生きた母を最後に見たのは正月だった。痩せて背中が丸くなったようだと思ったけれど、それ以上気にすることもなく、その日暮らしに追われている間に季節が一つ分過ぎ去った。お彼岸になって暖かくなってきたなと思った頃、唐突に母の死を告げられた。
その夜、私は大阪の飲み屋で飲んでいて携帯の電源は切っていた。途中で着信をチェックしようかと思ったら圏外だった。まあいいやと思い、その夜はそのまま放置してホテルで熟睡した。翌朝、留守番電話に十件以上もメッセージが入っていた。どれもこれも切迫した声で、母が倒れたと告げていた。
富山の実家へ電話してみたら叔父が出て、お母さんは死んだよと言った。叔母が出てきて、もうお母さんは戻ってきているから早く帰って来いと言った。独り暮らしの母の一人娘の私に連絡がつかないと聞いて、手続きやら縁者への連絡やらを叔父夫婦が代行していたのだった。
実家に到着した時にはすっかり手はずが整っていた。富山駅からタクシーで家に向かう途中、黒い縁取りのある葬儀案内の看板を何枚も見た。「島村家」と私の苗字が書いてあるのでよく見たら、「故・島村敏子」と母の名前が書いてあり、喪主欄には私の名前が書いてあった。
家の玄関には黒い幔幕が張り巡らしてあった。表札の傍らには忌中札が貼ってあった。玄関サッシを開けたら線香の匂いがして、上がり框の周りに大きなダンボールがいくつも積んであった。「千秋ちゃんか?」と中から声がして、叔母が顔を出した。引き戸を開けた居間の八畳に白い布団が敷いてあって、顔に白布を掛けた人が寝ていた。
「お母さんは、こんながにならっしゃったよ」
布団の横へ座り込むと、白布から見慣れた母のちぢれっ毛が見えた。白布を取ろうとしてできなかった。もう一度試みてようやく白布に手が掛かった。そうっと引き剥がすと、黄色くなった母の顔があった。私は叔母に苦しんだろうかと尋ねた。叔母は首を振って、あっという間でそんな時間はなかったはずと答えた。確かにその表情には苦悶の色はなく、病に犯された跡もなく、ただ眠っているように目を瞑っていた。うっすらと化粧をしている。いつもの母のメーキャップだった。
「お母さん、お母さん!」
知らない女の絶叫が家中に響き渡った。よその人の声と思ったら私の声だった。叔父が舌打ちしたのが聞こえた。叔母が泣かしてやれとたしなめたのも聞こえた。
愁嘆場が一通り終わるのを見計らったように、人相の悪い葬儀屋が現れた。
まんじゅうがいくつ、お華足が幾組、菓子や果物の籠盛はいくつで、生花が幾セット。親類代表の花輪は一万五千円のにするか一万円のにするか。会社から電報を打ってもらっておけ。お寺の本堂は広いから大き目の祭壇にしないと引き立たない。清風灯は初七日の間中、回していなければならない。これは孫が供養するものなので、お宅の息子さんの名前で出しておく。葬儀の際の焼香順名簿を作成してもらいたい。お通夜の後の軽食には誰が残るのか。火葬場まで参列するのは誰と誰か。骨揚後の会食は誰が出るのか。名前のプレートは用意するか。坊さんへのお布施は通夜の分が幾ら幾らで本葬の分がいくら、エトセトラ、エトセトラ。
「喪服はどうされますか? 持って来られた?」
持って来ているわけはない。レンタルできないかと尋ねたら、そうだろうと思ってサンプルを持って来たと言って大きなカバンを開けた。
「喪服ちゃ、正式ながと今どきの略式ながとあってね、こっちのは略式の方ね、黒のワンピースでボレロ付いとるやつ。お宅さんの体格やったらLLくらいのがいいわ」
それからこっちが正式な方だと言って、畳紙に包んだ真っ白な着物と綿帽子を取り出したので仰天した。
「白喪服に白の綿帽子です。打掛もあります。こっちにしとかれたらどうです?」
葬式に白い着物に綿帽子なんて着られるものか、と言うと、葬儀屋は憐れむような目になった。
「今どきの人は何も知らんけど、昔の日本人はみんな白喪服着とったがです。西洋の影響で黒いがを着るようになったけど、ここらへんではまだ白が本当の喪服ながです。娘さんが白喪服着てくれたらお母さんも喜ばれると思いますよ」
叔父や叔母もそうしたらどうだと勧めたが、断固断って黒のワンピースにした。
