トートバッグを左肩にかけたまま右手でがさごそと探る。開いて中を見ればいいのにと自分でも思ったけれど、バッグを降ろすのが面倒なのと、そうすることが少し悔しかったので頑なに中を見ずに手探りで探していた。
定期入れ、この辺にあったんだけどな。
こうやって探ってるうちにどんどん中がぐちゃぐちゃになってっているんだろうなと思いながらも底の方を漁っていると、手に平たいものが当たった。
あ、あった。私はそれが他のもので埋もれないようにゆっくりと中指と人差し指で挟んで、腕をバッグから引き抜いた。
あたり。
私は定期入れを持ち直して歩き出し、改札口のタッチ面に押し当てて歩き抜けた。ピッ、という音が左右の改札機からいくつも耳に飛び込んできた。どれかが私のだ。
駅前の道路に出ると、ちょうど信号が青に点灯していた。ラッキー。私は少し小走りで横断歩道を渡り、定期入れをバッグの内側のポケットに入れ直した。
「水野ー。」
前の方から声がした。顔を上げて、あまり見つける気もなくきょろきょろと辺りの人を見回す。人を見つけるのは苦手だ。探しているふりをしながら向こうから私の方に来てくれるのを期待するしかなかった。きっと杉山だろう。杉山なら分かっているはずだ。
適当な方向に視線を振り回していると、右肩が弱く叩かれた。
「どこ探してるんだよ。」
顔を上げて振り向くと、やっぱり杉山だった。
「おはよう。杉山も今来たの?」
「うん。」
杉山が黒いズボンのポケットからスマホを出して画面をつける。11:37と表示されているのが見えた。
「気が早いね、お互い。」
杉山が画面を軽く私の方に傾けた。
「ね、昔っから。」
顔を見合わせてくすっと笑い、私たちは学校の方へ歩き出した。
「今日、どうして午前中、部室使えなかったんだっけ?」
私が聞くと、杉山はスマホを見ながら答えた。
「なんか、点検。スプリンクラーか何かの。」
「ふーん。」
杉山はしばらくスマホをいじりながら歩いていた。私はなんとなくその手元を眺めていた。杉山がふと画面から顔を上げて、私の視線に気づいた。私が目をそらすと、杉山はスマホをポケットに押し込んだ。
なんとなく、静かになってしまった。蝉がせりせりと空気を擦る音がやたら大きく感じる。私は頭を回して、話題を探した。一番手近なものを選んで声に出す。
「今日、ちょっと涼しいね。」
「あー、確かに。」
「編集、あとどのくらいかかるかな。」
杉山はちらっと私の顔を見てから答えた。
「集中すれば、あと数回かなぁ。」
「早くみんなでやりたいね、上映会。」
「うん。文化祭とかに出してもいいかもね。」
「あー!でもちょっと恥ずかしいかなぁ…」
「ふふっ、ちょっとね。」
校門を抜け、グラウンドの脇を通って昇降口へ歩く。校舎の上の方から吹奏楽部の演奏がくぐもって聞こえた。杉山ごしにグラウンドの方に目をやると、野球部のユニフォームを着た背の高い男子たちがテンポよく声をあげながらノックの練習をしていた。杉山もそっちを少し眺めながら、つぶやくように言った。
「今年も甲子園、行けなかったね。」
「なんか、もうちょっとだったらしいね。」
「うん。あと2勝してれば行けたとかって。」
「杉山、野球に興味なんてあったっけ?」
「いや、野球にはぜんぜん興味ないんだけどさ。こう、なんていうか…」
杉山は私の側に顔を戻して言った。
「そういう、なんか、一つのことに打ち込んで形に残るみたいなのって、文化部だとあんまりないじゃん。映画部も含めて。」
私はちょっと顔を上げて考えた。
「うん、まあ確かに。」
「そういう、『いかにも』な感じの青春みたいなのって、やっぱりちょっと憧れて。」
私は頷いた。そういえばこの前も、杉山と似たような話をした。
私がそうねえと言うと、杉山は少し口を尖らせて軽く笑った。
「…なんでもないや。なんでこんなこと思ったんだろ、高三だからかな。」
