世には失礼など無い。今のところ、双方に落ち度は無い。そこから交渉を始めたい。異論はあるか?」
「ございません!」
「核兵器が必要か?」
「頂戴できますか?」
「物体は渡さない。他文明およびオーヴァゼアと交わした条約を破棄する理由が無いからだ」
「ですよね」
「情報なら渡す」
「はあ、しかしですね、あいにく我が国、肝心の資源に恵まれておりませんで……こう、大車輪で無理をすれば何とかならないこともないのですが、なにぶん同盟国とのアレがいろいろナニしている最中で……」
「君は核兵器の製造に要する資源についての話をしているのか?」
「はい」
「君は核兵器を本当に必要としているのか?」
「……あ、その、核そのものでなくとも、はい、ようございます。ただ、隣国にこう、核ミサイルを撃たれてしまいますとですね、我が国といたしましては、これはもう大変な……」
「君の世界の核兵器についての情報について、新たに付け加えるものはあるか? エンポリオから送られてきた情報だけでは、君の領土の被害についての判断はできない」
「お渡しできる限りのものは、はい、全て提出いたしました」
完全な青い球体に対して、首相は細かく頭を下げ続けた。
「核弾頭を搭載したミサイル兵器の時刻制御について、君の世界の科学はまだ充分な水準に達していないと私は判断する。君の世界の生命体についても同様だ。よって、君の世界の文明が観測した情報をもとに確かなことを言うことはできない。発射されなければ100%安全だとしか言いようがない」
「それはもちろんその通りで! でしたらその線で、なにかこう……抑止力になるような……ナニがありましたら……」
「情報――いや、通貨なら渡す。君の資源と交換しよう」
「……は?」
「私が所有する通貨と、君が所有する資源との、交換を提案している」
「いやしかし、そちらへ何かをお届けするのは事実上不可能で……」
「可能だ。現在、こうして話している。資源は物体とは限らない。通貨もまた同様だ。君の文明も、冥合通貨というテクノロジーを導入できるレベルには達しているはずだ」
「冥合通貨! それは、その、オーヴァゼアの……」
「完全中立都市オーヴァゼアでも通用している情報通貨だ。その冥合通貨の一種として、差別コインというものがある。元々は超魔法文明の産物だが、私は偏狭な文明ではない。差別コインが有効な世界との間では、それを使って交易をしている」
「はー……」
「君の計算資源と交換で、冥資金とするに充分なだけの差別コインを渡す。これから送る文書の内容に従って冥利やせば343日以内に、オーヴァゼアを通じて隣国の行動を制限するに充分な数値に達するはずだ」
「……あの、その、ふやすというのは……」
「これから送る文書を読め。不可能な手法ではない。君の文明がどれだけの出力情報を隠しているのか私は知らないが、君の文明にも、必ず差別はある」
「差別! 滅相もない!」
「ある。「何らかの差別エネルギーが無ければ、文明は維持できない」。そんな超魔法文明の仮説をそのまま採用するつもりはないが、現時点における私の認識も、それと大きく異なるものではない。だからこそ、差別コインはオーヴァゼアでも流通している。この件についての過去の議論は、冥合通貨の導入に関わる情報に添えて、君の文明が理解できる文字列にして提供する。なお、それらの情報を第三文明へ供与することも、私は無条件で許可する。あとはエンポリオと話してくれ」
オーヴァゼア経由の通信がいったん打ち切られてから数分が経過した後、青い小箱は文字列を吐き出した。
N国の政治家および技官たちは、そこに記されている内容に目を通し、一部の者は戦慄した。
そして後日、政府の主要な構成員が見守る中で、N国の保有する異界計算機が稼動した。異界担当技官たちが、秘書レベルをはるかに超える速度で、キーボードを叩いた。仮想地獄で生成された地獄学的数値の群れが、二重所属ハッシュ関数の〈門〉を抜けて、異界へ流出していった。その情報の代価として、差別コイン30単位量に相当する差別エネルギーの使用許可が、計算機の管理者に与えられた。
最初の差別都市のための当座の維持費は、それだけの差別エネルギーで充分だった。
