アルタンツェツグの祈り

春風亭どれみ

小説

5,716文字

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5年ほど前、書き進めていくうちに納得がいかなくなって冒頭だけ残して全消ししてしまった文章の骸ですが。こういうのは大抵、その冒頭がズレているのですが、その冒頭だけに未練が残って。まさかこんなに毎日、相撲が世間を賑わせるようになるとは。

特集・呼び出し一朗太の独白 一/

 

――土俵には金が埋まっているとはいいますがね。本当は白金なんですよ、黄金じゃなくて。何といいますか……不気味な美しさに魅入られてしまうような。そこに色の抜かれたようなおかみさんがふらふらとよろめいていくわけでしょう。見てはいけないものを見てしまった。そう、感じましたよ。

 

元三段目呼出の一朗太は、弊誌記者に対し、そう呟いた。

殆ど、独り言のような呟きであったが、なるほど、よく通る美声である。現在はもつ煮込み屋の店員をしているというが、タオルを額に巻き、割烹着に身を包んでも尚、彼の声は扇に乗って、国技館に響き渡る「それ」である。

記者が、「それにしても、いい声ですねえ、やっぱり。ナレーションなんかをやってみてはいかがですか。最近は声優も人気の職業なんですよ」と、焼酎を啜りながら、付け焼刃の知識で若者向けの軽口を飛ばすと、一朗太は、

「いいえ、滅相もございません。私など、顔じゃありません。それこそ、声といったら、私はおかみさんの足もとにも及びませんでした」

と、謙遜し、照れ臭そうにして、グラスの縁に唇を翳した。今どき珍しいほど、よく出来た好青年に見受けられる。やはり、彼もまた角界での伝統が身体に滲みこんだ者であるということなのだろうか。

彼に礼儀作法を叩きこんだのは、何を隠そう、今、角界の業界誌だけでなく、女性週刊誌、タブロイド、果てはカストリ雑誌までもを騒がせているあの部屋であり、彼の口からこぼれる「おかみさん」も噂の渦中にいるその人なのである。

弊誌記者は、尋ねた。

「そのおかみさんって、どんな人なんですか。親方が現役時代に結婚した時も、あまりメディアに紹介されなかった人ですし、インタビューの映像も残っていない。地味婚って奴ですよ、元横綱の結婚にしては異例ですよ。それで、彼女自身も元芸能人とか、そう言う人でもない一般人だったわけでしょう。殆ど、我々にはその人となりは伝わっていないんですよ。勿論、おかみさんの出身は把握していますし、馬術でオリンピックに出たことがあるご令嬢だって、プロフィールはこちらも持っているんですけどね」

すると、一朗太は目を鋭く細め、一言、弊誌記者が注ぎ足した透明な焼酎の中に吐露し、そして、ぐいっと飲み干した。

その後の彼は饒舌そのものだった。身体に焼酎が回り出したということもあるのだろう。

どこそこのもつは旨いとか、どの味噌が酒に合うとか、果てはあの板前の握る寿司は実にまずく、まるで病人食のようだなどというゴシップまでを語り出した。弊紙記者にとっても、それは有益な情報であり、いくつかは仕事の為に使おうとメモ帳に記してあるのは、まあ、余談である。

しかし、取材を終え、彼と別れた後も、弊誌記者に一つの言葉が纏わり続けていた。

それは、彼が焼酎の中に溶かし込んだように見せかけた件の一言である。

 

「あなた方の持っているプロフィールは何の当てにもなりません――おかみさんは、私にとって相撲そのものでした」

 

弊誌記者は再び、彼に取材を試みたいと思う。

そこには、読者が期待するような刺激的なゴシップの味は転がっていないかもしれない。おそらく、一朗太の口から、ある実話系雑誌に描かれているような色のついた記事のネタが吐き出されることはないだろう。尤も、それは、記者歴二十五年の弊誌記者の勘であるが。

しかし、弊誌記者は思った。我々は土俵を遠巻きに眺めては、時に国技の魂だと持て囃したり、また古臭いと腐したりするばかりで、そこに何が眠っているのかを知らず、考えようともしなかったのでは、なかろうか。

彼は、おかみさんは、そして渦中の部屋の力士たちは、土俵に何を見たのか。

そして、我々は何から目を逸らす為にスキャンダルという形で、件の事件を消費しようとしているのだろうか。

 

特集・呼出一朗太の独白 二/

 

ところで我々は国技のことでありながら、「お相撲さん」のことですら、よく知らないのだから、当然、土俵の熱戦を裏から支える「裏方さん」に関する知識は一切の無と言っても過言ではない。

例えば、大相撲行司の「ハッキヨイ、ノコッタ」はリングレフェリーの「レディ、ファイト」とイコールでは結ばれないと言われて、どういう意味かピンと来る人はむしろ少数派に与するであろう。

