<5日目>
三島に宿を取ってから五日目の事である。東の空が急に明るくなった。
夜半、ほんの一瞬、山々の尾根を縁取るように、ボーッと光が灯った。
ラジオを点けっ放しにし、うつらうつら聴いていたのだが、放送が途切れた。NHKの全国放送である。あちこち廻し、他の局を探った。防災用に買った、手廻し充電のラジオだった。こんな事態にも、役に立った。
生きている局が見付かった。地方局である。しかし、何が起こったのか、伝えられることはなかった。
<6日目>
翌朝、宿は停電していた。電話もどこにも通じなかった。女中が、朝食の準備を告げつつ、説明して廻っているようだった。
電車も停まっているという。東から山越えしてきた車のドライバーは、夜半の強烈な光のあと、東の町のあちこちで大火事が起きているのを目撃したと話したそうだ。強烈な衝撃波が、車の後方から幾度か襲って来、車を追い抜いていったという。
半日後には、水道も断水した。新聞も届かなかった。女中が頻繁に、新しい情報を伝えてくれた。夜中に到着した車を除き、その後東の山の向こうからの車は、荷も人も、何も来なくなったという。逆にこちらから山を越え、警察や自衛隊の車両が、偵察のため東へ向かったそうだ。
手廻しラジオの地方局アナが伝えるところでは、未確認情報ながら、やはり核が何発か関東平野に落ちたことが推測される、とのことだった。静岡県知事と県警本部長の連名で、平静を保つよう、繰り返し呼び掛けられた。関東地方では大量の犠牲者が出ている模様ですが、自衛隊の各方面部隊が連絡を取り合い、生存者救出のため被災地に急行しつつあります。耐え難い熱を冷静を装い押し殺したアナウンサーの声が、内容の乏しい同じニュースを何度も何度も繰り返した。
<1日目>
中国とアメリカの大使館が自国民に退避勧告を出すという噂が、飛び交い始めていた。これが、絶好のタイミングとなった。既に、目端が利き、金と時間に余裕のある連中は、海外旅行にかこつけ国外脱出しつつある。逃げ遅れて絶滅収容所送りとなったユダヤ人のような憂き目にはあいたくない、これが彼等の本音だろう。
かねてからの打ち合わせ通り、大船駅のプラットホームで待ち合わせた。妹と母親は、重たそうな手荷物を幾つもぶら下げ、京浜東北線の車両から降り立った。これから、温泉地旅行と洒落込む。が、その荷物も、彼女らの表情も、とても楽しげな行楽客のそれには見えなかった。
目的地は、三島である。小田原で新幹線に乗り換え、なるたけ早く三島まで移動する。以前は、少しは土地勘のある熱海・湯河原辺りを、避難場所として考えていた。が、北朝鮮の水爆実験成功の報を受け、予定を変更した。丹那トンネルを抜け、伊豆半島の反対側の三島に出れば、箱根・伊豆山塊に背中を守られ、関東側の核の脅威からは大分安全となるだろう。伊豆の西側で危険なのは、浜岡の原発が破壊され放射能汚染が広まるケースだが、核の熱で焼かれるよりは遥かにマシだ。対処の方法は幾らでもある。
私は定年退職し、鎌倉の大船で一人住まいしている。母と妹は、実家のある横浜の杉田で暮らしている。共に、横須賀から10キロ程の距離だ。広島型原爆の破壊力ならまだしも、水爆にやられてはひとたまりもない。他にも、厚木に座間の米軍基地、東京、横浜の大都市、我々の住むこの辺りは、日本で一番危ない危険地帯だ。とにかく、三沢、岩国、沖縄といったあらゆる米軍基地、大阪、名古屋、札幌、仙台、北九州といったあらゆる大都市、そして列島に点在する多くの原発、からはなるたけ離れるのが上策だろう。それも、難破を察知するネズミの如く、タイミングを逃さず。幸いな事に、私も母も妹も、年金と蓄えで暮らしている。子供もいない。社会的に拘束されるものが、何もない。我々が率先して疎開せねば、日本中で疎開出来る者など誰もいなくなる。
杉田の実家で、母親は逃げる事を執拗に渋った。そんな事杞憂に終わる、今までも無事だったんだから、と。それに、どうせ老い先長くないんだから、住み慣れた土地で死にたい、と。私達は怒りをにじませ、反駁した。あんたが逃げなきゃ、俺達だって逃げられる訳ないだろ! 俺達まで、巻き添えにする気か! 母はそれでも、車中で、みっともない、情けない、と幾度も繰り返した。
<2日目>
一応、親孝行の観光旅行、という建前になっている。知り合いに訊ねられた時には、そう答える事にしていた。市中の宿に一週間の予定で部屋を取った。その後は、適宜延長する。米軍の反撃能力を考えれば、たとえ戦争になっても、一ヶ月もあれば終結するだろう。
三島の観光地を、母親の憂いを紛らすため、あちこち見て廻った。三嶋大社に、楽寿園、柿田川湧水群。しかしやはり、母親の憂いの薄まる気配はなかった。名物のうなぎ、沼津から届く海の幸、箱根山麓の新鮮な野菜、美味いものをたらふく食ったが、母だけでなく、私も、妹も、何かに夢中になっている時間が過ぎれば、また漠とした不安に飲み込まれる。――本当に、何事も起きず、ただの観光旅行で終わってくれれば、どんなに嬉しいだろうか。
<3日目>
当面心配になるのは、現金と衣類である。現金は、手持ち以外は、連日ATMで上限まで引き出し、三百万円程用意する予定である。それらを、貴重品入れの金庫やら、荷物のそこここやら、各人の着衣のポケットやら、あちこちに数十万ずつ分散させて隠し持つ。服は、下着と、この季節の物を数セットずつ用意する。
もう一つ心配なのが、薬だ。何しろ三人とも、結構な歳である。呑まねばならぬ薬が色々とある。逃げる時、残った薬をあるだけ掻き集めてきたが、何日もつか。無論『お薬手帳』は忘れず携行したから、あとは地元の医者に「旅先ですので」と訳を話して、処方箋を書いてもらうしかないだろう。
落ち着いたところで、宿からあちこちに電話をした。何しろ、誰にも告げぬ、急な出立である。世間からすれば、突然蒸発したように見えるだろう。人によっては、早合点して、警察に行方不明と通報する者があるかもしらん。友人やら親戚やら近所の知り合いやらに、しばらく長旅に出て留守にするから心配しないように、と連絡した。母は、子供達が親孝行旅行をプレゼントしてくれたから、と。我々は、母を親孝行旅行に招待したから、と。嘘をつきつつ、母は、こんな下らない心配をして逃げ出したなどと知られたら恥ずかしいと思う見栄っ張りな気持ちと、もし心配が当たって皆が死に自分達だけ生き残ったらすまないという後ろめたい気持ちとで、しばしば声が震えた。母程ではないが、私にも妹にも、嘘をつきつつ同様の震えはあった。(もしかすると、話を聞く電話の相手の中にも、本当の理由に気付く者が何人かいたかもしれない。)
ただ、横浜で医者をしている友人の神田には、本当の事を話した。「世の中大分きな臭くなってきたんで、しばらく避難することにしたよ」
大病院で勤務医をしている神田は、「羨ましい」と言った。「こっちは、逃げる訳にはいかないからな。――もし本当に、そんな事になったら、ここにはドッと怪我人が担ぎ込まれてくることだろう。その時ここが、本当の戦場となるだろうよ」
宿の名と連絡先を教え、その時はさして気に留めることもなく電話を切った。
<4日目>
米軍が遂に、北朝鮮の核施設を爆撃したそうだ。北側も、ソウルへの散発的な砲撃を開始したらしい。
多分アメリカは、北朝鮮の最初の核が自国か同盟国に落ちるまで、核使用に踏み切る事はないだろう。
このまま、小競り合いだけで納まってくれれば、いいんだが。
<7日目>
北側は、初回に集中して、核弾頭ミサイルを投入したようだ。多分北は、世界を道連れに、自殺する気だったのだろう。
横須賀、東京始め、首都圏には最低五発の核が落ちた。他にも、大阪、名古屋などの大都市と、各地の米軍基地が、核の虚無に呑まれた。
ミサイルの八、九割方は迎撃出来たようであるが、残りが着弾するだけで、日本の人口の七割ほどが、初めからいなかったもののように消えた。そしてその周囲に、大量の負傷者と、難民が残った。また、大量の放射性物質の、降下が始まっていた。
<8日目>
我々の恐れる汚染の濁流は、名古屋周辺に落ちた数発の核からのそれである。その時刻その時刻の風向きのまま、汚い舌は舐め回す餌食を変えていったようだ。生者は汚染の波に追われ、右往左往した。ビクビク警戒し、その流れに一喜一憂した。
私も、唯一頼りになる情報源、手廻しラジオを充電しつつ、それから漏れ出る僅かな情報に聞き入り、東海地方周辺の地図を畳の上に広げてこれと睨めっこをしながら、その日を送った。
風向きが悪い場合は、避難場所を移動しようか。近場で狩野川水系奥の修善寺とか、あるいは南アルプスに守られた谷あいの身延山辺りはどうだろう。だが、鉄道が停まり、車もあてにならない。それに何時、どう風向きが変わるか、誰にも分からない。家族を無事引き連れていく自信が、私にはない。難民時代のアブラムのようなものだ。
<10日目>
米軍の集中攻撃(中古の兵器を、悉く朝鮮半島に廃棄する積りらしい)に対する北朝鮮の散発的な反撃はまだ続いているようだが、核ミサイルの飛んで来ることはなくなった。我々の関心は、身の回りの生活の方に移っていった。
三島市の公的施設のスペースは全て、東から山越えしてくる被災民の収容とその手当ての場に当てられた。我々が逗留する宿の大広間も、小振りながらも溢れる程の怪我人を抱えた。私と妹もボランティアで看護の手助けをした。助かった者の、せめてもの義務だろう。
被災民の殆どが、火傷を負っていた。強烈な打撃による怪我人も多かった。重傷者も軽傷者もいた。それでも彼等は、ここまで逃げてこられたのだから、まだマシな方なのだろう。
医療従事者が足りなかったので、直接的な看護、消毒とか、包帯巻きとか、もした。器具を煮沸したり、添え木を整形したり、などもした。市の随所に、放射線計測器が持ち込まれているようで、それを抱えてあちこちを計測して廻ったりもした。部屋に閉じ籠ってラジオに聞き入り地図と睨めっこしているよりは、こうして人々と接し見知らぬ人の手助けをしていた方が、生きているという実感は遥かに強く湧いてくる。包帯を巻いたり薬品びんを運んだり、作業する手にも力がこもる。
<11日目>
被災民は、増える一方である。ここ三島は、関東平野から逃れてくる膨大な数の難民を受け入れる、最前線となっている。ここで彼等を受け入れ、応急処置し、まだ収容力のある静岡県中心部に送り出す。
宿の大広間で怪我人の手当てをしていた時、ある呼び掛けがあった。伊豆・箱根の山中に、動けなくなった被災民が多数居残っているという。彼等を助けるため大規模な捜索隊を編成する、是非とも参加して欲しい、と。私は60歳を過ぎているが、まだ体力には自信がある。いわば“抜け駆け”して命拾いした身だ、詫びの意味も込めて微力ながら目一杯の労力を奉げてもよかろう。
<13日目>
戦争は一週間で終結した。最後まで逃げ回っていた潜水艦が撃沈され、北朝鮮本土も沈黙した。あるいはテロ的な反撃はあるかもしれないが、北朝鮮に設立された臨時政府は全面降伏と戦争終結を宣言した。北は、米軍の核の集中攻撃により、割合から見れば日本以上、九割五分を越える人口を失い、残りの者も戦傷死と餓死寸前の状態にあるという。
<15日目>
伊豆・箱根の山中に分け入った。総勢一千名を越えるボランティアが参加したが、これを二十人程の小部隊に分け、各部隊を山岳ガイドが先導して、北は芦ノ湖から南は熱海までの扇状の広い範囲に散った。
この辺りは、小田原の南石橋山の合戦で破れた頼朝が、平家方の総大将大庭景親の大軍勢に追われ、真鶴から小舟で房総へ逃れるまでの間、幾日も彷徨い続けた地である。妙な縁を感じる。鎌倉に住んでいた時は、頼朝が遷し拡張した鶴岡八幡宮の境内をちょくちょく散策したものだ。ついこの間参拝した三嶋大社も、その頼朝が源氏再興を祈願した鎌倉幕府の出発点だった。私と頼朝の、難を逃れるように、伊豆山麓の陰にひっそり身を隠している境遇も、似ている。そして今は、彼の彷徨った同じ野山を経巡り歩いている。立場は変わり、丁度頼朝側の落ち武者を大庭景親が山狩りしたように、今の我々も山中で傷付いた人々を探索して廻っている。八百年前と違い、命を取るためではなく、それを救うために。
今まで海外の紛争地の映像でしか見たことのなかった光景を、目の当たりにする事となった。三々五々、死体の固まりが木陰や岩陰にうずくまり、その中に五人に一人程の割で、まだ息のある者が紛れている。皮膚に隣り合わせるように近い彼等の存在が、やりきれない気分にさせる。鉄道も道路も封鎖され、大火事と放射能、飢えと渇きに追われて、この無謀な山越えを試みるより他なかったのだろう。焼け出されたのか、火脹れの遺体が多い。多分、水を求めて死んでいったことだろう。あと、体の部位部位が妙に捻じ曲がった遺体も。この負傷で山越えの強行軍は、さぞ難儀だったろう。
死者には、一本一本線香を立て手を合わせただけで、後方の本部にその位置を知らせ立ち去った。彼等の収容は後の仕事だ、まずは生者が優先だ。生存者は可能な限り応急処置を施し、救助のヘリを要請する。重傷者には一人を残し付き添わせ、軽傷者には食料衣類衛星携帯等の物資を手渡し、我々は先へ進んだ。日が没すると、高台に僅かなスペースを見付けてテントを張り、野営した。
<20日目>
熱海に出た。一息ついた。
ここが、関東方面への前線基地となっていた。いまだ途切れぬ難民の群を一旦ここで受け入れ、ヘリや海路で静岡側にピストン輸送するのである。
熱海の町は、爆風でガラスや木造家屋に大分被害は出ているが、火災は免れたようだ。ただ生活物資は致命的に不足しており、それらは自衛隊等の捜索・救助部隊に優先して廻され、地元住民には一時的に静岡側へ避難する事が強く推奨されていた。
昼頃、陸自のアバター・アンドロイド部隊の出発を目撃した。これから、爆心地帯に入るという。ご苦労なことだ。
なるほどアンドロイドなら、爆心地の放射能の中でも、さして支障なく活動できるだろう。一日の作業を終えたら、ボディー表面を軽く洗浄するだけで、放射性物質も落とせる。甲府や水戸辺りの安全地帯から、彼等を操縦しているらしい。望みは薄いが、もし生存者がいたら、我々が山中で努力したのと同じく、一人でも多くの生き残りを救って欲しいものだ。
<30日目>
宿の食料が底をつき、自ら調達する事となった。しかし宿の部屋にはそのまま置いてもらっている(どうせ泊り客もいないし、部屋が開けば避難民用に供出することとなる)。円は大暴落し、物価は大暴騰した。戦前に用意した三百万は、砂粒が指の間から零れ落ちる如く消えていった。
幸いな事に、私は証券会社に大量の外国債を保有している。円が暴落し、思わぬ大金が転がり込んできた。金融市場はまだ閉鎖されたままでこれを現金化する事は出来ないが、まもなく再開されるとの噂もある。これを切り売り出来れば、生活の足しになるだろう。
反対に、年金制度はほぼ崩壊し、当てに出来ない。横浜の実家の土地も、放射能まみれとなっては二束三文、売り払うのは到底無理だ。
<45日目>
中央政府が消滅し、各地方単位で臨時政府が置かれることとなった。旧日本の領土全体は、国連から付託されアメリカが委任統治している。
臨時政府の命令で、食料は完全に配給制に移行した。しかし水は、いまだ豊富である。ここ三島は、市内のあちこちに湧水の出る、清流豊かな土地だ。これは、本当に助かった。
いつまでも宿代を払い続けることも出来ないので、地方政府の用意した仮設住宅に移った。周辺の僅かな土地を利用し、野菜やイモの類を栽培し始めた。
太平洋戦争の十数倍という死者を出したこの国の将来は、一体どうなるのだろう。不安な事ばかりである。しかし、これから長くこの国と付き合っていかねばならない若者達と違い、我々の余命はそう長くはない。この国の再建に少しばかりでも助力出来れば、それでよしとしようか。
<55日目>
電話が復旧した。あちこちに掛けてみたが、知り合いの殆どとはやはり連絡が取れなかった。安否確認出来た者同士は、この奇跡を涙ながらに(電話越しでも、そうと分かる)喜び合った。
元々残り少なかった知人がこの世から一人もいなくなった母は、こんな事ならあの時みんなと一緒に死んだ方がマシだったと、私をなじった。
<73日目>
時間制限のあるテレビ放送ながら、関東の爆心地帯の現況が初めて映像で報道された。やはり、アバター・アンドロイドばかりが闊歩している。遺体捜索や瓦礫の片付けには、人手は幾らあっても足りないだろうが、生身の人間がかの地に帰還出来るのは、十年先か、二十年先か、想像も付かない。国土の半分近く、それも一等地ばかりを失い、生身の人間は山間地で肩寄せ合って生きていくことになりそうだ。今我々のいる東海地方は随分と恵まれているが、その分人口密度が急激に高まりつつある。それも、圧倒的な数の難民を抱え、生活の困窮は日増しに募っていく。国家の復興など、夢のまた夢のように思う。
<102日目>
思わぬ来訪者があった。友人の、神田である。彼はアンドロイドになってやって来た。どこから操縦しているのだろう。確かにこんなご時勢だ、生身でテクテク遠方まで出歩くなど、危険この上ない。
「神田。無事だったのか!」思わず歓喜の声が口を突いて出た。だが、それを聞いた神田のアンドロイドの頬に、瞬間皮肉な歪みが浮かんだように私には見えた。
「あの日、夜勤だったんだ。――」
再会を喜び合う内、私にせがまれるまま、神田はアノ日の事を話し始めた。
「仮眠を取っているところに、ドンッときた。――何が起きたのかすぐに分かったよ。近くで核か、それに近い破壊力の兵器が爆発したんだろう、ってね」
勧められるまま神田は、仮設住宅のこれまた仮設のパイプ・チェアに腰を下ろした。疲れ知らずのアンドロイドには無用だったかもしれないが、立ったままでは私の方が参ってしまう。
「あわてて仮眠室から飛び出したが、辺りはほぼ真っ暗で粉塵がさらに視界を塞いでいた。目を凝らすと、建物は歪み、ひびが入り、あらゆる機材が破損して金属やプラスチックのクズ山となっていた。方々で悲鳴やうめき声が上がっていたが、暗い上に道が塞がれ、近付く事が出来ない。その内、火災が発生したのだろう、煙が充満し始め、息苦しくなってきた。何とか隙間を見付けて建物の外に出たが、その頃には全身火の粉を浴びたようでくすぶった熱が衣類から伝わってきた。フラフラしながら、病院裏を流れる川に向かって、土手を転がり落ちた。服に付いた火種の発火を食い止めようと思ったのだ。やがて全身が水に浸かった、ところまでは覚えていたんだが、……」
神田は一旦呑み込むように言葉を止め、天井のない屋根を見上げた。神田の勤務していた横浜市内の病院は、一度訪ねた事がある。裏手に子供が水遊びする程度の小川があった。あそこに、落ちたのか。
「次に気付いた時には、どこかの町の郊外と思しき野っ原に寝そべっていた。体を起こして全身を見下ろしてみたが、焼け跡は無い。うまいこと、川の水で消し止められたようだ。気を失っていたので判然としないが、しばらく川を流された後、無意識の内どこかの岸に上がって、再び力尽きたというところだろうか。
服はもう殆ど乾きかけていた。薄汚れてはいたが。立ち上がって道へ出るまで歩いた。――最初、既に道の上にいると気付かなかった。街灯が全て消えていたのだ。星明かりが頼りだった。後ろからタクシーが一台近付いてきた。ポケットを確認すると、財布はしっかり入っていた。その車を拾い運転手に病院の所在地を告げたが、あんな爆心地にはとても行けませんや、とすげなく断られた。当然だろう。ならば、最寄の駅までやってくれと言うと、鉄道は全て停まっているという答えだった。仕方ないので、とにかく行ける所まで行ってくれと注文した。本当にいいんですか? 皆さん逆方向に、危ない地帯からなるたけ離れるように行ってくれと、仰いますよ? と念を押された。危険地帯でも爆心地でも構わないから、とにかく行ってくれとゴリ押しした。運転手は諦めたようで、車をスタートさせた。――田舎者風の気さくな男だった。こんなご時勢だから、鉄道もバスも停まっちまって、タクシーも殆ど動いていない。だからかえって、稼ぎ時なんですよ、私どものような個人タクシーにとっては、などと道中喋り通しだった。
やがて山の裾野の、どこぞの霊園の前に着いた。この山を越えれば地獄だから、行けるのはここまでです、と言う。言いつつ運転手はこっちを振り返ったが、あのお喋りが、グイと猿轡でも咬まされたように黙り込み、何か能面のような奇妙な顔をしている。料金の請求はおろか、一言も発しない。しばらく見詰め合っていたが、また急に車を発車させようとする。僕はあわててタクシーから飛び降りた。稼ぎ時だと豪語していた彼が、何故急に無償のボランティアに変身したのか、この時は全く理解出来なかった。
既に町は遠いし、仕方なく山すそを迂回する夜道をトボトボ歩いていった。人家の無い街灯も消えた夜道だったが、寂しくはなかった。何故なら引っ切り無しに、救急車や警察・自衛隊の車両が、行き来していたからだ。あれだけの爆発があったのだ、無理もない。僕はそうした車両のどれかに便乗させてもらおうと思い、手を振ったが、まあ緊急車両にとっては当然かもしれないが、悉く無視され素通りされた。おかげで随分と歩かされたが、不思議に疲労感はなかった。
やがて道端に明るく大きな建物が見えた。大病院のビルだった。野原で意識が戻って最初に見た町の遠景は、灯火管制でもしているように暗かったが、ここは自家発電を使っているのだろう。道を行く救急車の幾台かがこの病院に吸い込まれ、また吐き出された。――病院内は右往左往していた。大量の怪我人が担ぎ込まれ、ソファといわず床といわず横たわり、うめき声を上げ続けていた。僕は当然反射的に、自分が医師である事を告げ、その救護活動を手助けしようと申し出た。ところが、だ。僕のこの呼び掛けに、医師も、看護士も、誰も応えてくれないのだ。それどころか、こっちを振り向いてくれさえしない。悉く、無視された。あたかも、僕が透明人間ででもあるかのように。
仕方ないので一人で勝手に怪我人を診てやろうと思った。ロビーの端の方にうずくまる、まだ他の医師の手の廻らないでいる、中年の女性を選んだ。左腕の付け根の辺りがパックリ裂け、出血が甚だしい。僕は彼女の左肘に手をあてがい、「ちょっと診せて下さい」と言いつつ持ち上げようとした。――が、持ち上がらないのだ。それどころか、ビクともしない。象のように体重があって、持ち上げるのが至難である、などというのとも違う。あたかも、物理法則そのものが物体の移動を禁止している、そんな感じなのだ。何しろ、肘どころか、表面の皮膚の一枚すら、僕の指に押され僅かに凹むという事もなかったのだから。――なんだ、この患者は! と思ったよ。こんな女が、人間が、この世にいるのか、とも。――肘をやめて前腕を持ち上げようとしたが、やはり動かない。肩や首も、同様だった。――諦めて、隣りの右耳辺りの出血を手で抑えている少年を先に診ることにし、「診せてごらん」と言いつつ彼の耳に手を触れたが、――柔らかい筈の耳が、まるで大理石製の彫像のようなのだ!――おかしいのは彼等ではなく、僕の方だったのだ。
他にも数人診て廻ったが、結果は同じだった。僕は途方にくれた。これでは、治療どころではない。――ここの連中は、まるでこの世のものとは思えない。あたかも、映画のセットの書き割りの中に紛れ込んでしまったように、感じた。彼等という存在自体が、この世の背後に描かれた風景の一部ででもあるかのように。
それでもしつこく怪我人に向き合おうと身を屈める背後から、「無駄ですよ」と言う声が掛かった。振り向くと、白衣を着て胸に名札をぶら下げた男が、僕に静かに微笑んでいた。どうやら、同業者のようだ。この病院で、僕を無視しない者に初めて出合った。
「無駄とは、どういう意味です?」問うと、「彼等には干渉出来ないし、彼等が我々に干渉する事も出来ません。それどころか、我々を見る事すら、存在を感じる事すら、出来ないのです」彼はそう答えた。そして、周囲を振り仰ぎ、指先で何人かを指し示した。
示された者達を見ると、皆僕や彼同様に、呆然と立ち尽くしていた。医師や看護士や、中には患者らしき者もいた。修羅場の如き医療現場を、なすすべなくただ見詰め続けていた。
「ますます理解できませんね。私達と彼等とが、別の世界の住人だとでも、仰りたいのですか?」さらにしつこく食い下がると、「バカげた話とお思いになるかもしれませんが、――私達はどうやら既に死んでしまっているみたいなのですよ。とても、信じられないでしょう?――ですが、」男は答え、さらに床に横たわる一つの動かぬ体を指差した。それは、――男自身の体だった。「私はつい二、三時間前まで、そこに横たわって喘いでいました。それが今は、ホレ、――」」
神田は何をしにここまで来たのだ。こんな長ったらしい作り話を披露するためか。だが、彼とは五十年来の付き合いになるが、フィクション気などカケラもない男だった。ましてやそれを長々語って聞かせるなど。――大厄災の後、死んだ者を悼んで怪談じみた話が横行するということはよくあるが、まさか久方振り会った友から、こんなタイミングで、そいつを聞かされるとは思ってもみなかった。
「不思議なもんでなあ。コッチの世界の物体とアッチの世界の物体の関わりというのは、心の持ちよう一つで決まってしまう。だから、人間も含めて物体は、ある時は映画の書き割りのように不動だったかと思うと、またある時は空気よりも希薄でスッとその中を素通り出来てしまうんだ。後で話すが、夢の中と同じように。だから、壁やドアを抜けるも、地下に潜るも、空中に浮くも自在だ。その病院の周囲を見て廻り、住所の表示されたプレートを見付けた。そこには、『深谷市』とあった。知っているかい、埼玉県北部の、深谷市だ。――実は僕の、生まれ故郷なんだ。そこで生まれ育って、小学校の高学年の頃、横浜に引っ越してきたという訳さ。道理で、意識が戻ってから見た、町並みや地形や景色全般の雰囲気に、どこか懐かしいところがあった訳だ。ずっと横浜近辺のどこかに流されたと思い込んでいたんだが、実は子供時代の古里に帰っていたんだな。
――その後、深谷の病院で知り合った医師らと共に、戦災で大量に発生した、急に死んでしまって戸惑っている人々のケアのような事を始めた。医者の性分かね。しかしこういうのは本来、宗教家のする仕事なんだろうがね。
中でもとりわけ悲惨だったのは、小児病棟の子供達だったな。爆風の直撃を受け、病棟が倒壊して大勢の子供達が死んだのだ。花や線香を手向けている母親らしい女性達に必死にまとわり付きしがみ付き泣き叫ぶのだが、母親達はそんな我が子に気付かない。少し肩が重い、くらいにしか感じていないようだった。いい加減泣き腫らし、疲れ果てた子供らが余りに可哀想だったので、頭を一つ撫でてやると、今度はこっちにしがみ付いてきた。それを見た他の子供達まで、僕の傍へワラワラと集まってくる。何十人からの子供達の“押しくら饅頭”状態となった。自分が一瞬、“お地蔵さま”になったような気分だったよ。
――そうこうして、アノ世での生活も二ヶ月程過ぎた頃だ。ケアに集まった亡者達の中に、一人きちんとした背広姿の、実に場違いな感じの亡者が混ざっている事に気付いた。この男は、街行く亡者達に次々話し掛け、手に持ったチラシを一人一人に配っていた。そばに寄ると、「連合政府厚生労働省の『来世創生班』の者です」と名乗り、名刺を渡された。さらに、自分は死人ではない、まだ生きています、と言った。最初、気違いか、と思ったよ。自分が死んだというあまりのショックで、気が触れたのか、とね。そういう、自分が死んだ事を認めない死者というのは、時々いるんだ。渡されたビラを見ると、『あなたも生き返ってみませんか?!』とある。続いて、『今なら国の“復興援助事業”で、無料で生き返ることが出来ます』。――最初、「詐欺か?!」と疑った。アノ世にまで、“俺々”のような、新規参入者をカモろうとする詐欺があるのか、とね。さらに男は、説明を聞いてくれと、しつこく付きまとってくる。新手の新興宗教か、と考え直した。死んだ後まで、アノ世ですら、新興宗教のたぐいがあるのか。それとも、アノ世だからこそ、そうしたものが相応しいのか。だからその後そいつとは極力関わりを持たないようにし、男の事もビラの事も忘れるよう努めた。
ところが周囲で、その“復興援助事業”とやらの経験者が、どんどん増え出したのだ。彼等の話を聞くと、信じ難い事だが、その事業に参加すると、現世の者と本当にコンタクトが取れるという。まあ暇だったし、死んじまって無一文になったから(地獄の沙汰も……、と言うが、ポケットの財布の中身は、アノ世では使い道がなかった)これ以上失うものもない。試しにセミナーに参加してみたんだが、――確かに現世の人間と通話が出来るみたいだった。世の中ここまで進歩したのか、と思ったね。
で、難し過ぎる話は無論分からないが、セミナーで、このシステムはシチャカ社の開発したインターフェイス技術を基盤にしています、と説明されて、――ピンときたよ」
ここまで一気に喋り終えると、神田は一息入れた。それから、最も重要なキーワードを打ち明けるという風に、小声でボソリと言った。
「シチャカ社のバーチャル・ワールド用新型インターフェイス、――スウェーデンボルグ・シリーズという。
スウェーデンボルグ、知っているだろう?」
少々不意を突かれたが、私は古い知識を検索し、その名前を思い出した。
「ああ。――確か、十八世紀の著名な科学者、思想家で、おまけに霊能力者だった男だな。カントあたりと、同時代人だ」
「そうだ。若い頃はヨーロッパ全土で名の知れた科学者だったらしいが、晩年になって突然“霊の世界”に目覚めた。そして、“霊界”を何度も訪問したと主張して、膨大な量の“霊界レポート”を出版した。カントも、“あの碩学が、とうとう狂ったか”と評したそうだ。そのスウェーデンボルグから名を取って、シチャカ社の新製品は命名された」
「ますます分からん。どういうことだ?」
「何故なら、シチャカ社の新型インターフェイスは、スウェーデンボルグの霊界報告からヒントを得て、造られたものだからだ」
十八世紀の神秘主義者と関連のある最新技術。そして今現に目の前にいる、既に死んでいると主張する友人の神田。あらゆる光を屈折させ真実を閉ざす迷宮のような空間が、この場を包み込もうとしているように思えてならなかった。今日は母も妹も留守にしている、本当に救われた。
「僕の専門は脳外科だからね。実はこのインターフェイスの実験には、何度か立ち会っているんだ。色々噂話も、聞いている。
そもそもスウェーデンボルグの霊界の構造というのは至極単純で、死後の個々人は、スフィア(霊圏)と呼ばれる“明晰夢”の如き幻想に各々捕らわれる。さらにそのスフィア中の共通の関心項目により、個々人は同床の夢を見る(これを、共鳴、という)。こうして人々の間のコンタクトは取られ、その集合体として、世界は形成される。そのたった二つの法則を、生きている人間にも脳科学的に再現させ、バーチャルネット世界に移植したのが、シチャカ社のインターフェイスという訳だ。――何しろ明晰夢で作り出すバーチャル世界だ。ネットの中に人工の世界を造り込む必要がない。東京もニューヨークも、山も海も、空間も時間も、モブ・キャラ達も、何も要らない。全てをユーザーが、自ら勝手に造ってくれる。それも最高度のリアリティーで。自分の記憶から紡ぎ出すのだから、紛い物になる余地がない。安価に満足度の高いネット世界を構築出来る、画期的なシステムだ。
このインターフェイス、多方面の用途に使われている。娯楽や実務にも強いが、脳神経系の実験でもよく使われる。――で、噂は以前から、聞いていたんだよ。――実験中、アレがコンタクトを取ってくるって」
「アレ?」
「そう。現代版の降霊術、と言ったところかな。接続されていない筈の、それどころか既にこの世に存在しない筈の人間と、コンタクトが取れてしまうのさ。
――確かに、スウェーデンボルグがその存在を強く主張する霊界と、同じプラットフォームで駆動しているのだ。なんとなく納得のいく気もするが、……」
気付くと私は、友のとんでもない話に心の芯から滲み出るような恐怖を覚え、その話に対する反撃の糸口を必死になって探していた。反論の仕方は幾らでもある筈なのに、何故か一つも具体的に思い浮かばない。そこで少々的外れの角度から、神田の論法の切り崩しを図ることとなってしまった。
「待ってくれ。しかしそれは、あくまで“アノ世がある”という前提に立っての仮説だろ? それを信じろというのか」私は生身の顔をしかめて、アンドロイドの顔面を睨み付けた。本音を言えば、人間が永遠に生きねばならぬアノ世など、在って欲しくなかった。
「何故アノ世があるのかの根拠については、アノ世で色々聞かされたよ」こっちの熱と反比例するように、神田は落ち着いていた。「何故地球が奇跡的に創世されたのか、何故人類が奇跡的に出現したのかと同じような、何とも手前味噌な後付けの理由になるがな。それにアノ世には、飛び切り優秀な科学者がゴロゴロしている。何故なら死んだらみんなアノ世に行って、そしてアッチで研究し続けているのだから。で、彼等の主張を要約すると、神だか異星人だか異次元人だか未来人だか知らないが、我々より途轍もなく先行した存在が、我々の、そして地球の全記録を、せっせとライフログし、溜め込んでいるアーカイブがあり、それがすなわち“アノ世”なのだろう、ということになる。そして、コノ世とアノ世、二つの世界は本来交わらない筈だったが、たまたまアノ世と同じ原理を採用したバーチャル世界を創ってしまったために、その接点で予期せぬ交流が始まった、……。
