…うるさい。
「うるっさいなぁ…」
目覚ましのアラーム音に設定すれば、どんなに良い曲でも嫌いになれる気がするなと、ゆっくり考えた。体を起こす。
あ、なんか体が軽い。ちゃんとベッドで寝たからか。1週間ぶりだ。
アラームの曲が大音量で鳴り続ける中、私は数秒間、ぼーっと紺のスウェットの膝あたりで視線を揺らしてから、のそのそとはしごを下りて、下の段の勉強机に置かれたスマホを取り上げてアラームを止めた。
8時53分。昨日、結局寝られたのが1時前くらいだから、8時間近く寝られたことになる。早寝早起きとは言えないけど、夏休みが始まってから初めて、しっかり睡眠が取れた気がした。なんか頭もすっきりしてるような感じがする。
パソコンを開いた。昨日の夜作った映画.docxをクリックする。
あんなに時間をかけて考えたのに、今見返してみると全然進んでいない。考えなきゃ。まぁでも、今日もなんの予定もない。考える時間はいっぱいある。とりあえず朝ごはんを食べようと思い、部屋を出た。
行の左端でバーが点滅しているのを眺めていたら、ぼんやりと思いついた。とりあえず最初に、撮る場所だけ決めちゃうか。何かの番組で外人の映画監督がインタビューに答えていたのを思い出したのだ。画面の右端に縦書きで出ていた字幕の白い文字が頭に浮かぶ。
『大切なのは撮りたい人を1人と、撮りたい場所を1つ見つけることだ。それが見つかればもう映画は完成したも同然だよ。』
確かにバックトゥザフューチャーなんかも、あの長いストーリーの中で場所として出てくるのは数か所だけだ。もう役者も決まってるし、映したい場所を決めてしまえば、ストーリーもだんだん思いついてくるかも、しれない。
撮りたい場所、か。
まず思いつくのは学校だ。授業風景とかは撮れないけれど、夏休み中の、しんと静まり返った人のいない校舎を想像すると、少し胸が弾む。完全に私の趣味で撮ることになってしまうけどいいんだろうか。いいのか、監督だし。それに合う脚本を作ればいいんだ。まだ4行しか書かれていないワードの画面に、箇条書きで『空っぽの学校』と打ちこんだ。
あとは、なんだろう。
なにかいい場所の写真は無いかと思ってスマホの電源ボタンを押した。ロック画面に壁紙の写真が表示される。
あ。
そうだった、それがあった。
私はまたキーボードを叩いて、『海』と書き足した。
なぜ忘れていたんだろう、スマホのロック画面に設定するくらい、私は海が好きだってこと。絞りだそうと思って頭の中をひっくり返していると、近くにあるものが目に入らなくなってしまう。私は特にその気が強いような気がする。
学校と、海。
綺麗な組み合わせに思えた。海はそんなに遠くない。学校からも電車で3,40分くらいだったはずだ。結構現実的な案でもある。
なんとなくイメージというか、雰囲気のようなものは見えてきた気がする。あとはストーリーだ。
夏休みの校舎や海辺にいる玲ちゃんを想像してみた。なんとなく、どっちの場所にも一人でいそうな感じがした。一人でも映えそうだなとも思った。世界の人間が全部いなくなって、玲ちゃん一人だけになる、とか。空っぽの学校。海辺。画としてはすごく綺麗だ。パソコン画面の箇条書きが一行増えた。
昨日少しだけ考えた、タイムリープものはいけるだろうか。夏休みを何度も繰り返す、みたいな。ちょっとどこかで聞いたことがあるような話だ。「夏休みが終わらなければいいのに。」ってみんな思うけど、本当に夏休みが終わらなかったら…みたいな。うーん。悪くはない。良くもない。主人公は玲ちゃんだけど、ストーリーを杉山の目線で進める、とかもいいかも。一応次の行に書き足しておいた。
もう少し現実的な話も考えてみた。病気で、余命わずかな主人公。海が好きで、とにかく夏が好きな女の子で、病気の苦しみを、夏を楽しみにすることで紛らわしている。でももう、次の夏は私には来ない…みたいな。泣ける。やるならこれがいいかもしれない。
昨日はなしにしたけど、音楽系の話も、もしかしたらありかもしれない。杉山はギターとピアノができるし、玲ちゃんに教えてあげればそれなりにはなるかも。
悠里のキャラクターも活かしたい。いいキャラしてるからなぁ。玲ちゃんと悠里のロードムービー、なんていうのもいいかもしれない。あの2人、いつも一緒だし。ちょっとレズっぽい映画にしたりして。でも脚本を書くのが恥ずかしいからなしだ。