まして、「呼出」と言われたら、「ひがーしー、にーしー」と呼びあげる以外の姿を思い浮かべられる人はどれだけいるだろう。彼らは、力士の名を呼びあげる為だけに土俵に上ることを許された妖精ではない。

「まず、呼出さんって普段は何をされているんですか、後、これの方とか……今と比べて、どうです?」

弊誌記者は指で輪っかを作りながら、一朗太に尋ねた。何かにつけて、数字を尋ねたがるのは弊誌記者の四十八の悪癖のうちの一つである。しかしながら、禄がなければ、飯も食えない。そうでなければ、彼らは霞を食べて生きる本物の妖精ということになってしまう。

「これの方は今の方が桁違いに良いですよ。出世するまでは私らは部屋に食べさせてもらっていますから、そこは力士と一緒です。仕事は、そうですね……」

飯を食べる術に関してインタビューをしていると、タイミングよく、若いお姉ちゃん店員がビール瓶と木組みの船に山盛りに積まれた唐揚げを持って来た。一朗太はすでに障子を開けて彼女が来るのを待っていた。

店員は普段より一オクターブ高いであろう声色で「ありがとうございます」と会釈し、テーブルの上にビール瓶を並べた。なるほど、今ドキはこういう気配り上手な男がモテるようで、老若男女誰からも中年おじさんという括りで語られる弊社記者は、ただ箸を加えて眺めるばかりである。

一朗太はその後、慣れた手つきで料理を自分自身と弊誌記者、それと同伴の弊誌カメラマンの三人分に小皿に小分けし、カメラマンがカメラを置き、無精ひげを抜き始めると、蒸しタオルを流れよく、我々に渡してくれた。

「本場所中は勝負審判の親方たちの身の回りの世話をしたりします。一番近くにいますからね。後は取組ごとに土俵を掃き清めたり、力水や塩を運んだりします。土俵が良い調子であることに努める仕事ですかね」

言われてみれば、我々が注視してこなかっただけで、どれもこれも相撲中継で一度は見たことがあるかもしれない光景だった。

「伝統の世界ではそういう雑用が縁の下の力持ちになるんですよね。私も学生の頃はずっと野球一筋でしてね。一年坊主はよくやらされていました、トンボ掛けとか」

弊誌記者は口にした瞬間、「しまった」と思った。一朗太は弊紙記者より遥かに年少で、しかも年長を立てる所作に長けていた為につい箍が緩んで、口を滑らせた。得てして、伝統の世界の「裏方」と呼ばれる人たちは、己の仕事を雑用と一括りにさせられることを何よりも嫌う。

しかし、一朗太は頬を掻きながら、照れ臭そうに笑っていた。

「雑用ということには否めません。特に部屋の中では、私こそ雑用係そのものでしたから。部屋の方針で力士は一に稽古、二に稽古。少人数の部屋だったので、必然的にちゃんこ番や、まわしの洗濯は私が主に担っていました。その為、私は一番、おかみさんに叱られることが多かったですね。でも、今の仕事には役立っています。うちのメニューにある牛乳で煮込んだもつ鍋もおかみさんのちゃんこからアイディアをパクったものですよ、正直に告白すると、オフレコでお願いします」

一朗太が所属していた部屋の方針はおそらく、誰かが宣言したものではなく、必然的に方向が定まったものであろうと弊紙記者は予測する。

かつての大横綱であり、現在は重度の糖尿病と闘っている親方が、現役名年寄の定年である三年を機に、帰化したのち、年寄名を取得して分離創設されたのが、一朗太の所属していた件の部屋のあらましである。その時に一緒に独立したのが、当時十両だった天ツ龍と幕下の西岡である。西岡は移籍の際に本名であった四股名を改めて、現在でも名乗っている貴兎馬の名で番付に名が載るようになった。その後、何人かの入門、廃業があり、三年前に、高校を卒業したばかりの草野少年が部屋の門を敲いた。そして、ついこの間の昨年度末、部屋初めての外国出身者であるデイビッド・メイを迎え入れている。

一序ノ口スタートの新弟子メイの入門に関しては相撲が専門分野でもない弊誌記者もよく覚えている。何せ、部屋初にして協会の制度によって唯一の外国出身者の力士は当然、親方やおかみさんにパイプがある「あの国」から引っ張って来るものだろうと、誰もが信じ切っていた頃に起きた一つの事件であった為である。

というわけで、部屋に所属する関係者は、病床の親方と渦中のおかみさん、裏方の一朗太に、力士四人ということになる。

相撲界のならわしでは、普通、ちゃんこ番のような仕事は番付の低い力士が行うことになっているが、現在の番付を協会のホームページで調べると、新弟子であるが、まず言葉の勉強から始めないといけない状態のメイ改メ摩天楼を除くと、それにあたる力士は部屋の立ち上げ時からの一員であり、関取経験もある現在三段目の天ツ龍になってしまう。いわゆる、そういった配慮もあるのだろう。