となれば、あとは容易だ。厚生労働省のプロジェクトも同じ方式を採用していた。シチャカ社のネット世界に、まず通常のネット世界を接続する。バーチャル・ネット世界の“二重連結”だな。その通常ネット空間から、物理世界のアバター・アンドロイドを操縦する、という訳だ。
――僕は現世で、医師の仕事を再開したよ。縁の出来た深谷で、クリニックを開業した。何せアノ世にも今の横浜にも、医者の仕事はないからね。以前の担当患者は殆ど死んでしまったし、一度死んだ人に医者は要らない。それにアンドロイドに必要なのは、医者ではなく整備技師だ。生と死がせめぎ合っている深谷辺りが、医療を最も必要としている訳だ。それは、この三島も同じかな。
死んだ妻や子供達をアノ世で探し当て、今は深谷に新居を構えて、これまでと同じように一緒に暮らしているよ。――君も是非一度、以前のように、新居に遊びに来てくれたまえ」
<107日目>
三島駅前のレンタル・ショップで、車とアンドロイドを借りた。私の顔写真から、顔面部分が即席造形され、アバターとなる。廉価版だから体型は汎用で、本来のメタボな私よりは大分スリムである。ヘッドセットを装着し、ソファに寝そべった。――国道一号線がようやく復旧し、都心まで開通したそうなので、一度鎌倉に様子を見に帰ろうと思う。
実は、神田の来訪がきっかけとなり、もしやと思って大船の隣家の囲碁仲間に電話してみたのだ。ずっと音信不通だったし、核の直撃を受けた筈だから正直期待していなかったのだが、思いがけず、以前の記憶にあるものよりさらに明るい声で、隣家の永井さんは電話に出た。取り留めない早口で、互いの無事(?)を喜び合った。永井さんには以前静岡の三島に旅行していると連絡してあったので、そちらの様子はどうだと早速訊かれた。こっちは大量の避難民を抱えて、生活も人付き合いも大変だ、と答えた。すると永井さんは、待ってましたとばかりに切り返し、コッチは素晴らしいぞお、全てが順調だ、と自慢げに話し始めた。
彼によると、コッチはどんどん復興が進んでいる、元の家は丸焼けになっちまったが、仮設住宅が戸ごとに建てられ林立し、商店街や学校の再開も間近い、とのことだった。なるほど、そういう話はテレビでも報道されていたが、にわかには信じ難かった。いかんせんいまだ、あの辺りに踏み込めるのはアンドロイドだけの筈だ。生身の人間では、数時間も滞在すれば致死量を越して被爆してしまう。それでも永井さんは、すぐにでも戻って来いよ、また囲碁仲間を集めて酒を酌み交わそう、と私に帰還を強く勧めた。
江ノ島の灯台が、途中から折れていた。江ノ電の車両が、焼け焦げて横倒しになっていた。大仏の左半身が、溶け落ち、800年前の銅の固まりに戻っていた。
由緒ある町並みは殆どが灰燼に帰し、形が僅かに残っていてもペシャンコに潰れ、かつて観光客で賑わった小町通りや若宮大路は無人の廃墟群と成り果て(段葛の並木のみ僅かに面影を留めていた)、海水浴客で賑わった由比ヶ浜は南関東一円の大量の瓦礫が打ち上げられていた。
滑川河口の交差点で信号待ちしている時、近くで瓦礫の撤去作業中のアンドロイドに車窓越しに訊くと、以前は街中にも道路にも海岸にも、焼死体や溺死体やバラバラ死体がゴロゴロしていて、死臭が酷く大変だった(だから、アンドロイドの臭覚センサーをカットして作業していた)、と話を聞かせてくれた。由比ヶ浜に死体が敷き詰められた様は、鎌倉時代浜が墓場として使われていた当時はこんな光景だったんじゃないかと、まるでタイム・スリップでもしたような錯覚に襲われたものだよ、と彼は続けて語った。今は殆どが収容され(瓦礫の下にはまだ相当残っているらしいが)、大きな施設に安置されて身元確認が済んだ者から荼毘に付されているという。
立ち並んでいた大寺院と、その大伽藍の類も、悉くが倒壊し焼け落ち、それらの蔵していただろう宝物、歴史的遺物の類も、今やこの世の無常を訴えるだけのものとなった。そんな寺社の境内の内外、町のそこここで見掛けるのは、相変わらず傍若無人にうろつき回るアンドロイドばかりである(そういう私も、今はアンドロイドだったが)。永井さんは復興が進んでいると言っていたが、これのどこに復興の兆しが、希望の宿りがあるというのだろう。――八幡宮は背後の大臣山も丸裸となり、その焼け落ちた樹木と社殿の炭の固まりが大階段も舞殿のある広場も覆い尽していた。その焼け爛れた源氏の氏神と鎮守の森の横を抜け、北鎌倉に出た。
「よう、岩田さん(私のこと)。戻って来られたか」永井さんは、電話口と同じ異様に明るい声で、私を出迎えた。
なるほど、彼の宅地を始め付近のそこここに、既に仮設住宅が建てられている。――彼の新居の呼び鈴を押す前、自分の住まっていた今は廃屋の周囲をうろうろし、残骸を掘り返して、何か無事なものは残ってないかと物色したが、無駄だと分かって諦めがついた。
永井家は、奥さんも二人の子供達も家に戻り、一家全員が揃っていた。小さな子供達は相変わらずドタバタと賑やかだったが、ただ顔面はアバター仕様で以前の顔を留めているが、身長や体格は年齢の割りにチグハグだった。安物のアンドロイドは、靴のサイズのようにあらゆる身長や体型を揃えている訳ではないから、これは致し方のないところだろう。
生身ならすぐ飲み物の運ばれてくるシチュエーションだが、悲しいかなアンドロイド同士にはそれはない。もし出されても、あくまで形式的なものだ。(喉が渇いて本当に水分が必要な時には、三島のレンタル屋のソファの上で、生身の自分が緑茶なりコーラなりを飲むこととなる。)
正直今まで経験した事の無い程打ち解けて、永井さんと、当節のご時勢の話とか、ご近所の世間話とか、諸々の噂とか、取り留めなく話し込んでしまった。三島では、家族の間では、こんな話は出来ないという事情もあろう。四ヶ月近くも無駄口を叩く事が無く、こんな話を聞き、話す機会を失い、飢えていたのだ。――コッチは復興にネコの手も借りたいくらいだ。町内会や市役所の方で、色々なプロジェクトが立ち上げられ、参加人員を募集している。特に旧住民の参加者は引っ張りだこだ。岩田さんも是非ともコッチに残って、手を貸してくれ。永井さんは熱っぽくまくし立てた。
以前とは見違えるほどに元気のいい永井さんだが(使命感を持つと人はこうまで変わるものなのか)、果たしてこのアンドロイドは、私のような生者が(永井さん一家が運良くサバイバル出来ていたとして)、操縦しているのだろうか、それとも、神田のような死者が、操縦しているのだろうか。永井さんのはしゃぎっぷりを見るにつけ、私はそんな疑問が強く湧いた。「何か、永井さん、……前に会った時より元気がいいね」私が率直に疑問をぶつけると、彼は一瞬キョトンとし(こういう表情が再現出来る辺り、今のアンドロイド技術は本当にすごいと思う)、それから変わらぬ元気っぷりで答えた。「そうさな。持病で飲んでいたニトロが、必要なくなったからかな。何しろ、一度死んじまったんだから、……」
<121日目>
被爆後四ヶ月経過したが、原爆病による被爆死がまだ続いていた。その数は、広島長崎の百倍近くに及ぶという。被災直後の戦傷死を乗り越えた人々が、余分な苦しみを味わった末続々悶死しつつあるのだ。私と妹は看護のボランティアを続けていたので、彼等の出血、紫斑、脱毛、発熱、下痢、脱力等々といった症状と間近に接し、彼等の嘆きや叫びを直に聞いた。――苦労して箱根の山越えをしてここまで逃げてきたのに、まるで無駄だった。こんな事なら、核の閃光で一瞬で蒸発した方が、まだましだった。この苦しみを、どうか取り除いて欲しい。――彼等を看取り、野辺送りした。
ところが程なく、彼等から連絡が入るのだった。生前は本当にお世話になりました。ありがとう。今は、すこぶる元気で、達者で暮らしています。故郷に帰って、バリバリ働いていますよ。
彼等の死後の無事を、残った患者達に気分を和ませようと思って知らせると、生き残った者達からは、“こうも苦しみが続くのならば、いっそ安楽死させて、一刻も早く復活させてくれ”と強く要望する声が、大合唱となって上がってくるのだった。
そんな話を、高校の同窓会の連絡がてら神田にすると、“医療は、無意味なのか”と、自分も死人のくせに、電話越しに神妙な声で友はぼやいた。
<128日目>
今まで縁のなかった、町内会というものに出席してみた。被災地支援なり復興ボランティアなり、旧居住地の近辺で活動しようと思うなら、どうしても町内会の人とは顔つなぎしておく必要がある。
地区の公民館には、この界隈のおじさんおばさんのアンドロイド達が、ズラリ集っていた。ある意味、壮観である。三々五々グループを作り、「今回はとんだ事で」とか「世の中便利になったものだ」とか挨拶を交わしたり、「全く、死ぬ思いをしたよ」などと冗談を飛ばし合ったりしていた。
議事進行の始まる前に、新参者が自己紹介した。私も、レンタル・アンドロイドの油切れの膝関節を軋ませながら立ち上がり、「――丁目――番地に住まっていた、岩田と申します。既に年金生活の気楽な身分です」と挨拶した。
立ち上がって喋りながら、地区会長の後方の貴賓席に陣取っている人物が気になっていた。どこか見覚えのある風貌である。直に会ったという記憶はない、写真か何かで見た顔か。
どうして目に付いたのかといって、アバター・アンドロイドが、造り込んだ、いかにも金のかかっていそうな、オーダーメイドの高級品なのである。生前の姿を生き写したのだろう。デップリした体つきといい、肌のテクスチャーといい、既製品にはない高級感が漂っている。こうしたアンドロイドは、珍味を食えば細かい味が分かり、酒を飲めばちゃんと酔えるそうである。(それでも動力源は、汎用式と変わらずバッテリーだが。)どこぞの市会議員か何かだろうか。
ホワイトボードに書かれた通り、議事が進行していった。当然ながら、議題の殆どは復興事業の進め方についてである。ボランティアの受け入れとか、行政との折衝とか、復興事業への参画とか、学校再建の要望とか、未整理地区の防犯とか。
議題の途中で、飛び込みながら重要事項の確認が、差し挟まれた。「ついさっき市役所から連絡の入った要請ですが、――いまだ体育館等に本人確認の済んでいない遺体が、多数安置されているとの事です。――集団荼毘に付す期限が迫っていますので、各地区責任を持って、地区住民に本人確認を済ますよう再度働き掛けていただきたい、との事でした」議長役が、渡されたメモを読み上げた。
レンタル・アンドロイドのスペックでは、白湯とあまり違いの分からない薄い茶を啜っていると、「あなたはもう、ご自分の遺体の確認は済まされましたか?」隣の男が訊いてきた。私が新顔なので、興味を持ったのだろう。
「自分の死体と対面するというのも、何とも妙な気分のものですな」男は話し続けた。「あのドライアイス漬けで凍り付いた顔を見ていると、いつの間に自分の蝋人形が作られたんだなどと、変な妄想に捉われてしまう。あっちが本物で、こっちが偽物なのに。それでも本人確認をして、自分の体に踏ん切りをつけなきゃいかん。私だけじゃなく、皆さん自分自身と顔を合わせ、一瞬アンドロイドの表情筋をしかめるが、それでもその後は坦々と必要な処理業務をこなしていく。葬式をおのが手で済まし、埋葬する。どなたも、墓は簡素なものになりますな。そりゃ、そうでしょう。自分の墓に墓参りしても、しょうがないですから」
はあ、そんなものですか、と私は感心しながら聞いていた。死体安置所で、自分の死体と対面し、行政手続を済ます死者。立ちくらみするような不条理な落語でも聞いている気分になる。
「で、あなたのご遺体は、どちらに?」男が再度訊いてきた。「いえ、私は――、」ここは正直に答えておいた方がいいだろう。「死んでいないんですよ。――大分遠方になりますが、まだ生きていて、そこで暮らしています」男は不意を突かれたようで、しばらくポカンとした表情のままでいた。
私はかいつまんで説明した。あらかじめ計画しておき、家族揃って三島へ避難したこと。おかげで何とか生き延びられたこと。――ところがそれを聞き、男の表情が瞬間険しいものに変わった。――イカン、地雷を踏んだか。そりゃそうだ。タイタニックから何食わぬ顔で、抜け駆けして逃げ出したようなものだ。取り残されて犠牲になった大多数の者の心の奥には、恨みがましい気持ちが拭い難く残っていても不思議じゃない。普段陽気に振る舞っている死者達だが、彼等の連帯感は、裏を返せば同じ悲惨を味わった者同士の哀れみ合いだ。
「ホウ。まだ生きている方が鎌倉の再建に手を貸したいとは、それは珍しい」男は険を隠すように声を和らげ言ったが、それでも本音は滲み出ているように思う。そのあと会話は立ち消えとなってしまい、気まずい沈黙が残った。
だから、見覚えのある茶請けの菓子が参会者一同に配られ、議場の雰囲気が変わった時、正直ホッとした。――その茶菓子の包装袋を見て、貴賓席の金満アンドロイドの正体を即座に思い出した。売り出した焼き菓子が鎌倉の名物となり財を成した、菓子屋の主人である。立志伝中の人で、鎌倉商工会の現(というか、つい戦前まで)会頭だった人物だ。
「今日特別にご臨席いただいた商工会役員の方から、皆さんにご挨拶がございます」地区会長が会頭始め貴賓席のアンドロイド達を紹介した。会頭が代表で壇上に立ち、話し始めた。
「今お配りした当店自慢の銘菓は、復興成りました我が社の第一号工場が生産を再開し、最初に焼き上げたものです。戦争前と変わらぬ品質を保持していると、自負しております」会頭は菓子袋を破り、パリンと割った焼き菓子の一片を口に頬張った。「ウーム、うまい。この味だ」言った。
参会者も次々袋を破り、菓子を頬張る内、会頭は見得を切るように壇上をグルリと一周し(地区公民館の集会場のそれだから、大したものではない。下手をすれば会頭の巨体は、すぐに壇の縁から足を滑らせてしまうだろう)、参会者の金属とプラスチックがハイブリッドされた顔を見回した。
「あのような事になりまして、――我がふるさと鎌倉も、再興はとても不可能と思われる程の打撃を受けました。――だが、ご覧の通り、僅か四ヶ月程で、鎌倉名物は復活したのです」
言いつつ、また焼き菓子のひとかけらを口に入れた。
「我が商工会は、全力を傾注して、鎌倉復興のために尽くす所存でございます。皆様にも、何卒お力添えを戴きたい。
つきましては、――」
そこで会頭は、脇に置いた書類入れから、一枚のパンフレットを取り出した。何やら色彩豊かな、派手な絵が描かれているが、遠くからでは何が描かれているのかよく分からない。
「つきましては、鎌倉復興を印象付けるため、シンボルともいうべき一大イベントを決行したいと、商工会一同考えております。そのイベントへのご参加、ご協力を、皆様にもお願いしたい。
そのイベントとは、――鎌倉伝統の呼び物、“花火大会”です。
七十回以上も続いているこの大会を、戦争に蹂躙されたからといって、ここで絶やす訳には参りません。是非とも、由比ヶ浜、材木座の両海岸に、戦前に劣らぬ規模の大輪の花火を打ち上げたいと思っております。
そのため、我が商工会は会員の総力を上げまして、このイベント成功のため努力する所存でございます。ですから皆様にも、重ねてお願い申し上げます。何卒このイベントへの、ご参加、ご協力を、お願いいたします」
会頭の持っていたのと同じパンフレットが配られた。毎年配られている花火大会告知パンフレットの、今年度版だった。ただし、まだ具体的な日付が入っていない。それにあちこち、詳細未定なのだろう、空白部分が目立つ。
――私はパンフレットを、永井さん宅に預けた。この地域のものを、三島に持って帰るわけにはいかない。入念な除染作業を経なければ、それは一草一木許されぬことなのだ。
<133日目>
三島の碁会所で知り合った河野さんは、数奇な運命を経験した人だ。核が落ちた夜、彼は浜松に出張していた。町田の自宅は被災し、妻と三人の子供達は死んだ。
その妻子が、アンドロイドになって戻ってきた。今は、三島に借りた新居に、親子五人仲睦まじく暮らしている。何故三島なのかと問うと、少しでも町田に近い所に住みたいのだ、と五人は口を揃えた。
一家揃って我が家に遊びに来たが、子供好きの母が、アンドロイドの子供達を見て気味悪がった。「あの子達、本当は死んでるんでしょう? 死人がロボットを操ってるんでしょう? まるで、幽霊ね」――母には、ネット経由で死者が現世にコンタクトを取るなど、到底理解出来ないし、許せる事ではなかった。彼等と二度と顔を合わせようとしなかった。
生者の中で死者が暮らすのは大変だ、と河野さんは愚痴をこぼした。何かと陰口を叩かれ、後ろ指をさされる。母ならずとも、多数派の生者の中に少数派の死者が紛れて暮らすなど、許せるものではない。表立った迫害はまだ起きていないが、不測の事態が心配で気苦労が絶えない。
中でもとりわけ問題なのが、子供達の教育だ、と河野さんは続けた。もう死んでしまったからといって、教育を受けさせない訳にはいかない。しかし、死んだ人間が当地の学校に転入する事も出来ず、どうしても高い月謝を払って私塾に通わせざるを得ない。教育委員会に訴えたが、勿論現行法上は無理だし、もし万一同じ教室に生身の子とアンドロイドの子と席を並べる事となったら、気味悪がる子供もいるだろう、また確実にイジメの標的となるだろう。それに親達が、放射能の汚染源だと騒ぎ立てる事だろう。と、けんもほろろに門前払いされたそうだ。
そういえば、永井さんちの子供達も、家の中でくすぶっていた。学校には通っていなかった。この問題は、早期に解決せねば、我が国の将来に大きな禍根を残す事になるように思う。
<150日目>
「この河口近くの滑川の岸辺に、かつて空母『赤城』艦長時代の山本五十六の家があったのです」
商工会会頭が、鎌倉女学院裏手の、川を挟んだ対岸を指差し、私に説明してくれた。
「もっともこの土地を選んだのは彼の細君で、五十六が駐米大使館付武官として日本を離れていた間の事でした。昭和初期といいますから、大正大震災からまださして経ってはいない。ここらは津波で洗われた土地だった筈です」
復興事業の進む土地を現地視察する一行に、私も同行していた。商工会や市役所のお歴々の中に何故私も加えられたのかといえば、商工会会頭御自らのお声が掛かったからだ。私がまだ生きていると知られて、その希少価値ゆえに目を付けられた、といったところのようだ。
「大変な勇気ですな。普通なら津波の災禍を思い出し、尻込みするところでしょう。あるいは、地震周期説に照らし、被災した直後の場所は次に被災するまでの期間が一番長い、とそう判断したのかもしれない。
いずれにせよ、私どももこの女傑の英断を見習わなくちゃいけません。今の、荒廃した鎌倉の上にこそ、新生鎌倉は建設されるべきだと」
瓦礫と盛土の間を縫うようにそぞろ歩きつつ、会頭は彼方の海と背後の山々を交互に指し示した。
「見て下さい。この海と山々に囲まれた得がたい土地に、風情ある古都のたたずまいは復活するのです。寺社が再建され、町並みが整備される。そして、それらから見上げるように、あの海の上に大輪の花が開く、……」
「しかし、なればこそ、」と、会頭の隣を歩いていた副会頭が、唐突に会話に割り込んできた。「寺社と町並みの復活を、優先させるべきなのではありませんか?
寺社と町並みこそ鎌倉のキモであるとは、衆目の一致するところでしょう。それなのに、イタズラに花火大会を先行させるのは、かえってそのキモがいまだ復興には程遠いことを天下に知らせるようなもの。下手をすると、復興鎌倉の印象を地に落とす事にもなりかねません。――非常に危険な賭けであると、私には思えるんですがね。
岩田さんは、どう思われますか?――生者の方の率直なご意見をお聞きしたい」
突然振られ、私は面食らってしまった。商工会に出入りし分かった事だが、会頭は以前花火大会を商工会一丸となって成功させるなどと宣言していたが、――現実はさにあらず、商工会は決して一枚岩ではなく、その内部に根本的な方針の対立を抱えていた。そしてそれらの方針のどちらがより良いかなど、私に判断のつこう筈もない。
「しかしね」と、会頭が副会頭に反論した。「それらの悉くが充分な復興を果たすのは、果たして何時になることやら。――町並みの方は我々の力で何とかなると思うが、問題は寺社だ。
町衆は現世利益という共通目標があるから、一斉に同じ方向を向くだろうが、寺社は、その存立基盤からしてバラバラだ。それらが継続していたのは、伝統的に存続し続けていたという、ただその偶然のみに拠っていた。だがそれが、その継続が、一旦ここでご破算になった。――果たして彼等は、再興出来るのだろうか? 主体自体が消滅してしまった宗教団体も多い。本山がなくなり、系列のみとなった寺は、その末寺が寄ってたかって助けてくれるのか? むしろ、足の引っ張り合いをするのではないか? そも、死者を弔う場所だった筈の寺院が、その死者が復活してしまって町中で活動していては、存在理由そのものを問われかねないのではないか? 禅宗的な、修行の場としての寺院のみ復活させ、あとは廃寺とするのか?
旧に復する形で鎌倉の再興を待っていたのでは、――何時になることやら、気が遠くなってしまうよ」
「……だからといって、ここで花火大会を決行するのは、余りに早計だと思いますがね。せめて大寺院の幾つかと、ランドマークたる八幡宮は復活させない事には。これら無くして土産物屋ばかりあっても、仏作って魂入れず、だ。――こう考える者は、私の他にも、商工会や市の幹部の方々の中に、大勢いらっしゃる、……」
そう言って副会頭は、賛同を求めるように周囲の人々を見回し、一歩も引かなかった。
気まずい雰囲気がしばし一行を支配し、言葉を鈍らせ、歩みをぎこちなくさせた。――そこで私は、町の復興について、花火大会でも寺社町並みの再建でもない、第三の要素を思い付き、それを口に出した。話題を逸らし、剣呑な空気を和らげたかったのだ。
「先程大正大震災の話が出ましたが、来るべき南海大震災等の災害を睨んで、防災都市化も、町再建のプランの中には当然含まれているんでしょうね?」
沈黙が破られ、瞬間皆ホッとした顔に戻った。
「ええ、勿論。考えておりますよ。究極の防災都市プランを」会頭に代わって、副市長が勇んで振り返り返答した。「それは、――“何もしない”ことです」
彼の発言の真意が分からず、私は訊き返した。「何もしない、とは?」
「伊勢神宮などの式年遷宮、あれをイメージしていただければ分かりやすいですかね」副市長は、研究会で子供が突飛な思い付きを発表する時のように、得意げに説明し出した。「鎌倉の町のハード面の、完璧なデータをワンセット保存しておくのです。そして、今回のように、町が災厄に襲われ全壊するたび、全部立て直し再現すればよろしい。つまり、人命救助のための方策を、一切取らなくていい。だって、必要ないでしょ?――これ程簡単で完璧な防災マニュアルは、他に無いでしょう。人命を一切考慮する必要がないのですから、これからはどんな突飛な都市計画でも、実現可能ですよ。
ああ、勿論、いずれ被爆の心配が無くなって、あなたのようなまだ生きていらっしゃる方が生身で観光に訪れた時には、ちゃんと避難誘導出来るよう配慮いたしますが、……」
なるほど、そういうシカケか。彼等は文字通り、この町で生きてはいない。町と、生きることと、乖離しているのだ。“復興”の名をいくら借りようと、この町はもはや死人の町なのだった。
「しかし肉体がまだあるというのは、――羨ましいですなあ」会頭が、私の安物のボディーを舐めるように眺めつつ、感慨深げに頷いた。「この体(と、自分の金満ボディーの胸の辺りを叩きつつ)、特別仕様の味覚・嗅覚センサーを可能な限り装備させたのですが、――それでもやはり生身の体には及びません。細かい味のニュアンスが、微妙に違う。
出来れば生きている間に、全ての美味を味わい尽くしたかった、……」
病気等全ての肉体的苦痛から開放され、且つまた不死で不死身の(というか、既に死んでしまっている)彼等だが、反面肉体の持つプラスの面も手放してしまったという訳か。私が一本釣りされ彼等の仲間に迎え入れられたのも、まだ生身を持つ私を羨んだりおちょくったり身近に感じたり冷静に観察したり、したいがためのようである。
「箱根越えして、三島へ逃げたんでしたっけ。うまい事やりましたなあ」副会頭が恨めし気に言った。「核戦争を警戒しあらかじめ対策を講じていたのは、私もあなたと同じです。実は自宅の裏庭に核シェルターを掘り、緊張が高まり始めてからの十日間ほどはシェルター内で寝起きしていました。核が落ちた当日も、シェルターの中で寝ていたんですよ」
副会頭のこの告白は、商工会始め一同にとって初耳だったようだ。皆副会頭の方を見、耳をそばだてた。
「衝撃に起こされた後も、シェルターの機能は正常でした。ライフラインが途絶えた事はすぐに分かりました。自家発電が動き出し、空気や水の浄化も順調に始まりました。テレビは映らず、僅かに短波ラジオだけが小さく聞こえます。首都圏に核が落ちたと告げていました。地表に出した放射線計測器が、とんでもない値を返してきました。これから何日この中で暮らすことになるのやら、憂鬱な不安に襲われました。
勿論水と食料は、充分にストックしてありました。私と妻の二人で、一カ月分はタップリとね。一週間ほど経った頃には、自衛隊のアンドロイド部隊が現地に入ったという報道を聞きました。二週間過ぎた頃には、一度思い切って、シェルターの重い扉を開けて、外を覗きに出た事もあります。一面瓦礫に覆われ、使える車もなく、徒歩での横断はとても無理と、すぐまた扉を閉じました。こうなっては、水と食料が底を突く前に、放射線量が下がって外に出られるか、あるいは助けが来るか、それとも両者とも間に合わないか、……。――結局、間に合いませんでした。私と妻は餓死しました。あとでシェルターから掘り出した私と妻のミイラは、さながら即身仏のようでした。
ですから、姑息な浅知恵など使わず、美食の記憶のまま死んでいった会頭が羨ましい。三島で今も旨い物をたらふく食っている岩田さんは、もっと羨ましい。
アノ世で、そしてコッチの世界でも、私はしばしば空腹過ぎて腹と背中がピッタリ張り付く幻覚と、腹一杯食って食って食いまくる妄想とに、交互に襲われます。こういうのを、餓鬼地獄というのでしょうね。会頭とは別の形の、餓鬼道の苦界です」
彼の話に、皆しんみりしてしまった。
「現世の思い出が、トラウマやら未練やらになって残りますな。――私の場合は、仕事に寄せる未練ですかね。皆さんにも、お心当たりがあるでしょう?」先程究極の防災都市の話をした副市長が、副会頭の跡を継いだ。
「大船在住の岩田さんならよくご存知でしょうが、あそこの駅前再開発は鎌倉市都市部の長年の悲願でした。私は都市部の叩き上げで、部長の時ガンガンそいつを推し進めたものです。そして、いよいよあと一歩で完成、というところでアレに見舞われました。
私の四十年の、いや諸先輩方から連綿と続く六十年掛かりの再開発の夢が、一瞬でついえました。たった一瞬で、一面の更地に戻ってしまったのです。あの昭和の終戦後のような。その後の六十年間の努力とは、一体何だったんでしょう」
副市長に呼応するように、二、三の人々がそれぞれの未練を披瀝した。「私は一生かかって集めた三万冊の蔵書を、全て炭の固まりにしてしまいましたよ」「私は、蒐集した古物だ。もはや皆修復不可能な程、微塵となって鎌倉の土に返った。笑って下さい」「私の場合は仏教哲学について書き溜めた原稿かな。二十年来世に問う日を楽しみにしていたんだが。デジタルデータにもバックアップしてあったが、その両方ともやられた、……」
「しかし副市長さんや副会頭さんは、ご家族が一家揃っていらっしゃるからまだ幸せなんじゃないですか?」商工会の会計担当氏は、視察の始まった時から行列の一番尻尾にかろうじて付いてきて、終始浮かない顔をしていた。たまに話し掛けても、暗い笑顔を返すのみである。その彼が言うには、「私どものウチなんぞは、一家離散状態で、……。妻は一緒に死んだ筈なんですが、アノ世でも出会えていません。八王子にいた娘夫婦は、生死すら不明で行方不明のまま。同じく娘でヨーロッパに留学中のがいますが、コッチは生きている筈なんですが連絡も取れません。新潟と鹿児島にいる息子達には、同居を拒否されている、こっちにはこっちの生活があるからと。――結局生き返っても、一人ぼっちで暮らすハメになった、……」
「そうでもないよ」と副会頭が、不満げに漏らした。「ウチのせがれ一家は、危なくなったらいち早く海外へ逃げ出しおった。父さんにはシェルターがあるから安心だとかぬかして、私達を置き去りにして。今じゃあっちで暮らしていて、連絡すら殆どよこさない」
生者と死者、放射能汚染の壁に阻まれて、一家一緒に住む事も、交流する事も、ままならないということか。しかし、もし仮に無理を押して一緒に住めば、今度は河野さん一家のような、酷い仕打ちを世の中から受ける事にもなりかねない。
「しかしホント、ベッドの上でマトモに死にたかったなあ。あんな焼け付くような苦しみを味わって、非業の死を遂げるなんて。想像もしていなかったよ」商工会の役員の一人、サーフボード加工工場の社長が、材木座の波打ち際を見下ろしながら言った。「あの日は深夜まで、工場でボードを削っていた。衝撃波で瞬間で工場はペチャンコになったが、俺は何故か削りたてのボードを抱えたまま潰れた工場の屋根の上に立っていたよ。周囲は既にオーブンの中のように焼け爛れる熱さだった。一瞬で、全ての木造家屋が発火したんだろう。俺はボードを抱えて海へ走った。火から逃れるにも、この町から脱出するにも、海へ逃げるしかないと、動転した頭で判断したんだ。マリンスポーツの技能を活かすチャンスは、今しかないと。――随分長い事、波に乗っていたと思う。多分自分史上、最長記録だった。何せ、陸には戻れなかったからな。――あとで自分の溺死体と再会した時には、幸せそうに笑っていると思ったよ。
それにしても、岩田さん、ホントうまいことやりやがったなあ。あのタイミングで、逃げおおせるなんて。俺にも声を掛けてくれりゃよかったのに。――おっと、当時はまだ知り合いでも何でもなかったか」
「オーブンの中か。本当にそんな感じだったな」滑川の対岸の海浜公園の跡地を見晴らしながら、現都市部長が“アノ時”の事を思い出していた。「私は残業明けで、タクシーで帰宅する途中だった。丁度あの辺り、海岸沿いの道に差し掛かった時だよ。ピカッとフラッシュライト攻めにあった時のような光が来て、車も服も皮膚も髪も赤黒く焼け爛れた。横須賀に落ちた奴だろうね。車は路肩に突っ込んだが、まだ意識はあったな。夜だから走行車数は少なかったが、それでも道のあちこちで、車が燃え上がり人が燃え上がり、人の悲鳴が燃え上がっていた。谷沢さん(ボード屋の主人)程冷静な判断は出来なかった。ただ、水に飛び込みたい一心で。道路脇の石垣から海岸に転がり落ちた筈だが、そこで記憶も意識も終わりだ、その先はない、……。
あの苦痛を味わわなかっただけでも、岩田さんは幸せですよ。本当に、ラッキーな方だ。羨ましい」
またしても私に、ブーメランのように話が戻ってきた。生き残った者が一人だけで、死者達の中にポツネンとしているというのは、何とも分が悪い。
僕はあの時、屋根と畳の間に挟まれて身動き取れず、ただ迫り来る炎をジッと見続けるしかなかったよ。私は体の表面が全て溶け落ちて、近くで寝ていた孫と全身が一体に溶け合ってしまったな。俺は、床の間に飾ってあった自分の生涯の業績の証しの、トロフィーやらカップやら楯やらが、砲弾のような勢いで飛び掛ってきて、肉も骨も内臓も、散り散りの千のカケラになっちまった、……。“未練”や“一家離散”の時のような、悲惨さを競う同じ話題に触発された話が、次々行列一行の口から零れ出る。切りがない。そして申し合わせたように、岩田さんは幸運だ、羨ましい、妬ましい、と恨みがましい目をこちらに向けて来、落ちがつく。――まるで、シテが大集団の、夢幻能を見ているような気分になる。してみるとコッチは、そこに一人ノコノコ迷い込んだワキ僧の役回りか。しかしこんなシテ合戦、聞かされるワキの方はたまったものではない。能楽中のワキ僧と違い、私に彼等を成仏させる力などないが、彼等もまた成仏する気などさらさらないようである。
<161日目>
“子供達に教育を受ける権利を!”との声が、全国的に響き渡った。
人の生死に関わらず、子供達から教育を受ける権利を奪うのは理不尽である、との考えが、やはり万人の心を打ったのだ。
法改正がなされ、全国で生死を問わず、子供達は公教育を受けられる事となった。教室で、机を並べた。(ただし体育の授業だけは、別教室のようである。)
そして、かつて静岡の教育委員会が心配した通り、やはりイジメ問題や排斥問題が多発した。汚染地帯では、大部分が死人の子供だから(若干、生者の操縦するアンドロイドが、混ざっているケースもある)問題は起きなかったが、生身の子供とアンドロイドの子供が同席する、戦前の日本では“田舎”と見下されていた地方では、避け難くこれが起こった。
また、この法改正に伴い、“戸籍問題”が真剣に議論されるようになった。戸籍上彼等は、“死亡”扱いとなって、それで終わりである。だが、それで済むのか? 現に日々精力的に活動し、日本の復興を中心になって推進している彼等を、法律上いないものとして扱い通せるのか?