「最後の夏、だもんね。」
玲ちゃんが電話で言っていたことを思い出した。映画部で過ごせる、最後の夏。夏だけじゃないな、と今更ながら気づいた。全部そうだ。文化祭も、合宿も、全部『最後』がついてくる。
「…なんか、ぜんぶ最後だね。」
私が言うと、杉山は頷いて、一度あくびをした。
「まあでも、とにかく最後の夏休みはめちゃくちゃ楽しかった。大満足。」
杉山がそう言ってニコッと笑うので、私も思わず頰をあげながら言った。
「まだあと2週間残ってるけど。」
「そうだな、終わってない終わってない。」
昇降口に入れば少し空気がひんやりしていそうな気がしたけれど、やっぱり中も蒸し暑さが充満していた。薄暗いから、視覚的には少し涼しい。むしろそれが暑さの存在を押し出している。ビル群みたいに並んでいる下駄箱もそうだ。
杉山が立ち止まって下駄箱の一つを開けた。私はそこを通り過ぎて、奥にある自分の下駄箱に歩いた。杉山の下駄箱って、あそこにあったんだ。今まで知らなかった。私はF組の下駄箱の前に立って、一番右の列の上から2段目の戸を開けた。2段に別れた上の段に体育館履きの潰れたかかとが、下の段に少し黒ずんだ上履きの磨り減ったかかとが顔を並べていた。取り出した上履きをそっと床に置いて、足をローファーから引き抜き、すり減った上履きに入れる。
あ。
上履きを見て思い出した。すっかり忘れていたけど、上履きを買い換えなきゃいけない。夏休み前は、休み中にはほぼ履く予定がなかったから、暇な時に買いに行けばいいかと思っていた。でも映画を撮ることになって、ほぼ毎日学校に来ている間にすっかり買いに行くのを忘れていた。
杉山が下駄箱の戸を閉めるのが聞こえたので、私もローファーを下駄箱に入れて閉め、廊下に上がって杉山と合流した。上履きでしとしとという低温度な足音をすり出しながら部室棟への渡り廊下へ歩く。
『ぬれているのでスリップ注意!』とマーカーで書かれたベニヤの看板が、渡り廊下の脇に置きっ放しになっていた。六月からずっと置いてある。足元を見ないでも、コンクリートの床がからからに乾いているのは上履きが擦れる感覚で分かりきっていた。
部室の前まで歩いて来ると、杉山が言った。
「俺ちょっとトイレ行ってくるね。先準備してて。」
「はいよ。」
廊下の歩いていく杉山から目を外してドアに手を掛けた。何度かがたがたと揺さぶってから体重をかける。
ガラガラガラ。
ドアが開いた。顔を上げて––
パーン!
「わっ!」
乾いた破裂音が目の前で鋭く鳴った。ビクッとして一瞬身構えてからまた顔を上げると、たくさんの花びらのような何かが私に向かって降り注いできた。
「わあっ!」
また身構える。紙吹雪だ。カラフルな吹雪が落ちて目の前が開けると、玲ちゃんと悠里が目の前にいて、声を揃えて言った。
「夏美さん、18歳おめでとうございまーす!」
「わあー!」
胸の中で心臓が跳ねだしそうになってしまって、私の両手はなぜか頭を抱えた。
「てってれー!」
後ろから急に声がしたので肩がびくんと跳ね上がった。振り返ると、台車に乗せた机の上に、チョコレートケーキのお皿が置かれていた。
「ケーキでございます。」
「ええーそんな!」
私は頭を押さえたまま前と後ろをきょろきょろと見回した。
玲ちゃんと悠里と杉山の笑顔が視界を行ったり来たりした。
「あ、ありがとう!」
見回しながらやっとそう言った。杉山が微笑んで、
「さあ、パーティーパーティ。」
と言って、私を部室に入るように手で促した。私は胸の中で明るい気体が噴き出すのを感じながら、もう数回きょろきょろしてから玲ちゃんと悠里について部室の中に入った。
誕生日パーティなんて、すごい、そんなの初めてだ。
中に入るといつも真ん中に集められている机はどけられていて、広いスペースができていた。杉山が台車を押してきて、真ん中で止めた。