超科学文明からの情報に基づいて差別都市圏で構築・運用された初期型の〈差別計算機関〉は、オーヴァゼア経由でヒューマン世界に出現した五次元結界線の内側、すなわち差別都市圏内でしか機能しなかった。開始直後の差別診断は、都市の近隣地域から順次集められた国民たちを対象に、ゆるやかなペースで進行した。
差別近傍者――体内の情報システムが差別エネルギーを基準値以上に蓄積していると診断された者たちは、差別労働者となり、五次元結界線の出現と同時に全てのヒューマン工物が消え失せてしまった都市圏内に、差別農場や差別住宅を築いていった。差別近傍者の中でも差別の出力が著しく大きい者は、脳内で差別意識を増幅させるだけで、良質な差別工房を49時間で完成させることもできた。そのようにして体内の差別エネルギーを基準値未満になるまで消費した者は、もう差別近傍者ではない。しかし、数ヶ月後にはまた差別近傍者と診断され、差別都市へ戻ってくる者も多かった。
やがて、差別都市圏の外でも差別コインが出回りはじめた。差別コインの譲渡は、ヒューマン世界においてはまず、石器や棒で殴るという形をとった。差別都市の外では全く使い道が無かったはずの差別エネルギーが、媒体となる差別石や差別木材などの差別資源に込められて、私計――すなわち国家を介さない差別情報処理に用いられるようになったのだ。
差別近傍者ではない者たちが持つわずかな差別エネルギーであっても、数の力は大きい。差別労働への従事を推奨する国家の通知を無視し続けていた差別近傍者たちは、民衆の礫によって、さらなる差別エネルギーを入力され、差別都市に駆け込んだ。差別労働者として差別エネルギーを大きく消費できる場所は、そこしかない。それでもなお、都市を拒否する者たちは、閾値を超える差別エネルギーを抱えた差別主義者となり、その精神は仮想地獄へ堕ちていった。
これら全てが、政府にとっては想定内の事だった。そのような事態が起こる可能性については、超科学文明ラスコーフラスコから受け取った文書に記されていた。その後の展開手法についても同様だ。国内に幾つかの差別都市が出現し、大質量を有する物体への差別コイン情報の移転が順調に進む中、N国政府はヒューマン世界からの差別根絶を宣言した。完全中立都市オーヴァゼアの自治政府は、この宣言を称賛した。
差別労働者の中から、索差別能力を身につけた差別戦士が育成され、差別棒をかついで国境を越えた。その差別棒はもちろん、差別都市の産物である差別木材から作られたものであり、人間に対する殺傷力を持たない。誕生してから死亡するまでの時間の中に存在する四次元生命体としてのヒューマンに対する殺傷力を持たないのだ。差別コイン情報が詰まった四次元殺傷力ゼロの棒を差別近傍者に打ち込む差別戦士の反差別活動を、公然と制止するような国は無かった。
そのころにはもう、他の国々も、ヒューマン世界に何が起こっているのかを理解していた。差別近傍者の体内情報系と差別主義者の体内情報系、そして地獄へ堕ちた精神。この三者の違いと倫理上の幾つかのテーマをめぐっては、哲学者や科学者たちが細かい議論と調査を続けてはいたが、世界の流れは既に明らかだった。明確な観測値にもとづいた、徹底的な反差別。その流れは、川が高所から低所へ流れるがごとくの、動かしがたい流れだった。
各国はそれぞれ、オーヴァゼアへ送りこんでいたエージェントを通じて必要な情報を入手し、差別コインの獲得および管理を急いだ。自国内に充分な差別コインが蓄積された国々は、それぞれ独自の差別都市を出現させ、国内の差別近傍者を自ら囲い込んで差別労働者とした。そして多くの差別兵を育成した国家は、まだ反差別への取り組みが積極的であるようには見えない他国へと進出していった。「反差別文明」と言いうるレベルに達した先進国は、互いの反差別活動領域をあらためて明確にし、ヒューマン世界に新たな秩序を築いた。
しかし、
「あいにくですが、超科学文明ラスコーフラスコは、すでに滅びています」
異界とヒューマン世界とをつなぐ窓口〈エンポリオン〉の支配人からそう言い渡され、N国の首相が愕然とした夜、遠国ではもう地獄が溢れていた。