もし彼等を法律上復活させ、その権利(所有権とか、選挙権とか)を認め、義務(納税とか)を課すとするなら、民法始め法律の全域に渡る根本的な再整備が必要となるだろう。それを、誰がやるのか? 地方政府の連合体か? 仮統治しているアメリカか? 生者だけがやるのか? それとも、生者死者一緒にやるのか?――頭の痛い問題が次々浮上し、山積し、心ある者達を悩ませることとなった。
永井家の子らも河野家の子らも、元気に学校に通っているという。対して大人達は、私企業でも公的組織でも、既に正社員や正職員ではなく、臨時雇いである(その代わり、退職金や、死亡見舞金などを貰っている。ただし、貰うのは“遺族”であるが)。しかしこれも、資本主義のルールに則り、つまりは優秀な人間はたとえ死人だろうと高給を払わなければ退職してしまうという、営利会社の存亡に関わる当然の圧力により、変貌する事を余儀なくされつつある。仕事の場も、学校と同様、生者と死者、生身とアンドロイドが、同じオフィスに席を並べ、分け隔てなく協力し合う時代が到来しつつある。
<184日目>
戦争から丁度半年経った。死者の鎮魂の意味も込めて、花火大会が催された(催したのが、その鎮魂されるべき本人達なのだから、妙な塩梅である)。
あの後、会頭派と副会頭派の対立は、復興事業費拡大の追い風を受け、抜き差しならぬ所にまで膨れ上がった。
それぞれの勢力拡大を図った両陣営は、死者ならではの戦法を編み出した。――今戦争の犠牲者は勿論だが、それ以前の、平和な時代の日本で自然死した人々にまで遡り、コノ世に蘇らせ、自陣営に取り込もうとしたのである。
これには、単純に支持者が増えるという事と、権威付けし影響力を強めるという事と、二つの効果が期待出来た。“権威付け”のため、先代の会頭、先々代の会頭、先々々代の会頭が蘇り、先代の市長、先々代の市長、先々々代の市長も蘇った。そしてそれぞれの支持する側の応援演説をぶち上げた。さらに、鎌倉にゆかりのある文化人・知識人・名士・著名人、各種団体の元長、等々が、遥か昭和の御世に他界した人々にまで遡り、復活を果たし、現世での野心を再燃させた。彼等は論争し、デモを打ち、大キャンペーンを張った。沈滞する戦後日本の中で、鎌倉だけが、昭和元禄の再現の如く、賑やかに活気付いた。友は友を呼び、縁故は縁故をたどり、共闘は共闘を煽り、参戦する者が膨れに膨れた。際限無く過去へと踏み入る、時代の遡上が試みられた。
私はといえば、鎌倉花火大会の復活を生者の地でピーアールすべく、各地を奔走していた。会頭から、かの地での広報担当の役割を、仰せつかったのだ。――いまだ生きている人々の世界へ向けて開かれた、“親善大使”とまで言ってしまっては大袈裟だが、パイプ役をお願いしたい、と。また一方、生者代表として、生者の立場から、今我々が模索している鎌倉復興に、アドバイス、コメント、批判等していただきたい。いわば双方向の、フィードバック的機能を期待しております。と、人を乗せるのが上手い会頭は、私をいい気分にさせた。
主に東海方面が中心だが、他の地方にも足を伸ばし、生者の方々にも是非花火を見に来ていただきたい、戦前の日本の風物詩の復活を味わってもらいたいと、マスコミ、行政、地域住民の組織等に働き掛け、それらを通して広く周知を図った。――だが、手応えがない。日々生き抜く事に翻弄され、目先の事身近な事以外の他者に関心を持たなくなって、覇気というものをどこかに忘れ去ってしまった大部分の生者にとって、死者の開催する花火大会などという浮世離れしたものなど、殆ど思い出せない程に印象の薄いものでしかなかった。
――それでも結局、会頭派に押し切られ、花火大会は強行された。
花火そのものは美しかった。色鮮やかに、大きく、躍動的で、幻想的で。昔友等と鎌倉の夜空に見上げたそれと何等変わらなかった。いや、荒廃の地の夜空に打ち上がったそれだからこそ、一層美しく見えた。――だが、それは、詰まるところ死者のための花火でしかなかった。大会は、死者の、死者による、死者のための祭に終わった。私に率いられ見物に来た僅かな数の生者達の間には、振り払い得ぬシラケムードが漂った。
かような顛末で花火大会は終了した。大会は、大成功し、そして大失敗した(受け取る者により、その振り幅は想像を越えて大きかった)。――しかし、ここでむしろ特筆すべきは、この騒動に付随して始まった、時代を遡っての死者の復活・到来という現象の方だろう。商工会内の対立の深化を原動力に、過去の時代層への掘り返しが進み、地獄の釜の蓋が開いた。今戦争の戦死者以前の死人達にも、現世への復活という途轍もない魔法の呪文が知られてしまったのである。かくして、陸続として、歴史を遡った死者達が現代の鎌倉を訪れ、縦横に闊歩する事となった。
<185日目>
鎌倉の花火大会の騒動と同じ頃、国単位でも巨大な綱引きが、対立する勢力間で始まりつつあった。――地方自治国の連合政府と、旧日本国政府の亡霊との間の、主導権争いである。(難破船の船長よろしく、東京と運命を共にした旧政府の要人達は、国会議事堂の跡地に掘っ立て小屋を建て、正統日本国政府を主張していた。)
そこに、アメリカからニュースが届いた。戦争一周年を機に、アメリカは統治権を日本に返還する。ついては、返還先の中央政府を、それまでに創って欲しい、というのである。
片や東京の旧政府は、自分達こそ国民に選挙で選ばれた正統な中央政府であると主張し、片や現連合政府は、お前達は亡国の政権だろう、死人はでしゃばるなと譲らない。――この政争は、死者の権利の問題と密接に絡んでくるため、おいそれと処理されるべき事柄ではなかった。――旧来の法に則り生者のみが参政権を行使すれば、多分死者の政治介入を許さないだろう。一方死者にまで参政権が拡大されれば、戦前の全国規模の政党が復活し、昔懐かしい政治家達が内閣のポストを独占するだろう。
しかし、もし生者と死者の融和を図らなかった場合、――畢竟国土は二分され、日本には二つの独立国家が出来て互いに反目し合う事になるのではなかろうか(国際的に死者の国が承認されるかどうかはまた疑問だが)。家族が、生者と死者の国の民に分断され、相争うなどという悲劇も生じかねない。そう危惧する声すらあった。
ともあれ、もう既に学童達の分断は解消され、新しい時代は開かれつつある。そして現に今、猛烈な勢いで復興し、日本の産業の中核を担いつつあるのは、汚染地帯の死者達の方なのである。いずれ近い将来、死者達と同じ国家の軒に依らねば、自分達の生活が立ち行かなくなるだろう事を、生者の誰もが薄々感付いてきていた。
<208日目>
高校の同窓会が催された。十年振りであり、勿論戦後初である。
十年前より遥かに盛況だった。十年前の出席率が六割だったのに対し、今回は九割五分を越えた。あんな事があった後だから、みんな旧交を温めたくなったのだろう。
生者が二割、死者が八割である。そして生身が一割、アンドロイドが九割である。つまり、生者でも、遠方からアンドロイド姿で参加する事に、抵抗がなくなった(アバター・アンドロイドを爆発的に普及させた死者達のおかげである)。
その代わり、酒の消費量は極端に落ちた。何せ、アンドロイドで飲んでも、うまくない。酔っ払いは減り、じっくり昔話をする者が増えた。
生身の人間も参加出来るようにとの配慮から、高校の所在地とは縁もゆかりもない甲府のホテルが選ばれた。私は身延線経由ですぐだが、神田はそうはいかない。南関東はいまだ汚染地帯だから鉄道は復旧していないし、車で来れば途中入念な除染処理をする必要がある。――彼は最近始まった、遠隔地レンタル・サービスを利用したようだ。アバター用のデータだけ送って、あとは現地のアンドロイドを借り受ける。これなら交通費もかからない。私も、鎌倉で活動する時、彼を真似るとしようか。車でちょくちょく三島と鎌倉を往復していては、時間もかかるし、車代も除染代もバカにならない。大船の駅前で(駅自体は機能を失っているのだが、街の中心地はやはりこの辺りに出来た)、オープンしたばかりのレンタル・ショップを見掛けた。ここに登録しておけば、使用時以外のアンドロイドの待機スペースも要らなくなり、大幅にコスト・カット出来る。(以前は駐車場に停めた車の中に、アンドロイドを待機させておいた。外から見ると、駐車場の車の中で人が眠っているように見える。こういう人(アンドロイド)が、被災地の駐車場ではやたら見掛けられ、実に不気味な景観を呈していた。)
戦争以前に故人となっていた、早死にした同窓生達も集っていた。さらにそれ以前に他界した筈の、恩師達まで顔を揃えていた。よく連絡がついたものだ。遡っての来訪は、鎌倉の古い時代の死者達と同じ方式だろう。これには驚くと同時に、青春時代の甘ったるい思い出が胸の内から込み上げてきて、同窓会はいやが上にも盛り上がった。
<234日目>
「母方の大叔父に当たる人なんですが、――」と、商工会会頭の紹介したアンドロイドは、まだ十歳程の子供の姿をしていた。坊ちゃん刈りに半ズボンが、私自身の子供時代を思い出させて、懐かしい。「――ユウ太さんと、仰います」いつもの金満ボディーを揺すりながら、会頭は言った。
少年はヨーグルト・アイスがすこぶるお気に召したようで、何皿もお代わりした。余程物珍しい、食べた事のない味だったのだろう。(金属とプラスチックのボディーだから、腹を壊す心配はない。)――何故かこれから、会頭と少年と私の三人で、横浜スタジアムに横浜・広島戦を見に行く事になっていた。まだ時間があったので、復興しつつある元町と中華街でブラブラ暇を潰しつつ、スタジアムに向かう事にした。今、元町のカフェテリアに入り、堀川を挟んで対岸中華街の朱雀門を眺めている。
元町や中華街やスタジアム周辺も、日々リニューアルが進み、来るたび景色が変わっていく。由緒ある町並みの面影は残しつつ、どこか新鮮である。(その分、イミテーションっぽい、マガイモノめいた所はあるが。)だが、すぐ目と鼻の旧石川町駅の反対側、ドヤ街のあった寿町は再建されず、ポッカリ空間の空いたまま残った。そこで暮らしていた人々も戻ってくる事はなかった。さもあろう。彼等にとって、現世にわざわざ戻ってくるメリットは何もない。来世で、如意のスフィアに包まれて暮らす方が、何万倍も楽しかろう。
「ユウ太大叔父は、広島で被爆して死んだのです。当時十歳でした」朱雀門方面とは十字に交差する元町商店街の賑わいを満足そうに眺めやりつつ、会頭は少年の身の上を明かした。少年は、恥ずかしそうに身を縮め、アイス皿の上に目を落としている。「私の母方の実家は明治の頃から代々広島のお城の近くで食堂を営んできましてね、――爆心地近く、今は原爆ドームと呼ばれている旧広島県産業奨励館を川の対岸に望む辺りだったそうです。当時軍都とも言われた広島は、まだ物資も人も集まり、食堂の常連も軍人が多く活気があったそうですが、……太平洋戦争の敗色が濃くなると、呉の海軍基地も叩かれ、岩国の飛行場も無力化し、広島は裸同然となりました。しかし、当時まだ十歳だった軍国少年には、そんな緊迫した情勢も理解できる訳がなく、……とうとうあの日を迎えました。夏のあの日に、朝の路面電車を追いかけている所を、私どもも最近経験したあの光を浴びたのです。電車の陰にいて、直撃は免れたそうですが、それがかえって仇となった。ほんの数時間生き長らえ、この年齢で、この世の地獄を嫌というほど体験する事となりました」会頭の話す己が身の上話に、スプーンを弄びながら神妙な面持ちで、少年は聞き入っているようだった。
会頭は続けた。「不思議なもので、アノ世の人とコノ世の人との間でも、共鳴は出来るのです。ただし、生者はその事にまるで気付かない。だから、死者達のみ、一方的に見たり聞いたりする事になる。つまり、一方通行のコミュニケーションです(私は神田の体験談を思い出していた)。――そういう訳で、ユウ太さん始めピカドンで死んだ昔の広島の人々も、古い大戦前大戦中の広島に囚われ、閉じ込められたように肩寄せ合って暮らしつつも、戦後の広島についてある程度見聞を持つ事は出来た。彼等は、ピカの知識も、米ソの冷戦も、アポロの月面着陸も、広島カープの活躍も、おぼろげながら知っている。
ユウ太さんは生前野球小僧だったそうで、大のカープ・ファンでもあるとの事です。山本浩二に衣笠、安仁屋に外木場、キラ星の如きスター達に夢中で、彼等の活躍に接する時のみ平和な広島を謳歌する事が出来た。――そこで、現世のナマの迫力を存分に味わっていただこうと、再開間もないプロ野球観戦にご招待したような次第でして、……」
プロ野球の再開は、戦後の娯楽復興のシンボルと呼ばれ、戦災地域で最優先の事業となった。仮普請ながら、横浜スタジアム始め幾つかの野球場が、突貫工事で再建された。当初は、行き来が不如意な生者地区と死者地区と、二リーグ制で再建しようと図られたが、いかんせんプロ野球所在地の殆どが被災地で(広島は幸いにも再度の災禍は免れたが)、生者だけではチームも選手も観客動員数もどうにもおぼつかず、経営が成り立つとは思えない。そこで、エイヤッと、生者リーグが死者リーグに合流する形で統一が図られた。当然、選手達は全員アンドロイドである。ならば、と巨人軍が言い出した、どうせ死んだ選手達が生き返ってプレーをするのならば、今戦争の犠牲者だけでなく、それ以前に死んだOB達にも遡り声を掛けて、チームに入って貰ったらどうだろうか。さすれば興行収益莫大なる事間違いなしだ。とこれは、歴代のOBに名選手を多数輩出した巨人軍らしいはなはだ自分に都合のいい思い付きだった。『オールスター・リーグ』と銘打って、日本プロ野球はリスタートした。なるほどこれなら、大変な動員力が見込まれる。被災地区の死者ばかりか、非汚染地区の生者ばかりか、昭和の御世にコノ世を去ったオールドファンまでもが、こぞって現世へ詰め掛けてこよう。
私達は、朱雀門から中華街に入り、町の縁を北上してさらに東の守り朝陽門手前を西へ折れて大通りを進んだ。少年は今度は肉まんを頬張りながら、現代風のもの(少年にとっては近未来のもの)や異国風なもの(中華風だったり洋風だったり)を、いかにも物珍しげに目をあちこちにキョロキョロ遊ばせつつ、僅かのものも見逃すまいとしているようだ。アンドロイドの眼球カメラ周辺の繊細なモーター類が、軋む音が聞こえてきそうな気がする。
――それにしても、と考えた。――こんな遠い縁者の、遥か昔にコノ世と縁の切れた人を、それも子供をただ一人、あたかも遠方のおじさんの家に遊びに来させるようにして呼び寄せる、というのはいかがなものだろう。どうにも腑に落ちない。しかも、そんな会頭さんの“お家の事情”に、何で私まで付き合わされなければいけないのか?――呼び出された理由は、――もっと大きな理由が――、他にありそうだ。
「大人になりたかったなあ。こんな世界を、もっと見聞きしたかったなあ」軒を連ねる、中華風に極彩色の、歪な建物達の群れを眺めながら、少年がポツリと言った。「死ななけりゃなあ。――あんな“ピカドン”なんかにやられて、死んじまって、その後ずっと子供のままでいるなんて。――おじさん達みたいに大人になって、いろんな事がやってみたかったなあ。いろんな事やって、年を取っていきたかったなあ。――死ぬなんて、その後でよかったのに、……」会頭と私を見上げ、そう続けた。
少年を見下ろす会頭の悲しげな視線が、しばらく少年の視線と絡み合った。往来を行くのん気な観光気分のアンドロイド達の笑顔の中で、そこだけ異質な空間のように感情の重力場が歪んで見えた。「大叔父は古い広島に閉じ込められたまま、殆ど変化することなく子供の姿のままで過ごしてきました。スフィアは自分の記憶を材料にして紡がれる明晰夢の世界ですから、記憶に無い世界は、創りようがないんですね」今度は説明口調で、会頭は私に話した。「“共鳴”可能な他者の記憶を取り込む事でしか、世界は拡張のしようがない。だから、自分の生前の世界から踏み出す事は、極めて困難となります。ましてや十歳前の、思春期前の子供の場合、まだ社会化が始まっていない、親に丸ごと依存した状態ですから、殆ど停まった時間のままであり続ける。――大叔父の場合も、大戦前の広島で、変わらぬ毎日を延々繰り返すこととなった。広島カープの知識ぐらいは許されるが、強制力を伴って障害となり立ち塞がる現実と遭遇する事は最早ありませんから、柔らかい繭に包まれそれに閉じ籠って外に出る事はもう出来ません」
通りを歩く少年の操るアンドロイドは、足の運び方や身振り手振りの“振り”ようが、どこかぎこちない。まるで、能舞台の所作のように、初期の人型ロボットの動きのように、チグハグに見える。ゲームやバーチャル体験に慣れっこの現代人と違い、自らの体と機械の体を動かす事の感覚の間に、しばしばズレが生じるのだろう。擦れ違う人々も、異質なものを避けるように、無意識に道を譲っている。そんな事からも、彼が現代には場違いな、いわば“歴史上の人物”である事が露見してしまう。
「そこで大叔父は、――“生き直したい。”――と言うのです。この世界で、……」会頭は言った。
「生き直す?」
「ええ。――十歳で止められた生を、再スタートしたいと言うのです」
不思議な話である。核爆発で止められた人生を、次の核爆発を契機に再出発しようというのか?
「私としても、大叔父に、十歳という歳で断念させられた現実世界を、そこで成長する経験を、是非とも味わわせてあげたい。――だが一つ、問題がありましてね」
「問題とは?」
「この汚染地区に再建されつつある日本は、アノ世の者からすると、所詮死者のコミュニティーの延長上のものに過ぎなく見えるのです。つまり現実世界のリアリティーが乏しいのです。それではアノ世での暮らしと殆ど変わらない。アノ世のリアリティーの乏しさは、新しい記憶が幾ら増えても、所詮は人々の記憶のパロディーに過ぎない所から来ます。生きるための手応えには、真性の記憶には、スフィアの形成されない、“剥き出しの現実”“物自体”がどうしても必要なのです。――そのためには、生者達の世界で、生者達の間で暮らすしかありません。
そこで、岩田さんにお願いしようと思って、今日お声をお掛けしたのですよ」
とうとう来たか、と思った。甚だ遠回しながら、ようやく今日の本題に到達したのだろう。
「大叔父を、生者の間で、生き直させてやりたい。そのためには、生者のどなたかに、大叔父を預かってもらうしかない。どなたか信頼のおける方に」
つまり私に、この少年の面倒を見てくれ、家族の一員のように家に引き取り、そこで生活させ、学校にも通わせ、仮の親のように養育して欲しい、そういう申し出な訳だ。
「勿論、充分な経済援助はいたします。精神面のバックアップも、我が親族一同で配慮いたします。――生者死者の交わりに何かと偏見の多い生者の世界に大叔父を住まわせる以上、こうした交流に充分理解のある方でなければお預けする事が出来ません。その点岩田さんならば、“交流の窓口”として充分な実績もあり両社会に広く人脈もおありだ」
その実績とやらも人脈とやらも、復興ボランティアの積もりで彼等を手伝っている内に、“不可抗力”で身に付いてしまったものだ。それに、会頭氏の住まう大邸宅と違い、我が仮設住宅は2DKに三人住まい、加えて母は大の幽霊嫌いときている。相当の家族との軋轢が予想される。
これらを理由に、私は何度も丁重に断った。しかし会頭は後に引かなかった。「大叔父が被災地に住みたがらないというのが、実を言えばもっと大きな理由でしてね。まだあちこちに残る被災跡の光景が、広島のそれを思い出させ、耐えられないのです。これでは、アノ世だかコノ世だか、区別が付かなくなる、と。――ああ、お住まいの事でしたら、住環境の改善も含め、配慮いたします。ご安心下さい」
段々少年が、金蔓に見えてきた。その線で押せば、家族の納得も得られそうな気がする。――だがふと我に返れば、戸惑いの方がやはり大きい。私の身分は、“里親”という事になるのだろうか? それともただの、“下宿のおじさん”? 通学させるなら、保護者となるのか? 戸籍上の扱いは? 本当の親は、アノ世の広島に健在な筈だが。――第一、子供を持った事がないので、急に息子のような存在が身近に出来ても、面食らうばかりだ。――大体彼を、“君”付けで呼んだらいいのか、“さん”付けで呼んだらいいのか。会頭はさっきから“大叔父”と呼び敬語を使っているが、私としては息子か孫ぐらいの少年を預かる訳だ。そのくせ、彼の方が遥かに年上の、実年齢なら九十歳に近い年長者ときている。どう接したらよいものやら。どんな言葉使いでいく? 子供相手のか? それとも目上相手のか? これから家族になろうというのに、当たり障りのない丁寧口調というのも、問題ありだ。――などと思考が、詰まらない方向にどんどん流れ落ちていく、……。
私が返答を躊躇っている内、新設成った横浜スタジアムの入り口に着いてしまった。――なかなかの賑わいである。(花火大会の時、遠隔レンタル・アンドロイドの普及が今一歩だった事が、今さらながら悔やまれる。)少年は大洋ホエールズと呼び、近藤和、平松、シピン、屋鋪、田代、高木等名選手の名を挙げた。彼の中では、このチームはまだ大洋ホエールズで留まっているようだ。
グランドでは既に生者死者併せた選手達がマシン慣らしをしていた。アンドロイドの野球は、勿論パワー制限されている。各アンドロイドにはそれぞれの選手の最盛期のスペックが盛り込まれている。動力を使ったスポーツだから、体力任せのスポーツというよりF1に近い。そのくせバットは、いまだ律儀に木製のものを使っている。――まもなく、プレイボールである。
少年の希望で広島ベンチ側に席を取った。ここからだと、懐かしの名選手達の親しげな表情が、手に取るように分かる。少年の視線が、花の間を舞う蜜蜂のように、素早く飛び交う。スポーツ仕様アンドロイドの筋肉質のボディーにピタリ張り付いたユニフォームは、汗の染みだけは微塵も見られない(そこまでの細かい芸はない)。
安仁屋、外木場が投げ、山本浩二、衣笠が打った。平松、大魔神が投げ、シピン、筒香が打った。力んでバットを振った時、全力で走った時、かすかにモーターのうなり音が届く。玉の汗は、光らない。――細かい体の使い方、身のこなしなど、生身のプレーとニュアンスが微妙に違う。身体を介さず、イメージがストレートにプレーに出て来る為だろう。アナログレコードとデジタルCDとの違いか。過渡期のエンタメという趣がある、今後どう展開するのだろうか。
ショーっ気タップリの新設ハイテク・スタジアムは、出塁やファインプレーの都度、フラッシュライトが煌めき、スモークが焚かれ、大サウンドが響く。それらにタイミングを合わせ周囲の観客達が身を躍らせる中で、少年だけが何故か体を硬く縮こまらせ、絶え間なく水物(ラムネやジュースや)ばかりを飲み続けている事に気付いた。ヨーグルト・アイスの延長だろうか。特に、大歓声の都度、それらを打ち消すようにガブ飲みする。心配を通り越し、段々彼の行為が不審に思えてきた。
そうこうし、両チームともチャンスは作りつつも、投手戦となり、長く均衡が保たれてきた。――が、とうとう、7回裏、二死満塁のビッグチャンスに、ベイスターズ4番筒香の満塁ホームランが飛び出した。
ホームチーム4番の大活躍に、フラッシュライトは最高出力で閃き、スモークは周囲の観客の顔も見えない程でプレーを数分間中断させ、サウンドは最大音響で轟いた。
会頭が、「アッ」と小さく呻いたように、大音響の中私の耳には聞こえた。――彼は少年の方を、スタジアムの盛り上がりとは正反対の、深い沈鬱を湛えるような凍えた視線で見詰めている。
つられて少年を見ると、機械の筋肉機構にはあり得ぬ動作だが、全身が小刻みに痙攣し続けている。次いで焦点が合わぬように目が中空を漂い、ウーッ、ウーッ、ウーッ、とかすかなうなり声を数回発して、――動きが止まった。全ての動きが停止して、アバター・アンドロイドはフリーズした。
しばらくの間、周囲の大歓声が収まるのと丁度同じ頃まで、私と会頭は少年の抜け殻をただジッと見詰め続けていた。――「これが、ユウ太さんが生者の領域で生きねばならない、彼をあなたにお願いする、――一番の理由です」やがて、会頭は言った。
彼は、少年の停止した手が掴んでいたラムネのビンを取り上げ、それを床の上に静かに置いた。「ユウ太さんは、――いや、アノ世の広島に住む人々は、――しばしばフラッシュバックを起こすのです。あの時の事を思い出して」言った。
「フラッシュバック?」
「そう。強烈なトラウマの、なせる業です。――あれ程の災厄は、人類史上でも稀でしょう。当然その記憶は、心の芯にまで深く刻まれる。スフィアは如意の明晰夢ですが、それを形作る記憶は無意識のものも含まれる。ほんのちょっとした事が引き金になり、意識の壁を乗り越えてそれらがスフィアに濁流となって押し寄せる。――今回は、スタジアムの光や音や煙が、引き金となったのでしょう。ピカの時のそれらを思い出させたのです。――彼が盛んに水分を欲しがっていたのも、さっきから気に掛かっていた。あれは、夏の暑い日の出来事だったと聞いていますし、何より全身焼け爛れた被災者達が水を強烈に欲しがりながら死んでいったというのはよく知られた話です。ユウ太さんも、そうした犠牲者の一人だったのでしょう。――もっと早くに、何か手を打ってあげればよかった、……」
「それで彼を、この地に住まわせたくなかったのですね」
「そうです。被災地には、まだまだ核の被害を想起させる遺物が、そこかしこに転がっていますから。せっかく生き直そうというのに、頻繁にパニックを起こしていたら、それこそ生きた心地もしないでしょう。ユウ太さんには、出来る限り安寧な地と環境を、提供してあげたい、……」
とうとう試合が終わるまで、さらに終わった後も、少年は帰ってこなかった。我々にとっても野球は上の空となり、話題も途切れ途切れになった。手持ち無沙汰で、ビールとポプコーンばかりが進んだ。おかげで、排泄物が増え、余計に体が重くなった。
その重い体で、さらに重い少年のアンドロイドを、スタジアムの外へ運び出さねばならなかった。会頭と二人、少年の両肩を抱え運んだが、……子供用アンドロイドでよかった。これが大人用なら、駆動力を最大にギアアップしても、運び出せたかどうか。専用のクレーン装置やレッカー車が、必要になったかもしれない。
<245日目>
ユウ太少年が特に強く興味を示したものは、新幹線とテレビだった。
新幹線は(熱海で折返し運転なので、熱海・三島間のみだったが)、プラットホームで流線型の先頭車両を食い入るように飽かず見詰め、車窓越しに高速で移り変わる景色を金縛りにあったような不動の姿勢で眺め続けていた。
テレビは、その仕組みを映画館と比較してあれやこれや考察したり、畳半畳程の薄い板の裏側をしきりに気にしたりした。これは後の事だが、昼夜テレビに首っ丈で、貪欲に現代社会の情報を摂取しようとした。
家族が少年と初めてまみえる以前に、既に事情は包み隠さず説明してあったが、やはり妹と母の二人は当初、彼の事を気味悪がり、同居を渋った。彼の素性に、妹は当惑気味で、母はショックを隠せなかった。そんな、死人の上に、八十年近くも前の過ぎ去った戦争の原爆で悲惨な死を遂げた、子供だか老人だか分からないような得体の知れないものを、家族の一員に迎え入れるなんて、到底承服出来ない。――そんな二人が思いのほか早く“新しい息子”を家族の中に溶け込ませ得たのは、ひとえにユウ太少年がすこぶる付きの“良い子”だったからである(時々、原爆の閃光に焼かれる記憶がフラッシュバックして、パニックを起こす以外は)。
“逆アバター”、とでも呼んだらいいんだろうか。アノ世から、コッチの世界のネット経由で、スフィアの自己イメージに合わせデザインしたアバター・アンドロイドを操縦する訳である。“アバター”の本来の意味は、神や霊がコノ世に降臨した時の化身(アヴァターラ)だから、正しく言えば“逆”ではなく、むしろこっちが“順”なのだが。――物質界の姿を得て、スフィアの夢の中では流動的とならざるを得ない自己イメージも、大分固まってきたようだ。結構、美少年である。将来持てそうだ。
三島での生活に慣れるにつれ、少年は以前の広島での暮らしぶりを色々話してくれるようになった。市電の往来する昭和モダンな大通り。(現代の街と較べると背丈は低いが、)洒落た商店街の賑わい。幾本もの川が市内を流れ、河岸の雁木(階段状に川に下りる、船着場)越しに見上げる『広島県産業奨励館』。国民学校で仲間達とよく取った相撲の事。市中をそぞろ歩いたり勇ましく行進したりしてよく目に留まる陸軍第五師団の軍人達も、少年の家の食堂に来る顔見知りの将校や兵士は、皆人懐っこい表情のおじさん、お兄さん達だった。
将来は市電の運転士になりたかった、と少年は話した。そして今では、新幹線の運転士になる夢が加わった、と追加した。じゃあ、広島の路面電車は今でも健在だから、見に行こうか、と誘ったが、現世の市電が見たいのは山々だけれど、現世の広島に行けばどうしても、原爆ドーム等惨事の遺物が目に入ってしまう。だから、現世の市電は、スフィア越しの共鳴され濾過されたそれに留めます、と少年は言って、私の誘いを断った。
また、サツマイモをよく食べ、チョコレートやキャラメルが食べたかったという思い出話もした。そういえば彼の生きた十年間は、日中戦争、太平洋戦争と続く、絶えざる戦時下だった。彼の一生は戦争しか知らなかった。軍都で軍人達を見て育ち、人類史上最初の核兵器で死んだ。――水物を欲しがらない時、彼はチョコやキャラメルを欲した。それは彼の心が平和な証拠かもしれない。現状窮乏の甚だしい日本だが、それでも戦争中のかの国よりはまだマシ、ということだろうか。私は、殆ど味の分からない筈のアンドロイドに、チョコとキャラメルを気の済むまで買い与えた。
これらも含め現世のウキウキするような物や事が、少年の心を平和で満たしてくれれば幸いである。――自分の思い出の世界に閉じ込められてなかなかそこから出られないのがアノ世の生き方だから、死を免れた被爆者以上に頻繁に、あの時の光を、爆風を、火を、煙を、累々たる屍を、思い出すこととなる。思い出す度、フラッシュバックが起こる。結果、トラウマが癒される事はなく、むしろ“固化”する。――その固まってしまったものを解きほぐす効果が、現世での物理世界(非記憶世界)体験には期待出来る。そういう新説を最近アノ世の精神科医達が唱え出していると、少年を送り出す時会頭が私に密かに耳打ちした。(だから、今戦争の犠牲者達も、もし早急に現世に帰還することがなかったならば、やはりトラウマが固化して、酷いパニックの発作に襲われる事になっていただろう、との事だった。現世へ帰還する事で、生き残った者並みのトラウマにまで鎮める事が出来た訳である。)チョコレートやキャラメルの味で、彼のトラウマが癒されるなら、安いものである。可能な限り、存分の現世体験を味わわせてあげよう。
ユウ太少年は河野家の子供達と同じ小学校に通う事となった。今戦争の犠牲者ばかりでなく、遥か以前の死者にまで門戸を開放する事に異議を唱える者も多かったが、私と会頭が連名保証人となり(実質的な保護者は私)、鎌倉市長の推薦状まで添えられて、特別拡大措置でようやく入学が決まった。(死んだ児童達も教育の恩恵に浴するべきと晴れやかに謳われる時流に合わせ、うまいこと裏のルートで根回ししたようだ。)――かくして少年は、広島の旧国民学校から三島の小学校に転入するという形で、八十年ぶりの学校生活を再開した。
<267日目>
若くして無念の最期を遂げた鎌倉市長が、花火大会の成功に触発されたのか、とんでもない新政策を打ち上げた。アノ世に蓄えられた豊富な知恵、知識、研究成果の類を、汲めども尽きぬ豊穣な鉱脈から汲み出す如く吸い上げて、新たなシリコンバレーを立ち上げ、それを復興事業の目玉にしようというのである。
その名を、『新リンボ特区・プロジェクト』と言う。
