翌朝。
山本の父親は知らない。
今日という日が、彼にとって絶望の始まりであることを。
それは突然やってくる。
ワタシとワタシの家族がそうだったように。
山本の父親がダイニングに入って来た。
途端に眉間に皺が寄る。
毎朝、あって当たり前の朝食と経済新聞。
それがテーブルの上に無かった。
息子の姿も無い。
「(あのぐうたら息子、まだ寝ているのか! 朝の勉強がどれだけ貴重か、たっぷり言って聞かせているのに! 三流大学にしか入学できなかったら、省内でいい笑い者だ! しかも、出勤する夫のために妻が朝の準備を怠るとは何事か! こんな事は今まで一度も無かった! 娘が幼稚園にも遅刻するだろうが!)」
入省以来、傅かれることが当たり前のキャリア人生を送ってきた父親。
いつしか、それが当たり前だと思うようになった。家庭も例外ではない。
一向に、二階の自室から妻と子供達が下りてくる気配は無い。
「(実にたるんどる! この国の愚民とも同じだ!)」。
業を煮やした父親は鼻息も荒く、乱暴に階段を踏み鳴らしながら二階へ。
その一段一段が、破滅への道だとは露も知らず。
階段上がった手前に、妻と娘の寝室。
ノックもせず乱暴に入室。
目に飛び込んできたのは……淡いピンクで彩られた部屋。
そのダブルベットで、娘ともども安眠している妻の姿。
父親は惰眠を貪る妻に激怒し、ベットに詰め寄って……ふと感じた違和感。
彼はその原因を探った。
部屋と同じく、薄いピンク色の掛け布団のカバーの色が……濃密な朱色に変わっている。しかも丁度、妻の腰の辺りから下だけが、歪に変色している。
それに、妻の顔色。
隣で寝ている娘と同じく、人形のようだ。
だが、娘の寝顔は可愛らしい西洋のお人形。
妻のそれは蝋人形。
「お、おい……おい、どうしたんだ!」
異変を感じた父親が、大声で呼びかける。
娘が「ううん……」と起きそうな気配を見せるだけで、妻は微動だにしない。
父親は、思い切って掛け布団を剥いだ。
眠そうに身をよじる娘。
その隣の妻は……。
絶句する父親。悲鳴すらあげられない。
妻は腹部から股間まで、ピンクのネグリジエ越しに切り裂かれていた。
臓器が丸見えだった。
血を吸い、真っ赤に染まったシーツとネグリジェ。
妻の血を吸収しきれなかったシーツの血だまり――股間下の朱色の湖。
父親は知らなかった。
妻の腹部から、ある臓器が綺麗に切り取られていることを。
しかも、その臓器に繋がる血管のみが切られ、他の臓器や血管にはかすり傷一つ無いことを。
芸術的な破壊。
すでに父親の思考も理性も停止している。
隣の娘が目を覚ましかける。
「見ちゃ駄目だ!」
寝ぼけなまこのお人形に怒鳴りつけると、その小さな体を抱え、慌てて部屋の外へ飛び出した。
起き掛けに怒鳴られたお人形は、不機嫌そうな表情を浮かべている。
父親は全身が震えていることを自覚した。衝撃と混乱と恐怖で。
「(きゅ、救急車と……け、警察に……!)」
そこで思い出す。
息子は?
息子は自分で起きる。母親が起こしてくれないから。
息子は遅れずに朝食の席につく。
遅れれば、母親は平気で息子に朝食を与えないから。
その息子が起きていない……。
不安と恐怖ですくむ足を、懸命に動かす父親。
大して広い家でも無いのに、息子の部屋がやたら遠く感じられる。
まだ寝ぼけているお人形を廊下に残したまま、息子の部屋に恐る恐る入っていく。
息子は……部屋にいなかった。
枕に頭が載っていない。
安堵した――だがそれは、一瞬のこと。
枕に頭が載っていない。
“なのに掛け布団は、丁度息子の体の形に盛り上がっている”。
絶望的な状況を予感しながら、父親は息子の掛け布団を剥いだ。
明け方の瀟洒な住宅内に、今度は悲鳴が響き渡った。
ワタシは父親の一部始終をすぐ隣で見ていた。ステルスで姿を消して。
腰を抜かしてへたり込む父親を尻目に、ワタシは外へ出た。
まだ、ショーは残っている。
錯乱している父親が通報しなくても、すでにパトカーは山本宅に到着していた。
この辺りは瀟洒な住宅が建ち並ぶ、おすまし顔の高級住宅街。
霞ヶ関まで二駅という地理を考えれば、この辺りの住民層も大体察しがつく。
そのお上品な町で、瀟洒な家屋に相応しい洒落た門の上に、犬の頭部が無造作に置かれていれば、当然騒ぎになる。
切断された首から流れ出た生乾きの大量の血。
壁を伝い、地面まで流れ落ちている。呪われたドス黒い河。
頭部の目は未だ生々しく見開かれ、今にも目玉が動き出しそうだ。
近隣の住民による通報で駆けつけた警官達は、門の上にある犬の頭部にギョッとしながらも、インターホンを押した。
「山本さん、山本さん! 警察の者です!」
普段は上品ぶっている近隣の住民達が、野次馬根性丸出しで山本邸をうかがっている。
そんな衆人環視のなか、娘を抱いた父親が玄関からフラフラと姿を現した。
「山本さん、警察の者ですが。あの、屋内でも何かありましたか?」
その言葉に緩慢に反応する父親。
屋内で何かあった? その件で、こいつらは来たんじゃないのか?