ここまでを大雑把に画面に打ち込んでみると、ページの4分の3くらいが埋まった。結構たくさん思いつくものだ。想像力はたくましい方だと思っていたけど、ここまで派手に、それから意図的に想像を膨らませるのは久しぶりだった。画面の右上に目をやると、10:47と映っていた。もう1時間も考えてたのか。少し疲れて頭がぬるくなってきたので、一旦保存マークをクリックしてしてパソコンを閉じた。
何かすごく、胸の中がくるくると、滑りよく回ってるような感じがした。一人でパソコンに向かってるだけなのに、こんな感覚になるのは初めてだ。演劇祭の脚本も、書くのは好きだったけど、こんな感情にはならなかった。
ワクワクしてるのか、私。
一度伸びをして、火照りを鼻から吐き出した。
まだ午前だ。少し外に出たい。この1週間、部活とご飯の買い物以外、ほぼ外出していないから、さすがに必要な用事以外で、外に出かけたほうがいい気がしてくる。
とは言っても、行くあてはない。近くの駅周りにはもう見るものはないし、散歩するほどのところもない。中途半端に都会なんだよなぁ。便利は便利なんだけど。
公開中の映画でも調べるか、と考えてスマホをつけると、さっきと同じ、ロック画面の海の写真が浮かび上がった。
…海。
画面がつくのと同じように、ぽうっと思いついた。
今から、行く?。
スマホを切って、座ったままぼうっと考える。
遠くないとはいえ、一番近い海岸でも電車で20分かかる。海方面の路線はちょっと高いし、学校とは別方面だから、定期券も使えない。交通費が結構かかるのだ。バイトを辞めてから大分経って、お金の余裕もあまりない。ストーリーも、明日の部活までにもっとちゃんと考えないといけないし、よく考えたら、夏休みの宿題も出てる。
そう考えていたら、くるくる回る胸の中から、別な声がした。
いいじゃん、行こうよ。行っちゃえよ。
もう数秒間頭を掘り返してから、私は息を吸い込んで、組んでいた腕を解いて立ち上がった。クローゼットを開け放って、中で眠り込んでいたベージュと青のボーダーのトートバッグをつかむ。財布の中に1000円札が3枚入っていることを確かめてから、バッグの中に放り込む。学校カバンに入れたままだった定期入れもバッグのポケットに入れて、机の上のレポートパッドとボールペンも投げ込んだ。
だぼだぼのスウェットの上下を脱ぎ捨てて上段のベッドに投げ入れ、タンスをずるずると引っ張り開ける。一番手前にあった白のブラウスとデニムのワイドパンツを引っ張り出して、体を通した。やっぱりちょっと痩せたな。私はバッグを取り上げると家の鍵をポケットに入れて、浮き足立って部屋を出た。
右側の席に座って、左側の窓をぼんやり見つめていた。
車内アナウンスの「右側のドアが開きます」の「右側」が進行方向に対しての右側だという意味だと気付けたのは、小学校の高学年になってからだった。どっちが右でどっちが左かなんて、立ってる向きで違うのに、と当時は思っていた。
右手のスマホの画面を見た。一番海に近い駅を調べてあった。「ホームからも海が見えて、いい眺め!」と、『ひとり旅にオススメ!歩いて海まで行ける駅10選』というサイトに書いてある。
私の横にも、向かい側の席にも、乗客は数人しか座っていなかった。夏休みシーズンにはまだ早いからかな、7月の初めだし。夏休みが早くから始まるのが、私たちの学校の一番いいところだ。ちょうど2ヶ月くらいあるから、やろうと思えばなんだってできる。どこへでも行ける。くすぶっていたこの1週間がもったいなく思えてきた。
電車は右側へ緩やかに曲がりながらなめらかに走っていた。学校へ行くのに使っている路線より、ずっと静かだ。人が少ないからそんな気がするだけだろうか。落ち着くような、落ち着かないような。車両の中はさらりと静かで、冷房の回るブーンという音と、車輪が線路を叩く振動がくぐもって伝わってくるだけだった。
向かい側の窓はしばらくの間、コケのついたコンクリートの石垣が右から左へ流れていくのを映していた。その時、次の駅を知らせるアナウンスがモゴモゴと流れた。そしてその瞬間、さっと景色が開けた。
海、だった。
一瞬だけ、電車が海の上の空中を走っているように感じた。振り返って頭の後ろの窓を見ると、外はさっきまで見えていたコンクリートに塞がれていた。崖沿いの高台を走ってるんだ。まだもうちょっとかかる。
少し周りの視線が気になったけれど、私は席から立ち上がって、向かい側のドアの前に立ってみた。すこし青緑がかった窓ガラスに顔をくっつけるようにして、外を見る。