ダンテの『神曲』中にある、古代の哲学者達の溜まり場、“リンボ”にちなんで名付けられた。アノ世とコノ世の最高知性の交流の場を、鎌倉市内に“特区”として新設しよう、という野心的な構想であった。無論、花火大会に絡む、対立抗争事件の副産物が、きっかけになった事は言うまでもない。遥か昔に物故した人々が芋づる式に呼び出されてくる現象は、今も続いている。これを、むしろ逆手に取って、生かそうというのである。
プロジェクト本部は、大船の旧松竹撮影所(戦災前は、鎌倉女子大学)跡地に仮設された市庁舎別館内に置かれた。そして私も、花火大会の時の活躍が認められたのか、チームの準備委員の一人として正式に委嘱を受けた。仕事は引き続き、生者の世界とのパイプ役である。「まだ生きておられる方のお力は、是非ともお借りしたいところです」担当主幹が言った。私の、何かと重宝がられ、引っ張り出される立ち位置は、変わっていない。そして、妙なところでやっかみを受け、羨ましがられるところも同様だ。他面、健康も食住も心配のないパワフルな死者達を相手にし続けるのは、六十を過ぎた身には結構応える。こちらが還暦を越した、しかも生身の人間だと分かると、逆に死者達から同情される。
まあどうせ、定職を持たない、妻子もいない、年金暮らしの暇人だから、頻繁に三島を留守にしてもとやかく言う者もいない。それに、諸物価高騰の折、何かと物入りである。加えて、難民支援のために地方税が新設されるらしい。アンドロイドのレンタル代も、値上がり気味で油断出来ない。頼りにならない年金と外国債の切り売りのみでは、どうにも心もとない。――だから、日銭を稼げる、ちょっとした有償ボランティアのような仕事は、願ったりである。(それに、ユウ太少年の小学校転入の折、市長に推薦状を書いてもらった恩義もある。)
気難しい顔をしたご婦人方が多い委員会の末席に目立たぬよう座り、あくまでも“パシリ”を決め込む。ところが担当主幹は、何かと委員達をおだて上げその気にさせ、議論を盛り上げようとする。
……。……大佛次郎の元の住まいは、大仏裏のこの辺りだったわね。……。川端康成には、どういうツテで辿り着けばいいかしら。……。元八幡近く(例の五十六の家の近所)に芥川が住んでいたのは、確か彼が横須賀の海軍機関学校で英語を教えていた頃でしたね。『地獄変』などの名作がここで書かれた。……。久米正雄は、……。里見弴は、……。高見順は、……。……これで一通り、鎌倉ゆかりの文士関係は、総ざらえ出来ましたか? では次は、芸術家の掘り起こしに移りましょう。……。
鎌倉に縁のある物故した文化人や芸術家や学者、実業家や政治家等々を、既にコンタクトが取れている者達のコネやらツテやらを辿り、芋づる式に探り出し引き摺り出そうという作戦である。さらにその先は、全人類史にまたがる知識や文化の無限の宝庫へと繋がっている。それを、鎌倉に新設する『新リンボ特区』をターミナルとし、独占しようというのだ。委員会の描いた青写真に沿い、チームのエージェント達が冥界へと次々ダイブしていった。
<292日目>
プロジェクトが立ち上がってひと月近く経過した頃、担当主幹が、「岩田さんも、同道していただけませんか?」と、私に誘いの言葉を掛けてきた。いよいよ川端邸に直接交渉に乗り込むが、あいにく川端文学に詳しい者が皆無である。是非私に、一肌脱いでもらいたいと、相変わらずのうまいヨイショに、私もとうとう丸め込まれてしまった。
冥界ダイブというのは、勿論初めてである。なあに、現世のスウェーデンボルグ・インターフェイスのバーチャルネット世界と、何も変わりませんよ、とベテランのタナト・ダイバー達は言う。だが彼等は、一人新採の若手を除き、あとは皆元々死人だ。ダイバーといっても、ただ故郷に帰るだけのことだ。譬えるなら、浅い海の魚が深い海へ潜るのと、陸上生物がいきなり深い海へ潜るのとぐらい、違いがある。――だからもっぱら、新採君から話を聞いた。「死者が現世に来られるなら、生者もアノ世に行ける理屈じゃありませんか。対等で双方向な交流現象なんですから」新採君はそう説明するが、その彼もダイブの経験はまだ四、五回程とのことだ。――かつて神田が見たという厚生労働省の役人はアノ世でビラ配りしていたらしいが、私もそううまくこの大役(川端と対面するよりも、まずはアノ世へのダイブ)をこなせるものなのだろうか。――「結局、スウェーデンボルグ・インターフェイスの使いこなし次第です。まずはこれに慣れることです」そう、新採君は簡潔に締め括った。
内側に全面鏡の張られた球体内に閉じ込められる。そんな喩えが適当だろうか。世界の全てに、私の全てが、幾重にも映り込む。そして、私しか、いない。
やがて、世界や人生を紡ぎ出す臓器といわれる、脳の本来の機能が本領を発揮し出す。――いつもなら脳の中だけに留まっている表象達が、外界から遮断された五感を伝ってフィードバックされ、現実の体験となる。――まさしく、明晰夢だった。
私が子供の頃、若者の間にヒッピー文化と呼ばれるものが流行った。その文化の中で試みられた事の一つに、薬を使い、タントラを使い、あるいは特殊な身体メソッドや機器を使い、五感から入る刺激を無にし、脳のあるべき力を100%開放する、と称するものがあった。これらの試みがどれほど成功したかは知らないが、多分彼等の目指していたのは、今私が体験している、まさしくこの境地だろう。
――気付くと私は、草原の上に浮かんでいた。どこまでも続く草原だった。見る内、心地良い起伏が、なだらかに波打ち始めた。――その上を、飛びたいと思った、どこまでも。
これまた夢の定番というべきもの。――飛翔する夢。――だが、今体験しているそれには、圧倒的な臨場感、現実感があった。――似たようなバーチャル・リアリティーのゲームが色々あるが、皆まるで別物のオモチャだと分かってしまう。
飛ぶ内、草原が海原に変わっていた。さらに、星も銀河も小さくしか見えない、隔絶された宇宙空間に。
イカン、イカン、これでは、……。過去の訓練でも幾度か経験したが、今自分のいる場所のイメージを固めるのが、結構難儀なのだ。
「我々の後を付いてきていると、強くイメージして下さい」出発前他のダイバー達に注意されていた。――ダイバー達の、背中を捜す。
そして、恥ずかしながら、イメージした彼等の背中の背広の裾を、ギュッと握り締めた、迷子にならないように。まるで幼児が父親にしがみ付いているような塩梅である。
そのまま彼等と共に数十歩も歩くと、もう鎌倉の町中であった。そして路地を曲がった角に川端邸はあった。
川端康成のスフィア中の川端邸は、現世のそれと同じく甘縄神社のすぐ下にあった。広い畳部屋の座卓の向こうに川端が座り、手前に市の職員達が控えた。そして川端から見て右手に今回仲を取り持ってくれた川端の友人達(同じく故人)が同席し、左手にたまたま遊びに来ていた三島由紀夫がドカッと腰をすえて邪魔な来客達を睨み付けていた。
――川端は気難しげにニヤニヤ笑い、三島は饒舌だった。彼は、リンボ・プロジェクトの意図するところを根掘り葉掘り問い質し、その俗っぽさや志の低さをトコトンこき下ろした。主幹始め市の者達はとっちめられ、閉口して押し黙ってしまった。
だが、偶然私が生者である事を知り、両者の興味はそっちの方へと移った。
「ほう。まだ生きている者が、こんな黄泉の国の最果てまで辿り着くとは、何とも奇態な」川端が舟形の文鎮を弄びつつ、ようやく口を開いた。「鎌倉は水爆で焦土と化したと聞いたが、どうして生き長らえたんです?」
私は戦争直前に三島へ落ち延びた事などをかいつまんで話した。
「おお、三島か。あそこから見える富士が綺麗なんだ」今度は三島が食い付いてきた。ひとしきり三島の風光明媚な土地柄を褒め称え盛り上がったが、そこで――三島さんのペンネームは三島から見える富士の雪に由来すると、噂で聞いた事があるのですが、それは本当ですか?――という問いが喉元まで出掛かったが、かろうじて止めた。
二人が特に興味を示した話題は、二人の死後のノーベル文学賞の動向についてだった。どのような作品や作家が受賞したのか、生者の私からトコトン聞きたがった。市の他の職員が余りに無知だったので、もっぱら私一人が喋ることとなった。
「死者が復活したら、ノーベル文学賞の受賞資格も回復しないのか?」三島が冗談混じりに言った。「俺も、もう少し生き続けていれば、受賞出来たかな?」冗談とも本音ともつかぬ口調で、続けた。
「多分ノーベル委員会は、そんな問題が突き付けられるとは、いまだ微塵も考えていないと思いますよ。ですが、近い将来、本気で回答を迫られる事になる可能性大でしょう」私は答えた。
三島は呵呵大笑した。そして愉快そうに早口でまくし立てた。
「もし受賞が決まったら、また軍服姿で現世に蘇って、授賞式で演説してやろうか。ついでに、軟弱そうな現政権も打倒してやろうか。
それに、川端さんも俺も、こっちの世界に来てから書き溜めた新作が、それこそ富士のお山ほどもある。文士のサガってやつは、コノ世でもアノ世でも変わらん。そのリンボ特区とやらに出版社を興して、俺達の新作を世に発表してもらおうか。そういう形でなら協力も出来るし、こちらの思いとも利害が一致する。手を貸すことに、何等やぶさかじゃあない」
<311日目>
三者面談で担任の教師は、心配していた通り、ユウ太君がクラスで一人突出して浮いていると指摘した。当のユウ太君は、さほど気にする様子もなく、むしろ最近イメチェンした髪型の前髪の方が気に掛かるようで、しきりにその先端を指でいじっていた。そう、坊ちゃん刈りは恥ずかしいからと、とうにやめてしまい、服もブランド物のスポーツウェアと揃いのスニーカーに着替え履き替えていた。そして、サッカーに夢中だった。子供の順応は早い。彼は急速に“現代”に染まっていくようだった。
彼がしばしば見せる奇行を、周りの子供達が気味悪がっている。それが、“無視”や“イジメ”の原因になっていると、担任はさらに続けた。
ユウ太君は、蹴躓いたり、物を取り落としたり、(重力で)転落したり、……そんな事に目を輝かせて一々喜んだ。つまりは、この世界が逐一アンドロイドに返してくる物理的抵抗に、驚き、深く感動した。さらに酷い時は、その社会慣れしていない反応で誰かに因縁をつけられ、小突かれたり叩かれたり、そんな扱いを受ける事を無上に楽しんでいた。小学校でも、いじめっ子らにグランド裏に呼び付けられ、殴られたり蹴られたりかなり手酷い目に合っているところを教員の一人が目撃したそうだ。その教師があわてて止めに入ったが、止める以前に、ユウ太君が小突き回されるたび嬉しそうな顔をするもので、いじめっ子らの方が気味悪がって暴力の手を引っ込めてしまったという。――何しろ如意の明晰夢の中に閉じこもれば、何人も彼を傷付ける事の出来ないアノ世の住人である。暴力で揉みくちゃにされる事も、彼にとっては新鮮で嬉しい体験のようだった。
ユウ太君は、周囲のクラスメートの反応なんぞよりも、まずはこの世界自体の反応の方に、遥かに興味があるのだろう。だがそんな奇行も、丁度髪型や服装のように、コノ世に慣れるにつれ速やかに収まるだろうと私は説明し、担任もしぶしぶその予測を承認した。――同じアンドロイドの子供といっても、ついこないだ死んだクラスメート達と、八十年近く死んでいたユウ太君とでは、死者としての年季が違う。目の前の担任も、ベテラン教師のようだが、ユウ太君の半分にも満たない年齢だろう。一通りの事情は心得ていたとしても、彼の真実を知るのは至難だろう。
面談の前に授業参観の時間があったが、そこでも彼の古式豊かな国民学校風振る舞いは周囲の子らをざわつかせ笑いを誘っていた。また話す内容も異質過ぎて、クラスメートどころか、教師までもしばしば理解出来ず、戸惑っている様子が窺えた。教室の後ろから助け舟を出したくなったが、ここで父兄がでしゃばってもろくな事にはなるまい。ただ見守ってやるしかない。――三島に来てからも、ユウ太君はしばしばフラッシュバックからのパニックを起こした。学校でも例外ではなく、痙攣したり、フリーズしたり、水を欲しがったりする事があるという。この授業中にも、私の見ている前で(私に見られているからなおさら緊張して)、そんな事にならないかとついつい心配してしまう。肌着の下に冷や汗を感じつつ、ただユウ太君の背中をジッと見詰めたまま終業のチャイムが鳴るまで耐えた。
小学校では定番なのだろうが、“将来の夢”を書かせる作文の宿題があった。未来の危機が叫ばれるご時勢だから、ことさら意味を持つ課題だったのだろう。――夕食後、“何を書くんだい”、とユウ太君に訊いた。正直、死者の夢見る将来というものに、興味があったのだ。
ユウ太君は、たどたどしい子供口調で、喋り始めた。――アノ世のスフィアでは、人はイメージした世界を創れるし、自分の姿もまたイメージ通りのものに出来る。だから、大人になった自分の姿を造る事は出来るけれど、それはあくまで子供の想像する大人でしかない。つまり、“子供の社長”“子供の博士”“子供の大統領”にしかならない。リアリティーが、決定的に欠けている。――しかしそれも無理からぬことだ。何しろスフィアを作り出す材料のコノ世の記憶が、十年分しかないのだから。年寄りは若い頃の自分を思い出せるが、子供は自分の経験していない事を思い出す訳にはいかない、あくまで想像するしかない。そして子供の持つ妄想など、たかが知れている。所詮は、“稚拙”なのだ。もし将来自分が成長した時の姿を想像したとしても、所詮はリアリティーに欠ける、無理な背伸び、となる。だから子供の亡者は、大人の持つ妄想に強い憧れを抱く。現世での、物理世界での経験を渇望する子供の亡者は、自分だけではない筈だ。――ユウ太少年のたどたどしい説明を要約すると、おおよそこのような内容になる。
だから将来の夢は、現実にぶつかってリアリティーを得る事そのものだと、彼は続けた。つまり、“将来の夢は?”と訊かれて、子供が答えるだろう事、書くだろう事(要するに子供の亡者がスフィア内で想像するだろう自分)から離脱する事、そしてリアリティーを得つつ形成される自分になること、それが将来の夢だと、ユウ太君はたどたどしくも確固たる信念を持っている様子で語った。
その願いを聞いた時、不意に私に、ある突飛な考えが浮かんだ。――彼は、私の身代わりになって死んだのではなかろうか、と思ったのだ。――私が災厄を避け三島へ落ち延びたのと引き換えに、彼は八十年前広島で原爆に撃たれて死んだのではないか。私が受ける筈だった(しかし逃げおおせた)核を、息子(とも言うべき彼)が身代わりとなって引き受けた。無論身代わりが八十年も前というのは因果が逆転し矛盾しているのだが、私はそれからというものそんな妙な思いに囚われ続けた。
それからである、私が二人の関係を本当の父子のそれのように感じ始めたのは。彼の願いを、未来を成就させてやりたい。それは、我が子に対する親の願い、そのものだろう。そしてユウ太君との関係が親子として確固たるものとなるにつれ、――彼の存在が、遠い過去のある苦い思い出を、呼び覚ました。
まだ三十前の、若い頃である。社会人成り立ての頃、付き合っていた女がいた。結婚しようか迷ったが、結局時が悪戯に過ぎ、別れた。――大学時代の友が、好いていた女だった。女の魅力を語る友の言葉が、自分自身の感情のように我が身に染み入ってきた。友と争い、その女を取った。争っている間、自分でも信じ難い程夢中になり、心底この女が好きなんだと確信するようになった。だが、争いに勝ち、自分のものになり、身近に置くと、女はまるで違うもののように急速に色褪せていった。同時に私も、惚れる時に数倍増すスピードで、転げるように醒めてしまった。こんな事なら、友情を壊してまで、こんな女を取るんじゃなかった。醒めた私は、激しく後悔した。女が疎ましくさえなった。自分が本当の恋愛なんぞ出来ない人間であり、多分一生結婚する事もないだろうと、この時悟った。――その女が妊娠し、私は胎児を堕ろさせた。(女は、下瞼で涙を堰き止めたような虚ろな目で、私をジッと見返していた。)――ユウ太君を見ていて、その“本当の自分の子”の事を思い出したのである。
アノ世が現実にあることが、証明されてしまったのだ。だとしたら、“あの子”は今頃どうしているのだろうか。――そも、アノ世において、水子で死んだ人間の霊は、どのような在り方をしているのか?
もしかしたら、ユウ太少年のように、ある日突然訪ねて来て、父親の私に向かって『生き直したい』と申し出るのではないか? あるいは、自分を流した(つまりは殺した)殺人犯たる父親を、猛烈な勢いで弾劾し、恨み言を並べ立て、復讐を果たそうと責め立ててくるか?
どうなのだろう? しかし彼(彼女)が(私の本当の子が)、“いる”ことだけは、否定のしようのない事実なのだ。
ユウ太君を見るたび、そんな幻想の我が子と二重写しになる。会いたくもあり、会いたくもなし。懐かしくもあり、恐ろしくもある。――いずれにせよ、心の準備だけは、しておいた方がよさそうだ。
そしてこうした事態は、私だけに起こっている事ではなかろう。私以外にも、懐かしい人や招かれざる客の訪問を受けたり、あるいは受ける事を待ち望んだり怖れたり、している人々が結構いることだろう。これまで“死”によって隔てられていた、二度と会う筈のなかった人と、再会する事となろう。(そんな怪談めいた噂話が、ちょくちょく耳に入ってくる。我が身に照らし、気に病んでいるせいかもしれないが。)
<328日目>
河野さんの会社が倒産したそうである。碁会所で白が黒に両がらみの難しい局面を睨みながら、河野さんはそう打ち明けた。彼の会社は戦後、まだ無事な工場に生き残った社員を集中させ、生産主体をシフトさせた。それが裏目に出た(そういう会社は数多い)。生きる事でギリギリの生者地区の半統制経済に、会社の体力が耐えられなくなったのだ。
彼は死者の国の日本へ、出稼ぎに行く事を決意した。体よく言えば、アンドロイドに乗ったテレ・ワークである。込み入った仮設住宅街でも、お隣さんもお向かいさんも、ほぼ三軒に二軒の割りで、既に同様に働き手が死者の国へ仕事しに出て、何とか生計を立てている。好景気で慢性的に人手不足の死者の地帯に対し(生者に加え、御先祖様まで遡り、どんどん労働者を増員しているが、それでも追い付かないという)、生者の住む地帯にはろくな仕事がなかった。――浸透圧の原理である。生者と死者、汚染の有無、の境を浸透膜とし、労働力は死者の領域に吸い取られ、そこで生み出された富が生者の領域に還流されて、まだ生きている者達の命と生活を支えていた。
今や死者達の産業が、この国を成り立たせ、生者はそれに寄生して生きていた。ますます縮んでゆく、生者の日本社会(辛辣な評論家に言わせると、“風前の灯火”だそうだ)。大量の戦災死により、人口減少が遂に臨界点を越え、引き返す事が出来なくなった。加えて激増した戦傷病者の介護に、最後の余命を絶たれようとしていた。――対して死者達は、異様に明るく、空元気と思える程はつらつとし、活気に溢れ日々を生きていた。一度死んじまったら、もう失うものは何もない、とでも言いたげに。命も健康も、食住の心配もない。社会にも家庭にも依存する必要がない。だから誰にも、何にも遠慮することはない。本当の自分を前面に出して生きていける。彼を縛るのは、目的意識と倫理観のみである。――生者達は、死人のようにボーッとした目で、そうした生き生きした死者達を羨ましげに眺めている。死者が生者に持つ羨望とは、まるで別種のそれである。
死者の生存に必要なのは、アンドロイドの体と、それの駆動エネルギーのみである。死者の労働は、労災も過労死もないし、疲れ知らずで何時までも働ける。エンゲル係数はほぼゼロに近い。つまり、生産コストが極端に低い。いやでも高い産業競争力とならざるをえなかった。これが貿易摩擦として国際問題になった。死者に働かすなど、フェアじゃない。死者の経済は、規制されるべきである、と。
――死者の領域のあちこちで、既に死んで縁の切れた者達が再会を果たした。知人と、旧友と、家族と。むしろ戦争前疎遠であった者同士が、連絡を取り合い、昔を懐かしみ、親密さを取り戻した。
日本再建のため、戦死者は勿論、戦争以前の死者達まで、駆け付け、復興に参加していた。数多くの一般庶民に加え、昔のカリスマ達(文化人や、科学者や、企業家や、政治家や等々)が呼び出され、力を発揮し、現代社会に影響を与え始めた(鎌倉のリンボ特区がその“呼び水”となった事は、言うまでもない)。
少し前までの人達は、アノ世がネット世界の延長上にあるなどとは、到底想像もしなかっただろう。そも、ネット世界とは、ここ数十年で人間が創り出した全くの別天地であり、新参者だ。人はそれまで、そんなものの在り様はおろか、存在すら意識する事が出来なかった。ならば、神田の言う先行する者達が、人間など生まれる遥か以前に立ち上げた、コノ世のアーカイブをデータベースにしたバーチャルな人造世界とは、人間が思い付いた、創造したと思い込んでいるものの最古参、原型、イデアということになるのか。それが、昔の人間には“アノ世”として見えた、という訳か。そしてつい最近になって、人間も同じものを造れるようになったものだから、たまたま両者が偶発的に繋がってしまった、……。ただそれだけの事なのだろうか。
<349日目>
またぞろ商工会会頭や鎌倉市長から無理難題を押し付けられ、ツアー・コンダクターの真似事をさせられることとなった。両世界を繋ぐ“窓口”の出番、という訳だ。性懲りも無く、便利に使われている。
市長達は、ユウ太の親戚絡みで、広島で被爆死した者達に現世の広島訪問を懇願されたらしい。復興成った現在の広島に、是非一度直に触れてみたいと。そして現世の広島市民達と、八十年振り親交を深めたいと。
かくして今回平和大通りに観光バスで乗りつけた総勢二百名程の亡者達は、主に爆心直下の旧細工町や旧猿楽町、今平和記念公園になっている旧中島の各町の原爆犠牲者達で占められることとなった。当然ユウ太の家族や親族も含まれている。そこで、嫌がるユウ太を無理やり引っ張っていって、現地で家族と再会させることにした。
ツアー客の亡者達は、バスのステップを秩序正しく順繰りに降りる。見慣れぬ近未来都市に紛れ込んだお登りさんよろしく、恐る恐る、遠慮がちに、しばしばオドオドさえしながら、現世の大地を踏み締める。――それを、市や各種団体の代表が、さながら英雄達の凱旋を待っていた如くうやうやしく出迎える。
生者達はまず、シンボルたる原爆慰霊碑への祈りという儀式を望んだが、死者達はそんなものに興味は無いようだった。慰霊される側が慰霊してどうなる、という訳だ。それでも一応付き合いで一同揃って頭を下げたが、碑に刻まれた『安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから』という碑文を見て、死者達の間にシラケた空気が行き渡り、冷笑するような声すら幾つか聞こえた。彼等は眠ってもいないし、過ちも繰返された、からだろう。
それより彼等が興味を示したのは、慰霊碑の石室の中に納められた原爆死没者名簿の方だった。普段閲覧は許されていないが、今回特別許可された。また、搭載確認出来るのは遺族または親戚に限られるが、今回は本人にも特別認められた。
「ワシの名もちゃんと載っとる」などと言い合い、神妙な顔で名簿の自分達の名の有無を確認し、有るだ無いだと一喜一憂した。同じ光景が、平和の観音像(中島本町町民慰霊碑)脇の死没者芳名碑前でも、公園東端の天神町北組慰霊碑芳名碑前でも、繰り返された。名前の有無で一喜一憂しつつ、旧町民達は集い、旧交を温め合った。
一方、北端に在る原爆供養塔地下には、遺骨の安置所があり七万柱ともいわれる遺骨が眠っているが、こちらは無視された。遺族にとっては作り物めいた慰霊碑などより現物の納められた供養塔の方がしばしば慰霊の対象として相応しいが、当の死んだ本人にとってはうっちゃった自分の体の破片なんぞには何の興味もない。自分の遺骸を弔う倒錯者などいない。彼等が強く関心を示したのは、モニュメントでも自らの遺体でもなく、現世での存在確認のためのリストの方だったようである。
『幽霊戸籍』と呼ばれる、一族諸共に滅亡してしまったために誰も死亡届を出す者がおらず、何時までも生きたままであり続ける行方不明者の戸籍があるそうだ。爆心地周辺の家族丸ごと全滅してしまったケースの多い地帯の住民に、こうした生きた幽霊達は多くいると聞く。法務省通知で市は120歳以上の幽霊達を強制的に鬼籍に移住させているらしいが、そうするとまだ120歳に達していない、つまりユウ太と同世代の幽霊達は、いまだ生きた幽霊であり続けているんだろうか。名簿に次いで、ツアー客達の関心は、ここに集まった。自分はちゃんと成仏しているんだろうか、それともいまだ現世を彷徨っているのか。幽霊達が、自分達が幽霊なのかどうかと、心配していた。
幸いな事に、ユウ太も、その両親も、その他家族の面々も、その名が死没者名簿にも載り、中島本町の死没者名碑にも刻まれ、戸籍上も成仏出来ていた。彼等も私もホッと胸を撫で下ろした。私は初対面のユウ太の両親と挨拶を交わした。物腰の柔らかい、いかにも下町の食堂の主人と女将、といった雰囲気の人達である。挨拶し合う間、ユウ太はズッと両親の陰に隠れ続けていた。
両親は私に、大変お世話になっておりますと礼を述べ、アノ世の手土産の一つも持って来られないのがもどかしいと言った。次いで、“アノ日”のユウ太について、話してくれた。――ユウ太の歳なら、“疎開組”に入っているのが普通である。広島も四月から疎開が始まり、縁故疎開や何波かの集団疎開で既に多くの児童が町の外に出ていた。ユウ太の両親は縁故疎開先を探していた。集団疎開の“悪い噂”を色々耳にしていたからである。甘やかされのユウ太がそんな集団生活でやっていけるのか心配で、縁故疎開にこだわる内、アノ日を迎えてしまった。
アノ日の朝は、前夜や早朝の空襲警報騒ぎで、始業時間が三十分程遅くに繰り延べになった。それでも登校しなければならない、戦争中夏休みは十日間程に短縮されていた。――戦争末期ともなれば、食堂といっても、メニューは芋汁、すいとん等代用食ばかりで、それを食券と引き換えに供していた。食材不足で経営もままならないから、中島の飲食店主達は共同経営の一店舗にまとまり何とか営業を続けていた。だからユウ太の家の食堂も閉店状態で、家の中にろくな食べ物も無かった。朝も、昼も、萎びた芋。早々に朝食を済ませたユウ太は、学校とは反対方向、相生橋に登ってみることにした。ここでチンチン電車を見る事が出来れば、心も満たされ、空腹も忘れる事が出来る。少しぐらい寄り道しても、始業時間には間に合うだろう。そして十日市方面から紙屋町方面へ向かう車両と、それを運転する少女運転士(まだ十五歳程)を確認した。目の前を通り過ぎる市電を見送り、その後を追って橋の反対側に渡り、走り出した。
親元を離れた疎開生活を嫌がるような甘やかされが、よくも現世で一人暮らそうなどと思い切れたものだ。成長しないといっても、死んでからの八十年が、やはり彼を少しは変えたのだろう。自立するため、ユウ太はアノ世の広島にはあまり寄り付かなくなっているという。今日の両親への甘えようは、その反動というところだろうか。アノ世の広島では、周囲がそうイメージする故、彼は十歳の子供のままであり続けざるを得ない。逆に、もし本人が現世での成長した姿をイメージする事となれば、もう故郷の人々はそのイメージを共有する事は出来ないから、両者のスフィアは切れてしまう。両者はますます乖離していく。
そうした意味では、むしろ変わらないのは、変化を拒んでいるのは、彼の両親の方だと感じられる。私に対し、感謝はすれど、何か“敵意”のようなものが滲み出ていると思われるのだ。息子に愛着を持つ彼等は、ユウ太が十歳に留まり続ける事を望み、従って現世の預かり親たる私を、ある種の“誘惑者”、大事な子供を変えてしまった元凶、と見做しているふしがある。だとすれば、とんだお門違いというものだ。
私に案内されるまま、亡者達は律儀に大人しく付き従い、神妙な面持ちを崩さず名所旧跡を経巡り歩いていった。(といって私も、ガイドブックで即席の知識を詰め込んだに過ぎないんだが。)大戦前の人が意味が分かって使っているのか不明だが、しばしば「ツア・コンさん」と親しげに語り掛けられた。お稲荷さんの眷族か何かと勘違いされているのかもしれない。
やがて資料館内に入った。今回特別客達のために、常設展示に加え、収蔵品の無制限公開が行われた。二万点を越す遺品の中から、彼等はしばしば目敏く自分の所有物を見付け出した。あの腕時計(8時15分を指して止まっている)は、俺のだ。あの芋の煮っ転がしの入った弁当箱は、私のよ。と、指で指し示す姿が、あちこちに見られた。新たな問題が浮上した。これら遺品を、落し物として、持ち主に返却したものかどうか。
一人の少女のアンドロイドがガラスケースの中を見詰めていた。ケースには、所々破れ、焦げ、朽ち、皺が寄り、大きな黒い染み(血の跡だろうか)が占め、古く色の褪せた、赤い花柄のワンピースが収まっていた。そして少女は、全く同じ柄、同じ裁断のワンピースを着ていた。さながらケースのガラス板が鏡になっているかのごとく、同じワンピースが映っていた。ただ、ケースの手前側が新品で、向こう側が八十年前のものという、時間差があるだけで。
多分このワンピースは、彼女の晴れの日の一張羅だったのだろう。アノ日、どういう思惑からか、憲兵や町の人達の刺すような目を覚悟で、これを着て町をブラついていた。ピカに合い、ワンピースは脱がされ、懸命の治療もむなしく彼女は逝った。ワンピースは形見として彼女の遺族の手に残った。――その一張羅を、今日という晴れの日、蘇らせてめかし込み、彼女は広島に戻ってきたのだ。
またある女性は、被爆直後の自らの顔写真を見付けた。随所がリンゴの如く膨れザクロの如く皮が割れ、あまりに悲惨で直視し難いものだったが、それと相対した彼女は大戦前のブロマイドの女優のように美しかった。「こんな姿で、また現世の広島の街を歩けるなんて、思わなかったわ」彼女は言った。
ピカの犠牲者には、勤労動員中の女学生ら、若い女子供が多い。これからロマンスが花開く筈だった人生を、そこで途絶えさせられた彼女ら。アノ日、の手前の姿で現世に舞い戻った彼女らは、今後の世界をどう生きるのだろう。
美しい彼女らに対し、少数だがピカの後の面相でアバターを作った者達も紛れていた。生者の市民達に、動く被災者の姿を見せ付け、ショックを与えた。彼等がこうした姿を選んだのは、どういう意図からだろうか。ピカ前の姿に戻る事をごまかしと捉え潔しとしなかったのか、生者達に“死を忘れるな”“原爆を忘れるな”と訴えたかったのか。
他方、自分の本当の姿を初めて見、思い知らされている男もいた。男は、寝っ転がり手足を宙に持ち上げた姿勢のまま黒い炭の固まりとなった自分の写真を、ジッと見詰めていた。原爆の閃光で即死した彼は、自分の末路を自覚していなかったのだ。初めて知って、強いショックを受けた。あるいは、これまでただ前世の延長のようだった彼の来世の生活に、新たなトラウマが加わる事になるかもしれない。
展示された原爆の絵や写真を見て、アノ時の事を思い出し、感極まって自らの悲劇を嘆き、号泣する人々もいれば、前者の男性のようにそれまで知らなかった自分の真の姿に気付き、凝視する目が離せなくなったり、逆に目を逸らし続けたりする人々もいた。そんな中に、“本物(実際に起こった事)とはまるで違う”と、館の職員に食って掛かっている老人がいた。老人は細部に渡りクレームを付け続け、職員達は当惑しつつもその言い分を細大漏らさず聞き取り続けていた。
やがて予定の時間が過ぎ、館を出た。外では、多くの市民達が待ち構えていた。生者との交流は、ここからが本番となるようだ。――被爆死者達の周りに、あちこちで固まりが出来、彼等の話に多くの生者達が熱心に聞き入った。反面、より多くの市民達は、迷惑そうにそれら固まりを避け、コソコソ逃げ出した。日頃“語り部”役の者達が、今日は語られ、新たなネタを補充した。