「けどまあ、ウチは小さな部屋でしたから、何をするにも結局、全員協力してやっていましたよ。あくまでもメインは私が担っていたというだけで。周りがどう思っているかは存じ上げませんが、アットホームな職場であったと私自身、思います」

弊誌記者のいらぬお世話な思案を察したかのように、一朗太は呟くと、手を合わせ、一礼したのち、唐揚げに箸を伸ばし出した。一朗太はまず胃袋に脂を敷いてから、アルコールを堪能するタイプであったようだった。

弊誌記者は二重の意味で「では、いただきます」と呟いて、いつの間にかジョッキに注がれていた生ビールの泡に顔をうずめた。

「おまえの呼び上げ、櫓太鼓はリズムが悪い。何でだからか、分かるか。リズムを和語に訳してみろ、調子なんだ。調子を常に意識しろ――そう、何度もカミナリを落されました。その声がまた良く響くんです。女声とは思えないような低音を使ってね、ホーミーっていう技術らしいんですよ。うちのおかみさんは、そんなこともできたものですから、とにかく頭が上がりませんでした」

おかみさんは、殆ど不在であった親方の分まで、部屋に所属する若者たちに厳しく接していたのだという。それは、相手が力士であったとしてもであり、「私は親方の相撲を一番、知っている」と、お座敷の上から、差手の使い方や腰の落とし方を厳しく指導していたようだった。

「おかみさんはそれでも、力士たちのことは立てていました。部屋には白い廻しの関取もいますし、方々に頭を下げて、色々な部屋の関取たちと出稽古の取次をしたりしていました。うちの部屋の相撲はなかなか異色らしいんですよ。スキャンダルなんかよりもよっぽど、記事のタネになりますよ。そして、そんな親方仕込みの部屋の取り口を一番熟知していたのがおかみさんでした。何せ、親方が現役の頃から、スランプに陥れば、おかみさんに何度も取組のことを尋ね、おかみさんはその都度、録画したビデオをコマ送りにしながら、この時、腰が浮いていたとか、この攻めは急ぎ過ぎでかえって懐に入られる隙を作っていたとか、アドバイスをしていたというくらいですからね。部屋の取的の未熟な相撲なんか、黙ってなど見ていられなかったのではないでしょうか。それでも、土俵には、土俵の上に立つ者にしかわからない世界があるとお座敷から立ち上がったりすることはありませんでした」

夜逃げでもするかのように、部屋から消えて行ったはずの男が語るかつての部屋の様子は今でも熱っぽく、肉体がぶつかる音、骨が軋む音、砂を噛む音が聞こえてきそうだった。

一朗太は勿論、おかみさんもそんな土俵の光景に畏怖の眼差しを向けていたことは、どのような事件にもゴシップと猥談は必ず見つかるというのが信条の弊誌記者でも否定することは出来なかった。

一朗太の主戦場は、専ら支度部屋や台所、そして、音を立てても周囲の迷惑にならないような物置小屋にあったが、彼の見つめる先には常に直径十五尺の円形闘技場があったのだろう。況や、この身一つで、角界に嫁いできたおかみさんの心を占めていたものがそれであると考えるのは、ごく自然なことだった。

一朗太は、目の前でネギに程よいこげ茶の筋が入ってきたねぎま串を取り上げると、今までの彼からすると、些か、下品に串に正面からむしゃぶりついた。黄金色に染まっていたジョッキは瞬く間に色を抜かれていた。僅かに残る酒の泡は、扱かれてボロ雑巾のようになった弟弟子の口角からこぼれてくるものを思い浮かばせた。

「相撲は良いものだろう、それを一番身近で見て、支えることが出来るこの仕事は誇りに思うべきだな――いつも厳しいおかみさんはそういう時は子どものように笑うんですよ。そんなおかみさんに稽古をつけてもらったおかげか、私も相撲専門雑誌に小さな記事の特集を組んでもらうくらいには、櫓太鼓も呼び上げも不細工ながら形にはなっていたんですよ。けどね、どうしても苦手だと思っていた仕事がありましてね。でも、それだけは、何故かおかみさんは褒めるんです、無条件に。何でも花丸をあげる幼稚園の先生みたいにね」

一気に発泡性のある酒を飲みほしたせいだろう。一朗太は慌てて、タオルで口を抑えたが、彼の口からは紛れもなくゲップがこぼれ出ていた。別に男ばかりの酒の席である。弊誌記者はそれくらい酒の肴のようなものだと思っているし、彼もずっと男所帯の職場に身を置いていた人間だ。廻しの隙間からこぼれ出る屁の音、食後、Tシャツ姿で横になりながら鼻をほじる土俵上とはかけ離れた力士の背中、飽きるほど見て来たであろう。

弊誌記者は、すぐに理解した。彼が吐き出して恥じたのは、ゲップではなく、その前に零したセリフであると。

 

「惚れ惚れするな。お前の作る土俵には、霊がいるとは思えないよ」

 

2018年10月19日公開

© 2018 春風亭どれみ

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