草を刈る人

桜枝 巧

小説

6,012文字

大学の文芸誌に載せた作品です。恋愛未満の話。

 

 私は、初恋というものを知らない。勿論、それなりのレンアイって奴は経験してきた。だが、「あれ」を私の初めての恋だと断言するのは、戸惑いがあるのだ。恋じゃない、ということもできないのだけれど。

 

 窓の外は少しずつ緑が増えてきていた。列車が枕木を越えていく微かな振動に身を任せた私は、ゆっくりとその意識を沈ませていく。

 

 

 

 秋の朝が好きだ。特に、夏から秋へ季節が変わる瞬間の朝が。窓を開けた瞬間に分かる。昨日までもわっとした熱気の大群が押し寄せてきたのに、その朝になると急に澄ましたような空気が背筋をピンと伸ばして入ってくるのだ。教室に残っていた昨日の騒々しさや給食のカレーの香りなんかを外へ追い出してしまう。全てが透明になっていく感覚が、何よりも好きだった。

 

 どこからか、草刈機の音が聞こえてくる。

 

 廊下の窓も開け、空気の入れ替えをすっかり済ませた私は再び教室に戻ってきた。窓際の真ん中あたり、自分の席に座れば、椅子が苦しそうにうめく。あまり新しくもなく、綺麗な学校でもない。入り口にある五年三組のプレートは少し黄ばんでいるし、目の前で威張り散らしている黒板は枠がぼろぼろだ。

 

 教室には私以外、まだ誰も来ていなかった。元気いっぱいの男子クラスメイトが登校するまでは、あと十五分ほどある。きっと空気の変化なんかには見向きもせず、そのままボールを持って校庭へと行ってしまうのだろう。もったいない。

 

 窓の外をぼんやりと眺める。静かに入り込んでくる風が、セーラー服の襟をくすぐった。駅が近いからか、電車のカタン、カタン、という音がかすかに聞こえてくる。ベランダの向こうで、何かが動いているのが見えた。

 

「……今日もいる」

 

 ぼそり、と呟いた。

 

 私は立ち上がると、教室の後ろのドアからベランダへと出る。本当はいけないことなのだけれど、今まで注意されたことはない。早起きの特権だ。草の香りが鼻を刺激した。

 

 ベランダから体を乗り出すようにして下を見る。透明な風が二つ結びにした髪を軽く揺らした。草を刈る機械の音が大きくなる。

 

 動いていた何かは、やはり思っていた通りの人物だった。

 

 年は二十代前半程。白いワイシャツに黒っぽいジーンズ。青い上着のようなものを腰に巻いている。靴は動きやすさ重視の運動シューズ。軍手をはめた手に持っているのは、草刈機のハンドルだ。コンパクトなもので、青いハンドルと長い柄の先に丸い刃がついている。さすがに暑いのか、額には汗が浮かんでいるようだった。

 

 学校の事務室の人だ。毎日飽きもせず、草を刈っている。朝私が学校に来て窓を開ける間に外に出ているらしい。それから登校ラッシュの時間まで草刈機を動かすのだ。こっそり、K先生、だなんて呼んでいる。草刈りの人、だから、K。本名も確かそんな感じだった気がする。春の職員紹介時に聞き流しただけだから、正しいかは分からない。

 

 秋になったとはいえ、まだ日差しは強い。いくら刈っても草は日がたつにつれ次から次へと伸びていく。彼の仕事に、終わりはなさそうだった。永遠に続く作業をなぜやめてしまわないのか、私は不思議でならない。

 

 そんな「草を刈る事務室の人」を眺めるのが、私のここ最近の日課になっていた。

 

 校門の方から、ランドセルを背負った誰かが走ってくる。見知らぬ顔の男子だ。うるさく響いていた機械の音が、ぴたりと止まる。おはよーございます! うん、おはようございます。涼やかな声がした。しばらくしてから、再び機械が動き出す。

 

 誰かが近づいてくると、彼はいつも機械を止める。どんなに熱中していたって、どんなにあと少しで終わろうとしていたって、それは変わらない。勿論安全のためなのだけれど、そういう一つ一つの行動に、私はなんとなく秋の風と同じような香りを感じ取っていた。

 

 ――とその時、不意に彼の視線が上を向いた。

 

 目が合う。

 

「いっ……?」

 

 自分の喉から、変な声が漏れた。

 

 草刈機の音が止まる。あたりを静けさが支配する。K先生は片手で機械を支えると、こちらに向かって手を振った。降りてきなさい、の合図だ。今更ながら、自分がベランダに出ていたことを思い出す。ああ、しまった、怒られる。

 