旧大正屋呉服店のレストハウスでは、歳若い母親と、生き残り今や老人となった息子との、感動の対面(連絡を取り合い、ここで八十年振り再会した)もあった。
亡者らは、自らのために、千羽鶴を折り、寄贈した。――やがて、“自由行動・定刻集合”の時間となり、死者の群は一旦解散した。
散り散りとなった彼等とすぐ連絡が取れるように、耳掛け式の簡易ヘッドセットを持って来ていた。装着し、スイッチをオンにする。スウェーデンボルグ・インターフェイスが走り出す。出力を抑えられたスフィアの希薄なイメージだが、丁度AR(拡張現実)のように、現実世界にやんわりとツアー客達のスフィアのイメージが被さる。これで団体客の行動全体が大まかに把握でき、ツア・コンの責任が果たせる。
人々は、各人勝手に、生前住んでいた町を、通りを、家の跡を、通った学校や職場を、目指し、移動していた。訪ね当て、昔話をしみじみ語り、笑い合い、涙に暮れた。朝飯の佃煮を口に放り込んだ時、光も一緒に口に入ってきたとか、赤黒い膨れた体を川べりまで引き摺ってきたが、憲兵の軍刀に蹴躓いて胸を打った途端肉が崩れたとか、囁き合っている。かと思えば、ピカにやられた後の放浪の軌跡を、辿っている者もいる。何かを再確認したいのだろう、しきりに周囲をキョロキョロ見廻しつつ歩く。個々人勝手に思い出に浸っていたかと思うと、一斉にざわめき出し、嘆きの声を上げる。周囲の生者が何事かと訝り、こちらを振り向き立ち竦むが、そんな事には一向お構い無しだった。
元安川対岸の原爆ドームに向かう一団に、同行することにした。――水運の発達した広島では、わざわざ陸上を遠回りしなくとも、川伝いに楽々移動する事が出来る。“ガンギタクシー”と呼ばれる、NPOの運営するボートサービスがあり、賓客達のために今日は無料乗り放題となっていた。五艘のボートに分乗し、三十人程が対岸の原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)を目指し、川面を進んだ。
が、対岸の雁木が近付いた途端、雁木に妙なものが見え始めた。最初薄ぼんやりした図像だったが、三十人のスフィアがピタリ焦点を合わせ始めたのだろう、否定しようのない光景となった。雁木に、肌色と鮮やかな赤と底無しの黒との三色に重ね塗りされた死体の群れが、押し寿司の如く鮨詰めにされた様が見えたのだ。
ボートの操縦者は生者だし、私のようにヘッドセットを付けていない。だから何が起きているのか分からない。何の迷いも無く、舟を死体(と、死に掛かっている人)で埋もれた雁木へと高速で進めていく。
亡者達から、この世のものとは思えぬ悲鳴が一斉に上がった。彼等にとって川越しに見る雁木は、身近に迫れば迫る程、こうした光景を思い出させずにはおかない場所だったのだ。振り返ると、周囲の他の雁木も死体で埋め尽くされ、川面にも洪水の後の流木のように無数の水死体が浮いている。――いや、よく見ると、その水死体達は動いている。泳いでいる。川で水遊びする子供達だった。さらに、シジミ採りに興じる大人達まで混ざっている。その横を、死体が浮かび流れていく。――原爆の前、広島の川は、夏には子供達がプール代わりに川遊びし、他にも一年を通して、シジミ採り、川舟での饗宴、川岸の花見等々と、行楽の場として親しまれてきた。両極のイメージが、今亡者達のスフィアの中でゴッチャとなり、混乱を極めていた。――私は耐え切れなくなり、ヘッドセットのスイッチを切った。
懐かしがられ、喜ばれると思って手配したガンギタクシーが、裏目に出た。船頭はすごすご、来たコースを引き返さざるを得なかった。引き返す先の雁木も、既に死体で埋まっていた事だろう(ヘッドセットをオフにした私には見えなかったが)。それでもどうにか上陸出来た。連想が働いてしまうと抑えようもなく出続けるスフィアのイメージだが、出発地の雁木は一度通過したという実績がある故、スフィアの暴走を薄める事が出来る。対して川面から見上げる雁木のイメージは、致命的だったのだろう。――そういえば大戦前から(というか江戸時代から)広島に残っている唯一の遺構が、この雁木だった。迂闊だった。
川から戻ると、平和の池の周囲で、旧中島集産場の商店主達が騒いでいる。中島集産場は広島を代表する商店街で、丁度今の平和の池辺りに位置していた。
大きな地図を何人もで広げ、それに線やら記号やらを書き込んでいた。長四角の池のグルリを歩き回り、要所要所の長さをメジャーで測っていく。平和の灯のともる池の小島や原爆慰霊碑の鞍型ドームの上にまで登り、あちこちの仲間に指図し指示を飛ばす。市の職員が、「降りて下さい」「戻って下さい」と、懇願するように注意していた。
「ワシの店は、“平和の灯”とやらと池の縁の間にあった」「ワシの店の敷地は、そこの木からあっちの池の角までじゃ」などと盛んに言い合っている。どうやら集産場の家並みを、実地で再現しようとしているようだ。「あの賑わっとった屋根付きの通りが、こげな殺風景な池になろうとはの」「遊興場に飲食店、映画館に写真屋に本屋、高級品店から雑貨屋まで、何でも揃っとった。大人から子供まで、ワクワクしてやって来た町じゃった」懐かしそうに語り合う。
「そげな町を、こんな更地にしよって」「ワシらに無断で、線香臭い慰霊碑なんぞおっ建てよって。縁起でもない」「御上のやる事は、いつもこうじゃ。建物疎開の次は、公園作りじゃと。ワシらの飯の種を取り上げよって(もう飯の種は必要ない筈だが)」家並みを再現する内、古い権利意識が再燃したようだ。「何の権利があって、ワシらの土地を取り上げるんじゃ」「そうじゃ。この歩道からあの柵までは、ワシの土地じゃ。返してくれ」「ここの植え込みの周りは、ワシに権利がある。返せ!」「そうだ。返せ! 返せ!」彼等は口々に不満を言い立て、それぞれの権利を主張して譲らない。それを、市の職員が、必死になだめ、理解を得ようと努力していた。
近くの原爆の子の像の辺りでも、騒動が起こっていた。
さっきから修学旅行の高校生達が浮かれてバカ騒ぎしていたので、嫌な予感はしていたのだ。
にこやかに笑いながらピースサインを造りつつ原爆の子の像や遠景の原爆ドームを背景に記念撮影する高校生達を、遠巻きにした亡者達は苦々しげに見詰めていたが、高校生の中のツッパリの一団が子の像周囲の雨よけカバー内に奉納された千羽鶴の束を何本も取り出し馬鹿笑いしながらハワイのレイのように首に巻き付け遊び出したから堪らない。
「何しよんなら!」アンドロイドの重いボディーが何体も、ナナハンの暴走の如く突進し、その鉄腕でツッパリ達をボコボコのタコ殴りにし出した。
あわてて仲裁に入ったが、こちらもしたたか殴られた。
そんな騒ぎに巻き込まれる内、ユウ太の姿が見えなくなっている事に気付いた。――それまで付かず離れずしていた彼が、まるきり視界の内から消えていた。平和の池で権利争議に加わっていたユウ太の親戚の一人に訊くと、またぞろチンチン電車を見に相生橋にでも行ったんだろうと、気の無い返事を返してきた。
仕方が無いので、再度ヘッドセットのスイッチを入れた。――知りたくなかったが、平和の池や千羽鶴と同種の揉め事が、方々で起こっていた。
辿り着いた我が家に、見知らぬ者達が住んでいた。誰の許しを得て、勝手に住み着きやがった、ビルなんぞ建てやがったんだ。現住民達と口論となった。他人の家や立ち入り禁止の場所にまで、ここは本当はワシのウチじゃとズカズカ入り込み、ひんしゅくを買った。まるで様変わりした現在の広島だが、彼等の記憶の中の古い広島と、鮮明に重ね焼きされているのだろう。こいつは、後始末が大変そうだ。
アノ朝ユウ太が歩いただろう同じコースを辿り、相生橋へのT字の道を登り始めた。途中、何気なく右手原爆ドームの方を振り返り、驚いた。――傷一つない、真新しい産業奨励館が、川岸の夜景に、淡いピンクや黄や緑や、色とりどりにライトアップされている。川面にその明かりが映り、溶け込み、この世から浮き上がった、まさにあの世のような美しさだった。
誰かのスフィアと繋がってしまったのだろう。その人物は、まだ出来立ての産業奨励館が美しくライトアップされる様を、間近に見たのだ。――奨励館は、イベントの都度、美しく飾り付けられ、夜間はライトアップされ、その秀麗な姿を川面に映したという。県物産の紹介だけでなく、各種展示、美術展覧会、演奏会、映画上映、社交パーティー、等々も繰り広げられ、幅広く使われ賑わった。小集会室には、パイプオルガンまであった。――このスフィアの記憶は、その内でもまだ館が出来て間もない頃のものだろう。大正四年八月五日、チェコ人建築家ヤン・レツルの設計により、館は竣工され、開館した。そして丁度三十周年を迎えた日の翌日、一夜の夢だった如く一瞬の閃光の内に滅んだ。
夜景のライトアップでどこが一番美しいかと問われれば、迷わず戦前の広島県産業奨励館を挙げたい。その後の運命を加味した儚い夢幻の美しさ故に。
私は無理やり視線を、その妖艶過ぎる建築物から引き離した。それでもやはり気になって、脇目でチラと掠め見ると、それは既に無残な骨組のみを晒す躯へと戻っていた。
ようやく、ユウ太のスフィアの片鱗がつかまった。相生橋の電車道に差し掛かりつつあった。ふと彼は、眼下の中島を振り返った。彼の見付けたものは、遊び仲間の子供達だった。どこに行くんだ? と詮索するように、互いにしばらく見詰め合っていた。
子供達の交わす視線が紡ぎ出す、思い出のスフィアの中にしばし囚われた。――電車見に行くのかい? 僕も見たいな。――帰ったら、何して遊ぶ?――この前のベーゴマの続き、やろうよ。――スフィアの中の亡者は、勿論アンドロイド顔をしていない。自己イメージ通りの、スッキリした人間顔である。アンドロイド以上に、子供達の爆発するような感情の機微が溢れ出る。
その溢れ出す遊びの思い出の中で、子供達はベーゴマを廻し続け、ビー玉を弾き続け、パッチン(メンコ)を切り続け、サイコロを振り続け、愛国いろはカルタを唱和し続け、相撲を取り続け、優美な“すずらん灯”の縁取る大通りと入り組んだ路地との下町中島の迷路を縦横に駆け抜け続けた。こんな遊びを、八十年間、延々反芻してきた。――瞬間、そんな遊ぶ幼い子らの中に、私の流した子も、混ざっているような錯覚に囚われた。
やがてユウ太の幼馴染達は、ユウ太を追い駆けるニ、三の就学年齢前の子供達と、近くの慈仙寺に設けられた国民学校の分教場に向かった低学年組との、二手に分かれた。この慈仙寺に向かった子らは、被爆後、先生の骨の周りを輪を作るように取り囲む十体余りの白骨として、見付かる事となる筈だ。
現実のアンドロイドのユウ太は、行き交う車の間に、トロリー線と繋がれた電車の車両を物色し出す。車の往来数が、戦前のそれとは格段に違う。その事が、彼のアノ朝の記憶との間にギャップを生み出し、戸惑わせているようだ。現在の市電と昔のそれとを、比較し吟味するユウ太。窓が、四面とも、大きいな。あんな大きな一枚ガラスで、割れたりしないんだろうか。車体も、クッキリした箱型というより、所々優雅な曲線を帯びている(それは、新幹線の流線型を、連想させた)。それに、トロリー線と接するポールが違う。昔のは、ビューゲル(トロリーポールとパンタグラフの中間のような方式。昔の路面電車によく見られた)だった。今は殆どパンタグラフだ。それから、運転士が、昔は鉢巻をした若いお姉さんだったけれど、今はいない。
アノ朝のように、電車を追い駆け、ユウ太は走り出した。こうやって電車を追い駆けるのが、小さい頃から好きだった。追い駆けながら、チンチン電車の全てを吸収し尽くそうとした。その輪郭、色使い、早さ、音。鉄路を擦る音が、昔より静かだな。それに走りも、滑らかだ。トロリー線と接する擦り板は、ビューゲルでもパンタグラフでも、あまり変わらない。やはり、時々接触不良を起こして、火花が飛ぶんだろうか。――期待して見詰める内、光った! が、その火花が、予想を遥かに超えて彼のアンドロイドの目を射たため、彼はアノ朝のように、路面電車の背後の暗黒の影を見てしまった。――やはり、ツアーの前彼が危惧し続けた通り、現物の広島は彼の心には荷が重過ぎたのだ。
チンチン電車の、窓越し、人影越しに、パンタグラフの火花の何万倍という光が射す。それまで、マトモな車体、マトモな一人一人の乗客だったもの達が、ただの影、いや暗黒を極めた影、となる。次いで、影が、斜めに傾斜し出した。つまり、重い市電の車体が、浮き上がった。あるいは自分が浮き上がったからそう見えたのか、ユウ太はそう思ったそうだが、その後、両方とも浮いているのだと思い直した。何故なら、自分や市電ばかりでなく、橋の上を行く自動車も、トラックも、馬車も、その馬も、多くの通行人も、橋の欄干まで、全てのものが宙に浮いている様が、確かに見えたからだ。――その後気を失ったらしいのだが、しばらくして気付くと全てが闇に包まれていた。だから、果たして本当に気が付いたのか、確信がない。もしかすると、まだ気を失ったままだったのかもしれない。
私は小走りに道を急いだ。電車道に着いた頃には、闇はようやく払われつつあった。月夜程の明るさに戻っていた。そして、ユウ太の陥ったパニックが、その周辺にいた、現在の相生橋の光景を眺めていた、ツアー客達の何人かにまで飛び火していた。
絶対の暗黒が去った後、絶対の白が彼等を包んでいた。やがて、虹色の、金や銀の、そして宝石の煌めきのような光が、その白の中で踊った。彼等は一様に、自分達は極楽に到着したのか、と思った。
が、極楽もまた瞬時に去り、彼等は現実を知った。――人々が赤黒く膨れ上がり、皮膚がはじけ、まるで赤いパプリカを焦げるまで黒く焼いて皮を剥いた料理のような、肉の柱になっている。剥けて大きく垂れた皮が、ボロ布をまとっているようである。彼等は吼え、嘆こうとしたが、声が出なかった。自らの舌や唇も、熟し切った果実のように膨れ、口を塞いでいたからだ。自分を見下ろし、自分も他の人々と同じ姿なのだという事実を、ようやく痛感した。――目玉の飛び出した者達もいた。彼等は、苦痛でのたうちつつも、失明したためその時の光景を八十年間知らずにきた。今初めて、「こうだったのか」と、極楽の光と、その下の地獄を知った。
ユウ太はさっきまで追い駆けていたチンチン電車を、惚けたように見詰めていた。闇は去ったのに、その闇の一部が電車に張り付いたままになっていた。車体も、乗客も、焼け焦げ、ただ黒一色に沈んでいた。ある者は吊革につかまって仁王立ちのまま、ある者は座席に座って読みかけの本を手に持ったまま、他の人々も皆それぞれの姿のまま炭で作った等身大の彫刻のように車内に所狭しと陳列されていた。運転士の少女は、操作レバーに手を乗せた理想的な姿勢のまま、炭の柱となっても運転を続けていた。
ユウ太に付いて橋に登ってきた幼女が、周囲を見回し言った。「げんしばくだんがおちると ひるがよるになって 人はおばけになる」(坂本はつみ作 『詩集 原子雲の下より』(青木書店)収載)そう言う彼女もまた、小さな可愛いおばけになっていた。
上空に巨大なクラゲのような白く丸いうごめく雲があり頭上を覆っていた。その襞々に先程の極楽の名残のような極彩色の光が時折走り、人々はそれを見上げていた。まるで極楽が、彼等を見捨て、天に帰っていくようだった。見上げる内、白クラゲは急速に黒いタールのような内臓を剥き出し、猛烈な勢いで黒い雨を降らせ始めた。
不純物が大量に含まれ、重量があり、一粒一粒が小石が当たるように痛い雨だったが、その雨に打たれて人々は自分が猛烈に渇いている事に気付いた。人々は空に向け大口を開け、「甘露、甘露」と至福の声を漏らしながら、黒い雨を喉に流し込んだ。
だが、その程度の雨では、彼等の渇きは到底癒えなかった。彼等は水を、霞む目に最後の力を込めて探し回った。橋の東詰めにいた者達は、少し行った今や廃墟と化した護国神社の鳥居の脇に、目敏く防火水槽を見付けた。その中に重なるように飛び込んだ。何本もの足が宙に突き出しているのが見える。あるいは神社の英霊達に祈るように、両手を天にかざしたままの姿の者もいる。橋の上の者らは、多くはそのまま横たわったが、中には耐えられず壊れた欄干を乗り越えて吸い込まれるように太田川に落ちていく者もいた。突然体の一部が発火し、炎を上げて走り出す者もおり、彼等は躊躇わず川に向かってダイブした。建物疎開に動員された三人組の女学生がいた。彼女等は互いに自分達がグロテスクな化け物と化した事を確認し合った後、手を取り合って入水した。
私のすぐ眼前の橋の中央で、踊り続ける男がいた。炎に炙られ煽られ、男は両腕両脚を松の枝振りのようにくねらせのたうちながら、狂ったように踊りに興じている。見ると、男のすぐ背後に、現世の彼のアンドロイドが重なるようにいて、それがスフィアの中の彼と全く同じ挙動、同じ振り付けで、調子を合わせシンクロして舞っている。――能の演目『二人静』を思い出した。重なり合って踊る様がそっくりだ。随分趣向の違う踊りだったが。携帯用ヘッドセット故見えてしまった、AR風のあり得べからざる光景だろう。
――亡者のアンドロイド達がスフィアのパニックに追い立てられるまま走り回りあるいはフリーズし、相生橋の上は大混乱となった。交通は麻痺し、車はクラクションを鳴らし続け、生者達は怒号を浴びせ続け、迷惑がり、アンドロイドを避け、あるいはアンドロイドに食って掛かった。生者達は勿論、アンドロイドの身に何が起こっているのか、知る由もない。今この橋の上に、のどかな日常と、苦悶の火炎地獄とが、折り重なって存在しているなどとは。
私も出来る事なら、なるたけ早くヘッドセットのスイッチを切り、真っ当な生者の世界に復帰したいところだったが、ユウ太を探し出す必要があるので容易には切れない。それに、ユウ太が今どういう状態にあるか、どんな思いをしているか、混乱して危険な目に合っていないか、心配だ。
おかげで、集団シテの夢幻能の再演に、またしてもワキ僧役で付き合わされることになった。しかし前回鎌倉の視察の時はスウェーデンボルグ・インターフェイスは使っていなかったから、会頭ら亡者の恨み言をただ聞くだけで済んだ。だが今回は、聞くだけでは済まなくなった、彼等の地獄を強制的に追体験させられるハメになってしまった。
私の今見ているような光景を、拡張現実技術を利用し、観光地のポイントごとに組み込んだらどうだろうか。観光客達が、かつてその場所で起こった出来事を追体験し、より深く意義あるツアーが出来るように。――そんなのんきなアイデアなんぞ考え気を紛らわせていないと、とても正気を保てない。目の前の亡者どもの地獄も、目の前の生者どもの大騒動も。橋の上の混乱状況は、差し迫って危険な状態で、かつすこぶる剣呑な雰囲気に満ち満ちている。この大トラブルの責任は、嫌でもツアーを率いる立場のコンダクターに跳ね返ってくるだろう。途方にくれ、疲れ果てる。やっぱりこんな仕事、引き受けるんじゃなかった。
後日、会頭から、前回の広島ツアーの評判がすこぶるよかったのでまたお願いしたい、と頼まれた。今度は、来たる原爆忌の式典に、前回の数倍の人数を引き連れて、来賓として列席していただきたい、と言う。さらに、三日後の長崎にも、引き続き出張ってもらいたいとの事だった。
ツアーに同行し、つくづく思い知ったことだが、これまで最も弱い存在、やられる一方の被害者であり続けた死者達が、今日現世に出没する事で、見られる側、感じられる側から、積極的に見る側、感じる側に廻った。彼等を組み入れずには、最早世界は成り立たないだろう。
だが私は、これ以上自分の生活に彼等を組み入れようとは思わない。現状で、もう手一杯である。――押しが強く粘り腰の会頭に、土俵際まで追い詰められたが、――勿論、あらゆる口実を設け、首を縦に振る事は二度としなかった。
<1年と5日目>
戦争一周年の追悼式典を、誰が主催するのか。つまりは誰が日本の国政を担うのか。その日が来る前に早急に決める必要があった。
そして、喧々諤々の末、圧倒的経済力に屈し、死者も含めた形で(さしあたり、今戦争の戦死者まで、という条件付きだが)、総選挙が行われた。――結果、ほぼ死者達で占められる旧政府側が、圧勝した。
戸籍法が改正された。新たに『復活』という事項が加えられ、復活すると『誕生』に準じ、戸籍が回復した。これによって、深刻な少子化問題、人口減少問題が、一遍に解消した。人口曲線は、急激な右肩上がりに転じた(何しろ、減ることがないのだから)。――しかし、それで安心してしまったためだろう、新生児の数はますます激減していった。
日系移民の帰国の如く、死者達は順次時代、世代を遡って、陸続と帰国を果たし、戸籍を回復した(戸籍のない時代の人には、新たに造られた)。そして、生前の記憶と、死後の体験という、豊富な人生経験を元手に、各方面で活躍し出した。
法体系は全面的に再整備された。死者の所有権が認められ、従って相続というものがなくなった。それどころか、今戦争以降の相続は全て無効とされ、財産が元の持ち主の死者に返還された(これを、“逆相続”と呼ぶ。多くの死人の有力者が、それを望んだためだ。長く親子親族間のトラブルの原因となった)。
殺人事件等重犯罪は激減した。何しろ被害者がすぐ警察に駆け込み犯人を告発してしまうから、犯行が成り立ち得ない。――それに伴い、『推理小説』はリアリティーを失い、ジャンルとしてほぼ壊滅した。多くの推理小説作家が失業した。
死刑制度も廃止された。死刑が、ただ犯罪者をアノ世に放免するだけのものだと、分かったからである。一方死者の犯罪者には、コノ世への立ち入りを許さぬ(アンドロイド等の使用を取り締まる事で)、『追放刑』が新設された。この刑は別名、『黄泉流し』とか『黄泉送り』とか呼ばれている。
結婚制度も改まった。同性婚とかが認められるのならば、生者と死者の結婚もあり、ということになった。現に、今戦争で死別した夫婦で、戦後再び同居している、いわば“事実婚”のカップルが大勢いた(河野家もその一つ)。――かようにして、長らく人類文化史上のタブーであった生者と死霊の結婚が、現実のものとなった。八雲の世界だ。(永遠の生は、皮肉にも、永遠の愛など存在しない事を証明したが。)
――日本は文字通り、“死者の王国”として、蘇った。――
<1年と294日目>
母の老いは一遍に進んだ。生活の激変が心労となったのだろう。
病気勝ちとなり、避難民の間で広まった感染症に罹って死んだ。――そしてすぐに、アンドロイドになって戻ってきた。
健康体となり、随分と若返った。(40代程に見える。つまり今の私より年下に。)
アノ世で父と再会し、一緒に暮らしているという。父も私と会いたがっているというので、意を決し、一度訪ねてみる事にした。
杉田の実家は、建て直す前の昭和四十年代の、子供の頃暮らした懐かしい佇まいだった。玄関前の電灯の暗い赤みが、夕暮れの中帰宅した時の心細さを、胸の奥に酸っぱいものが染み入る感覚と共に思い出させた。
両親は、その年代が一番良かったのだろう、共に四十代程の姿であり、還暦過ぎの息子よりずっと若かった。私はコタツに足を入れ、父は私にミカンを勧めた。ミカンを剥きつつ、私は、出不精の父もたまには現世に遊びに来るよう、やんわり誘った。
コタツの周囲には合体ロボや怪獣ソフビや懐かしいオモチャが色々転がっていた。それらを手元に集め、あちこち引っ張り手慰んだ。
ロボのロケットパンチを着脱しつつ、何時しか私も、十歳程の(ユウ太程の)子供の姿に戻っていた。(これが、アノ世のスフィア・システムの、発現の仕方である。)
<5年と21日目>
「義父さんは、何も分かっちゃいない!」ユウ太は、反抗期の真っ盛りである。事あるごとに、この台詞を連発する。――亡者にDNAのある訳もないから、生理的意味では思春期も反抗期も到来する筈がないが、――これはやはり反抗期としか呼びようがない。
現物世界の時間経過と共に、ユウ太はアバター・アンドロイドを次々年相応の成長した姿のものに脱ぎ替え続けた。そして成長するアバター・アンドロイドに反対に似せるようにして、自らのアッチの世界のイメージも成長させていった。イメージを固定化出来る現物世界の手応えを活かして、“永遠の子供”から脱し、うまく変容を果たした。
それにともない、彼はコノ世での生き方を模索し、試行錯誤を重ね、段々勝手な行動、無謀な冒険を試みるようになっていった。時として現世の秩序を捻じ曲げてしまうのではないかと、ハラハラさせるシーンもあった。また、死者を顧みる事をしばしば失念する生者の世界に、機械の心臓が捻じ切れるような苛立ちを見せた。
こないだもテレビで、アウシュビッツ始め東欧の絶滅収容所跡を巡礼している犠牲者達を取材した、ドイツのドキュメンタリー番組を流していた。――あの部屋で僕は人体実験用に飼われていたんだ、と暗い目で語る少年。毎日毎日具の無いほとんど塩水のスープを飲んでいた、とおくびを漏らしつつ呟くやせこけた中年男。――インタビューに答える一人一人が、何百万という数の犠牲者の内の紛れもない一人だった。
今や世界のあちこちで、こうした巡礼の集団を目に留めぬ日はなくなった。あの日ツアー先の広島で見た光景が、全世界に拡散し繰り返された。亡者達の大集団が世界中を徘徊し、生者達はなるたけ彼等とバッタリ遭遇しないよう、家の中でジッとして暮らさざるを得なくなった。現世が丸ごと、夢幻能の舞台となりつつあった。日本史上の、世界史上の、あらゆる天災、人災、戦争、虐殺、等々、――それらの犠牲者、被害者、――が、自らを嘆き、生者に過去を振り返る事を強いた。
「不遇な死を遂げた者ほど、当然ながら現世への執着は強い。その執着の中味は、やはり“恨みつらみ”と、現世への“未練”だよ」テレビ画面を噛み付くような目で睨みながら、ユウ太は言った。「死者が無尽蔵に帰還するようになった今日の世界は、こうした“恨みつらみ”や“未練”が無限に“木霊”し続ける場所となる。人類は、過去の全てと、面突き合わせ面と向かって生きていかねばならなくなる。つまりは、未来が同時に過去である、そんな世界を僕達は生きる事になる……」
帰還者が増え、生者の領域にも死者の乗ったアンドロイドが頻繁に見られるようになりつつあった。そして、新たな問題が浮上してきた。
帰ってきた死者達は、その多くが家族や子孫との同居を望む。それがすんなり受け入れられればいいが(河野さんちのように)、そうはいかない(同居を拒否される)ケースも多かった。生者の世界では、幽霊に対する拒絶反応はまだまだ根強かった。気味悪がられ、疎まれた。死んだ直後ならばまだしも、高い法要代払って何回忌も済ませた後ともなればなおさらだ。
こんな事があった。花火大会の時知り合った青年から、相談を受けた。実家の母が、彼を受け入れてくれないという。
東京の大学に通っていた彼は、都内にアパートを借り一人暮らししていたが、そこで被爆死した。実家は三島の旧家で、早くに父親を亡くし、仲睦まじい母一人子一人の家庭だったそうだ。その母親が一人息子の帰宅を、頑なに拒んでいるという。
青年は、一緒に母親を説得してくれないかと、私に頼み込んだ。私は生者の死者に対する偏見を散々見てきたから、とても彼の母親を説得出来る自信は無かったが、それでも一応同行した。
母親はドアを半開きにするだけで、我々を中に入れようとすらしなかった。その空ろな視線は宙を漂い、決して青年の方を見ようとしなかった。――多分この母にとって、生きている息子の面影があまりに生々しく、アンドロイドの息子など絶対に認める事が出来なかったのだろう。より一層、おぞましい、忌むべきものと、映っていたのかもしれない。
私は理路整然と、かつ情に絡めて、青年の母親を説得しようと試みた。「奥さん。思い出して下さい」青年の記憶から母子だけが知る情愛溢れるエピソードを次々引き出し、それを母親にも思い出させ浸らせようとした。スウェーデンボルグ・インターフェイスの仕組みを説明し、従ってここにいる青年は正真正銘霊界から帰ってきた本物のあなたの息子なのだと説いた。そうして、目の前の青年を、今まで通り母の愛の対象として受け入れるよう説得した。――だが、無駄に終わった。青年の母の耳に、二人の話し声がちゃんと届いているのか否か、彼女の表情が変わる事はなく、二人の話に反応する事も無かった。
後日、青年の父親が、遅ればせながら帰ってきたという、死んだ頃の若い姿のままで。「俺の建てた家だぞ。家長様のお帰りだ!」と息巻いたが、やはり入れてもらえなかったそうだ。――青年の母は、今広い邸宅に、一人暮らしだという。
青年の家の隣家は、もっと酷い修羅場だと、近所の噂話で聞いた。老夫婦が暮らしている所に、三十年前に死んだ亭主が戻ってきた。元々大恋愛の末に結ばれた仲だったそうで、三十年経っても相手の事が忘れられなかったのだろう。二人の夫は家の中のそれぞれの場所に陣取って、睨み合いを続けた。先に出て行った方が負けだとでも言いたげに、生者の亭主は出前を取って、死者の亭主は通販のアンドロイド用燃料を届けさせて、二人とも一歩も家から出ようとしなかった。その間で板挟みになり立ち往生する妻。堅固な三角関係は、永遠に続きそうな気配だそうだ。
そこら中の家庭がこんな有様だから、ましてや元々揉め事の多かった家庭やら、ようやく姑が死んでくれてせいせいしている嫁やらが、死者の復帰を承知する訳がない。死者は死者で、独立して生計を立てられる者ならばいいが、家族や子孫を頼ってその情けにすがろうなどと甘い考えを抱いていた者達は、現世に居場所が無くなる事となった。すごすごアノ世に引き返す者もいたが、アノ世に馴染めずコノ世に居残る者も多数いた。――これが、新たな難民問題として、騒がれ出した。
居場所の無い者らは、あちこちの空き地やら公園やら寺の境内やらで野宿したり、あるいはNPOやボランティアが手配した公共施設やらシェアハウスやらを寝場所としている。亡者難民達の、コミュニティーが形成されつつある。前述の青年とその父親も、父子揃って自分達の墓のある寺でルンペン生活を始めたようだ。自分の墓石の周囲に、卒塔婆を屋根の梁に使って(俺のだ、文句あるかと)、ダンボール製の掘っ立て小屋を建て暮らしている。――本来死者が疎まれるというのは、当然といえば当然の事である。お盆のようにほのかに霊の気配が漂うぐらいなら親愛の情も湧くが、こう大人数で大っぴらに、大手を振って街中を闊歩されてはたまらない。家族に疎まれ拒絶された亡者達は、各所のコミュニティーから出動し、街を亡霊のように徘徊した。行き場所も無くし目的も無くした彼等は、正真正銘“生ける亡霊”だった。――そんな難民達のコミュニティーに、ユウ太が出入りしているようなのである。
ユウ太の帰りが、毎晩のように遅い。学校で部活動に参加するにしても、あまりに遅い。深夜近いこともある。私が問い質すと、ユウ太は、難民達と交わり、夜焚き火を囲んでフォークソングを合唱したり、テント村作りを手伝ったり、そんな事をしていると告白した。ユウ太に同郷の者への共感と同情のある事は、容易に想像が付く。彼等の境遇が、身につまされるのだろう。彼等が親族にすら邪険にされているのに対し、自分は赤の他人に良くしてもらっている。そんな恵まれている自分を、後ろめたく申し訳ないと思う心理も働いているようだ。
だが世間では、こうして存在感を増す亡者達に反発し、難民を襲撃し暴力を振るう事件まで頻繁に発生しつつあった。――こうした暴漢達にユウ太が襲われやしないか、難民を巡るトラブルに巻き込まれやしないか、心配だった。私は再三、夜出歩かないようにと注意した。――しかし反抗期のユウ太に、親の注意を素直に聞く耳は無かった。耳に入った分の倍返しで反発してきた。私の半生、平和で繁栄した日本で安穏と暮らしてきたそれを、薄っぺらい生き方だとまで言ってなじった。義父さんの死者への関わり方は、上辺だけの偽善的な活動に過ぎないと決め付けた。――親の心子知らずとは、この事か。何故君の事を思う私の気持ちが、分からないのか!