訝しげに思う父親。だが、ようやく息子の愛犬の頭部が目に入った。
「こ、これは!」
娘もそれを見つけ「キャーッ!」と悲鳴をあげる。その悲鳴すら、洗練されたエレガントな響きがある。さすが良家のお嬢様。
父親は娘を力なく地面に下ろすと、犬小屋の方に向かって歩を進めた。
頭部を切断された愛犬。
頭部が無かった我が子。
「山本さん! 門を開けてください!」
警官の声も耳に入らず、父親は夢遊病者のような足取りで、犬小屋へと向かう。
犬小屋のすぐ外に、犬の胴体があった。
その臀部に、息子の頭部がめり込んでいた。
山本少年も満足だろう。
ワタシの弟にはもったいない「上等な糞」を、最後に味わえたのだから。
父親の口から絶叫が迸り、高級住宅街にこだました。
生まれて初めて人を殺した。
それも惨殺。
同姓である女性の子宮を摘出した。彼女が生きたまま。
昨夜、唐突に闇の中からワタシを見て、まず、山本の母親は驚いた。
だが、驚きは長続きしない。
お公家のお嬢様にとって、自分達雲上人以外の人間は皆、ゴミ屑以下。
「急に何なのっ? あんたみたいな子どもが起きてていい時間じゃない!」
まさか説教を食らうとは。
しかし、母親を責めるのは酷だ。
ワタシは未だ見た目は十二才の少女で、日本刀はステルスで消してある。
「アンタ、息子のこと『生まなきゃ良かった』って思ってるんでしょ? なら二度と、後悔しないようにしてあげる」
「どこで、そんな事聞いたのよ! 親に電話するから、番号を教えなさい!」
公家のお嬢様には、何でこうもヒステリックな人種が多いのだろう。
しかし、次の一言で戯れ言の言い合いは終わった。
「親も親なんだわ! こんな泥棒みたいな娘を生んで! 親も泥棒みたいな救えない人間達に決まってる!」
彼女の「破壊」は、実戦が初戦のワタシには難儀した。
何しろ日本刀で腹を切り、他の臓器を痛めずに、子宮だけ摘出するのだ。
要求される、天才外科医なみの剣さばき。
だが、やってのけた。
その息子にも、外道に相応しい死に様を与えた。
けれど、後悔も懺悔の気持ちも無い。
しかし、達成感も快感も無い。
あるのは、次の破壊のプランのみ。
人間二人を殺し、残された家族二人に永遠の絶望を与えた。
それだけのこと。
山本少年は弟をイジめた、憎悪すべき相手だ。
だが殺したからといって、それで気持ちが晴れるわけではない。
無論、罪悪感も感じないが。
山本の父親は、生き地獄を味わい続ける。
彼はワタシの父が勤めていた銀行に、リストラを迫った張本人だ。
公的融資投入には、生贄の生首が必要だったから。
しかしそれが、生き地獄の免罪符にはならない。
人の運命や命なんて、こんなものではないだろうか。
人間は皆死ぬ。
せっかく生まれてきたのに、死ぬ。
では生きている意味は? 意義は?
子を残して、人類の歴史を永遠とするため?
ならば生殖能力が無くなった時点で、すでにその人間の存在意義は無い。
命の価値とは? 重さとは?
誰が決め、誰が測る?
ワタシが暮らしたこの国で、かつて飛行機がハイジャックされた。
狂信的な犯人達のふざけた要求を、この国のトップは了解した。
理由は――
「人命は地球よりも重い」
人質の命を指しての発言なら分かる。
だが当時のお偉方は、犯人達の命もご丁寧に扱った。
なぜなら――人命は地球よりも重い。
その結果どうなったか。
のうのうと生き延びた犯人達は、海外の空港等で、無差別に無辜の人々を虐殺した。
何の罪も犯していない人間より、狂った凶悪犯達の命の方が重かったのだろうか。
かつてこの国で起こった大震災。
大勢の被災者の命の灯火が消えかけていくなか、当時の施政者達は狂気の議論のテーブルについていた。
一人でも多くのレスキューが求められる被災地。
その被災地に「ジエイタイ」という渾名をつけられた軍隊に所属する救助部隊を、出動させるかどうか?
延々と議論していたのだ、被災者の命が次々と消えていく最中。
左翼思想の持ち主達は
「軍隊の出動などけしからん!」
と、広く温かい快適な会議室で、そんな平和ボケ理念をこねくり回していた。
地獄と化した被災地で、助けを待ちこがれる被災者のことなど露も考えず。
結局、人の命の重さを測る物差しなど、誰も持っていない。
偽善と悪意の元で、他人の命の価値を勝手に判断する。
人間の命など、所詮その程度。
地球よりも重い?
ふざけないで!
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