思ったより高いんだ。線路の横はちょっとした崖のようになっていて、その下は明るい緑色のなだらかな丘だった。下に行くほど緩やかになっていて、緑が終わると線路と同じようなカーブの道路が走っている。長い道路。きっと高速道路の支線だ。その向こうにちょっとした森があって、向こう側に街が広がっていた。海沿いの街か。一度住んでみたい。街の海側に国道が通っていて、それを越えると浜だった。
なんか、あれみたいだ。魔女の宅急便の、海の見える街。こっちの方が全然田舎で派手さもないけど、雰囲気は似ている。
額をガラスから離して、少しよろけながら席に戻る。カーブしていくのに沿って、床に写った四角い光の影が、だんだん斜めに滑っていった。
電車は駅に止まるために速度を落とし始めた。もう一度スマホを確認すると、私が降りる駅まではあと2駅だった。
私だったら、もっと上手く書ける、とコンクリートの床にくっきりと映った自分の影を見ながら考えた。
サイトに載っている「ホームからも海が見える」なんていうぶっきらぼうな紹介じゃ、かわいそうだ。ホームを降りた瞬間、私はこの駅が海の上に浮かんでるんじゃないかと思ったくらいなのに。
電車のドアが開いた瞬間にさっと海風が流れ込んでくる感じとか、ホームに降り立った瞬間の、空気が解き放たれる感じとか。そういうのを書けば、きっともっと人が来るに違いない。人が来すぎるのも嫌ではあるけど。
無人の改札にICカードを押し付けて駅を出ると、目の前はくすんだアスファルトの、曲がった坂道だった。この坂を一番下まで降りると国道に出て、渡れば浜に出られるらしい。
結構急な坂だ。周りは静かな住宅街で、白い壁の家が細い道の両側に立ち並んでいる。遠くの方から蝉の声がじりじりと響いてきていた。日差しも真上からじりじりと、私の顔を熱してくる。前髪でちょっとは防御になるかな。私の足音とか息の音は、乾いたアスファルトに染み込んでしまうみたいだった。
我ながらよく急にここまで来たなぁ。普段だったら、急に思い立って出かけるなんてことは全然ない。何かすこし、爽快だ。暑いけど。
ちょっとだけ、映画の主人公になっているような感覚になった。私は軽い足取りで、坂道を下り始めた。
がさがさしたアスファルトに靴底を擦りながら歩いていると、坂の脇にコンクリートの細い階段が現れた。
これ、近道だったりしないかな。
見下ろしてみると、階段は坂道から離れるようにカーブを描いていた。住宅街のコンクリートの土台に挟まれて陽が当たらないその階段は、さっきまでの道よりも薄暗くて、青っぽく影になっていた。
違ったら、また登って来ないといけないのか。少し迷う。
私は手に持っていたスマホの電源を切ってポケットに突っ込むと、右足を階段に踏み出してみた。
行ってみよう。
私は階段を下り始めた。
さっきの坂よりも大分涼しい。コンクリートからひんやりと冷気がしみ出してるみたいだ。両側がコンクリートの壁で、海はおろか、上にある、さっきの道ももう見えない。階段はだんだん急になって、左にカーブしていた。
足元を見ながら、だんだん急になっていく階段を、一段ずつ飛ぶように下りていく。最初に見えていたよりも、ずっと長い階段だ。どこまで続くんだろう。もし近道じゃなかったら。変なところに着いてしまう前に、引き返した方が得策かも…。足元を見ながらそう思いながらも止めずにふうふう言いながら下っていくと、急にカーブが終わって、階段がまっすぐになった。足元が少しだけ、薄明るくなる。
一旦足を止めて顔を上げてみた。
おお。
狭いコンクリートの隙間から、空と、海が、目に飛び込んできた。
ここ、良い。奥に広がってる、すごく広いはずの空と海が、コンクリートのほっそいスリットで切り取られて、この薄暗い空間をじんわりと青白く照らしている。
写真を撮ろうと思ってスマホを出し、カメラの機能を開いた。映画部のみんなに見せてあげたいと思った。レンズを海の方へ向ける。
…全然、ちゃんと映らない。
何回撮り直しても、ダメだ。範囲が狭いというか。この感じ、映せないのかな。
目に見えた通りに、写真が撮れたら良いのに。私はまたスマホを切ってポケットにしまうと、もう一度景色を眺めてから、また足元を見た。階段はもうまっすぐ、国道の脇まで続いている。やっぱり近道だった。ラッキー。私はまた階段をテンポ良く下り始めた。
