愛のある話

桜枝 巧

小説

5,130文字

とある童話賞に応募したり(あっさり落とされた)、他のサイトにのせてみたり(主にスルー)してる作品。
言語規制がかかった世界での話。
「こんなの童話じゃない」?…スルーしてくださいな。
よろしくお願いします。

二人だけの秘密の時間は、二週間ほど続いた。ぼくは彼女との話題を作ろうといつもより多くの本を読んだ。もちろん、ぼくが彼女に教えるだけじゃなくて、彼女がぼくに知らないことを教えてくれることもあった。大川さんはやはり他の子とは違い、はっとさせられるような考えを持っていた。
その日は、いつか話そうと決めていたあの「あいしてる」の話をした。ぼくも勉強して世界中で起こったケンカのことを「戦争」と言うのだと知っていたし、彼女もそれについて理解していた。大川さんはぼくの話をいつも通り濃い茶色の瞳をこちらに向けて聞いていた。それもあって、ぼくも分かりやすく自分の言葉で説明することができた。成長したものね、と言いあう。
ぼくはここで、少し声を潜めた。
「でも、ぼくはいまだにこの『あいしてる』っていう言葉がよく分からないんだ。辞書を引いても出てくるし毎日使っているけれど、何かが違う気がするんだ」
これが、ぼくが二週間かけて出した結論だった。「何か」が何なのかまでは分からなかったが、それでも大川さんは真剣にうなずいてくれた。彼女はあの僕をどきどきさせる、人差し指と親指で唇を包み込むようにして考えるそぶりを見せつつ、口を開いた。
「わたしもあんまりこのことば、すきじゃないの。『あいしてる』ってなんなのかな。そんなにかんたんにつかっていいのかな――」
その時だった。
「大川!」
大きな声が教室の前の方から聞こえた。担任の先生だ。大きな肩は壁のように教室のドアをふさぎ、四角い眼鏡は固まる僕らの姿を映し出していた。とても頭のいい人らしいと女子が噂していたのを思い出す。
「大川、駄……愛してるだろう、そんなこと言っちゃ」
と、先生は大川さんにゆっくりと近寄り言った。その姿はとても大きくて、恐ろしくて、反論できそうな雰囲気ではなかった。
それでもぼくは何かを言おうと、口を開きかけた。
しかしその時、先生は突き刺すような目でこちらを見た。瞳は彼女と違って濁りきっていた。あまり寝ていないのか、くまさえ浮かんでいた。悪いことをした男子を怒るときにも、こんな目はしていなかったはずだ。彼のそれらから、ぼくは全く目をそらすことができなかった。眼鏡の奥の濁った目にぼくの姿は映っていなかった。体は小指一本も動かなかったが、心は氷水を被ったように冷静だった。働き者のアリの目だ、とぼくは思った。
彼はぼくから視線をはずすと、再び大川さんに向き直る。
「教育長からの要請で、負の言葉、及びあいさつ全ては『愛してる』に変換するようになっているんだ。職員室に来なさい」
そう言うと先生は彼女のセーラー服のえりをぎゅっとつかみ、
「く、くるしい……」
「ほら、そういう言葉が間違……愛しているんだ」
そのまま教室を出て行く。彼にお相撲さんのような力強さは全く無かった。むしろ、疲れているようにさえ感じられた。しかし彼女は抵抗をしなかった。抵抗をすることが悪いことだと思っているかのようだった。
大川さんがドアをくぐり抜ける直前、ぼくは彼女の唇が動くのを見た。音は無かった。
「あいしてる」
彼女はにっこりと微笑むと、教室から消えた。途中途中で先生の怒鳴り声が聞こえた。
最初に動いたのはまぶただった。まばたきをすると自然に小さな水の粒があふれ出てきた。何故それが出てくるのか、やはり分からなかった。
今までぼくが詰め込んできたものは何だったんだろう。今までぼくが見てきたものは何だったんだろう。働かないアリのぼくらは、二人で勝手に意見を呟くしかない、そんなちっぽけな存在でしかないのだろうか。
彼女の最後の声にならない言葉が、いつも使っている、しかし彼女が嫌いな言葉が、頭をはなれなかった。あの小さな女の子は何を考えたのか? ぼくは右手の人差指と親指で唇に触れた。それはとてもカサついていて、柔らかさなんて一つも見つからなかった。それでも、考え続けた。
「……そっか」
ぼくはぱっと顔を上げると、机とイスに散々ぶつかりながら教室のドアへと走った。お腹やひじにぶつかって、いろんな場所がジンジンと痛んだ。
「先生!」
延々と続くようにさえ思われる廊下のはるか遠くに、立ち止まった二人の姿があった。ぼくの大声に、先生が振り向く。その間に二人の元に走った。普段運動をしないからちょっとスピードを上げただけで息が切れる。心臓がいつもとは比べ物にならないくらい速く動いている。それでも走って、走って、ようやく二人のいるところへたどり着いた。先生も大川さんも目を大きく見開き、ぼくが息を整える姿を見つめていた。透き通った目と濁りきった目が、二対、並んでいた。目の前にいるそれらに向かって、ぼくはわき目もふらず叫んだ。大きな声を出さないと、彼女達が遠くに行ってしまいそうな気がしていた。
「ぼくは、この『あいしてる』の使い方を、よく分かっていません。ぼくが今彼女に対して持っている気持ちが、それなのかすら分かりません。ぼくらは何も、知りません。だから、平和の象徴だからと言って、勝手に使ってはいけないと思うんです。気持ちを込めてえっと、大切な感情を持って言うべきでっ、だからっ……」
そこでぼくは大きくせき込んだ。心臓が激しく動き過ぎて、逆に止まってしまいそうなほどだった。唇はさらに渇き、喉の奥がいがいがしていた。
先生は黙っていた。目を大きく見開いてはいたが、やはりその瞳は不透明だった。しかしそこにはしっかりとぼくが映っていた。
「……決まりなんだ」
ぼそりと先生は言った。哀しみの色が、彼の表情にしっかりと表れていた。彼も苦しんでいるのだ。それが分かったぼくはその場に立ちつくすしかなかった。二人はそのまま歩きだすと、角を曲がって見えなくなった。

翌日、彼女が転校したという知らせが担任の口からもたらされた。理由は聞かされなかった。クラスメイトの女子は顔を見合わせて共に小さく笑うと、再び真剣なふりをして、一時間目の国語と三時間目の算数が入れ替わったことを聞いた。

2016年5月7日公開

© 2016 桜枝 巧

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