その夜も言い合いとなってしまった。――しかも、ユウ太の知り合いだという、難民アンドロイド三体まで我が家に上がり込み、口論に加わって。
大分縮小された仮設住宅街の跡地に、亡者難民用の集合住宅を建てる計画があった。しかし地元民や仮設住宅居住者達が、この計画に猛烈に反発し、反対運動が堰を切った濁流の如く溢れ返っていた。
私は態度を決めかねていた。亡者難民達の現状も理解出来るし同情もする。しかし一方、私自身仮設住宅の住民の一人でもある。
ユウ太は、ご想像の通り、私のこのノラクラして白黒はっきりさせない姿勢に、苛立ちを募らせていた。難民らと狭い仮設住宅の部屋に車座になって、私を責め立てた。代表格らしき男が言った。「鎌倉の花火大会やリンボ特区、広島へのツアーなど、岩田さんの活躍はユウ太君から聞かされ我々もようく知っています。我々のあり方に大変理解のある方だと。――その岩田さんが、今回の建設計画にはっきり賛成の意思表示をなさらないのは、如何なものでしょうか」難民達は私に、仮設住宅街の中に計画賛成の流れを造るよう、期待しているらしい。仮設住宅の住民も亡者難民も、同じ居場所を無くした難民同士ではないかと連帯感を煽る事で。
私はといえば、反対運動を巡る冷静な状況分析は話して聞かせたが、自らの態度表明はせず、彼等の支援要請もノラリクラリとはぐらかしてお茶を濁していた。――「義父さんはそうやって、いつもグズグズと自分の立場をはっきりさせない。逃げ回ってばかりだ!」ユウ太が苛立ちを爆発させた。
――その時、玄関の呼び鈴が鳴った。――ドアを開けると、仮設住宅街の自治会長と、その取り巻き達が立っていた。
悪い時に、悪い奴が来たものだ。――自治会長はニヤニヤしながら部屋の中を見回した。どうやら家の中の口論を立ち聞きしていたらしい、何せ壁板もボール紙の如く薄っぺらい仮設住宅だ。「おや。お客さんでしたか」白々しく言った。
自治会長の訪問目的は言われずとも分かっていた。今までもう十遍近く、同じ目的で訪問されている。――計画反対の陳情書に、署名しろというのだ。もうこの辺じゃ、署名していないのはあんただけだ、今日こそは書いてもらうぞと、自治会長はこれまでと同じ台詞を繰り返した。
以前からこの自治会長とは、何かとソリが合わなかった。大磯辺りの豪農で大地主だったらしいが、戦災で財産の悉くを失った。今の不遇な自分が、悪夢のようで信じられず、苛立たしくて仕方が無いようだ。特に私に対しては、自分達が着の身着のままで命からがら逃げてきたというのに、私の家族が遥か遠方の鎌倉からウマウマ逃げおおせてきた事が、最も気に食わないらしい。加えて亡者支援の有償ボランティアでそこそこ生活費を稼いでいるという噂も小耳に挟んでいるようだ。
それにしても、悪いタイミングで鉢合わせたものだ。自治会長らは許しも待たずズカズカと我が家に上がり込み、亡者難民のアンドロイドらと睨み合いとなった。
「お前ら、何時までコノ世にいるつもりだ」「そうだ。盆はとうに終わったぞ」「帰れ! アノ世に帰れ!」「そうだ。帰れ!」「帰れ! 帰れ!」盛んにシュプレヒコールをあげた。
ちゃぶ台前にドッカと胡坐をかいた自治会長が言った。「大体あんたら死人は、難民でも何でもない。帰る場所があるんだから。――ただアンドロイドを放棄してアノ世に帰れば、それで済む事だ」――「そうだ、そうだ。――帰れ! 帰れ!」シュプレヒコールが自治会長を援護した。
「コノ世に残りたい人達の気持ちが、分からないんですか。残された家族と、共に暮らしたい人達の気持ちが!」対峙したユウ太が反論した。「それに憲法でだって、ちゃんと居住移転の自由は保障されている。日本国民は、日本のどこに住もうが、自由な筈だ」
声変わりしたての子供に憲法まで持ち出され、無学な自治会長は瞬間たじろいだが、すぐ攻撃の矛先を今度は普段から何かと目の敵にしている私の方へ向けてきた。
「岩田さん、あんたが普段から死人どもに肩入れしている事は知っていたが、――こんな小僧の死人の言いなりになるのか!」
「義父さんは関係ない!」私が喋る前に、ユウ太が噛み付いていた。自治会長の屁理屈にユウ太は理屈負けしていない。まだ十五歳の子供に押され気味で、自治会長の顔のシワがますます険しくなる。――ユウ太は遠慮なく噛み付くが、大人の世界には近所付き合いとか世間体とかいうものがある。それがまた、純な心のユウ太には気に入らないようだったが。――生計をこの地に依存していなくてよかった。これが職場の上下関係だったら、理屈などジャブ程度に出してすぐ引っ込めねば、その後延々リングに這いつくばったままとなる。
狭くて話し声が丸ごと外へ漏れる仮設住宅の中で、生者と死者の言い争いはますますヒートアップしていった。自治会長に付いてきた地元のアパート経営者が、「この土地は、ワシらのものだ」言うと、「何を寝惚けてる。もっと遡れば、元々はワシらのものだ」と死者難民は反駁した。大人数の人間とアンドロイドが狭い我が家に上がり込み、難民と難民が狭い空間で大激突した。何もこんな狭い所で、やり合わなくても、……。
人数的にはアンドロイド側は劣勢で、理屈はともかく声量で終始押され気味だったが、――思わぬ援軍が到着した。
いつの間にか姿を消していた亡者の一人が、数体のアンドロイドを引き連れて戻ってきたのだ。――その新参のアンドロイド達を見た途端、自治会長の紅潮気味だった顔色が真っ青になった。――「健三。お前はまたこんな所でまで、人様に迷惑を掛けているのか!」新参のアンドロイドが、自治会長を叱咤した。見ると、自治会長とアンドロイドと、顔の輪郭やら目鼻立ちやらがそっくりだった。
「お前がワシらにした仕打ちを、父さん達は終生忘れんからな。――ああ、そういやもう死んどったか」アンドロイドは続けた。
「あの時は、仕方なかったんだ」自治会長が弁解した。
「こんな薄情な子に育っちまって、母さんは本当に情けないよ」女型のアンドロイドが、涙を拭くゼスチャーをした。「ご先祖様に会わせる顔が無い(だから、アノ世にいられないのか?)」
核の爆風で屋敷が潰れ、町を呑み込む大火災が迫り来る中、倒壊した建物の下に閉じ込められた両親や家族の者らを見捨て、自治会長は助かった妻と子供二人だけを連れてさっさと逃げ出したらしい。家屋敷も死体もいまだ死の灰の厚い層の下だが、亡き者達の魂だけがこうして自治会長の後を追い駆けて来、取り憑いたという訳だ。
「あの時は、散々助けようとしたじゃないか。時間の許す限り」
「嘘をつけ。まだ逃げ出す余裕は充分あった。それに、近所の者を呼ぶなり、納屋のトラクターを使って瓦礫を除けるなり、手立ては他にもあった筈だ。それを、自分達だけ無事だと確認するや、早々に逃げ出しおって」
「今だってそうだよ」と母親。「私らが訪ねても、泊めてくれすらしない。私らを路頭に迷わせて、……」
「だってこんな狭い仮設住宅だ。親子四人で目一杯だろ。これ以上どうやって詰め込めっていうんだ。――だから早く、アノ世に帰れと言ったんだ」
「お前は本当に薄情な奴だ、この親不孝者が」と父親。「昔からそうだった。お前は薄情なエゴイストだ。――高校の時、生徒会の会計だったお前は、予算をちょろまかして自分の好きなアイドルのCDを大量買いした。それを相撲部のチャンコ代のせいにしようとして、すぐバレた。おかげで先生方に呼び出された父さん達がどんなに恥ずかしい思いをしたか。子供の頃は、祭りで子供達に配る筈だった饅頭を一人でガメて、これまたワシらに大恥をかかせおった。こうした事が幾たびもあった。お前の小ズルイ悪さには、何度嫌な思いをさせられたことか。――聞けば、この縁の無い土地で、自治会長様だ何だとふんぞり返って、何やら理屈を捏ねとるらしいじゃないか。健三の分際で、何を偉そうなことを。お前は何時までも、根っからの根性曲がりだ」
さっきまで青かった自治会長が、今は羞恥で真っ赤になっている。まるきり信号機だ。四肢の先が痙攣し、震えが止まらない。思わぬ自治会長の秘められた過去の暴露に、反対運動派の者らの間に動揺が走り、シュプレヒコールの代わりにてんでのざわめきが支配する。優位に立った亡者難民側が、ここぞと押し返す。
深夜を過ぎての騒音に、苦情を言いに集まった近所の者達まで呑み込んで、我が家の周囲は黒山の人だかりとなってしまった。その騒ぎが、さらに多くの人々を引き付ける。まるでブラックホールだ。その超重力の中心点に、大人になりつつあるユウ太がいた。
そんなことがあった日より、しばらく後の事である。ユウ太と三嶋大社の例大祭に詣でた帰り、不運にも暴徒の一団と遭遇してしまった。
ハッピ姿で統一された一団は、御神酒で酔った勢いもあったのだろう、太鼓のバチや夜店を建てた余りの角材で殴り掛かってきた。ゴウンゴウンと、硬く空洞の物を叩き続ける音が、参道に終わることなく木霊した。ユウ太は、頭部と顔面に致命傷を受け、片腕と片足も折られた。私は必死で両者の間に割って入り、息子の体に覆い被さった。無頼の者達はさらに執拗に殴打を続け、私もまた背中と後頭部にかなりの傷を負った。救急車が呼ばれ、悪党どもは逃げ去り、私は一週間近く入院して治療を受けた。――が、ユウ太の方は壊れて身動き取れぬまま、その場に放置された。私の目の前で、無残に破壊し尽くされ、冷たい人工素材の固まりと化した。
退院し帰宅すると、居間の敷物の上にユウ太の残骸が山と積まれ、母と妹が悲しげにそれを見守っていた。私は、途方にくれた。ユウ太はどうなったのか? 十歳の時、新幹線に乗って我が家にやって来て以来、ユウ太のアンドロイドが身近にいない日はなかったのだ。
――だが、思い切ってアノ世の広島へダイブする事を決断する前に、丁度スペアの体の艤装が終わる頃のタイミングで、何事もなかったようにユウ太はフラリと帰ってきた。別に体の傷も心の傷も思い煩う様子はなく、前と変わらず元気だった。新しい体の間接の具合を、慣らすように時々確かめていた。――そうだった。――彼が、死ぬ訳はなかった。ただ体を、脱ぎ替えれば済んだのだ。
<5年と62日目>
ある日鎌倉から“帰宅”した時のことだった。机上のパソコンの前に、ドーナツ型をしたピンク色の“ガラガラ”が置かれていた。それは、もう三十年以上前、生まれてくる子供用にと、当時の私の恋人が勇み足で買い揃えた、妖精の舞うベッド上のモビルや、子犬の布製ぬいぐるみや、澄んだ鈴の音のガラガラや、等々の新生児用玩具の内の、紛れもない一つだった。
三十年以上も昔、まだ二十世紀の頃流行ったもので、今はもう出回っていない。――だが、――実はこないだ、ネットのオークションで、まだこの世に残っているのかどうか、調べてみたのだ。――かろうじて、全く同型同色のものが、ただ一つ出品されていた。
ユウ太の思春期の姿に、自分の子供ももし生まれていたらこんな風に親から独立しようともがくのかなと感傷的になり、つい思い出の品の事をネットで検索してしまったのだ。まだあるからといって、別に買い求める気などはなかったし、実際ディスプレーを眺めて存在を確認しただけだった。――それが、今、目の前に届いている。(まさか、夢遊病に罹って、寝ている間にオークションで競り落としたなんて訳じゃあるまいな。)
誰がやったのか?――母の死後、妹は三島の中心部にアパートを借りて家を出てしまった。今はユウ太と二人暮しである。(母がちょくちょく戻って、ユウ太と私の面倒をみてくれているが。)おかげで、家が狭過ぎるという事はなくなった。――ならば、ユウ太の仕業か? そうとしか考えられない。
だとすれば、一体どうやって?――ユウ太に私の水子の思い出など勿論話した事はないし、気付かれぬよう、悟られぬよう、パソコンをいじったのも彼が学校に行って留守にしている時だった。
意図は、何だ?――私に、思い出させるため? 強烈に印象付けるため?――遂には、復讐を遂げるため?――常々彼が口にしているように、死者を顧みない生者を振り向かせ、恨みを晴らすため?
まさか、ユウ太自身が、我が胎児本人、我が息子の成長した姿、なんて事はあるまいな?――そんな突飛な思い付きが、脳裏をふとよぎった。――会頭の縁者といっているが、実は我が水子がスフィアを操作し成り済ましているのではないか? 自分を捨てた父親に復讐を果たすために。――だが、人生の記憶を断片も持たない胎児に、そんな復讐劇が可能なのだろうか?(十歳の子供が成長するのですら、大変な苦労だというのに。)
その後もそうした妙な“他者”の気配が、私の身辺にはちょくちょく漂うようになった。――仮設住宅の薄っぺらい壁を隔てて、屋外から届く雨垂れの音や風の当たる音が、こちらの心中を見透かしたようなリズムを刻む。町を歩いている時なんかの拍子に、路地を曲がる直前に誰かが私の先に曲がり、あるいは曲がった直後に誰かが私の後をつけるようにして曲がる。犬、猫の愛玩ロボットが私にだけ、悪意ある接し方をしてくる。――コップの棚に置かれるべき位置が微妙にずれ、ママレード壜の閉め方がわずかに緩い。コーヒーミルのハンドルが手前を向いている(壁の側に寄せておいた筈なのに)。パソコンを立ち上げれば、思いもよらない幾箇所かの設定がいつの間にか変わっている。――単なる、気の迷いだろうか。決して具体的に、その“他者”の人影が見られた訳ではない、ただその“気配”のみで。私はその気配の主を、“影法師”と呼んだ。
私はガラガラを、古い荷物(三島への逃避行以来の)の奥に隠した。ユウ太に見付からないように。だが、捨てる気にはなれなかった。影法師がまたこれを目に触れる所に持ち出す事はないか、そんな事に気を揉みながら日々暮らした。
<6年と169日目>
円覚寺裏手に屏風のようにそびえ、北鎌倉を東風より守る六国見山に久々登った。ここから明月谷を隔てて天園周辺までの峰々の連なりが、リンボ特区最大の拠点となっている。
北鎌倉から一段登った山の中腹は、三方山懐に抱かれた、かつて円覚寺裏山の奥座敷の如き風情ある隠れ里だった。畑が広がり、耕作小屋が点在し、梅や柿や柚子の木が畑道沿いに植えられていた。私はよくここから六国見山の展望台目指して坂道を登ったものだ。登りながら、柿の種を周囲の藪に蒔き散らした。――実は、ある野望があった。――杉田の実家に大きな柿の木があり、毎年秋になると大量の柿の実を付ける。私はそれを鎌倉へ持ち帰り、毎日食べ続けた。そしてその食べかすの種を、山に蒔いて柿の樹林の繁茂を夢見たのだ。ハイキング・コースに、突然熟した柿の実のたわわに実る樹林が出現したら、登山客がさぞ面食らうだろうと。――だが遂にそんな景色を見ることもなく、山の木々そのものがついえた。
これまで、後生大事に、全国に先駆けて歴史的風土保存の法令まで整備して、守ってきた古都の緑だったが、核の熱による山火事で丸裸となってしまった。当初は植樹による再生が試みられたが、強烈な残留放射線の影響で、木々が育たないか、あるいは育っても突然変異で予測不能の怪物的植物に変身してしまうかする事が判明し、諦めざるを得なかった。
ならば、有効利用しよう、ということになった。丁度参入者の膨れ上がる特区用に、広大な敷地を必要としていた。禍を転じて福と為す、と若い市長は言った。多くの鎌倉市民が、緑の山々に未練を残しつつ、無残な禿山を見続けるよりはマシかと考え直した。
隠れ里は造成され、全ての面影を取り払われ、特区の西の玄関口となった。空港ターミナルの如き建物が、来訪者を峻別しつつ出迎える。ハイキング・コースの上り坂は、二車線歩道付きの舗装道路に整備された。それに沿った周囲の藪は、僅かに残った雑木も伐採され、大胆に山裾が切り崩され整地され、ひな壇のような研究都市に様変わりしてしまった。かつてのハイキング・コースに沿って、異様な形のビル群がその両側に林立し、これまた奇妙な出で立ちの(各出身地区・時代ごとに個性的な)アンドロイド達が、それら建物間をせわしく行き来している。
彼等を掻き分け(ハイキングしている気分ではなく、町の雑踏を掻き分けている感じだ)、ようやく旧展望台に着いた。昔はここから、遠く六国(相模、武蔵、上総、下総、安房、伊豆)が見晴らせた。今は一番高台の中央広場になってしまって、周囲に見晴らせるのは歪な形の高層ビルばかりである。
広場の中心に僅かに盛り上がった丘があり、これが昔の展望台の名残だった。丘の下の東屋では、いかにも二十世紀フランス風のエスプリの効いた哲学者の一団と、これまたしかつめらしい近世ドイツ風の哲学者の一団が、激論を戦わせていた。それを大きく迂回し、小さな丘にようやく辿り着き登ると、唯一昔を伝える石のモニュメントがあった。核の熱にも負けず、昔の姿のまま生き残ったものだ。六国の方向を示す矢印がその天辺に彫られた、腰程の高さの石の加工物だった。
その石の表面の刻印をしんみりと見詰めつつ、今は見えない六国を確認するように矢印の示す方角を目で追っていた時だ。――不意にモニュメントの台座の陰から、ヒョッコリと一人の老人が現れた。
どこに隠れていたんだ? 台座に空いた隙間の中か?――気付かなかった。――そりゃ小さな子供ならその隙間に身を潜ます事も可能かもしれないが、……。あるいは、痩せて小柄な老人ならば、かろうじて、……。――だが、目の前の老人は、かなりデップリとして、恰幅がよかった。
「今はもう見えなくなってしまった六国を、お探しですか?」老人が唐突に、野太い声で私に尋ねてきた。私のさっきからの挙動を観察していたのだろうか。「もっとも相模の国の現状だけなら、周囲に幾らでも御覧になれますがね」続けた。――この声、どこかで聞き覚えがあるように思うが。
――老人の喋る話題が豊富だったので、妙に興味をそそられた。道連れの散策となった。
「かつて鎌倉の山はといえば、怪しげな怪異譚の巣窟でした。鎌倉時代から連綿と、……遠野にも負けずにね。――夜山の上を渡る不思議な光と、人家に飛び込んでギャーッと一声鳴き禍を招き入れる怪鳥の話の二つが、幕府時代の怪異の定番でしたな。あと、天園のある鎌倉最高峰大平山の山並みの倍はあるノッペラボウの入道とか、江ノ島の洞窟に群れる人魚とか、壇ノ浦で塩水を思いっきり呑まされた平家の落人達が、甘露の井の水を求めて鎌倉中を彷徨うとか、……。――数え上げたら切りがない。
ところが、――」
老人は、ゆっくりと右腕を上げ、周囲の風景を指し示した。――望遠鏡や顕微鏡を携えた近世ヨーロッパの科学者達が、大通りを右から左へ横切り、魔法円とフラスコとヘルメス文書が欠かせない中世の錬金術師達が、前者と交差するように大通りを左から右へと横切っていく。さらに、中国の儒学者、インドのヨガ行者、イスラムの化学者、産業革命当時の発明家、啓蒙主義時代の百科全書派、東山文化の好き者等々が、互いを何等気にかける風もなく、平然とすれ違い、雑踏を造っている。この辺りは、そんな界隈だった。――プロジェクトのエージェント達が、手当たり次第に勧誘してきた連中だ。彼等は、物見遊山で現代を覗きに来る者もいれば、刺激的な交流に魅了されて定着する者もいる。
「今はその怪しげな者達の方が前面に出てしまって、真っ当な人間世界、鎌倉の庶民達はすっかりその陰に隠れてしまった。明と妖が、まるきりアベコベだ。――連中の、復興に名を借りた浮かれはしゃぐ姿を見ていると、人はしばしばゲームのバーチャル世界で羽目を外し好き勝手するが、霊達にとってはコノ世こそ奔放に遊べるバーチャル世界なのではないか、とそう思えてならない事がある。おっと、そう言う私自身、そんなアノ世の亡者の一人に過ぎないんですがね。――だが、昔の、闇に隠れていた頃の怪異達は、そんな在り方はしていなかった、……」まるで自分が昔話の怪異の一匹ででもあるかのような口振りで話す。
私達は、明月谷をまたぐ、大平山方面と六国見山方面を結ぶ巨大な立体橋に差し掛かっていた。眼下にかつての明月院を見下ろしつつ、都市伝説の類だろうが、六国見山に現れるという“仙人”の話を思い出していた。その仙人は、六国見山に住まう古い霊とも、酔狂の度を越した地縛霊とも、言われていた。ただ、昔の出来事をやたらとよく知っていて、それらを捕まえた相手に延々話し続け、説教を垂れるという。相手に合わせその姿を変え、時に美女、時に生真面目な教師、時に不良少年、時にコワモテのヤクザ者だったりする。(まあ、アンドロイドはあくまでアバターなのだから、生前の自分の似姿にする義務はない。ネットギャル(中年男が美少女に成り済ます)と同じで、何に化けようが自由である。だから本当の正体は、結局分からない。)
あるいは、狭い台座の隙間から手品のように現れた事といい、彼こそその仙人なんじゃないか?――そういえば、あの声といい、体格といい、顔の造作といい、彼が誰かに似ているとずっと思い続けていたのだが、……思い出した。――商工会の会頭、その人だった。
ただし、会頭ならば、年を取り過ぎている。それに彼は、花火大会の後、復興鎌倉で奇跡の焼き菓子を大いに売りまくり、その販路を全国全世界に広げて、今では日本や世界の長者番付に名を連ねるまでになったと聞いている。とてもこんな酔狂な戯れ事をしている暇があるとは思えない。――そこで、ふと思い付いた。もしかすると、会頭に瓜二つだったという、彼の亡き父君なんじゃなかろうか? それが、息子の栄華を極める様を心配し、迷って出たのではないか?――だとすると、今目の前にいるこの人物こそ、あの驚異の焼き菓子のレシピを考案した、伝説の菓子職人その人ということになる。何だかますます仙人めいてくる。
建長寺の裏山、半僧坊付近に差し掛かると、いよいよ建物群が混乱を極めてくる。奇妙奇天烈な建物の、オンパレードである。歪み、凹み、出っ張り、とぐろを巻き、旋回し、うねり出す。球や円錐や多面体やメビウス状のねじれはまだマトモな方で、龍宮城あり、鹿鳴館あり、巨大カタツムリあり、笙の笛の如き摩天楼の集合体あり、垂れ下がった藤棚様のものあり、飴細工の菓子を真似たものあり、部屋の配置がせわしく動き回る立体テトリスあり。山腹山頂からニョキニョキ生え出し増殖する異様な影が、眼下の風雅な市街地を睥睨するように見下ろしている。
「“死を想え”、と昔から言いましたな」老人だか仙人だかが、再び話し始めた。周囲に外国からの視察団をやたら見掛けるエリアに入っていた。盛んに動画を撮ったり、レポートをレコーダーに吹き込んだりしている。戦前の日本ブームに浮かれた観光客に代わり、今はこうした、日本の異様な現状を興味津々の世界に知らせようというジャーナリスト達が、圧倒的に増えた。鎌倉は特に、彼等の注目の中心にある。
「死を想えば、何もかも突然断ち切られる終焉を、意識せざるを得なくなる。有限な生だからこそ、人はそこで出会う何ものかに、価値を見出し、価値を造り出す事が出来るのです。――際限の無い生に溺れた者に、それが可能でしょうか?」伝説の菓子職人なればこその、これが彼の辿り着いた境地なのだろうか。
外国からの特派員らしいインタビュアー達が、どこの誰だか見当も付かないが、詩人か画家か音楽家か宗教家か謎めいた者達を捉まえ、盛んに発言を引き出そうとしていた。この地に招聘された彼等も、負けじとパワフルにそれらに受けて立つ。アノ世で数百数千年練りに練ってきた思想や作品を、ここぞと披露する。
全世界の好奇の目に応えるべく、真実に肉薄してトコトン告げ知らせようとしているジャーナリスト達だが、受け取る側の感じ方はそれぞれの立場により各人各様だろう。例えばキリスト教国なら、死者の復活は近いというメッセージと捉えるだろうか。(もう既に、現に復活してしまっているが。)――そして、これら情報を漏らさず収集しているだろう、日本の復興のため死者の復活を後押ししたアメリカや、その背後の多国籍企業シチャカ社の意図とは、一体どういうものなのだろうか。
「彼等は、公害問題や高齢化問題の時と同様、日本を先行指標として注視しているんですよ」こちらの考えを見透かすように、仙人老人が外国人ジャーナリスト達の巻き起こした喧騒を見渡しつつ言った。「そしてアノ世に徐々に侵食されていく現場を睨みながら、――将来的には、――第三次世界大戦後の、環境破壊後の、あるいはその他のカタストロフ後の、生き物の住めなくなった世界での、“人類の(死者との)総入れ替え”の可能性までも、既に見据えているんじゃあないですかね。――そうなったら、それは人類の滅亡なんでしょうか? それとも繁栄なんでしょうか? 生物の絶滅なんでしょうか? 最終形態なんでしょうか?――まあそこまでいったら、さすがに考え過ぎでしょうがね」
インタビュアーの一人が私に近付いてきた。「……冥界から呼び出されるとは、どんなご気分ですか?」私がまだ生きているとも知らず、そんな事を訊いてきた。
訳を話して(青い目のアンドロイドは、大袈裟に驚いた表情を作った)、丁重にインタビューを断った。
トボトボと立ち去るインタビュアーとカメラマンの後ろ姿を目で追いつつ、老人はポケットからくだんの焼き菓子を二枚取り出した。一枚を私に渡す。「生きている者がいなくなったら、本当に新しいものは、造れるんでしょうか? 永遠の生に生きる死者達に、終わりの区切りという運命を知らない彼等に、本当の意味で新しいものを造る事は、可能なんでしょうか?――それとも、この山々のお祭り騒ぎのような、ただ生を弄び、同じ材料を永遠にこねくり回してパロディーを造り続ける、そんな自家中毒のような亡者どもの、如意であり偶有性のポテンシャルが最低レベルの世界に堕して、我々は停滞したアノ世の牢獄に閉じ込められ、永遠の終身刑を受け続ける事になるのでしょうか」言いつつ彼は、絶佳の菓子を口に入れ、パリンと音を立てて、苦いものを噛むように口一杯それを頬張った。
<8年と222日目>
ユウ太は大学に進学した。そしてサークル仲間だという友人を家へ連れてきた。
ユウ太が学校の友達を家へ連れてくるなど珍しい、というより初めての事だ。もっとも、とてもじゃないが、友達を誘いたくなるような“我が家”には程遠いが。
初めて来た筈の家なのに、その友人はまるで勝手知ったる家に入るように動きに迷いがなかった。部屋の中を見回すでもなく、初対面の私といきなり見詰め合った。物怖じする気配が微塵もなかった。そして、その目を逸らし、顔の右半分を見せた。――そこは、多くの皮膚と肉がこそげ、口の端が耳近くまで裂け、歯根と眼球が露出していた。――その顔は私に、あの広島ツアーの時一部の皮肉な亡者達が見せた、被災直後の姿のアバターを思い出させた。と同時に、何故か私に、“悪霊”という言葉を、とっさに思い浮かばせた。
「ああ、これですか」故意に見せ付けておきながら、青年はようやく気付いたという風に、芝居がかった弁解をした。「レンタル屋の3Dプリンターの具合が悪くて。送ったアバターのデータをうまく取り込めなかったようです」ユウ太の持ってきた茶を、隙間だらけの口の右半分で勢いよく啜った。「お見苦しいところを……。その代わり、レンタル屋には大分値切らせましたがね」愉快そうに笑った。
「こいつとは、高校以来の腐れ縁なんだ」ユウ太が青年を紹介した。「大学も一緒になったし、今じゃ同じサークルで活動している。ホントに腐れ縁だな」
青年は、“深浦”と名乗った。「同じアノ世からの“生き返り組”という事で気が合ったんですが、……ユウ太の奴は生き直すとか高尚な事を言ってますが、……俺は、コノ世に留学、いや、遊学かな、……」深浦はまた笑った。
しばらく会話が途絶えたが、その間深浦青年は、湯飲みを口元にささげた姿勢のまま、部屋の奥の押入れの辺りをしきりにチラチラ見ていた。それも、風呂場と壁を隔てた、一番奥まった辺りを。私も殆ど忘れ掛けていたが、あのピンクのガラガラを包み隠した荷物を、ガラクタの後ろに押し込んだ場所だった。“悪霊”深浦青年の口元に、薄ら笑いが浮かんでいるように思えてならなかった(口の端が上向きに裂けているせいかもしれないが)。この男、何か知っているのか?
やがて視線を戻し、言った。「今日は、ユウ太のウチに遊びに来たというより、ユウ太のお義父さんに会いに来たんですよ。色々と、お訊きしたくって。――それで、無理やり押し掛けてきました」茶請けの芋けんぴを一本摘みながら、何の臆面もなくそんな意外な告白をした。ユウ太は、ただニヤニヤして、二人のやり取りを見守っている。
「高校の頃から、お義父さんの話はユウ太から色々聞いていました。生者なのに死者の親代わりをしているとか、鎌倉で両方の世界を繋ぐ窓口として活躍しておられるとか。それに、現世の広島に嫌がるユウ太を無理やり引っ張っていき、ツア・コンとして死者達の里帰りを成功させたという話、感動したなあ。それって、今世界中で見られる死者達の被災地巡礼の、ハシリですよね。俺達のサークルの活動とも、ピッタリ重なり合う。サークルの顧問になってもらいたいくらいだ、……」
よく喋る悪霊の裂けた口元を見る内、ピンときた。この男こそ、例の“影法師”の、正体なんじゃないか? ユウ太と高校時代に知り合ったというのなら、ガラガラの出現した時期ともピタリ符合する。先程の押入れの方をしきりと気にしていた素振りも、私に対する示威行為なんじゃないか?