 しかし、不思議と私の足は教室の中へ、そして廊下へ、階段へ、靴箱へと向かっていく。まるで吸い寄せられていくかのようだった。靴を履き替え、外に出る。太陽がプールの授業で焼けた肌を突き刺した。じんわりとした汗が、背中の制服に広がっていく。

 

 校庭の草は随分と刈られてしまっていて、完全にグラウンドの白い土が見えていた。明日にはきっとまた、緑色の芽が出ているのだろうけれども。足を踏み入れればしゃり、と砂が鳴る。

 

 K先生を近くで見たのは、それが初めてだった。

 

 綺麗な瞳だ。そう思った。

 

 日頃の仕事で疲れているのか、白目は少し充血している。しかし、その白自体はできたての紙みたいに真っ白で、少しも黄ばんでなんかない。虹彩は鮮やかな茶色。日の光によって、少しずつその模様を変えていく。白目と虹彩の間をきっちりと割くこげ茶色の境界線は歪むことがなく、綺麗な円を描いていた。中心に潜むのは、真っ黒な瞳孔だ。誰にも立ち入らせないような、それでいて全てを引き込んでしまいそうな、そんな漆黒。一滴の静寂と、それ以上の意志の強さを物語っている。

 

「……何か、僕の顔についているかい?」

 

 K先生が首を傾げた。ぽかん、とした子供みたいな顔。

 

 何でもありません。後ろ手で指を絡み合わせながら口を開けば、自分でも驚くくらい小さな声が出た。

 

 ああそれより、と今度は大人の顔をして先生が言う。

 

「ダメじゃないか、ベランダは危ないから立ち入り禁止だろう? あんなに乗り出してしまって。落っこちたらどうするんだい」

 

「落っこちないようにしているから大丈夫です。……ごめんなさい」

 

 つんと膨れたような、そんな言い方になってしまう。慌てて頭を下げた。大人ってどうしてこんなに過保護なんだろう。危ない、危ない、危ないからやめなさい。そればっかりだ。草刈機だってそう。危険なのは分かってる、でも、だからってあんまりじゃないか。子ども扱いされているような気分になる。私だってもう小学五年生、もうすぐ中学生だ。

 

 秋の風は、何も知らない顔して通り過ぎていく。おすましをして、全部全部取り上げてしまうのだ。残るのは、透明だけ。そこが好きなのだけれど――好き、なのだけれど。

 

 K先生は本当に気を付けるんだよ、と言った。

 

「いつもベランダに出ているだろう? 確かに、先生も未知の領域っぽくて君くらいの時はワクワクしたものだけれど――危ないから、ね」

 

 ……いつ、も?

 

 自分の目が見開かれていくのがわかる。何それ、ばれてた、ってこと? いつも彼を見ていたことを、彼は知っていたって、そういうこと? 草刈機の騒々しい音と、その合間に訪れる一瞬の静寂にドキドキしていたことに――気づいていたって、そういうこと?

 

 いやいや。

 

 それはさすがに、考え過ぎだろう。それに、私は一体何を考えているんだ。相手は単なる事務室のお兄さん、だよ? 私はただの小学生、だよ? しかも、今日初めて話をしたばっかりの。

 

 私は何も言えなくなって、ただ心がきゅうっと締め付けられて、だから精一杯

 

「せ、先生って、自分で言うんですね。事務室の、人、なのに」

 

と強がりを口にする。

 

 K先生は少しだけ驚いた顔をした。それから、額を流れていく汗を軽く腕で拭う。現れたのは、照れたような表情だ。

 

「あー、うん、まあ、ね。……今は事務の臨時採用だけど、一応教師、目指しているから。……練習、かな」

 

 免許は取ったんだけど、サイヨウシケンになかなか受からなくて。そんな難しい話を、恥ずかしそうに、しかし楽しそうに話す。どんな先生になりたいか。どんなことを教えたいか。

 

 先生の瞳は、いたずら好きの男子クラスメイトよりキラキラしていた。担任の先生なんかより、給食を作ってくれるセンターの人より、お父さんやお母さん、周りにいるどんな人たちより、先生は輝いて見えた。――勿論、私よりも、ずっと、ずっと。

 

 だから、先生。私は先生って、呼びたくなったんだろうか。

 

「――先生」

 

「……なんか、生徒から呼ばれると照れるね」

 

「先生」

 

「なんだね、生徒君」

 

「なんか、先生っぽいこと言ってください」

 

「え、先生っぽいこと? ……うーん、君の夢は、なんだい?」

 

「ありません」

 

 脳みそが頭の中で会話から一歩下がったような、そんな気がした。

 

首をふると、会話が途切れてしまう。K先生は少しだけ固まった後、そう、とだけ感想を口にした。低い、青空みたいに澄んだ声はまだ残っている夏の日差しの中へと溶けていく。