それが落ち着くと今度は「お悔み欄」に出す死者の氏名と葬儀の場所の確認に、次々に新聞社からかかってくる電話の応対に追われることになった。死者は島村敏子、喪主は長女の千秋、通夜は明日の夜に市内の蓮華寺で、告別式は明後日の十時からやはり蓮華寺で。北日本新聞、富山新聞、朝日新聞、読売新聞、産経新聞にそれぞれ同じことを繰り返した。
昨夜、寝ずの番をしてくれた叔父夫妻は一旦家に戻り、その夜は私が母に付き添った。
叔父たちを見送って玄関を戸締りして居間へ入りかけると、白いポリエステルの布を顔に掛けられた母が見えた。白布は純白でレースの縁取りがしてあり、つやつや光沢があって、暗い蛍光灯の下でも細かいタペストリー模様がよく見えた。居間と玄関を仕切る昔風のガラスの引き戸は建付けが悪くて、引っ張るとガタガタキシキシ嫌な音を立てた。乱暴に締めたりすると死者の体を損傷するような気がして、長い時間をかけてそっと締めた。それから引き戸の前へ突っ立ったなり、しばらくの間、近づくことも顔を背けることもできず、ただ白布を眺めていた。
その時の私の頭はどうにかして日常の秩序を取り戻そうともがいていた。東京に残してきた家族の夕食の心配をしてみたり、やりかけの仕事の始末をどうするか考えてみたり、友達のメールに返事を出していなかったことを思い出したりしていた。網膜に白布を映したまま、最も日常から遠ざかったこの家で、ひたすら日常の名残を探していた。
古いこの家は天井のどこかに隙間が空いているらしく、いつでも頭の上に寒風が吹いている。いくらストーブを焚いても温まり切ることがない、と母が文句を言っていたのを思い出した。
さっき戸締りをした玄関の戸がスルスルと開いて、いい湯だったと言いながら銭湯帰りの母が入って来るような気がした。台所の引き戸を開けたら流しで母が洗い物をしているように思えた。スリッパの音を立てて二階から母が降りてきたようにも思えた。果ては私と一緒にこのガラス戸の前に立って、白い布団の中の人を見下ろしているようにも思えた。
気が付いたら香炉のお香が燃え尽きていた。一晩、灯明と香を絶やさぬようにと言われたのにもうこのざまだ。急いで枕元の経机に行って、新しい線香を箱から出してろうそくから火を移した。メラメラ黒煙が上がって、辺りに抹香臭さが漂う。ろうそくの火の向うに母の頭が見える。白布から縮れっ毛がはみ出している。布団の下に念仏をプリントした浴衣を着た丸い肩が覗いている。
母は死んだ。心臓が悪くなっていたのに病院に行かなかった。私は母の体調が思わしくないことに感づいていたが何の手も打たなかった。昔からそうだった。母は気が強くて他人に弱みを見せない人だった。父に棄てられて一人で子供を育てている間にそういう習い性になったのだろう。私もまたそういう母に慣れていた。
夕方、仕事場のスナックに出かけて行き、夜は私が一人で留守番。母が帰る頃には私はもう寝ている。朝、私が起きると母はまだ寝ていて、自分で支度をして出かける。そんな日々を十何年も送った。普通の母子ほど会話は多くなかったと思うが、別に寂しい思いをしたことはない。気ままな女の二人暮らしは、それだけに深刻な諍いを起こすと逃げ場がなくなってしまうから、互いの感情には深く立ち入らないようにしていたことは事実だ。少なくとも私は母の感情には無頓着だった。親に守られた子供にはよくあることだが、私に関心があったのは自分の世界だけだった。
とにかく母は死んだ。私が知らぬ間に。最後の最後まで母は私に弱みを見せなかった。
股間がスーッと暖かくなって、下着に違和感が来た。出血してしまったようだ。春先とは言えまだ残雪の季節だから冷えたのだろう。叔父夫妻が去った後、点けていたストーブを切った。部屋が温まると死体の腐敗が進むのではと恐れたからだ。居間を出て下着を着換え、洗面所で血で汚れた下着を洗った。この家は古くて温水は出ない。水道水が指の骨に沁みた。この分だと今夜は凍り付くかもしれない。
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