「その君達のサークルって、何をしているんだい? こっちこそ、興味があるよ。――死者の巡礼と関わるという事は、まさかテニス・サークルや合コン・サークルじゃないよね。君等の活躍を、是非とも聞きたいな」主導権を取るべく、話題を切り替えした。
深浦君とユウ太は、しばらく目配せし合い、話すべき内容を精査しているようだった。こんな視線のやり取りだけで会話出来るとは、既に親子の関係を凌駕する友情を、この現世で築き上げているという事だろう。(仮ながら)父として羨ましく、そして嫉妬した。
「“情報の非対称性”、とでも言ったらいいのかな、……」やがて深浦青年が、長丁場を覚悟したという風情で、ゆっくりしたペースで喋り始めた。「よく例に引かれるのは、“イルカの人命救助”の話ですかね。イルカが溺れている人を岸まで運んでいったという美談、言い伝えでもよく聞きますよね。――ところでイルカには、海面に浮かんでいる物体や生物を、突付いて遊ぶ習性があるそうです。ですから、溺れている人がいれば、突付いて遊ぶ。それがたまたまその人を助ける方に作用したり、あるいは岸まで運んでいったりすると、あたかもイルカが人を意志を持って助けたように見える。――しかし逆に、溺れている人の足を引っ張ったり、沖の方へと連れ去ってしまったりしたら、その人はもう生還できませんから“イルカは人間を故意に殺す”という話を伝える人はいなくなる。結果、“イルカは人を助ける”という話だけが、あたかも真実のようにして語り継がれることとなる。――こういう情報の偏りが、“情報の非対称性”です。
核の被害についても、同じような事が言えます。何故なら、爆心地のまさに中心で起こった出来事を伝える人は、誰もいませんから。伝えられるのは、その周辺の、ぎりぎり生き残った人々が伝える話ばかりです。
我々のサークルのしている活動は、そんな情報の対称性を回復させる事業、と言えるかもしれません」“悪霊”は一旦話を切り、剥き出しの歯根の間に芋けんぴを数本挟んだ。そしてユウ太を振り返った。「そんな爆心地で本当に起こった事を聞きたいなら、ユウ太に話を聞くのが一番手っ取り早い。なあ、……」
ユウ太は頷き、話した。「そういう事になるな。――僕がそこで見たものといえば……、赤黒く溶けた死体が、道路を埋め尽くしていた光景だった。自分も同じように溶けかかっていたが、どろどろの体を引き摺って同じどろどろの仲間の死体を踏ん付け押し潰しながら彷徨った。踏む者と踏まれる者と同じどろどろだからそのたび溶け合う。誰が誰だか、どこまでが自分だか、分からなくなる。その内とうとう動けなくなり、他の人間と一緒くたになって、今度は自分が踏ん付けられた、……。――そんな記憶を、記録化させて、アーカイブに残したんだったな」子供の頃にはあり得なかったことだが、ユウ太は爆心地の惨事を克明に語りつつも、パニックを起こす気配はなかった。既にフラッシュバックをコントロールするすべを身に付けたようだ。
「これが、加害者だけが生き残り、被害者は全員死滅した大惨事、大虐殺事件の類いとなると、非対称性はさらに酷くなる。一方に偏った記録だけが、歴史に残る事になる。まさに、“非対称な歴史”そのものですね」と、悪霊。「そんな非対称性を解消し、真正の歴史を打ち立てるためには、死んだ者達の声を聞かなければなりません。語り得ぬ者、伝え得ぬ者が、今こそ本当の被害の有様を、語り伝えるべき時なのです。
我々のサークルは、そのお手伝いをしているんです。――全国全世界の大学や関連団体と連携して、被害者の記憶を記録化する、巨大アーカイブの構築を計画しております」
「ホウ。アーカイブの構築、……」初耳だったが、なるほどユウ太の関心事には相応しいサークルのように思えた。
「歴史に埋もれていった多くの被害者、犠牲者の間を渡り歩き、彼等にインタビューし、証言してもらうんだ」今度はユウ太が、補足説明した。「アノ世のスフィアは記憶を固定化することが出来ないからね。それらを現世へ引っ張り出して、記録として固定化する。――聞き取りのテキストばかりじゃない。丁度自己イメージをアバターに固定化するように、経験した出来事のイメージを画像や音声や映像に固定化する。言わば、“過去の事件の再現映像”、だよ。それらをアーカイブにまとめ、自由に閲覧したり利用したり、出来るようにするんだ、……」
「そんな受け身のアーカイブだけじゃ、俺は済まさない」突然悪霊の怒声が、ユウ太の説明に覆いかぶさるように空気を圧した。「ただの情報整理の図書司書に納まる気は毛頭ない。――もっと劇的にもっと過激に、――俺もサークルも、“運動体”であり続ける、……。そのために、ユウ太のお義父さんの手助けが欲しいのです」
「私の?」何故かここで話題が、また私に跳ね返ってきた。
「ええ。――鎌倉のリンボ特区の設立にお義父さんが尽力されたと、ユウ太から聞きました。アーカイブの更なる充実のため、サークルのより過激な運動のため、つまりはアノ世とコノ世の垣根をさらに取っ払うため、――スウェーデンボルグ・インターフェイスに続く諸々のテクノロジーを導入したいんです。リンボ特区で研究されている、それらを……」
「やれやれ、」と溜め息を漏らしつつ、ユウ太は友愛を帯びた視線で友を見た。「君は本当に、見境なしに突っ走るな。エスカレートさせる事を、楽しんでいる。まさに前世の、学生運動の闘士そのままだ。心配になる」
「“因果は繰り返す”かね。生まれ変わっても何も変わらない。いやむしろ、余計な命とやらなんぞに縛られず、吹っ切れた気がするよ。純粋に“革命”に、邁進出来る」
「革命? 学生運動の闘士?」
「ええ」とユウ太。「こいつが活躍し、そして死んでいったのは、丁度義父さんの生まれた頃かな」
「今は昔の、懐かしい話だ」と悪霊。
「ドストエフスキーの『悪霊』って話、義父さんも知っているでしょう?」とユウ太に言われ、私は心中を覗き見られたと思い、ドキリとした。
「あれに出てくる組織指導者や悪魔的超人のように、前世でこいつは高校に自ら造ったセクトを引っ張り回し、挙句瓦解させてセクトの内外に多くの犠牲者を出したらしい。今度も同じ轍を踏むんじゃないかと思うと、ヒヤヒヤですよ」
「『悪霊』か。あれを読んだ時は、心が震えたな」と“悪霊”。「百年も前に、何でドストエフスキーが予言するように、俺の事を書いているのか、と思ったよ。そう、俺の内面は悪魔のような超人スタヴローギンで、行動は破滅的組織指導者ピョートルそのままだった。まるっきり、両者をなぞったように生きてきた。理想の“革命”のために、仲間達をコマのように使い捨て、状況を演出家のように捻じ曲げていった、……。――だが結局、“革命”なんて、ただの口実に過ぎなかったのかもしれない。虚無主義者で破滅志向のスタヴローギンのように、自分の破滅に世界を引き摺り込んでやろうとしただけだったのかもしれない」
「オイオイ。二度目の破滅に、僕達まで巻き込むのは勘弁してくれよ。もっとも、何度破滅しようが、結局アノ世の振り出しに戻るだけだが」今度はユウ太がチャチを入れた。
年頃の子供が、危険な臭いのする“悪友”を持ちたがるのは、世の常だ。そして、“友は選べよ”と忠告したくなるのも、親の常だ。なるほど、アノ世の霊も生前の生き方を引き写したものだとしたら、善い霊も凡な霊も、悪い霊も小悪党もいることだろう。途轍もなく悪い奴がそのまま霊のみの存在となれば、そいつが“悪霊”と呼ばれても何の不思議もない。
「若気の至り、ってやつかな。あの頃は、それが世界や人生の全てだと、本気で思ってたんですね」と未熟な“悪霊”は続けた。「で結局、スタヴローギンの後を追い、同じ穴に落ちた。――俺は、“自殺者”なんですよ」
日本から溢れ出すように、スウェーデンボルグ・インターフェイスの普及と歩調を合わせ、アノ世の領土は地球全体へと拡大していった。特に世界中の紛争地に、多くの犠牲者と絶望を抱える地に、それは強力に根を張り苗床とした。さらに世界の各地へと、不幸と凄惨の飛沫の跡を追うように、希望の種となって飛び火した。――北朝鮮以来、弾みを付けて拡散する核が、テロや地域紛争の増殖に拍車を掛け、それがますますインターフェイスの普及を後押しした。
また、そうしたのっぴきならぬ事情がなくとも、ごく普通の先進国の一般市民で、一刻も早くつらい現世にオサラバして来世の自由を享受しようとする者達も急増する傾向にあった。もう、死ぬ事は怖くなくなった。生き続ける事を前提とした蓄えも備えも、不要だった。人々は、刹那的に生き、あっさりと死んでいった。生の道徳は、廃れ地に堕ちた。――他方、アノ世の“夢の国”に住むことに倦んだ亡者達が、現実の硬い壁の手応えを求めて、陸続と現世へ舞い戻る事例も激増した。両者の傾向は、丁度双曲線のグラフを描く事となった。
だが、こうした潮流に呼応するように、アノ世との交流を拒否する反対勢力も急速に膨れ上がっていった。――多くの心ある者達が、これらの事態に危惧の念を抱いた。コノ世とアノ世の隔壁の取り払われた今の世界は、果たして正しいあり方をしていると言えるのか。そも、人間が造った技術と同じシステムで動いている“アノ世”など、人類以前からあったといっても、果たして本当の“死後の世界”と言えるのだろうか。人類が長く夢想してきた、神や仏のおわす来世が、こんな俗っぽい出来合いのものであろう筈がない。(そう思う人々は、人間にはやはり“本物の魂”というものがあって、死ねばシチャカ社のインターフェイスの見せるものとは違う、どこか別の所にある“本物のあの世”に行けるのだと、いまだ頑なに信じていた)
“交流”賛成派と反対派の対立で、現世は騒然としてきた。反対派は交流をアノ世からの侵略と見做し、あらゆる機会を捉えそれに強行に「NO!」を突き付けた。そしてしばしば実力行使に訴えた。シチャカ社のインターフェイスの動いている各地のサーバーを破壊して廻り、死者の乗ったアンドロイドを執拗に襲撃した(かつてユウ太の身に降り掛かった惨事が、全世界に拡大した形だ)(間違えられて、普通のアンドロイドも、そしてアンドロイドっぽい本物の人間も、随分壊され殺されたようだ)。
そうした世情に便乗したエピソードの一つだが、バチカンは死者達を“異端的存在”として破門した。そもそもスウェーデンボルグの教え自体が、カトリックの教義においてはとんでもない異端だった。だから、そのスウェーデンボルグの唱えるアノ世など悪魔か何かの創ったマガイモノに過ぎず、そこで暮らす霊達も、いわばAIの如き存在であって、そこに本物の“魂”は宿っていない。本当の、神の創った“アノ世”は、別にある、と彼等は強く訴えた。
ところがそのバチカンに、困った事態が持ち上がった。歴代の法王達が、次々と帰還し出したのである。バチカンは彼等の扱いに困った。話を聞くと、ロボットのような外見はともかく、どう調べても死んだ本人である。無下には出来ない。さりとて、本物の法王とも認めがたい。加えて体育会系の体質が災いした。何しろ、より先代の法王の発言ほど重みがあり、現役の若輩者はそれに逆らえない。そのくせ教義では彼等は単なるAIとされ、それは本人達も承知している。彼等の発言は、あくまで参考意見である。そうこうする内、帰還する法王や枢機卿はますます増え、その人数は膨れ上がる一方となった。そして、より古い時代の発言者ほど、それまでの教会のコンセンサスを次々土台からひっくり返そうとする。バチカンは、身動きならない、機能不全に陥った。
死者達は、一斉に反発した。そもそもアノ世のどこを探しても、神様など見付からなかった。天使も見当たらない。いるのは、人間(死人)のみで、あとせいぜい自分を天使だとか悪魔だとか錯覚している狂人達だけである。そしてアノ世では、死はもう恐ろしくないし、老いる事も病に罹る事もない。飢える事も、戦争や暴力の犠牲になる事もない。既に“救済”されているので、これ以上の“救済”は要らない。最も宗教を必要としない世界だった。そこは、スウェーデンボルグの報告した法則だけが支配する、純粋に物理学的な世界であり、コノ世の人々の予想に反して、最も反宗教化、無神論化、唯物論化の進んだ世界だった。人々の心は宗教から離れ、そんな辛気臭いもの忘れ去った。あれは“必要悪”だったのだろう、という結論に達した。
――そしてそうした“交流”の流れを堰き止めようとする反対勢力に抗するように、アノ世から“人類の罪”を弾劾する者達が陸続と来訪するようになった。近現代史上の、そして現在進行形の、あらゆる“人類の罪”が、弾劾に掛けられた。人種差別、民族浄化、宗教弾圧、新大陸等での先住民の殲滅、歴史の随所で起きた侵略軍による殺戮、ナチのユダヤ人虐殺、ユダヤ人のパレスチナ人弾圧、日本軍の大陸での暴虐、そして原爆始め、無差別空襲による大量殺戮。彼等は大同団結し、『全人類被害者同盟』(略して“ゼンヒドウ”)という組織を結成した。
この“大同団結”というのが、ミソだった。「やる側の理屈はさまざまだが、やられる側の痛みは同じだ」彼等は異口同音に訴えた。ホロコーストで殺されたユダヤ人と、ユダヤ人に追われたパレスチナ人。日本軍に惨殺された中国人と、空襲で焼かれた日本人。ラテンアメリカの独裁者に処刑された者と、ソ連の収容所で飢え死にした者。生前なら敵味方の立場の筈の者が、コノ世に再来した今、やられた側の痛みという共通項で、小異を捨て大同に付いた。(対して、ナチや、ボルシェビキや、各地の民族主義者達や、かつて加害の側にあった者達も、前世の因縁を引き摺り、被害者達に対抗するためコノ世に押し掛けたが、彼等は互いに敵対こそすれまかり間違っても団結する事は出来なかった。(互いの違いこそ、彼等の拠って立つ所なのだから。)そのため、たちまち勢力が減衰し、雲散霧消してしまった。)
ゼンヒドウの活動は、生者死者通じて共感する者も多く、世界中に素早く浸透していった。各地に支部が出来、企業や大学単位のサークル活動も盛んと聞く。死者の巡礼の支援や歴史上の犠牲者の体験談のアーカイブ化も、彼等の活動の一環だろう。とすると、ユウ太達のサークルも、ゼンヒドウの系列という可能性が高そうだ。
「人生は続くよ、どこまでも、……」“悪霊”が、おどけて歌うように喋り続けていた。「不死の我々は、自殺する事さえ許されていないのです。――こいつは、重大な問題ですぞ!」さらに言った。
悪霊は、芋けんぴの皿を手近に引き寄せ、食べ始めた。「全てを終わらせる積もりで死んだら、何も終わっていなかった。――この気持ち、分かりますか?」両手で芋を交互に摘んで、口に運んだ。「アノ世では、絶望と自堕落が続きました。そして、孤独も。とてもじゃないが、俺と共鳴出来る他者なんていませんからね。他者のスフィアと、コンタクトの取りようがなかった。――しかし一方、もう革命の必要もなく、この世の不条理も現前し得ない。スフィアの繭に守られ、そして閉じ込められている。――そうして六十年も過ぎた頃、現世へのルートが開通されたと知った。すぐに、飛び付いた。
とにかく、死んでも死ねない以上、新しい生き方を探さざるを得なかった。死んだ頃の年齢に近い高校入学からやり直しましたが、そこでユウ太と知り合った訳です。死者としての年季の入った同級生の数は少なかったが、広島で被爆死した人生をやり直したいと言うユウ太は、少なくとも俺の眼からは異様な輝きを放つ原石に見えた。そして思った通り、いい友達になれました」
悪友に見初められ、自分もその悪友を親友と思い定める。なるほどユウ太の言う通り、これは“腐れ縁”だ。
「例えば、“胎児”です」悪霊が、突然切り出した。「生まれる前に堕ろされてしまった“水子”の霊を、想定してみましょう」
やはりこいつが、“影法師”なのか?――悪霊の突然の指摘に、私の心は瞬間千々に乱れた。しかし、余りに瞬間過ぎて、かえってそれが外に漏れ出る事はなかった。――――あるいは、それどころか、奴こそ我が“胎児”本人?――疑い出したら、切りがなかった。
「“絶対の孤独”ですね、胎児の浮かぶ羊水のスフィアの海は。――俺の孤独なんぞの、比じゃあない」“悪霊”“影法師”は、続けた。「痴呆老人や、各種の精神疾患を患った霊は、まだ救いようがあるんですよ。人格の“核”となる人生の記憶の蓄積が、アノ世のアーカイブにちゃんと残っていますから。あとは、現状の人格を、そちらのより好ましい人格へと、導いてやればいい。それがすなわち、アノ世の精神医療の要諦です。――ところが胎児は、あるいは生まれてすぐ命を絶たれた新生児は、その“核”が無い訳ですから、“サルベージ”のしようがない。各々が、孤立した、別個の宇宙に生きている。いや、生きているという自覚もなしに、ただまどろんでいる、永遠に。
同じスフィア同士なのに、コンタクトの取りようがない。全く切れていて、一つの宇宙に統合のしようがない。――これが、もう数千年の長きに渡り、アノ世の哲学の大難題の一つでした。宇宙が複数ある事が、そして彼等に永遠に救いの無い事が。まあ、口の悪い哲学者は、救われているのはむしろ彼等の方で、永遠に救われないのは人生の記憶を持ってしまったこっちの方なんだと、混ぜっ返すのが常でしたがね。
……“先行者”は、キリスト教の“神”と違って、標本に愛情なんて持っちゃいませんからね。ただアルゴリズムに則って、せっせと地球の情報を溜め込んでいくだけで。岩の中の結晶も、ミジンコも、キツネザルも、人も、皆平等の扱いです。愛情の対象になるか否かで、差別する訳じゃあない。だから、痴呆症患者も、錯乱者も、胎児や新生児も、みなそのままで放っておかれる。それ以上の干渉は、彼等の関心外だ。――そういや、イルカやチンパンジーのスフィアと瞬間コンタクトが取れたという報告は、結構頻繁にあるんですよ。だが、胎児とのコンタクトは、赤子をなくした直後の母親の幻覚を除けば、有史来一例も報告がありません」
悪霊“影法師”は、またチラチラ、これ見よがしに押入れの方を振り返り始めた。何か気に掛かって仕方ない、という雰囲気を発散させている。今にも立ち上がり、押入れのふすまを開けて、奥のガラガラ入りの荷物を引きずり出しそうな気配だ。やはりこいつは、“影法師”本人に違いない。
「流された胎児や日の目も見ずに死んでいった赤子達も、先程話したこの世界の犠牲者、被害者の一員と言えるでしょう。だが彼等は、コノ世に舞い戻って叫びを上げた人々と違い、同じ当事者でありながら、コノ世に戻る事も、悲痛な叫びを上げる事もない。それどころか、悲劇の記憶も、自分が被害者であるという自覚すらない。いわば、記憶を封じられた者、声無き者達です」影法師は、首は押入れの方を向いたまま、何気ない風を演じ喋り続けた。――私の恐怖は、さらに体内に拡大し、五臓六腑を凍り付かせていった。
三島へ逃げる時、女との思い出の、写真やら女の寄越した手紙やらの入った封筒を、荷物の端に捻じ込んで東海道線に飛び乗った。そのまましばらくは荷物の中に紛れ込ませておいたが、母や妹と同居する事になった以上、偶然にでもそれらが見付かり、咎められたくはなかった。そこで中古のタブレット・パソコンを買い、それに諸々を画像として取り込んで、本体は全て焼き捨ててしまった。以来、数度見返した程度だが、スタンドアロンの上に自分にしか開けぬよう暗号で鍵を掛けたので、母や妹にも、ユウ太にも、ネットを経由してでも、誰にも覗かれる事は無かった筈だ。このデータといい、ガラガラの件といい、誰にも知られるとは思えないし、あとは私の心の中でも覗き見せねば、胎児の居た事を匂わせるものはこの世に何も存在し得ない。いくらアノ世の霊だからといって、テレパシーが使えて人の考えている事まで分かるなどという話は、聞いたこともない。
「可能性の鍵はリンボにあり、と思っている次第です」こちらの迷想を断ち切るように、影法師の力強い声が私に浴びせられた。「アノ世の哲学永年の難問を解く鍵が、絶対の孤独者達をサルベージし全ての他者と繋ぐ鍵が、ね」
「奴は、大学を卒業したら、リンボ特区での研究職を志望しているんだよ」ユウ太が合いの手を入れた。「アノ世の医学者をね。――勿論アノ世には精神科しかないから、精神科医ということになる。
もっとも義父さんの関心事は、もっぱら生身の肉体の健康の方だろうけれど」言いつつ、ユウ太は笑った。
「リンボ特区の最先端医療の話は、いろいろ聞いていますよ。前立腺ガンの多重免疫細胞治療や、AAPウィルス・ワクチン治療は、最近のトピックでしたね」と影法師。
こいつはやはり知っている、私は確信した。――実はここ数年前立腺腫瘍マーカーの値が高く、多重免疫細胞治療やAAPウィルス・ワクチン治療について、最近ネットで調べ回ったばかりだったのだ。
しかし、どうやって?――ネット経由のスパイウエアか? 思い当たった。――密かにウィルスを忍び込ませれば、私のネット・サーフィンの履歴を覗き見る事も可能だろう。それどころか、ハッキングを仕掛ければ、私のパソコンの設定を勝手に書き換える事も、私の相手をする愛玩ロボットの反応強度に異常な数値を入力する事も。――以前に経験した不可思議な、強い違和感を伴う諸々の生活の断片が思い出され、氷の固まりが背中を滑り落ちる感覚があった。六国見山の仙人が美女や不良少年に成り済ますのと同様、影法師がロボット犬やロボット猫に成り済ますのも容易な筈だ。
「そうそう、子宮筋腫のアポトーシス治療というのもあった。これなど、婦人科部門の画期的な朗報だ」影法師が付け足した時、私の背中は一面氷河の谷となった。何故って、子宮筋腫は、あの昔の恋人が手紙の中で散々書き送ってきた、彼女の一番危惧していた病気の名だったからだ。――そしてこの事は、ネット経由でも知りようが無い筈だ。私がタブレットを立ち上げ昔の手紙を読み返している時、私の背中越しにタブレットを覗き見でもしない限りは。
「小学生の頃だっけ、……将来何になりたいか書く作文に、義父さん親身になって一緒に考えてくれたよね。――こいつは、僕の友は、将来精神科医になりたいという夢を既に本気で抱いている訳なんで、義父さんにその話を少しでも聞いてもらいたいと思って今日連れて来たんだ。――義父さん、リンボの諸々の方面に、コネクションがあるよね。出来ればこいつの将来の夢を、少し後押ししてやってくれないかな」ユウ太の小学生時代の思い出話に、私の背中は少し温まった。
「ユウ太からお義父さんの話を色々聞かされてきて、大変理解のある方だと思っていました。実際、そんな仮親を持ったユウ太が、羨ましかったですよ。俺は生き返ってからの親役をとうとう持たず、一人でやってきたもので、……」意外な程情に訴える声音で、今度は悪霊が私に話し掛けてきた。「初対面なのにこんな事を言い出して本当に済まないんですが、実を言えばユウ太の話を聞く内、“俺にとってもお父さん”のように、おじさんの事がしばしば思えてならなかった、と白状します」とうとう“悪霊”から、“お父さん”呼ばわりされてしまった(ユウ太も悪霊も、共に私よりズッと年上なのだが)。判断つきかね、私の背中のサーモスタットはしばし乱れ誤作動した。そりゃ、確かに“本当のお父さん”かもしれない、もし悪霊が我が胎児当人だとしたら。「それで是非とも、お会いしたかったんです。どんな方だか前々から興味があった。――お会いして、本当に親身になって味方してくれ、色々有意義な話を聞かせてくれる方だと、確信しました」
「僕がコノ世の学校に転入する時は、義父さん身元保証人になってくれたよね。――何も彼の保証人にまでなってくれとは言わない、ただ彼の背中を少し押してくれさえすれば、……。僕達の同盟も、より絆が深まるというものさ」
ユウ太に言われるまでもない。私は既にリンボの研究所の幾つかを、この“悪霊・影法師”のために頭の中でリストアップしつつあった。いかんせんこうまで我が“亡き子”の面影を濃厚にちらつかされては、断われる訳がないではないか。
<10年と16日目>
「いわば、“拘束具”をはめるようなものですかな」と、ジャイーヴ・アヴィセンナ博士は言った。「一般には、“アンカー”と呼ばれていますが」
シチャカ社リンボ特区研究所の主任研究員、ジャイーヴ・アヴィセンナ博士は、“知性工学”の大家である。全世界全時代から馳せ参じた生者死者問わぬあまたの研究員が日々研究に勤しむ同所の中でも、“知性工学”分野は一頭地を抜く額の予算を獲得していると聞く。
「いわばアノ世をコノ世に、“アンカー”で繋ぎ止める技術です。スフィアのイメージを物理世界で固定化する事は出来るが、その逆は出来ない。アノ世システムに直接アクセスする事は、今の人類のテクノロジーでは不可能ですからね。そこで、情報を書き換えるのではなく、付加させる、カバーを掛けるように。あくまで擬似的にですが、コノ世からアノ世に対し強制力が働いているように見える、スフィアから見るとね」
「そのテクノロジーの精神医学への応用は、如何なものなのでしょう?」神田が博士に質問した。――今回のリンボ再訪には、神田が同行していた。久方振り、北鎌倉の駅で落ち合った。(南関東の鉄道網も、ようやく再興成った。ただし『JR南関東』と社名が付けられ、他の非汚染地帯のJRとは路線が切れている。アンドロイド専用路線だった。)神田は近頃精神科にまで、クリニックの間口を広げようと目論んでいるようだ。生者の患者数がめっきり減り、死者の人口が激増しているためだ。(当然ながら、死者相手の医療は、精神科しか必要ない。)死者用の精神医療の学び直しを考えているという。それで、現世におけるその分野のメッカ、リンボ特区を下見にきた。
「精神医学への応用、ですか」肥満体アンドロイドのアヴィセンナ博士は、さっきから鉢に盛られた干しデーツの実を途切れることなく口に放り込みながら、返答する。デーツを、私達にも勧めた。私達も一粒ずつそれを摘む。
「統合失調症等、生前の記憶に溜まったものを、死後もそのまま引き継ぐ事になります。ですから、既に脳の機能的不全、物理要因は無いにもかかわらず、多くの患者が症状はそのまま、と訴えます。また、“死”という現象を乗り越え死後の世界に来れば、それが悲惨な死であれ安楽な死であれ、やはり何等かのトラウマは抱える事になります。こうした不如意のスフィアを外部から意図的に矯正するためアンカーを使うという試みは、新療法として一部の学者が盛んに研究を進めているところではありますな」デーツの蜜の付いた指を舐めながら、博士は説明した。
先程から、博士の背後の高さ10メートルはあろうかという巨大水槽の中から、何百匹というイカが巨大な目を剥き私達の様子をジッと見詰めていた。水槽を見る私の視線に気付き、博士が後ろを振り返った。「ああ。『知性のプラグイン』を埋め込んだ、イカやタコどもですよ」彼等の視線を気にする様子もなく、こちらへ向き直った。「こいつら、すぐ自殺するんだ。――困った連中です」言った。
“知性のプラグイン”は、知性工学の華であり、アヴィセンナ博士のオハコである。人間ならばネット内作業中、その遊離した人格に装着する。一時的に、翻訳能力やら、計算能力やら、読了した本の記憶やら、人工的に構築された作業記憶やエピソード記憶やの外部記憶が利用可能となる(ネットからログアウトすると、そういう記憶や能力があったという体験のみ残し、夢の如く消える)。同じように、現生地球人類の知性フォーマットを組み込んだプラグインを造り、動物実験したらしい(当然ながら、人間の知性はよく研究されている。脳科学、認知科学の対象として)。
「タコどもは、人面とか、人体とか、文字とか、人工物とか、抽象図形とか、人類の生み出したあらゆる視覚的表象を表皮の色素胞で表現しようと試み、やがて力尽きて死に絶える。イカどもは、墨で自らの分身を作り続け、やがてそれら分身に後を託すとでも言いたげに、本体はアクリル板に体当たりして絶命する。……」――イカ達の目と、私は見詰め合った。……何とも惨い話だ。やはり彼等にとって、人間という存在や、その文化・生活様式は、余りに奇態だったのだろう。――それでは、胎児の意識をこの世界に無理やり繋ぎ止めるというのも、やはり狂気の沙汰なのか?
「先生のアンカーを利用したプラグインについて、知り合いから聞いた話なのですが、――」と私は一言前置きして、「スフィアの絆を拒まれた者達、胎児や新生児のまま死んだ者の霊がその典型でしょうが、彼等との絆を結べない事が、アノ世の哲学永年の課題だと聞きました。この課題の解決に、孤独な魂の救済という夢の実現に、先生のアンカーを利用したプラグイン技術が革新的な打開策になると、……。そんな話を聞いたのですが、……果たしてそれは本当なのでしょうか。それとも、今目の前にいるイカ、タコ達のように、悲劇的な末路で終わるのでしょうか?」私はやんわり切り出した。――私のこの突飛な質問に、神田も妙なものを見る目付きで、こっちを見ている。
「フーム。孤独な魂ねえ、……」また指を舐めつつ、アヴィセンナ博士は首を捻った。「ただの自閉症児や痴呆症の患者ならば、回復の道筋も容易に見えるのだが、……。この世を一目も見ずに死んだ胎児の霊となると、……記憶を持たない事にかけては、イカ・タコよりも希薄な存在だからなあ、……。
“霊”というか、アノ世のアーカイブ・システム内のそれらを、我々は広く自律的“情報体”と呼んでおりますが、……果たして彼等は、情報体とすら言えるのかどうか、……。そもそも、存在しているかどうかすら、疑わしい。アノ世のシステムが、彼等を記録する価値無しとみなしている可能性も、充分ある訳です」
アノ世にすら存在しないとしたら、余りに惨めだ。――影法師は、初お目見えの後も、幾度となく私の前に現れた。ちょくちょく訪ねて来ては、リンボへの口添えの件で、私をせっついた。こっちが求めてもいないのに、その都度ゼンヒドウ絡みの自分やユウ太の活動報告をしていった。「ロボットの犬や猫が、苦手なタチじゃありませんか?」とか、「福井県の重粒子線治療が、前立腺ガンに効果を上げているようですね」(実はこないだ、資料をダウンロードしたばかりなのだ)とか、「FX用の自動トレード・ソフトなら、いいものがありますよ」(これまた、金儲けの仕方をあれやこれや妄想したのだ)とか、諸々曰くありげなカマを掛けてくる。――秘密を暴露されるのが怖くて、無下には出来ない(ユウ太の親友ということでもあるし)。嫌々引き摺られ、リンボくんだりまで幾度も足を運ぶ事になった。何ともうざったく、そして実害もある悪霊・影法師だが、彼の存在が色濃くなるにつれ、(かつては希薄で殆ど忘れ掛けていた)我が胎児の面影まで離れ難くなりつつある事も、また事実だった。
アンカーを使ったアノ世の情報体へのプラグイン挿入の実例をお目に掛けましょう、と言うのでついていった。「既に死霊相手に使われているのですか?」訊くと、「まさか」との答えだった。「近頃は、相手が死人でも、“人権”にうるさいですからね。――まずは動物実験ですよ。
それに、アノ世の情報体が相手なら、先程のイカ・タコのように自殺される心配もありませんから」
博士の話に引っ掛かった。動物実験で情報体(霊)を使っているとしたら、動物のスフィアと連絡が取れているという事になるのだろうか。イカ・タコのスフィアと理解し合えるとは、到底思えないが。
長い渡り廊下で空中散歩を楽しみ、三角の建物から隣りの丸い建物へと移る。シチャカ社の研究施設は、串刺しされたオデンを連想させる。やがて、スウェーデンボルグ・インターフェイスに特化された部屋に入った。
見渡す限りの草原の上空を、一匹のイルカが、いかにも愉快そうに縦横に飛翔している。我々は、それを見上げている。
「イルカが空中を舞っている。異常な光景ですな」神田が呟いた。――草原の上空に不思議な霞がかかり、そのさらに上に歪んだ太陽がある。霞の具合は、風任せに漂っているというよりも、乳白色の濁り水が淀みたゆたっているように見える。
「仕方ありませんよ。彼にとっては、ここは水中なのです。太陽も、水面越しに見上げたそれ、なのでしょう。細かい粒子の混ざった水の淀み流れる、一面アマモの生えた遠浅の砂地、といった場所のイメージなのでしょう」アヴィセンナ博士が、イルカの弁護をした。
全く、リンボは何時来ても、飽きさせない。――ある程度知性の成熟していると思われる生物種に、人間の知性のプラグインが埋め込まれた。類人猿、イルカ、象、大型肉食獣、イヌ、ネコ、カラス、タコ・イカ等に試されたが、好成績を上げたのはイルカ、次いで類人猿、イヌの順だった。他の生物種は、総じて敵意を剥き出しにした、人間の様式で。例えば、悪態をついたり、唾を吐き掛けたり。
「スカーッ、としますな!!」甲高い声が、上空から降って来、鼓膜を響かせた。「言語というやつで、――思考が、スカーッと、遠くまで見晴らしがよくなりました」
「人間の言語能力です」プラグイン開発の責任者、アヴィセンナ博士が説明する。「3歳から8歳ごろまでの幼児が、まるでロケットブースターに火が付きでもしたように猛ダッシュで言語を習得し、どんな天才ボノボもイルカも置き去りにする、あの人間特有の能力を、彼はすっかりモノにしたようです」さらに、耳元を両手で押さえ、「気を付けて下さい。彼の発した声は、ラボの回路を経由して我々に戻ってくるわけですが、彼の発声音波は元々とんでもない高周波なのです。それを、物理界の機械を通す時に解きほぐして我々の耳にも聞き取れる程度に引き伸ばしているのです。しかし、元が高圧縮されていますから、とんでもなく早口で、多弁に聞こえます。彼はこちらに気を使って、ゆっくり喋ってくれているようなのですが。――逆に、我々の話し振りは、酷く間延びして、彼にはなんともマヌケに聞こえていることでしょう」
「まるで、はるか遠方まで澄み切った海域に、突然泳ぎ出たような、そんな気分です」高い声が、さらに響く。「はしごを掛けるようなものです。あるいは自転車をこぐようなものです。同じ努力で、はるかに高く、はるかに遠く、大量の、異質な、情報が扱える」
呼吸孔から、泡で作ったワッカを立て続けに吐き出しながら、彼は続ける。
「かつて人間の賢者が、言語と思考の関係を、通貨と経済の関係になぞらえたそうですが、卓見です。見事に、言い当てている。――それまで物々交換しかなかった経済に、通貨が導入され、大量の物資が、効率よく、しかも同一の単位に還元されて取引されるようになった。人々の暮らしがいかに豊かになったことか。――しかし反面、失われるものも多かった。通貨単位に還元される前の、物自体の持つ微妙な価値の機微、といったものです」
泡のワッカ、三角形の泡の固まり、四角形の、星型の、それ。さらに、いびつな図形。それらを操り、彼は、自説の主張を補完しようと試みているようだった。
「言語もまたそれを使うことにより、取りこぼしてしまうものが多いように思います。遠見は出来るようになったが、濁った水の中での手探りのような、というのは人間的メタファーですね、音波探りのような細かいニュアンスの機微は、スカーッと遠くを見晴らした途端掻き消えてしまう。人間の皆さんも、こうした思考になる前のイメージのドロリとしたニュアンス、お持ちなのでしょう? フロイトが再発見し、掬い上げてみせた、アレですよ。普段は、言語を使ってスカッと処理なさって、表面上忘れ去ってしまっているようですが」
イルカの言語能力に圧倒された人間達は、しばし押し黙ってしまったが、やがてふと気付いたようにアヴィセンナ博士が、上空を指し示し言った。
「遅ればせながら、紹介します。――ハンドウイルカの、シャーク君です。
オーストラリアのシャーク湾で、スクリューに絡まり危篤状態だったところを、我がシチャカ社が保護したものでして、――その後残念ながら命を取り留めることは出来ませんでしたが、生前装着したプラグインが効を奏し、今では死後人間情報界と死後イルカ情報界の両世界に、自由に出入り出来るようになったわけでありまして、……」
「シャーク湾で出会ったからって、シャーク君とは、あまりに安直なネーミングですな。――それに大体、サメはイルカの最大の天敵ですよ。いくらなんでも、センスを疑いますな」アヴィセンナ博士の紹介に、素早くチャチを入れるシャーク君。「それにしても、“命名”とは、いいですねえ。“命名”“概念化”。イルカには思いも付かないことです。イルカは通貨も、使いませんし。――全く人間の、メタ化の欲求、前頭葉の食欲は、凄まじい!――“言語”の次は、“文字”でしょう。そして遂には、自らの“人格”まで、デジタル化してしまった」
イルカは好奇心の強い生き物だと聞くが、言語という全く新規のオモチャを手に入れ、戯れ遊ぶことに夢中なのだろう。
「文字。――素晴らしい発明だ!