少しずつ、周りが明るくなっていく。灰色のコンクリートのザラザラした凹凸に、空の色が引っかかって、薄く青くにじんでいるように見える。一段降りる。初めて海風が鼻の先をかすめた。一段降りる。波の音がフェードインした。一段降りる。また一段。一段、もう一段。
最後の段で一旦立ち止まって、顔を上げる。さっきまでコンクリートの壁に隠れていた太陽が、もう私の足首までを白く照らしていた。
最後の一段を、ぴょんっと飛び降りた。まぶしい。国道沿いの歩道に出た。
道路に車はあまり通っていなかった。向かい側の歩道に、コンクリートの防波堤が沿っていた。今はそれに阻まれて、海は見えない。
近くに横断歩道がなかったので、車が来ないのを確認してから、静かな国道を走って渡った。なぜか、走ってる途中で笑いが湧いてきた。
ああ、楽しいのか、これ。私、いま楽しいんだ。
歩道に飛び乗る。
防波堤は、道路を渡る前に見えていたよりも結構高い。私はトートバッグの持ち手を掴んだまま、バッグを防波堤の上に投げかけた。そのままコンクリートに両手をかけて、勢いをつけてジャンプして上半身を乗せ、腕でよじ登った。まだ海が目に入らないように足元に目を向けたまま立ち上がって、上に立つ。
なんか、面白い眺めだ。
足元を縦に伸びる防波堤が世界を区切っている感じだった。左側には砂浜が、右側にはアスファルトが見える。左からは軽い風が吹いていた。私はそれを髪に受けながら、防波堤の上を歩き出した。
杉山や玲ちゃんがこういうことしたら、すごく絵になるんだろうな、と薄く考えた。さらさらな髪が風に波打つのが目に浮かぶ。
気持ちいい。
左から吹いてくる風が、胸の中まで透き通って吹いているような気がする。
しばらく行くと、防波堤が途切れて左側への階段があった。砂浜へ降りられる階段だ。
防波堤の端に腰掛けて、階段の上に飛び降りる。ズタッ、というざらついた音がアスファルトを打った。左を向いて、ゆっくりと顔を上げる。
まぶしい。
青い。
…綺麗。
浜辺には、他に人はいなかった。海水浴場ではないし、あまり有名な場所でもないからだろう。私は海を見ながら、ゆっくり階段を下り始めた。
しかし5段くらい降りたところで、私は立ち止まってしまった。
急に視界がぼやけてきた。目が熱く感じる。
涙が、出てきていた。
え、なんで。
どうして私、泣いてるんだ。
左手の甲で涙をぬぐって、また階段を一段づつ、不格好に跳ねるように降り始める。最後の段を飛び降りる。砂に靴が埋まる。押し込まれる砂の感覚が、靴底から伝わってきた。
砂にはばまれて、速く歩けない。でも波打ち際はだんだん近づいてきた。同時に、景色はさらにピンボケしてゆらゆらと震えはじめた。鼻の奥の方で、何かがじんじんと熱くなっていた。それは本当に、日差しで熱くなった砂みたいだった。その熱が、私の頭の中に固まっていた何かを融かして、それが目から流れ出ているんだと思った。本当に、なんで泣いているのか分からない。でも泣いていた。泣いていたかった。そうしているのが心地よく感じた。ちょっとでも気を抜いたら声が出てしまいそうで、でもそれをかみ殺すべきなのかどうかも分からなくて、ただ曖昧にあえいでいた。知らない間に立ち止まっていた。もう海も空も見えなかった。ただ、青い。
青い。恥ずかしい。切ない。苦しい。嬉しい。無力感、倦怠感、孤独感、爽快感。胸の中で渦を巻いていたもやもやしたものが、ただの透明な水になった。全部流し出してしまいたいと思った。
私は一回息を吸って、吐いた。肺が少し冷めて、胸の中が落ち着いた。Tシャツのすそを引っ張って涙を拭い、もう一度深呼吸した。
海が見える。こんなにいいところだったんだ、海って。
私は少しの間、目を閉じてみた。前から吹いてくる風や波の音が、空っぽになった頭の中に響いた。
まだやれるのかな、私。
本当に、海に来てしまった。よく考えたら全然大したことではないけど、私にしては物凄い行動力だ。よくやった、よく面倒臭がらなかった。よく、憂鬱に負けなかった。
再び目を開けて、砂の上に腰を下ろした。海と空の境界線の奥の方を見つめる。海風は波を作りながら、私の火照った顔を冷ましていた。来てよかったと、思った。来る前よりずっと胸が軽くなっていた。これからも時々こようと思った。映画を撮るのも、ここがちょうどいいかも知れない。
しばらくそのまま過ごして、ふとスマホを取り出して時間を確認すると、13時を過ぎていた。お腹が減っていることを思い出した。私は立ち上がって深呼吸してから、海に背を向けて階段の方へ戻り始めた。
"ナツキ D"へのコメント 0件