「滅亡の過程についての情報は、関連文明がオーヴァゼア自治政府と結んだ協定により、お伝えすることができません。御了承ください」
「……あの、あのね、墮地獄した差別主義者が、歩いてるんだけど」
「地獄オーバーフローでございますね。もういちど差別コイン情報を入力して、地獄にお返しください」
「人間を、噛んでるんだけど」
「精神崩壊でございますね。もう少し落ち着くと、差別石器を使いはじめます。噛む程度で済んでいる間に、反差別文明の力で一掃することをおすすめいたします」
「だって地獄が!」
「仮想地獄の拡張につきましては、弊社がお力添えいたします。とはいえやはり、御予算のほうは如何ほど、という話になってしまいますが……」
「……うん。あの、ちょっと、ヒューマンのほうで、相談してみるね。あとで、その、よろしくね!」
「はい。御連絡をお待ちいたしております」
3
非同盟国や差別主義者の勢力圏外を縫うようにして辿りついた祖国の様子は、まったく酷いものだった。
軍用ヘリの下では、自動車を放棄した人々が走っている。差別都市から1歩でも遠くに離れようとしているのだ。その流れとは逆向きに進軍していた私たちも、ある地点でヘリを着陸させることになった。地獄から戻ってきた差別主義者の差別勢力圏では、都市圏と同様に、差別エネルギーを持たない物体で造られた前時代的軍用機の信頼性は著しく低下する。飛行するのは自殺行為だ。
「あの高層マンションのあたりから、差別が濃くなってるんだよね」
と、銃士分隊三笠のパーソン世界は言った。この人の眼は、数多くの戦場を越えてきたせいか、差別計算機関と精神を接続された私たち差別兵でも見えないはずのものまでもが見えるようになっているようだ。差別都市の上空を覆う暗雲以外の禍々しい何かを、彼パーソンはたぶん見ている。
分隊は警戒態勢をとったまま、そのマンションの裏道を速足で通過し、それからほどなくして差別都市の都市圈内に足を踏み入れた。時代の境界線を乗り越えたような感覚。周囲にはもう、差別木材で建てられた平屋しか無い。都市圏外の物理法則下では自立することすらできない、貧弱な住居や工房だ。
ただし、集合地点にある巨大な建物だけは別だった。差別石材を惜しげもなく使った、古代ギリシアの神殿めいた建造物。この世界で12番目の差別都市の出現――その瞬間へ到るために費された尊い計算資源と、それまでの反差別活動によって損耗した精神を、けして忘れないようにするための記念建造物だ。
ひるがえる緋色の旗の下。差別歩兵中隊の集合と、差別計算機関による再診断が完了し、私たちの分隊にも追加の弾薬と近接差別武器が支給された。私は差別意識を解放し、紙薬莢を握って差別を込めた。行軍中にゆっくりと仮想地獄へ近づいていた私の精神が、再びまた遠く離れた。差別弾に乗ったこの差別コイン情報は、地獄の不具合によって溢れ出した差別主義者に、全て叩き込む。
「――分隊三笠、出ます」
パーソン世界に率いられた私たち銃士分隊が向かう先は、この都市の差別治安維持兵が寝泊まりしていた差別兵舎だった。差別主義者の群れは、すでに差別兵営地区の大部分を占拠しているそうだ。その数は、確認されているだけでもおよそ200体。精神は仮想地獄へと去り、動かなくなったその体は差別コイン情報の採掘のためにのみ活用されるはずだった。そんな体が歩き出し、混乱する治安維持兵たちを兵営地区からの撤退にまで追いこんだのだ。
ここから先は、都市機能を支える差別建造物が密集する中での市街戦になる。差別銃に弾を込めて狙いを定める余裕など、そうそう確保できないはずだ。私たち銃士も、かつての白兵戦を思いださなければならない。私は銃を背中にかついだまま、差別柳葉刀を右手で構えた。
左前方から足音。差別工房の陰から姿を見せたパーソンに、私は眼の焦点を合わせた。相手の差別エネルギーは203コインに相当する。現時点での世界的差別インフレ率を高めに見積もっても、とうに精神活動が停止しているはずの完全な差別主義者だ。今やこの都市空間は、地獄とつながっている。
―― 一太刀でいけるか?