記憶が、記録に、置き換わった。韻文が、散文に。記憶を助ける時間軸上の音韻が、記録を参照する空間中に配置されたメモ書きに。盲目の吟遊詩人が、メガネを掛けた雑文家に。言語のすぐ傍にあった冥界が、文字の書かれた明るいテキストの向こう岸まで、後退した。
ここでもやはり、失うものは多かった。記憶が、韻文が、音韻が、盲目の詩人が、冥界が、ほぼ絶滅した。――またしても、微細な、ねっとりと絡み付くニュアンスは、ことごとく削り落とされ、廃棄された。
だが、いくらソクラテスが異議を唱えようと、アレキサンドリアに図書館は建ち、ノートルダムのフロロが危惧を抱こうと、印刷物は世界を覆った。最も特筆すべき文字の効用は、思想と文化を生み出したことでしょう。文字がなければ、ソクラテスの異議も、フロロの危惧も、今日誰も知らなかったわけですから」
彼は今度は、泡で文字のサインを作り、空中に並べて我々に見せた。『『シャーク』は、ダサい!!』
「新旧両大陸の文明は、それぞれ五千年以上前まで遡るといいます。だが新大陸では、五千年経っても、イサクを神に奉げ続けた。一方旧大陸では、イサクを神に奉げる代わりに、『軸の時代』を迎えた。――何故でしょう。ボクは、『リテラシー・インフラ』の有無の違い、という説を支持します。新大陸にも、マヤの神聖文字や、インカのキープのような文字はあった。だが、インフラたり得なかった。すなわち文字とは、人間が思想をキャッチボールし合うためのボールです。キャッチボールするたび、進み、広まり、蓄積されていく。それが新しい思想と文化を生む。“自然人”しかいなかった古代ローマ時代、奴隷は当たり前だった。だが、“人権”や“ヒューマニズム”が発明され、居てはならないものとなった。“徳”が発明され、人の行動指針は“占い”から“徳”に代わった。キャッチボールされ、蓄積される内、人は気付くのです、『神聖』のバカらしさに。丁度、カルト教団の洗脳が解ける時のようにね。
そして、人格のメタ化、これも凄い!」
シャーク君は、水中の懸濁物質を身にまとい、それで光を反射、吸収、散乱させ、でんぐり返しを何度も打ちながら、さらに喋り続ける。
「精神・人格情報など所詮、家電のマイコン制御ソフトと同じ、人体に後付けされた“おまけソフト”に過ぎない。そのおまけソフトが、人体もDNAも見限って、置き去りにして、飛び出してしまう。いわゆる、“下克上”です。いずれ生身の体は、盲腸のような、体性感覚として残るのみ、となりましょう。物理界のネットの中にも、情報界のスフィアの中にも、あふれる人格情報達。――これも、失うものは多い。だが、得るものは、はるかに多い。その自由度、広範な発展の地平。――いや、それ以前に、人間のメタ化の欲求は、メタに、自由に、ならざるを得ないでしょう。これから逃れるすべはない。
この、人格のメタ化、いわゆる“デジタル・モナリザ”ですが、……」
紹介を中断され、「どうも我々のお喋りがまどろっこしくて仕方ないようです」と、悔しそうにアヴィセンナ博士は弁解し、流れ藻のたなびく青空をボンヤリと見上げた。――キメラの如く人工的に知性を繋ぎ合わせると、この“お喋りイルカ”のような不思議なものが出来てしまうのか。あるいは、アンカーで世界に無理やり繋ぎ止めた胎児の情報体は、歪な成長を遂げ、知的情報的フランケンシュタインの怪物のようなものになりはしないだろうか。
その時突然、水面に顔を漬けたような濡れた感触が、私に覆い被さってきた。周囲の者達も同じ目に合っているようだ。が、不思議と、呼吸は出来る。――シャーク君がほんの触れられる位置にまで、降りてきていた。そして彼の方は逆に、水面から顔を突き出し、こちらにしきりに頷き掛けてくる。――彼と我々のスフィアの間には、『水面』があるのだ。ただし、“平たい水面”ではなくて、我々の位置関係により、融通無碍の形を取る水面だったが。そして、共同幻想の綱引きの関係で、我々がしばしば水中に顔や体を突っ込んだり、彼が水面上に飛び出したり、することになる。
イルカ類の、この人間に対する興味の持ちよう、圧倒的な親和性は、一体どこから来るのだろう。アヴィセンナ博士らの研究によれば、イルカの他に類人猿と犬も、人間に高い親和性を持っていたが、類人猿の精神構造は人間と酷似しているし、犬は集団志向動物であることに加え、長い歳月人間と共生してきた歴史がある。そしてこの両者を遥かに超えて、イルカ類の対人親和性は高かった。
かつて地上で、ほぼ同じ生き方をしていた仲間が、たまたま枝分かれし海へ帰った。たったそれだけのことで、そのため手中にした特別な能力により、まるで違う、精神、知性、世界、フォーマット、を獲得するに至った。あるいはそれらに、高い親和性の秘密があるのだろうか。
以前影法師がイルカの殺人の話をしていたが、やはり私には彼等が人間に対し好意的であるように思えてならない。そこでつい、「それにしても、君達は何故それほど、人間に親切で友好的なのだい?」と訊いたところ、シャーク君の返した答は意外なものだった。
「失礼に当たりましたら、申し訳ありません」彼はまず先に、謝った。そして言った。「実は、皆さん人間の方々の普段の仕草が、我々イルカ自身の自閉症患者のそれにそっくりなのですよ。――彼等の所作や反応そのままなのです。――ですから、我々は昔から、あなた方を見ると、本能的に近寄って、助け、癒さずにはおられないのです」
<12年と107日目>
現物世界のしがらみに随分と馴染んできたユウ太は、大学卒業後、某多国籍企業(シチャカ社のライバル会社)の東アジア地区研究所に就職を果たした。彼のようなアッチの世界の住人が乗ったアバター・アンドロイドが世界中を徘徊していたから、当然研究所も彼の正体を承知していた。むしろこの企業は、その事を利用しようとさえした。アノ世を優秀な資源の宝庫と看做し、ユウ太を中継点(鎌倉のリンボ特区さながら)として、貴重な知識や情報を無尽蔵に汲み上げようとした。
そしてユウ太もまた、その研究所に現代世界のあまたの情報が集中する故、世界情勢と生者の人間社会の理不尽と矛盾と無理解と限界とがバンバンその身に跳ね返って来、アバター・アンドロイドが物理世界内で身動きならない壁にぶち当たるたび(それこそが、彼の欲したものだが)、――日増しに焦燥を募らせ、青春の苦悩に身悶えすることとなった。
一方“影法師”深浦は、アヴィセンナ博士の許で、研究生活を始めたと聞いた。二人の進路が分かれ、正直ホッとした。それでも二人は、依然ゼンヒドウの活動を通じ、しばしば連絡を取り合っているようだったが。
そのゼンヒドウだが、彼等の活動は必然、現世の最大勢力・米ロ中三大国との対立へとエスカレートしつつあった。
かのインターフェイスの使用は厳しく規制されるべきだとの主張が、激しい運動を伴って積乱雲の如く渦巻いた。コノ世とアノ世の交流は即刻中止し、両者は隔離され昔のような秩序ある状態に戻るべきであると。――こうした主張を反映するように、米ロ中が乗り出してきた。危険な技術には厳しい規制を設けるべしと国際機関に働き掛けた(これを歴史上、『アノ世への三国干渉』と呼ぶ)。――だがその真意は、アノ世の資源を米ロ中の三国で独占する事にあった(かつてアメリカは日本復興のためかのインターフェイスを根付かせた張本人だったが、アメリカ・ファーストの姿勢はやはり変わらなかった)。一方で三者足並みを揃え枷をはめようと陰謀を巡らしつつ、他方アッチの世界では三国のエージェントが三すくみで暗闘を繰り広げていた。
こうした動きに反発し、ゼンヒドウは“人類弾劾”の証拠映像を湯水の如く現世に流し続けた。当然彼等の活動は“現在進行形の罪”に対する告発も含まれていたから、三国との利害は厳しく対立した。
“現在進行形”のそれは、つい最近理不尽な暴力により殺された膨大な数の犠牲者達が、(殺されたばかりでパニック状態の彼等に比し)こうした悲劇に慣れっこで経験豊富な冷静に対処の出来るゼンヒドウの全面バックアップのもと、彼等自身の生々しい記憶から固定化させ焼き付けたドキュメンタリー・フィルムをネット上に湧き出す如く公開し、米ロ中イスラエル始め世界中の権力と、あらゆる地域の武装勢力・テロ組織に対し、証拠の映像を突き付け、抗議し、弾劾し尽くすものだった。被害者達の証言と、洪水の如き事実のアノ世からのリークの前に、コノ世の者達の唱える正義は大儀を失い、前線での戦闘行為はおっかなびっくりの滞りがちなものとなった。
だが、そこまで極悪非道を訴える証拠映像を際限無く突き付けても、果たして三国始め権力独占者達の厚顔無恥振りにどれ程の打撃を与え得たものか。“蛙の面に小便だ”と、生者死者問わず万民がむなしく連呼した事情がうかがい知れる。
唯一の、そしてささやかな勝利は、ゼンヒドウに“ノーベル平和賞”が贈られた事ぐらいだろう。アノ世からアルフレッド・ノーベルがわざわざ来訪し、式典会場で手ずから授与した。――これが、死者にも受賞資格が認められる、新生ノーベル賞の先駆けとなった。
<13年と83日目>
ユウ太が、恋に落ちた。相手は、同じ研究所の仲間で、現世のユウ太より十歳近く年上の女性だった。(しかし彼は本来なら90歳程の分別盛りで、見た目より遥かに大人びていたが。)
私に紹介するため、ユウ太は彼女を連れて仮設住宅にやってきた。二人の結婚は、やはり彼女の両親には猛烈に反対され、アノ世の広島の実の親達にも白い目で見られているという。頼れるのは私だけ、という事のようだ。
私には、十年以上一緒に暮らして、拭い難い愛着のあるユウ太のアンドロイド顔だが、彼女の親、普通の生身の生者にとっては、得体の知れない亡者の操縦するただのアンドロイドに過ぎない。それが、時空を越えてやってきて、半分ロボットのなりで、義理の息子になりたいと申し出てきたのだ。その強烈な違和感、嫌悪感は、想像に難くない。――十二分な教育を授けエリートに育てた自慢の娘が、変な恋人を連れてきた。世間体や子供を作れないという事もあるが、何より原爆の炎熱地獄で殺されたという過酷な過去を背負った彷徨う魂に、得体の知れぬ異形の者に、娘を渡せるものか。死人に嫁がせるぐらいならば、宇宙人やただのAIロボットの方がまだマシなくらいだ。――あれやこれや詰問攻めにし、さらに散々激しく咎め立てた末、向こうの父親はプイと席を立って書斎に閉じ籠ったまま二度と姿を見せなかったという。残された母親は、ただオロオロして、しかし絶対にユウ太と視線を合わせようとはしなかった。
反対に我が家では、彼女を大歓迎した。勝気で利発そうな娘さんだ。夫の素性に起因する世間から吹き寄せる荒波を、断固として拒絶し乗り越えていける気概が感じられる。三島の名店で買い求めた取って置きの茶菓子を二人して遠慮なく食べ尽くしながら、ユウ太が彼女の、彼女がユウ太の、それぞれ魅了された箇所を、際限無く語り尽くして私に聞かせた。ユウ太にとって、死を前提に生きる者の覚悟を秘めた姿は、不死の時間に安住し弛緩したアノ世の者には微塵も無い、光背に炙り出されるような魅力で輝いて見えたという。片や彼女も、ユウ太の正体は無論承知していたが、そのユウ太の不思議な、秘密めいた深みのある人間性の魅力に抗する事は出来なかったという。二人はさながら、雪女と木こり、あるいは助けられた鶴と猟師、あるいは古墳の中の皇子の躯と寝床の中の生ける皇女の如く、異様な目付きで三島の銘菓を挟み互いに見詰め合っていた。
その後深夜近くまで、戦前の広島のユウ太の子供時代の写真に、当時の風俗も含め興味深げに見入り語り合ったり、彼女の女学生時代のバンド活動のビデオを鑑賞しつつあれやこれやツッコミを入れたりと、楽しい時間を過ごした。私の歓待は、彼女の強い味方となったようだ。
新婚のユウ太から、長い手紙が届いた。近況を語り、私の支援に対する感謝の気持ちを綴り、そして二人の将来について思い付く限りの明るい展望を並べ立てていた。そこには、――自分達はこの世で子供をもうける事は出来ないが、その代わりかつての自分のような恵まれぬ子達を(生者死者問わず)世界中から引き取り、皆養子として育てていきたい。――そう、夫婦合意の決意が、力強く綴られていた。(二人はこの後、五十人程の子供達を養育する事となる。)
<14年と×××日目(既に、正確な日付は思い出せない)>
私は今、ホスピスの病床にある。末期の膵臓癌と宣告された。余命二ヶ月程、との事だった。――モルヒネで慢性的な苦痛を抑えつつ、アノ世との交流が加速度を付けて進むこの世界を、他人事のように眺めて暮らしていた。
ホスピスで知り合った人々は、生活者の顔をしていない。ある患者は酷い鬱の淵に沈み、ある患者は周囲に当り散らし空威張りし、ある患者は折り紙を折る単純作業に没頭し考える事を止めようとする。――そんな彼等の話題の中心となったのが、私を見舞いに来たユウ太だった。奥さんと子供達をゾロゾロ連れて来院し、ひと時病室が明るく賑やかなリビングと化した。彼の無機質っぽい顔の造作が、何事にも興味を示さない患者達の関心を集めた。
私は患者達にあらん限りの知識で説明してやった。死んでも、死なない。死後の世界を支配する法則とは、どういうものか。その法則を逆手に取って、死んだ後もコノ世に生還する事が出来る。今目の前にいる、このアンドロイドの彼のように。だから、死を恐れる事はない。――まるで、新興宗教の教祖にでもなったような気分だった。歪んだ笑いが、顔の片側に浮かぶ。患者達は一斉に、ユウ太に向かって手を合わせ、拝みだした。
まもなく死ぬだろうこの患者達は、まだ気付いていない。“不死”がすなわち“死”であり、“死”がすなわち“生”である事に。――アノ世には、“生”も“老”も“病”も“死”も無い。なのに、“苦しみ”はある。生きない事が苦しみであり、老いない事が苦しみであり、病まない事が苦しみであり、死なない事が苦しみである。――かつて六国見山の古い霊が漏らしたように、終わりの区切られた生だからこそ、生きる事は至高の輝きを放つ。それを、生死の垣根を取っ払ってしまって、地続きの終わりのない一本道に変えてしまったら、際限の無いマンネリの生は、“死”と同義となる。――だがまだそれは、遠い未来の話だろう。
<14年と×××日目>
ある夜、ベッドでうつらうつらしていた私の枕元に、ユウ太と影法師が立っていた。もう面会時間は終わった筈だが、と瞬間思ったが、あるいはこちらの時間感覚が狂っていたのかもしれない。
「ご無沙汰してます。岩田のおじさん」影法師が言った。
ユウ太は、赤ん坊のアンドロイドを、懐の中に大事そうに抱いていた。――「出来立ての赤ん坊です。13人目の養子として迎える事にしました」ユウ太は赤ん坊を紹介し、おくるみを傾けて私に近付け赤ん坊の顔を見せた。「おじいちゃん。抱いてやってください」
「……あなたはおじいちゃんで、――そしてその子の、“実の父親”です。――その子は、あなたが捨てた、あの胎児ですよ」影法師が、付け加えるように説明した。「“アンカー”で胎児等の霊・情報体を、他者のスフィアに繋ぎ止める事に成功したのです。ようやく探し当て、サルベージ出来ました」
モルヒネが効いて朦朧としていたのか、最初影法師の言う意味が理解出来ずにいた。が、やがてじんわりと、暖炉の熱が冷えた体を火照らせるように、理解が体の隅々まで浸透していった。生まれたての赤ん坊がベッド上のモビルを見上げるように、死の間近くベッドから起き上がれない私は、頭上に恋人や胎児を巡る無数の記憶の断片が舞い乱れるのを、ただ息を殺してジッと見詰めていた。動悸が速まり、冷や汗が滲み出るのは、モルヒネのせいばかりじゃあるまい。
「実は、おじさんに謝らなければならない事があります、おじさんが亡くなる前に」いやに神妙な口調で、影法師が恐る恐る刻むように話した。「先に謝っておきます。――本当に、すみませんでした」意外にも、素直に謝った。――しかし、一体何を?
「どういうことだい?」ようやく声が出せた。
「ユウ太から、生身の人が親代わりを務めていると聞き、おじさんに興味を持ってあれこれ調べさせてもらったのです。――それで、おじさんの若い頃の出来事も知りました」
「しかし、一体どうやって?」
「種明かしをすれば、簡単な事です。アノ世の側から、覗き見したんですよ、おじさんの秘密を。――タブレットの中の手紙のコピーも、おじさんがガラガラを探していたのも、おじさんと一緒に見ていました。それで、ふざけ半分、“イタズラ”したんです。ガラガラを買って、おじさんの家に置いたのも俺です。――本当に、すみませんでした」影法師は、再度謝った。かつて神田が話していた“書き割り”を見るように、影法師は私の生活を覗き見していたという事か。
「奴は、慎重居士なんだよ」赤ん坊をあやしながら、ユウ太が友について語った。「自殺する前、奴は手持ちの情報不足故、周囲の大人達に裏切られた事に気付かず、進むべき道をひっくり返された。そして死後、騙され、手玉に取られた、そうした真実を知った。そんなイキサツがあって、奴は行動を起こす前徹底して警戒して掛かるようになった。初めて接する人や状況は、とにかく徹底して事前に嗅ぎ回る。アノ世のバックヤードから入念に観察し、直に接触してチラ見し、文字通り表から裏から調べ尽くして、それからようやく堂々相対する、充分な余裕を持ってね。――だから、初めてウチに来た時から、態度がデカかっただろ」
「あの頃は、現世を壊し尽くして、全てを来世に引き摺り込んでやろうと、本気でそんな風に意気込んでいたな。――全てに敵意を抱いて、……。おじさんにも色々“悪さ”をしました」と、懐かしそうに、悪霊影法師。「まあ、その後現世で甲羅を経て、現世と来世、物体と情報体は、コインの表裏の如く補完し合うもので、決して一方だけ壊せるものではないと、遅まきながら悟りましたが」
「コインの表裏か。この子を見てみろ」ユウ太が赤ん坊を、一段高く掲げた。「このアンドロイドは、赤ん坊が成長する過程で物理世界の感覚を会得するための、特製品だ。アンカーで、アノ世の実存とコノ世の物理法則が、スフィアの生きる欲求とアンドロイドの諸感覚器官が、要所要所で結ばれている。赤ん坊故、より無理なく現実の感覚にフィットしていく事だろう。赤ん坊本人が、まるきり自分が物理世界で成長していると、錯覚してしまう程に。――そういう訳で義父さん、この子は僕の子供として育てさせてもらうよ。それに、両親も揃っていた方が良いだろうし。義父さんは、実の息子の、養父の、そのまた養父のおじいちゃん、という事になる」
「そうそう」と、最後に影法師が言い残した。「この子は、男の子です。――次見舞いに来る時までに、この子の名前を考えといて下さい」
言って、丁度病室を巡回していた看護士に急かされ、二人は部屋を出ていった。
そして“影法師”の使ったこの方法こそが、ゼンヒドウが三大国の圧迫を根底からひっくり返した“戦略”そのものだった(もしかすると、“影法師・悪霊”深浦自身が、ゼンヒドウの幹部らに入れ知恵したのではなかろうか)。
アノ世のバックヤードから、三大国の内幕を盗み見たのである。すなわち一方的勝利に終わる、“諜報戦”を仕掛けたのである。三大国の秘密は、悉く“筒抜け”となった。
クリミア半島のヤルタに三大国の特使が集まり、秘密会談がもたれた。議題は、“アノ世の権益の三大国による分割”、だった。――結果、米国が南北アメリカと西ヨーロッパとアフリカの西半分、ロシアが東欧・シベリアとアジアの西半分とアフリカの東半分、中国がアジアの東半分と大洋州、のそれぞれに居住する記憶を持つ死者のスフィアを、先史時代にまで遡り、大まかに三分割して独占する、と決まったが、その線引きの丁々発止の議論の最中、三人の特使はそれぞれの目の前に置かれたバーボン、ウォッカ、パイチュウのグラスの中味を、論争相手に激しい剣幕と共に何度も浴びせ掛け、それぞれ英語、ロシア語、中国語で口汚く罵り合い、掴み合いの寸前までいった(これを、世に『ヤルタ密約』、俗に“アルコールシャワー密約”、と呼ぶ)。
何故密約なのに、そんな緊迫したドラマのやり取りまで具体的に私が知っているかといえば、ゼンヒドウがアノ世からリークした映像を見たからである。世界中の人々が見た、そして怒った。さながら記録フィルムの公開の如く、三国の密談は“ダダ漏れ”だったのである。
同様に、あらゆる秘密も、計画も、陰謀も、軍の配置も要人のプライベートなスケジュールに至るまで、筒抜けだった。何しろ“アノ世システム”は、コノ世の全ての領域のバックヤードで働いている。そしてアッチからコッチへは、一方通行の“共鳴”が可能である。従って諜報活動は思いのままなのである。絶えずスパイにベタリと張り付かれ、監視されているのも同然だ。――結果、スキャンダラスなニュースは全世界に暴露され、あるいは機密事項はべらぼうな抑止力となった(軍の配置が分かればピンポイント攻撃も可能だし、スケジュールが知れれば暗殺もたやすい)。悉くの思惑が事前に暴かれ、コノ世の権力は機能不全に陥った。軍事産業始め名だたる多国籍企業が、反社会的暴力組織が、そして米ロ中の体制までもが、追い詰められ、圧殺された。
“ご先祖様が見ているぞ”とは、昔からよく言われた威し文句だ。倫理、道徳的警告の意味で、これらは使われた。実際、ご先祖様は本当に見ていたのだ。ただこれまでは、“見てるだけ”で、何も出来なかった。罰も当たらなければ悪い事も起きないから、さして気にも留めなかった。アノ世の死者はいないも同然だった。――ところが今、アノ世からのフィードバックが始まった。これらの事態は、一面徹底した情報公開により権力を強力に牽制したが、他面究極の監視社会の到来をも意味した。
覗き見しているのが“神”だの“仏”だのといった存在ならば、人はまだ諦めもつこうが、覗いているのは我々と何等変わるところのないただの人間達なのである。そうしたものに常時見られ、覗かれ、監視される(つまり、プライバシーがまるで無い)事に、人はそうそう耐えられるものではない(たとえ監視者が、自分に深い愛情を抱いたまま亡くなった、家族の者達であったとしても)。いくら奥の部屋に引き籠ろうが、こればかりは逃れようがない。いつも覗かれているという不安、個人の秘密がいつ暴かれるか分からないという不安は、多くの生者を神経症へと駆り立てた。
米ロ中の存在は、急速に後退しつつあった。追い詰められた三国は、現世におけるアバター・アンドロイドの供給規制を図った。インターフェイスの走るサーバーを止める事は無理でも、亡者が乗り現世で活動するアバター・アンドロイドの数量規制ならば可能、と考えたのだ。
ゼンヒドウがこれに対抗するには、独自の資金源を捻出するしかなかった。――最初はおっかなびっくり、いかにもアノ世の住人らしい試みから始まった。“宝探し”である。
ナチスが略奪し隠した、金塊や宝石や絵画。徳川の埋蔵金。山下大将の軍資金。海賊の宝島に沈没船の積荷。滅びた古代文明の埋もれた財宝。……。何しろ知っている人を探し当てれば、正確な情報が得られる。しかし、当初は羽振りがよかったが、すぐタネが尽きた。
次いで、生者との合弁事業を起こした。エジソンもアインシュタインもダ・ヴィンチも、死後も発明、発見を続けている。彼等のアノ世での成果は、現世の科学文明とは別系統のものである。これらを現世へ持ち込み、現役の研究者とタッグを組ませ起業したのだ。生者の視点とはまるで違う角度からの“掘り出し物”に触発され、雨後の竹の子の如く新興企業が林立した。これらからの“上納金”が、ゼンヒドウを大いに潤した。
それでも運営費が足りなくなると、彼等は遂に“奥の手”を使い出した。金融商品の、“インサイダー取引”である。――だがそもそも、スフィア同士のコンタクトを基本とする彼等のコミュニケーションにおいては、“イン”も“アウト”もない。彼等が現世で経済活動をすれば、インサイダー取引は避けようがない。“経済的信用”というものが成り立たなくなり、金融資本主義は壊死状態となった。
それまでゼンヒドウの善意に全幅の信頼を置いていた生者達が、疑う事を知った。情報操作で経済を操れるという事は、情報の捏造(真実を伝えるばかりでなく)もあり得る、という事だ。これらゼンヒドウの“勇み足”は、その背後にどす黒い悪意のある“悪霊達”とも呼べる一団の暗躍、跳梁を、邪推させずにはおかなかった。ゼンヒドウも、“一枚岩ではない”という事だ。
とはいえ、歴史に隠蔽されている秘密を悉く暴き立て、その歪み・勘違い・捏造を正して真相究明していった、蒙きを啓いたゼンヒドウの人類に対する貢献はすこぶる大きい。ユダヤ人迫害の歴史が、イエスの時代にまで遡り、系統立てられた。特に近世以降のそれは、僅かな悪意ある人間達のでっち上げたフィクションがカルメ焼きの如く膨れ上がり、ヨーロッパを恐怖と狂気に陥れた事が白日の下となった。日本の近世天皇制は、近代化革命を目指した者達が方便で日本の古層より掘り返したものが、後継世代においては逆に古層へと日本を引き摺り込んだ。すなわち、ミイラ取りがミイラになった。こうした、ミイラ取りがミイラになる勘違い現象が、“時代精神”と呼ばれ、世界史上の随所に見られた。ミイラ取りがミイラになる勘違いの繰り返し、それの積み重ねが、すなわち“文化”そのものだと言えた。“時代精神”は、人類を誕生以来騙し続けてきた、“洗脳装置”だった(ところが各々の世代の、洗脳された子供達は、その事を認めたがらない)。だがその背後に、歪みまくった文化と歴史の陰に、理不尽に虐げられた犠牲者達がいた。彼等こそ、ゼンヒドウが代弁する人々であり、歴代の全人類トータルの“シテ”だったといえる(広島ツアー客の集団シテの全体集合)。そんなゼンヒドウの有力メンバーとして、エージェントとして、ユウ太も影法師も活躍していたようだ。
ゼンヒドウの構築したアーカイブにより真実の積み重ねが再検証され、歴史の闇の部分が露呈したが、その強烈な光は翻って未来をも照射した。我々が不死であり、現代と過去の全ての人々が同居している以上(次々と世代交代せず、老兵は消え去るのみでない以上)、それは、これから生まれて来る我々の子孫、未来の人々とのこの世界での“同居”をも意味する。我々は、過去の死者ばかりでなく、未来の人々とも否が応でも連携していかなければならないのだ。死なない以上、やり逃げは出来ない。世代間の責任の擦り付け合いは、無効である。
こうした認識が、ゼンヒドウに新しい視点を与えた。――それまで、ゼンヒドウの活動といえば、過去の出来事ばかりを見ていた。歴史の被害者達は、自分達の真実を、嘆きを、恨み言を、知ってもらいたい、理解してもらいたいと望む。そして相手の反応が薄いとしばしばそれらを強要し、憐れみや慰めを求め、さらには“懺悔”までも要求した。そうしてようやく、成仏出来るというものだ。しかし、相対した生者との間には、温度差がある。反応がチグハグである。そしてしばしば、空振りに終わる。――当然である。多くの場合相手は、本来弾劾すべき加害者ではなく、単なる夢幻能の観客、第三者であるのだから。当の弾劾すべき相手の大部分は、既に彼等と同じ鬼籍の人々だった。悪党どもは、まんまと逃げおおせたのだ。時間の経過は、相手(の子孫)を大きく様変わりさせていた。ホロコーストを弾劾する積りが、犠牲者達は反ネオ・ナチキャンペーンを張っていたドイツ政府に特別ゲストとして大歓迎された。無関係の者の憐れみの涙を貰ったところで、そう溜飲の下がるものでもない。亡者達は苛立ち、失望し、自分達を同情する振りをして利用しようとさえする生者達を逆恨みし、――新たな打開策を求めた。
そこでゼンヒドウは、方針を大きく転換させた。未来の子孫達との連携も視野に入れ、目を未来へと向けた。既に死んでしまった加害者達から、ターゲットを“生者”に変更した。将来自分達と同じような被害者を二度と生み出さぬよう、現役の子孫達を導こうと考えたのだ。(つまり、“怨念”の情動を、新世界創造のパッションに転換させた。)
ゼンヒドウは、“世界連邦”の設立を提唱した。全ての国民国家を廃し、現世の人類の政体が統一されることを要求した(元々亡者には、国境なんて関係ないし)。――『世界連邦』。それは、人類史上永劫の、見果てぬ夢だった。それが、こんな皮肉な形で、あっさりと実現しようとは、……。
既に死に体の三大国は、国連を盾に取って、“世界連邦”建国の奔流に抗おうとした。無論国連には、亡者の席は無い(新生日本のような、実質亡者が支配している幾つかの国を除き)。対してゼンヒドウは、生者死者問わず全自由市民の代表からなる(と称する)『世界連邦設立委員会』を立ち上げ、国連の動きに対抗した。具体的な建国プログラムを捻り出し、矢継ぎ早に実行していった。
三大国に勝ち目は無かった。ごく一部の独立国家(その多くは、亡者の立ち入りはおろか、ネットまでも遮断して、外界との交流を極力排除していた)を除き、全ての国家(と、勿論国連も)が解体された。世界連邦が成立した。そして、一瞬にして、核始め大量殺戮兵器が廃棄された。同じく一瞬にして、地球の温暖化がストップし、各地の紛争やテロが封殺された(三大国を圧殺した如く、バックヤードから手を廻せば、こんな事もたやすいのだ)。資本主義と民主主義に枠をはめ、国際資本を押さえ付けた。つまりはゼンヒドウにとって統治し易いように創り変えた、その方が未来へ向け全人類を導くのに都合がよいから。
さらにゼンヒドウは、アノ世の蓄積された英知と人材を用い、愚かしい子孫達を導き現世にユートピアの実現を目指した。気の合った者同士が集まり既に救われている無数の社会の集合で成り立つアノ世と違い、気の合わない者同士も同居せざるを得ぬ故救われないたった一つの社会で成り立つコノ世を救うべく、猛然と邁進した。(コノ世の意欲ある者、能力ある者は、亡者達にコントロールされたユートピアにさっさと見切りをつけ、アノ世のフロンティアへと次々飛翔していった(つまりは、自殺した)。残ったのは、コントロールされる事が快楽の、平々凡々な善人ばかりとなった)――いずれゼンヒドウの亡者達は知るだろう、本当の救われなさを。自分達がいつしか生者達に被害を与える側に回ってしまっている事を(予想通りの成り行きだが)。実世界の悲惨や破滅や悩みにぶつかり、思い悩むユウ太のように、アノ世では経験出来ない苦しみもまた、思い知らされる事となろう。
病床にある私は、もはやそんな混沌を極めたコノ世に、興味も未練もない。それより、死んだらあれをしてやろうこれをしてやろうと、計画している事が沢山ある。アノ世を遥か古層にまで遡り、探求する“考古学者”になるというのはどうだろう。遺物(物証)ではなく、当事者達の記憶に根ざした“証言”を拾い集め過去を再構築する『来世考古学』が、今私の好奇心を掻き立てて止まぬものだ。
今モルヒネを友としつつ、手に入る限りの考古学書、歴史書に読み耽る毎日である。死ねば、病気勝ちな体ともオサラバ出来、今まで見、接してきた多くの死者達と同様、バリバリ働き、好きな事が出来るだろう。再建を果たし世界の最先端へと返り咲いた我が死者の王国(といっても、今はもう国ではなく、日本民族の住む極東の一群島に過ぎないが)とも、核の災禍を逃れて以来終の住処を庵り続けてきたこの三島の地とも、まもなくオサラバである。
<14年(あるいは15年)と×××日目>
母と妹が枕元へ駆け付けた。ユウ太も、細君と子供らを連れ、最後の枕辺に立った。――私は、ユウ太の抱く赤ん坊のアンドロイドの頭に手を乗せ、我が息子を“洋太”と名付けた。
ユウ太がベッド脇でアノ世の初心者向けにあれやこれやレクチャーしてくれた。――今から、死ぬのが楽しみだ。待ち遠しくて仕方ない。現世に最早見るべきものの無いこの時代、死は“渡りに舟”だ。どんな川を渡るのか、“三途の川”か、“アケロン川”か。
病窓から見える桜の花が満開である。――ユウ太によれば、スフィアは各人の記憶を材料に、その世界を構築する。だから、生前の記憶が豊かな程、死後の世界も豊かになる。――ならば、この桜の記憶を、来世への土産に持っていこうか。
死ぬには、良き日だ。 <了>
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