 

 太陽が私を責める。違う、違うだろう、そこでなんで黙っちゃうんだ。言いたいこと。言いたいことが、あるだろう? いつも見ているだけで、でも今はこうして話すことができていているんだ。頬が熱を帯びていく。先生の瞳が、じいっとこちらを見ている。

 

 私は一歩踏み出すと、やっぱりあります、と口走った。

 

「私……私、先生になりたいです」

 

 回りだした口に任せて、本音が漏れ出たのが分かった。いけない、いけない。でも、出てしまったものはもう戻ってこない。

 

 ――別に、何かを教える人になりたかったわけじゃない。朝、誰とも待ち合わせることなく、一人教室で他のクラスメイトを待っているような私に、教師が向いているとは思えなかった。

 

 でも、なるとすれば、そう、K先生になりたかった。

 

 K先生みたいに、キラキラ輝ける人に。こんなにきれいな瞳を持ちながら、文句ひとつ言わず、ただそっと片隅に佇んで草を刈っているような人に。

 

「先生に、なりたいんです」

 

 私の意図は、きっと伝わらなかったんだと思う。K先生は嬉しそうに、そうかい、そうかい、やっぱり何か一つ目標はあったほうがいい、と言った。真っ黒な瞳孔は私を見ていて、吸い込まれてしまいそうだった。

 

 先生が、しかし今日は暑いね、熱中症には気を付けるんだよ、だなんて言う。先生みたいですね。そうかい? 笑い声がはじける。

 

 そうしてK先生は軍手を取った。どうやら本当に暑かったらしい。軍手の跡が点々とついた、がっしりとした男の人の手が現れる。案外、色は白かった。なぜだろう、静かに続いていたまどろみが醒めていくような、そんな感覚が私を襲う。

 

 その時、ちょうど一つ、強い秋風が吹いた。

 

 ――私は息を飲んだ。

 

 飲むだけでこらえ切ったことを、どうか褒めてほしい。本当は心臓が張り裂けそうだった。その場で倒れてしまいたいくらいだった。あの感情が一体何だったのかは分からない。恋だというには、ちょっと短すぎるだろうし、そうでないとは言いたくない。ただ、その瞬間、私の中で何かが終わるのを確かに感じた。強く冷たい風が、泣きそうなくらい透き通った風が、全てを掻っ攫って持って行ってしまうのを感じていた。

 

 

 

 左手の薬指で、銀色の指輪が一つ、きらめいていた。

 

 

 

 何をどうやって教室に戻ったのか、もう覚えていない。いつの間にか、いつも通りに、朝の会は始まっていた。

 

 私と先生が話したのはそれきりだった。私は言いつけをちゃんと守って、もうベランダに出ることをしなかった。ただ、草刈機の音だけを聞いていた。

 

 次の春、先生は学校を辞めた。理由は、知らない。

 

 

 

 ふっと意識が浮き上がる。

 

 いつの間にか眠ってしまっていたようだった。懐かしい夢を見ていた気も、する。もう忘れてしまったけれど。

 

 ××駅、××駅。そのアナウンスに私はあわてて立ち上がった。忘れ物がないか確認してから、電車を降りる。

 

 駅の改札を通り、右折。もう何年も通っていない道を、私の足は昨日も歩いたかのように踏み出していく。視界の端を、ランドセルを背負った私が走っていった気がした。

 

「××小学校」

 

 校門の文字。やけに小さく見えたのは、それだけあの頃の私が幼かったからなのだろう。母校に向かって、またしばらくお世話になります、と頭を下げる。

 

「――よしっ」

 

 続いて、軽く両手で頬を叩いた。パチン、と小気味の良い音がする。今日から教育実習が始まるのだ、しっかりしないと。

 

 校門を通り抜けると、途中で教員と思わしき男性と出くわした。教育実習生? はい、そうです。短く答える。

 

 聞けば、偶然にも私がこれからお世話になるクラスの副担任なのだという。その先生はこちらに向かって微笑んだ。

 

「二年一組副担任、風谷です。初めまして、これからよろしくね」

 

 十年という長い年月は、確かに彼に疲れやストレスと言ったものを与えてきたようだった。それでも、その全てを吸い込んでしまいそうなくらい澄んだ瞳はあの頃と変わっていなかった。薬指にはやはり、銀色の指輪が光っている。

 

 ひんやりとした風が、二人の間を通り抜けていく。

 

 私は自分の名前を告げて、今できる精一杯の笑顔を浮かべた。

「はい、初めまして。こちらこそ、よろしくお願いします」

2017年1月30日公開

© 2017 桜枝 巧

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