相手の利き手と利き足は明白だった。歩きだしてから間もない差別主義者は、こういうものだ。差別近傍者であった時には熟練の近接差別格闘家だったパーソンであっても、墮地獄した時点で全ての武術は崩壊してしまうようだ。
私は自分から距離を詰め、相手が右手を伸ばした瞬間、左に回って胴体を斬り払った。差別メタルで鍛造されたブレードは、皮膚も血管も傷つけることなく、差別コイン情報だけを相手の体に譲渡して通り抜けた。差別主義者は前のめりに倒れた。
動かなくなった相手の体の差別エネルギーは240を超えている。あとは回収班の領分だ。この体がふたたび動きだす可能性はもちろんあるが、差別主義者の肉体を意図的に損壊することも、何らかの目印をつけておくことも、国際条約で禁じられている。何らかの身体的特徴や、何らかのパーソン集団が用いる記号および服装が、差別主義者であることを示す何かと関係を持つことなどあってはならない。差別計算機関が管理する差別コイン情報のみが、差別主義者を定義する。
私は、今の戦闘で消費された差別エネルギーをブレードに補給するため、差別意識を少しだけ走らせた。ここから先は、体内の差別エネルギーを細かくコントロールしながらの進軍になる。エネルギーの自然増加を計算に入れながら、消費と増幅をできるだけ制御しなければならない。閾値を超えれば、差別主義者に噛まれなくても差別主義者になってしまう。
雲の向こうでぼんやりと夕陽が沈んでいく中、私たちは西へと疾走した。夜になれば恐らく、不利になるのは私たちのほうだ。地獄から戻ってきた差別主義者の精神がどんな情報を得ているのかはわからないが、私たちは相手の体をはっきりと眼で捉えなければ差別主義者と差別兵とを見分けることもできない。
「隊長、兵舎の方は――」
「なんか、おかしなことになってる」
「え?」
「わからない。予断を持たずに進むしかない」
パーソン世界の何らかの感覚は、何らかの異常だけを察知しているようだ。しかし、私たちは進むしかない。その通りだ。兵営地区の奪還と再拠点化が中隊の任務だ。たとえ撤退することになったとしても、できる限り多くの差別兵器と技術文書を確保しなければならない。それらが差別主義者の手に落ちれば、世界の状況はその分だけ悪くなる。
数体の差別主義者を斬り倒し、兵営地区へ西口から進入した。悲鳴。逃げ遅れた治安維持兵か、あるいは他の分隊か。いずれにせよ、差別主義者になる。まだ1体の差別主義者も出していない私たちの分隊は、板塀に沿って兵舎へ向かった。
しかし、快調な進撃はそこまでだった。
パーソン世界が凍りついている。
「……なんなら、われ」
震える声でそう言ったパーソン世界の脚は死んでいた。完全な棒立ち。
私はパーソン世界の肩越しに、パーソン世界が見ているものを見た。パーソン世界の見ているものが、私にも見えた。
この世の空間を、誰の眼にも明らかなほど歪ませてしまう、圧倒的な差別。
練兵場の中央付近に、1体の差別主義者が立っていた。夕闇の中、差別主義者の背後にある兵舎の屋根が歪んで見える。その異常な夕景の中心に、6桁の数字。圧倒的な差別主義者だ。
「いちいち困らないでよ」
と、その差別主義は言った。
「兵士、ていうか人生のOBとして言わせてもらうけど、この世には考えられることなんか何も無いんだよ。進めるだけ進めばいい。できるのなら、あの世を造れ」
意義のわからないアドバイスを明瞭な発音で口にしてから、「君たちが来る日を待ってる」と付け加え、差別主義者は片手を上げて立ち去った。私の後方から放たれた幾つかの弾丸は差別主義者の体を確かに通り抜け、高額の差別コイン情報を与えたが、差別主義者はそのまま歩み去っていった。
私たちには、それを呆然と見送る余裕もなかった。入れ替わるようにして練兵場へ突入してきた新手の差別主義者は2体。どちらも差別剣士だった。いち早く正気を取り戻した私とパーソン世界が、それぞれ1体ずつを引き受けた。
私の前でロングソードを構える主義者は、かなりの手練れだ。利き手と利き足は、決めつけられない。私は相手の両眼を見ながら、一瞬だけ動気を見せて、相手の優位眼を炙り出した。