「火がダメだからロウソクはつけられないけど。」
と杉山が言って、私にプラスチックのナイフを差し出した。
「代わりに、入刀をどうぞ。」
私はふふっと笑いながらそれを受け取った。入刀って、結婚式みたいだ。
そういえば、クラッカーやっても大丈夫だったんだろうか。さっきパーンとなったとき、火薬の匂いはしなかった気がする。
「ねぇ、クラッカーって…」
聞きかけてから悠里の手元を見て気が付いた。
「あ、紙鉄砲!」
私が言うと、悠里は両手に持った折られたチラシをばさっと上げて言った。
「へっへー。なかなか考えたでしょ。私がこれを鳴らして…」
悠里は玲ちゃんと顔を見合わせた。
「私が、紙吹雪を投げたんです。」
玲ちゃんがそう言って私の顔を見て、ニコッと笑った。
悠里が声を上げた。
「はい、じゃあ入刀まで3秒前!」
私は慌てて机に向き直って、プラのナイフをケーキにかざした。3人が声を合わせてカウントダウンをする。
「3、2、1!入刀!」
ナイフをケーキに下ろす。もこっという弾力が手に伝わったあと、すっとナイフが下まで通った。いい感覚。
「いぇーい!」
「ありがとう、本当に!」
私が3人を振り返りながら言うと、杉山が玲ちゃんに背中を押されて一歩出てくるところだった。
何だなんだ。
杉山が背中に隠していた手を私に差し出した。マスキングテープでラッピングされた黄色いビニールの包みを持っていた。
「これ、3人からのプレゼント。みんなで選んだんだけど、どうだろう…」
杉山は少しきまりが悪そうに顔をくしゃっと微笑ませながら包みを差し出した。
「えー、何だろう。ありがとう!」
私はそれを両手で受け取った。
「開けていい?」
と聞くと、杉山はうなずいた。
テープをていねいに剥がして袋を開ける。中に手を入れると、四角い平たいものがある。本かな。だとしたら新書サイズだ。でも表紙が固い。
取り出すと、手帳ぐらいの大きさのクラフト紙のノートだった。
「それ、ページにポケットがついてて、映画のチケットとか挟んでスクラップブックみたいにできるっていう。」
私はノートを開いてページを見てみた。見開きの左側のページにチケットを挟むポケットがついていて、右側には自由に書き込めるようにスペースが空いていた。すごい。こんなものが世の中にあったんだ。
私は顔を上げるのが恥ずかしくなってしまって、ノートを見たまま胸の中の震えをあじわっていた。
使おう。使いたおそう。いっぱい映画を観に行こう。ぎっしり埋めて、3人に見せてあげよう。
「どうかな…?」
杉山が不安そうに声を細めて言った。私は顔を上げて全力で微笑もうとして、もうすでにそうしていたことに気づいた。私は杉山と、後ろでニコニコしている玲ちゃんと悠里に言った。
「これ、世界で一番嬉しい。ありがとう、本当に。」
杉山はちょっと眉を上げて、
「そんなに!?」
と驚いていた。
幸せだ。幸せって、こういうことだ。すごく久しぶりな気がする。初めてかもしれない。胸で震えていた綺麗な色の何かが、全身に広がっていくみたいで、私はいてもたってもいられなくなった。そしてなぜか、その震えが目頭を熱くして、私はまた目の前がぼやけてしまった。
「あーあ、泣いちゃった。」
悠里が言うのが聞こえた。
「なんでこんなに涙もろいんだろうな私。」
私が言うと、玲ちゃんのぼやけたシルエットが私の前に近づいてきた。
「夏美さんったら、泣き虫なんですから。」
そう言って、玲ちゃんは私の顔に手を伸ばした。私が思わず目をつぶると、閉じた瞼を玲ちゃんの指がなぞって、涙を拭うのを感じた。
また目を開けると、玲ちゃんが今まで見たことのある中で一番綺麗な笑顔を浮かべて、私を見ていた。
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