右。私は即座に歩法を展開した。
迷蹤芸。
その技芸の真髄は、足の運び方そのものにある。私が最初の1歩を踏み出した瞬間、厭な方向に動かれたと相手は感じたはずだ。差別主義者の精神がいかなるものであろうと関係ない。肉体が、そう感じる。生まれてからの長い時間の中で深淵学習を繰り返し、利き眼と脳を分化させた相手の肉体が、私の動きを厭だと感じるのだ。その結果、相手が起こそうとしていた動きは一瞬だけ保留され、次の瞬間にはまた私の位置は厭な方向へ動いている。
私は重心の上下を激しく転変させながら前後左右へ動き回った。最初の1歩で相手に与えた躊躇を少しずつ増幅させ、相手の体のバランスを揺さぶり続けた。バランスが崩れれば崩れるほど、相手にとっての厭な方向は増えていく。小刻みに躊躇を繰り返した肉体は、動くこと自体を望まなくなっていく。それこそが、迷いの実態だ。相手は迷い、私は定められた軌跡を辿りながらも自由になる。私は、1度も刃を交えることなく、倒れる寸前の独楽のような状態に陥った差別剣士を斬り倒した。
これで、見える範囲の差別主義者は全て片づいた。しかし、先ほどの強烈な差別主義者に主義圧てられて、まだ精神が安定しない隊員たちもいる。異常事態の報告のために、人を走らせる必要もある。パーソン世界は伝令役をつとめる隊員に、分隊の任務の縮減についての連絡も命じた。
最優先すべきは、技術文書および訓練マニュアルの確保。ヒューマン世界が差別戦の時代に突入したことによって、肉体と簡素な武器のみを前提にして練り上げられた過去の剣術や砲術は、その価値を与え直された。各国が競い合うようにして発掘し復元した失伝武術は、ふたたび重要な国家機密となった。これらの技術を差別環境に合わせてカスタマイズした最新差別戦闘術および差別兵への技術導入マニュアルが、差別主義者や、火事場泥棒のような他国の諜報員の脳に落とされることだけは、絶対に阻止しなければならない。
中近世の武家屋敷の設計思想にもとづいて建造された最先端の差別兵舎。パーソン世界および3名の隊員だけが、差別燭台の灯りを頼りに、屋内へ乗り込むことになった。板張りの廊下は幾重にも折れ曲がり、攻める側にとっては厄介な構造になっているが、その詳細はもちろん熟知している。散発的に姿を見せる差別主義者を停止させながら、私たちは文書の保管室を目指した。
撤退を強いられるかどうかは、五分五分だと思っていた。しかし、どうやらこの兵舎はまだ、組織的な動きをとる差別主義者の手には落ちていないようだった。重要文書の保管室が近づいても、差別主義者に出くわす頻度が増すということはなかった。
だが、
保管室の障子。そこに貼られた差別紙を越えて、ほのかな灯りが漏れていた。どこかの部隊が、イレギュラーな行動をとったか。あるいは。
接近に気づかれていないわけがない。私はパーソン世界に目配せし、障子を開けた。
障子の向こうでは、差別蝋燭が灯っていた。その光の下で、何らかのパーソンが巻物を展げている。こちらに背を向けたまま、放りだされた巻物や書籍の山に次々と手を伸ばし、開いてはまた閉じている。凄まじい速さで、それを繰り返している。
差別都市圏を出てしまえば文字を留めることすらできない差別紙。そこに記された情報の全てを、脳に詰め込もうとしているようだ。
何らかのパーソンは、差別主義者ではなかった。明らかに他国の諜報員だ。
私はそう判断し、「動くな」と声をかけた。
パーソンはゆっくりと立ち上がって、こちらを向き、「ぼくにはもう、何も言うな」と言った。
パーソンの眼を、私は見た。
私は、右にも左にも動けなかった。
迷っている。
いいじゃないか。
生きている。
私の子。
何も、定められてはいなかった。
しかし。
私の差別は閾値を超えた。
同時に光は消えてしまった。
(終)
See you next 差別――『差別主義者の天』
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